後編

 果歩はそれを手にすると、表面に息を吹きかけてから、まるで試着をするような気軽さで、顔にかけた。蟲のように伸びた二本の角が、その淀んだ角が、私を刺し殺すのではないかと、目が回るような気持ちが沸き起こる。大きく裂けた口から姿を見せる牙は、獰猛さを窺わせる。放火魔の正体を聞くよりもまず、こんな面をかけている果歩こそが、犯罪者のように見えてならなかった。

 そしてその奥から、くつくつと笑い声を上げるのだから、身体が硬直するのも、無理は無い。


「や、やめてよ……」

 掠れた声音で、彼女に届いたかどうか、怪しかった。果歩が、果歩ではなくなるような、そんな感覚に既視感を覚えるが、すぐに、これは既視感ではなく、実際に抱いた経験のある心だと思い直す。あの、七つ目の怪談を試したときのように、私たちの間に、良くない「何か」が訪れてしまうのではないかと、また、嫌な予感がぐるぐると胃の中を這いずり回る。


 私の怯えをよそに、果歩は楽しげだった。面が表すのは怪獣ではないのに、鳴き声のような声を出して、地球儀を蹴飛ばす。頭の中で、真蛇とは一体何のためにこのような顔に変化してしまった女だったか、思考を巡らせるが、答えは困惑の中にあり、手には取れない。もどかしく、頭が痛んだ。


「何か見える? 早く終わらせよう……」

 果歩は怪獣ごっこをやめると、しばらく黙り込んで、身動きを取らなかった。穏やかだったはずの風が外でうねりを上げている。その隙間風なのか、虫なのか、それとももっと別の何かのせいなのか、カサリと、紙の擦れるような音に、瞬間的に気を取られていると、


「見えないな」真蛇の面を外し、果歩は肩を竦めた。「そもそも深夜って言うのが漠然としすぎていて、何時にかけていればいいのか、わからない」

 以前も、そうだった。果歩が期待を込めて検証する怪談は、どれも詳細が不鮮明で儀式というには粗悪なのだ。


「確かに、それはそうだけど……。それなら、場所だって、ここと決められているわけではないんだし、持って帰って、果歩の家で試そうよ」

「嫌だよ」提案は簡単に棄却される。「これ、なんか気持ち悪いもん。持って帰るのは嫌。だからまた来たんだよ?」


 裏返したり、見詰め合ったりを繰り返しながら、五分おきくらいには面をかけたが、彼女がそれらしい反応をすることは無かった。かけてみなよ、と言われ、渋々彼女に倣ってみるが、視界が狭まり、通常見えるはずのものさえ見えにくくなるのが、結果だった。


 体感にして、一時間は経ったのではなかろうか。

 いい加減に飽きてきたのか、果歩は面を私に持たせたまま、眠そうに目頭を掻いている。埃のせいか、気分の悪くなってきた私は、積み重なった書類を椅子代わりに腰を落ち着け、憎しみだけをありありと見せ付ける意思の無い面と向かい合っていた。これが、何かを見せてくれると思うのが、段々と馬鹿らしく思えてきてならない。


 帰ろう、と果歩が言い出した。身体を捻ってから、眠気を覚ますように何度か伸びをすると、服が捲れ上がり、彼女のへそが覗けた。括れた腰周りは、無防備で、格好の獲物のように見えた。

 もともとが慣れない夜更かしだ。どうやら私のほうにも眠気が伝播し、漏れそうな欠伸を噛み殺していると、

「その前にトイレに行ってくる」

 伸ばしたばかりの身体をだらりと弛緩させ、亡霊のように両手をふら付かせる。

「水、出ないんじゃない?」

「出来ればいいよ。どうせ、廃校なんだし」

 その理論が正しいのかどうか、巡らせているうちに、彼女は私の横を通り抜け、姿を消した。


 ようやく今日も、彼女の気まぐれから解放される。明日が休みでよかった。思わず、息が漏れた。


 真蛇の面は、真実を見せてはくれなかった。夜に家を抜け出し、怯えながら、埃にまみれ、呆れながらもこんな場所まで着いてきたという、幼馴染らしい友情が、この真蛇の面を巡る真実というものだと考えるのは、少々、ずるいのだろうか。世の中は、そんなに綺麗事にまみれてはいないと、知っているのに。


