二七時の男

枕木きのこ

二七時の男

 ついていないといえば、朝からそうだった。


 昨夜遅くに恋人と些細なことから喧嘩になり、ソファで就寝したことにより風邪をひき、当然のように朝食も昼の弁当も用意されておらず空腹のまま出社、無駄な出費に嘆く。休憩中のメールや電話も無視され、ケーキでも買って帰るかと決めれば売り切れ。予期せぬトラブルで残業、ようやく電車に乗れたと思ったら人身事故の影響で乗り継ぎがうまく行かず、そもそも家に帰ることさえ叶わなくなった。


 漫画喫茶よりはましだろうとカプセルホテルに入ってみたが、薄い壁一枚の両隣には見知らぬ男が寝ているという状況が、耐えられなかった。

 不幸中の幸いといえば、煙草の予備があり、喫煙室があったことだ。


 私はそこで幾度目かの喫煙を行っていた。すでに日付の変わりも近く、このように長居している人間はほかにはいなかった。今日は利用客自体少ないらしい。

 きっとこのまま始発まで起き続け、帰るなり彼女に謝り続ける明日が待っているのだろうと考えると、辟易とする。


「あの、済みませんが」

 思考に耽っていたためか、男が一人隣にいることに気が付かなかった。驚きが、滑稽に映ったことだろう。

「なんでしょう」

 彼は親指を突きたて、何度か上下させる。

「ライターを、お借りできませんか?」

「ああ」シガレットケースに入れていた百円ライターを手渡す。「どうぞ」

「済みません」


 男が火をつけ、呼吸をすると、吹き出された煙の甘い臭いが瞬間に喫煙室を満たした。外国のものだろうか、嗅いだことのないものだった。

「助かりました」男はライターを私に返すと、「生き返る心地です」

 大仰に微笑んでみせる。


 喫煙室には今、私と彼しかいない。微妙な距離感が気まずく、これを最後の一本と決めて煙草を吹かしていると、男の視線がこちらに向いた。

「お礼に、面白い話をしてあげます」

「面白い話?」柔和な物腰に思わず聞き返してしまう。もとより朝まで起きていようと思っていた身だ、時間は構わない。「ぜひ聞きたいですね」

 よかった、とひとつ呟くと、深く煙を吸い込んだ後、男は話を始める。


「僕は他人より、三時間多く一日を生きているのです」

 だがそれは突拍子もないことだった。


 途端に興味が失せた。

「そうですか」

「通常の人間は一日を二四時間として過ごしていますよね。僕の場合はそれが二七時間なのです。つまり、他人にとっての八日間が、僕にとっては九日間になる計算になります。一年を三六五日とすると、僕の場合はそれよりもおよそ四五日多く生きていることになります。生年月日で言えばまだ二十歳ですが、実際は二二歳なんですよ」男は二十歳にも二二にも見えなかった。正直に言えば三十手前の私よりも年上かと感じていたほどだ。「まあそんな計算は至極どうでもいいことなんです。僕が余分に生きているこの三時間、こちらから干渉することは可能ですが、基本的には何ひとつの例外もなく、全てのものは停止状態になります。だから僕が三時間他人より長く生きていることは、僕にしか認識できません。貴方たちにとっては、二三時五九分五九秒から二四時ちょうどまでは、当たり前のように一瞬なのです」彼の吸っていた煙草の灰が落ちる。「貴方は、僕がこの三時間をどのように使っていると思いますか? というよりも、貴方ならばどのように使いますか?」


 唐突に矛先が向いて、驚いた。だからか、

「とりあえず女風呂でも覗きに行くかな」

 くだらないことを言ってしまう。

 男はくすくすと笑った。


「僕も最初はそう言ったことをしていました。スカートの中を覗いてみたり。ロマンですよね」アダルトビデオにもあるように、と酷く楽しそうに続ける。「しかし、そんなことばかりで三時間を費やすのは無駄なことだなとすぐに思ったのです。これは僕にしか与えられていない能力であって、個性である。そのときに、女の身体を見て喜んでいるなんて、誰にばれるわけでもないですが、滑稽も過ぎるでしょう」

