【サン・ジョルディ】

圭琴子

サン・ジョルディ

杉山すぎやまさん。おはようございます」


「おう。おはよう、久保田くぼた


 今日もギリギリアウトで、俺は会社にやってきた。直属の部下でいつもならそれを咎めて声高に小言を口にする久保田だが、今日は様子が違っていた。素直に朝の挨拶を交わし、僅かに頬を上気させて、何かの紙包みを大事そうに控えめなサイズの胸元に抱えている。


「……あれ?」


 いつもの雷に身構えていた俺は、それが落ちない事を不思議に思って、思わず疑問符を上げてしまう。久保田は、おずおずと紙包みを差し出してきた。


「あの……杉山さん。これ」


「ん? 何だ?」


「プレゼントです。暇な時に読んでください」


「今日は誕生日じゃねぇが?」


 俺は思ったままを口にする。それを聞くと久保田は、ちょっとガッカリしたような色を鳶色の瞳に浮かべたが、紙包みを俺の手にやや強引に押し付けた。


「凄く面白いお話を見つけたから、杉山さんにも読んで貰いたくて……。あの、本当に暇な時で良いんで。それじゃ」


 そう言うと久保田は、まるで逃げ出すように踵を返してデスクに戻っていった。その唐突でつっけんどんにも思える言動に、俺は少し戸惑って渡されたものを穴が開くほど見詰める。


 本? 俺に? 会議資料もろくに読まない俺に? 疑問が脳裏に渦巻いたが、意を決したようにも見えた久保田を思い、自分のデスクに向かいながら、乱雑に紙包みを開けにかかる。腰を落ち着けて中身を見ると、世界各地の伝承や伝説を紐解いた文庫サイズの本だった。確かに分かりやすい文体だが、これの何処が面白いんだ? 俺は怪訝に眉根を寄せて、パラパラとそれをめくる。


 『暇な時に』と久保田は言った。事務仕事はほぼ久保田に任せてあるから、営業から帰れば暇なら幾らでもある。俺はそう思って、『サン・ジョルディ』と書かれた表紙を上に、デスクにそれを置いたまま庶務課で自社パンフレットを受け取って営業に出かけた。


    *    *    *


「杉山先輩!」


 外回りから戻るなり、合コン仲間の後輩、高橋たかはしに声をかけられた。いつも笑みの絶えない男だが、今日は何か含んだような、面白そうな笑顔で俺のデスクの横に立っていた。俺が帰ってくるのを、待っていたのだろうか? そんな風に思える。


「何だ、高橋」


「先輩、本を堂々と出して出かけるなんて、本命のコからですか?」


 高橋の笑みが深くなる。俺は意味が分からない。


「どういう意味だ? 本は本だろ?」


「あ~…そういう事ですか。先輩、本読むの面倒臭いですよね。この『サン・ジョルディの伝説』だけ教えましょうか?」


「ああ。そうだな。頼む」


 正直、活字嫌いの俺は、高橋の提案に乗る事にした。高橋が語り始める。


「昔々、その国には恐ろしいドラゴンが居て、住民たちはその怒りを鎮める為に、毎日一人ずつ生け贄を捧げていました。 ある日、王女様が生け贄になる順番がまわってくると、大勢の人が身代わりになると申し出たのですが、王様はその申し出を受け入れません。悲しみに暮れながらも、可愛い娘に残酷な運命を全うさせる他なかったのです。ところがその時、真っ白い駿馬に跨がり、黄金に輝く甲冑をまとった一人の若い騎士が姿を現しました。彼こそが、王女様を救いにやって来た騎士サン・ジョルディだったのです。 サン・ジョルディとドラゴンは激しく戦い、善は常に勝利を収めるもので、サン・ジョルディの手にした槍がドラゴンの心臓を貫き、見事王女様を救い出すことが出来ました。溢れ出したドラゴンの血からは、見た事もないほど美しい薔薇が咲き、サン・ジョルディは、その中で最も美しい薔薇を手折り、永遠の愛の証として王女様に贈ったのです」


 滔々と高橋が語る。生あくびを噛み殺して、俺は思わず遮った。


「タイム。その話、まだ続くのか?」


「いえ、伝説はここで終わりです。その後に続く、注釈が大事なんです」


「何なんだ」


 高橋は、先の笑みをニヤリと唇に取り戻した。


「それ以来その国の人々は、毎年四月二十三日をサン・ジョルディの日とし、愛する人に薔薇と本を贈ってこの日を祝っているのです。……で、終わりです。杉山先輩、今日は何日ですか?」