 あなたは一体、どうしてそこまで顔を歪ませてしまったのか。なにに角を向けている。牙で、なにを噛むのだ。

 動きの無い面と見詰め合って、思考を弄んでいるうち、私は、次第にまどろんで行く自分を止めることが出来なかった。


 音がして、首をもたげる。

 果歩の姿は無い。どれほどの時間が経ったのかも、わからなかった。


 窓の外はまだ暗かったが、先ほどと比べ、明かりが差し込んでいるのに気が付いた。社会科室に通じる扉が薄く開いている。音は、そちらから聞こえてくる。

 面を脇に置き、立ち上がり、

「果歩?」

 呼びかけながら扉を開くと、そこはうらぶれた机も、世界地図も見えなくなるほどの、火の海だった。

 私を揺り起こしたのは、火炎の成す音だったのだ。

 火事。火事。

 放火魔。

「果歩!」


 事態を十全に理解するよりも早く、社会科室から抜けようと足を踏み出したところに、行く手を阻むかのように火の粉が舞い上がり、やむなく後退する。ただ進むこと、部屋から出ることが、出来ない。


 社会科室の扉が大仰な音を立てて開かれ、火炎の向こうに果歩の姿がぼんやりと見えた。こちらに向かって、恐らくは私の名前を叫んでいるのだが、ボウ、という耳障りな音に掻き消されてしまい、届くより早く意味を失う。


 これは、現実ではないはずだ。

 どこかでそんなことを思ってしまっているのか、ほとんど意識せず、首を左右に振っていた。或いはそれは、逃げられない、という彼女への意思表示だったのかもしれない。


 身体を焦がすかのような熱気に、私は怯えが勝り、資料室へずるずると下がった。扉を閉め、ひとまず火の進入を防いでみるが、こんなものは、些末な抵抗に過ぎない。


 逃げられない。そうだ、逃げられない。

 真蛇の面が、足元から私を見ている。

 彼女は、見せるのではなく、見ているのだ。

 私の中に芽生える、悪を。

 轟々と燃え盛る、憎しみを。

 そうだ、彼女は、嫉妬のために、狂ったのだ。

 誰の心にも住み着いている、嫉妬の蛇。


 足が竦み、立っていることも儘ならなくなり、私はその場に崩れた。扉を燃やすのが早いか、柱を燃やすのが早いか、どちらにせよ私はこの捨てられた学校と共に、死んでいく。

 でも、果歩を恨むことは無いだろう。

 私は、私のために行動した。結果として、不運を招いた。

 それは多分、七つ目の怪談の正体を、知ってしまったがためなのだろう。


 噂には真も偽もある。その中でも、七つ目の怪談の持つ「不幸になる」「怪異が起きる」「死ぬ」は、全て、真だった、ということだ。真蛇の面が私に見せたとするならば、ということか。


 隣の部屋では今、茫々とした火の海が、私と、果歩に、境界線を引いている。人と人としての、人格による線ではない。生と、死が、はっきりと二人を分かつ。きっと、そうなるのだ。


 資料室内の空気が、どんどんと熱を帯びる。このままでは私自身が発火しそうだ。

 どうせ、死ぬのかもしれないのなら、ここから飛び降りて、あるかどうかもわからない運命というものに、身を委ねるのも手だろうか。神様も、幽霊も、等しく存在しないと思っているのに、こんなときだけそうしたものを思い浮かべるのは、人間が、弱いからだろう。ただ、弱者でもいい。負い目や、後悔や、嫉妬と言った見苦しいもので化粧をしていようとも、少しでも、生きたいと願ってしまう、愚者でいい。


 私は、どんな不平不満を抱こうと、果歩のことが、好きなことに違いは無い。

 彼女のために苦心してやるくらい、彼女自身に依存し、自分を見出しているのは、紛れもない事実だ。果歩が居るからこそ、私が成立する。そしてそれは、果歩からしても、同じだと、私は思っていた。