 自分を笑われたような気分だ。

「そこで僕は、この能力についてを行うことにしたのです」


 男はそこで煙草を揉み消し携帯灰皿に仕舞うと、もう一度私のライターを使って新しいものに火をつけた。

「テスト?」


「ええ。僕がこの三時間のうちに干渉したものは、三時間後、二四時になって流れが正常に戻ったとき、どのような影響を受けるのか」

「影響?」

「こちらから干渉できることはお教えしましたね? つまり物体に触れること、移動させることなども可能なわけです。例えば僕がこの三時間のうちにコンビニからお菓子を持ち出したとしましょう。皆さんの体感ではたった一秒です。その間に、目の前にあったはずのものが消えている。これを、皆さんはどのように認識するのだろうか、という問題です」

「なるほど。瞬間移動として認知するのかどうか、という話か?」

「その通りです。僕は今例えに出したとおりのことをしてみました。停止した人間の目の前で、今まさにその人が取ろうとしていたお菓子を、一列全て排除しました。彼はそれを買おうとしたのに、一秒経ったら店からそのお菓子がなくなっているのだから、不思議に思わないはずがありません」


 いつの間にか、彼の話に飲み込まれている自分を認識する。

「どうなったんだ?」

「結果から言うと、

「起こらなかった?」


「正確に言えば、僕が干渉したものは、もともとなかったことになった、と言うべきでしょうか。その人が買おうとしていた商品は最初からその店にはなかったことになったのです。あるいは、彼自身が無意識のうちにそのお菓子を目的としなくなった、と言ってもいいでしょう。単純に言えば要するに、うまく辻褄が合ったのです」


「つまり、どういうことになるんだ?」

「僕の体感している三時間、これが、世の中全体から見ても、存在しないものなのです。端的に言えば、僕がこの三時間のうちに行ったことは、誰にも認知されない。もちろん、先ほどの話などで、僕が僕だけの三時間、その店の前で大量のお菓子を抱えたまま世の中の再開を待ち続けていれば、万引き犯として捕まってしまいますけどね。僕がお菓子を盗んでいった、という証拠が再開時に何もなければ、その窃盗自体がなくなるのです。理解出来ますか?」

「無敵ということは、なんとなく」

 私はそういったが、正直ほとんど思考が追いついていなかった。


 男は微笑んだ。

 そして時計をちらりと見ると、煙草を消す。

 そこで私は気付いた。

 先ほどの煙草もそうだが、彼は自分の吸った煙草を灰皿に捨てていない。喫煙室だと言うのに律儀に、携帯灰皿へ仕舞いこんでいる。


 ああ、と私は思った。

 ついていないといえば、朝からそうだった、と。


「僕はこれからその実験の、ステップアップを試みます。やることは殺人です。幸いにして今日は人が少ない。全員を綺麗に殺して帰ります。貴方方は停まっているので返り血を浴びることもないですからね。恐らくは凶器と指紋、それから自分の痕跡を拾って帰れば、何も問題はないと思われますが、そこはやってみないとわかりませんね。三時間もあるんだし、がんばります。監視カメラの映像が、と思うかもしれませんが、お菓子とは違い、僕はこれを報道番組で確認するつもりです。痕跡もなく、その場にもいなければ、きっと世界は僕がここにはいなかった、ということにしてくれるはずです。過信しすぎですかね。まあ、捕まったとしても三時間あればどうにでもなると思うんですね、日本は容疑者を即時殺したりは、まあ、余りしないですから。

 さて、そろそろ時間ですね。僕の話は面白かったですか? 一度誰かに話してみたかったんですけど、なかなかいい相手がいなくて。でもこれから死んでしまう相手なら問題ないですもんね。重ね重ねのお礼に、なるべく苦しまないように、すぐ死ねるように、たくさん刺しておきますね。ライター、ありがとうござ――」

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