「四月二十三日。……あ」 


「そうです。ちなみに女性からは本を、男性からは薔薇を送るのが、スタンダードです。誰に貰ったんですか? ヴァレンタイン・デーじゃなくて『サン・ジョルディの日』に告白するなんて、知的なコですね~」


 杉山先輩には勿体ない……とか何とか嘯く高橋の言葉は、耳を右から左へと抜けていった。


 これは……久保田からの告白か? そう言えば、久保田は恥ずかしそうにしていたっけ。……いつもの眼鏡をコンタクトにして、ルージュの色も明るかった気がする。そう思った瞬間、俺は考える間もなく駆け出していた。


「あ、杉山先輩!」


 追い縋る高橋の声を振り切って、会社から近くのショッピングモールに走る。駆けずり回って帰ってきた時には、もう高橋の姿はなかった。代わりに、俺のデスク上の本の表紙を、そっと裏返して伏せる久保田が目に入る。


「久保田! ちょっと来い!」


「す、杉山さん?」


 立ちすくむ久保田の手首を掴み、屋内階段へと強引に引っ張っていく。扉を閉めて、階段の踊り場で俺は久保田に言った。


「久保田。お返しだ」


「えっ」


 久保田が、俺の差し出した小さくて薄い紙包みを見て、戸惑う。今朝の俺と同様の反応だった。


「開けてみてくれ」


「は、はい」


 お返しが一輪の薔薇でない事に複雑な表情を見せていた久保田だが、中身を覗くとますます不可思議そうな顔になった。


「何だと思う?」


「……分かりません」


「種だ」


「種?」


「薔薇の。探すの苦労したぜ。二~三日で枯れちまう切り花じゃ不実だろう。お前んちのベランダででも育ててくれ。俺も水をやりに行くから」


「えっ……じゃあ……」


「ああ。返事はイエスだ。毎年、この薔薇を咲かせよう。難しいって言われたが、俺達なら出来る」


「杉山さん……」


 まだ見ぬその薔薇の花のように頬を染めてから、久保田は小さく笑った。


「ふふ……杉山さんて、やっぱり気障なんですね。新人研修の頃と、変わってない」


 久保田の新人研修を担当したのは俺で、ケアレスミスを意地の悪い上司に咎められ泣いている所を慰めたのも、俺だった。思えば俺も、初めから久保田の事がいつも気にかかっていた。


「ああ。たまには決めておかねぇとな?」


 俺たちは顔を見合わせて笑ったけれど、


「じゃあ今日、鉢やら土やら揃えて、薔薇の種を蒔こう。お前んちのベランダで」


 と言うと、久保田はしどろもどろに口ごもった。


「何か予定あるのか?」


「いえ、あの……その……」


 その整った顔かたちが耳の先まで真っ赤に染まるのを見て、俺は悟った。


「ああ。安心しろ。まだ手は出さねぇからよ」


 久保田が躊躇うのは無理もない。俺は高橋のセッティングする合コンで、一夜の恋を繰り返していたからだ。久保田は、ほっとしたような、それでいて何処か拍子抜けしたような両極端な色を頬に滲ませて、しばしあってから言った。


「あの……キス、までなら……」


 俺は笑った。声を上げて笑ったのなんて、何年かぶりだった。


「馬鹿。そんな据え膳で、我慢出来る訳ねぇだろ。今日は、記念に種を蒔くだけだ」


「は、はい」


 うぶな久保田が、合コンで群がってくる女たちと違って新鮮で、俺はその背に腕を回して抱き締めた。折れてしまいそうなほど、細い。


「あ、だ、駄目。杉山さん!」


「だから、何もしねぇって。安心しろ」


「そうじゃなくて……その……やっぱり、私が」


「ん?」


 身を離して顔を覗き込むと、その鳶色の瞳はしっとりと濡れていた。まるで『あの時』の女みたいだ。


「……お前が我慢出来ねぇのか?」


 単刀直入に訊くと、久保田は俺の胸板に手をついて、ぐいと押し返しながら恥じらいに瞳を閉じた。俺は、今度はニヤリと口角を上げた。


「じゃあ、今夜はキスだけ、な」


「ん~!」


 耳元で低く囁いてやると、久保田は首を竦めて抗議の呻きを漏らした。今夜は、あったかい思いが出来そうだ。な、久保田。


End.

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【サン・ジョルディ】 圭琴子 @nijiiro365

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