 驕りだとしても、構わない。

 生きたい。

 私のために。

 果歩のために。


 真蛇の面から目を背け、窓を開けようと、手を掛けた。きっと、この探検の始まりのように、穏やかな風が私を包んでくれる。

 そんな淡い思考を中断するように、

 ガー、ドン、ドン、ガー。

 ドン、ドン、ガー、ドン、ドン。ドン、ドン。

 廊下のほうから鳴った大きな音に、心臓が跳ね上がり、瞬間的に私の動作は停止する。身体の中ではそれよりも大きな音が体外へ放出されたいと願うように脈打っている。頭がずきずきと痛む。破裂しそうだ。


 振り返り、その音を、ひとつひとつ、考える。

 これは、果歩に違いない。

 彼女が、私を止めたのだ。


 マド アケルナ

 バックドラフト

 タスケ ヨンダ


 窓から離れると、身体の力を一気に失い、ガムや空き缶の中へ飛び込むように、落ちた。

 。いや、

 泣きたくなど無いのに、泣きたい気持ちが、心臓から、全身へ駆け巡る。

 伸ばした手で、真蛇の面を掴む。

 真実を見たのは、私ではなく、彼女だった。その顔が、今は見えない。




 救助された私と果歩は、駆けつけたそれぞれの親にこっ酷く怒られた。森閑としていた住宅街が、火が燃え上がったかのように騒がしくなり、顔を覗き込もうとする野次馬がひっきりなしに飛び跳ねていた。


 私はずっと、果歩の手を握っていた。

 説教も、喧騒も、ずっと遠いところにあるもののように、何も聞こえなかった。世界に、私と、彼女だけになったかのような静けさが、心の中にあった。


 果歩は私を見て笑みを作ると、ガサガサと聞き取れない声音で何かを言った。意味はわからなかったが、私も笑みを返して、頷いた。私を助けようと社会科室に入った彼女は、大きく息を吸い込んでしまったがために、喉に火傷を負ったのだ。

 そして二次災害から私を救うために、死の海から私を掬うために、彼女は「怖い話」から蓄えたものなのか、こともあろうにを用いた。


 それは同時に、彼女は、あの日の、、と言うことに他ならない。机の下に手を忍ばせて、を、最中か後日かはわからないが、きちんと読み取っていたと言うことに、他ならないのだ。そして彼女は真実を知っていたのにも関わらず、変わらず、私と接した。普通は、まず出来ないことだ。

 私はと言えば、彼女にその知識があるとは思っていなかったし、そうして自分ばかりが博識なつもりになって他人を卑下する、弱者で、愚者に違いない。


 最初から対等ではなかった。

 自分が酷く矮小で、醜悪な人間に堕ちていたことを、自覚する。ずっと、彼女を羨み、同じくらい、憎んでいた自分のことを、彼女自身に、見せられた。

 それでも、こんな恥だらけの自分で、生きたいと思えるのは、彼女が私の手を、握り返してくれるからだろう。ガサガサの声で、伝わらないのに笑顔を向け、何かを発してくれるからだ。


 疲れ、安心し、意識が落ちていく最中、近所から訪れた野次馬たちが、

「怪しい男は、見ていないですね」

 警察官に対しそう言ったのが聞こえた。

 はっとして、果歩の顔を見ると、一杯に開かれた大きな口が、真蛇の面のように、無機質に、私を見ていた。


 いや、思い過ごしだ。きっと、深夜だったからに違いない。

 芽生えた想像が真実であれば、幼馴染であるはずの私たちの、いかにも寂しい関係に、心が苦しくなるだけだ。

 ただそれでも、最初から、わかっていたような気も、する。


 野次馬の言うように、真実を見せるという「能面」を巡るこの顛末に、は誰も登場しないのだと。

 なぜ彼女が学校を休んでまで下見に出かけたのか。

 なぜ放火魔の正体を見せてもらおうと言ったのか。

 なぜ彼女が真蛇の面を持ち帰ることを拒んだのか。

 彼女が本当はあのとき私になにを叫んでいたのか。

 そしてなぜ最終的に私のことを助けてくれたのか。

 今、ガサガサで聞き取れない、彼女の声の中身は。


「勇者の笑い声高らかに」


 でも。

 私は。

 彼女がそうしてくれたのだから、同じようにして、見えたはずの真実に蓋をするように、ゆっくりと、目を閉じた。

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真実は「能面」が示す 枕木きのこ @orange344

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