前編

 自室の窓を開け放つと、穏やかな風が頬を撫ぜた。

 眼下に構え手招きをする赤根果歩の姿に頷きを返し、屋根を伝い、音を立てぬよう恐る恐る、少しずつ足を滑らせる。普段、夜更しをしない私にとって、これほど足もとの覚束無い時間はないだろう。案の定、飛び降りた際、着地がうまく行かず、挫いた。派手というほどの音はしなかったが、森閑とした中で、それが眠っているはずの両親の元に届いていないかどうか、私はしばらく身じろぎせずに耳を傾ける。


 無事を確認し玄関先で合流すると、果歩は同行者である私の肩を何度か叩き、今の不恰好な滑降を小声で賞賛した。この深夜の探検に対する興奮に満ち溢れ、顔面は常に笑みを絶やさず、私はこの闇夜よりももっと黒ずんだ嫌な予感が、胸中に拡散していくのを自覚する。


 先日、在学中の高校にまつわる七不思議を検証してからというもの、果歩はその手の話に目が無くなった。学校に居るときは、授業中でさえも、スマートフォンで「怖い話」や「都市伝説」を虱潰しに調べ、休み時間には決まって私の机の前に腰を下ろし、収集したばかりのそれらを披露してくれる。彼女のその童心ゆえにとも言える言動に、呆れる一方で、安心する部分もあった。彼女の言った「反省」が無かったことになっていようと、それを覆うくらいの負い目がある私は、今までどおり彼女の振り回す道具となって尽くしていれば、きっと、悪い未来は訪れないのだと、そう思う。


 幸か不幸か、すれ違う人の影は無かった。私たちはまるでそう、あのとき感じたように、世界に二人きりになってしまったかのように国道沿いの歩道を闊歩した。果歩の弾む声音で語られる話を、私はほとんど聞いていなかったが、それでも彼女は満足しているように、途切れることが無かった。


 目的の場所は、あと十五分ほど歩いた先にある、廃校だった。果歩の父親が通っていたと言う小学校で、昭和に建てられ長年数多くの子どもたちを受け入れてきたが、十年ほど前に校舎の老朽化を原因にその機能を止めたのだと言う。


 もちろん、近所と言えば近所と言える距離に位置する廃校なのだから、その存在を認知していないわけもなく、かねてから、なぜ老朽化した校舎を取り壊さないのか、という議題は、老幼問わず様々な口から、私の耳へ入っていた。真か偽か、現在でも取り取りの噂が一人歩きをしている状態で、出来ればそのような場所に、わざわざ向かいたいとは思わない。


 果歩曰く、備品は当時のまま、忘れられてしまったかのようにそこに在り続けているとのことだった。と言うのも、彼女は昨日の昼、学校を休んでまで、下調べを行ったわけである。その熱意が私には怖かったし、確実な一本の線を、私たちの間に引いているように感じていた。


「それで、なにを見せてもらうの?」

 話が一段落ついたところで、疑問を打ち明ける。大まかな怪談話と誘い文句をくれはしたが、詳細の部分を、彼女は何も語っていなかった。

「せっかくだから、最近話題の放火魔の正体がいいかなって、思ってる」

 彼女は少年のように大またで歩きながら、ポツリと返す。

「ふうん」


 ここひと月ほどで、自宅から半径二キロ圏内において、小火程度ではあるが、三件の放火が起きていた。全国的なニュースに取り上げられるほどの真新しさは持っていないが、登校時など、主婦たちの話題の種になっているのを見聞きしたことがあった。「小さな子どものようだった」とか「黒ずくめの男を見た」と言う者が居るには居たが、その信憑性のほどは、相容れない内容からも、知れている。


 彼女が一体なにに、その不明の犯人を訪ねるのか。


 廃校の二階にある「社会科資料室」には、地球儀や地図のほか、日本史を学ぶ手助けとなる教材がいくつか残されたままで、その中に埋もれるように仕舞われた「能面」のひとつが、曰くつきだった。「深夜にかければ真実を見ることが出来る」と、文言は漠然としたものだったが、廃校にまつわる噂の中でもそれは古くからあるもので、そこからいくつかの話が派生する程度には、彼女の好みそうな「怪談」に仕立てあがっていた。


 果歩にそのような正義感があることを私は知らなかったが、こういう真実であれば、何かしらの問題が起きる可能性は軽減されるかもしれないと、ぼんやりと思う。もっと女子高生然としたことを、例えばだれだれの好きな人を、などと言ったことを見ようとしないのは、果歩らしくもある。


 そうして歩いているうちに、問題の廃校にたどり着いた。

 錆び付いた門扉によじ登り、何とか向こう側へ降り立つ。挫いた足が今更になって痛んできたのを感じながら、先を行く果歩の後姿を、その奥の古びた校舎を、見ていた。


 昇降口のガラス扉がいくつか破壊されていたが、そこを潜り抜ける度胸は私たち、少なからず私には、無かった。散乱し、時折月光を反射させるガラス片が、ひらひらと私たちに手を振っているような、そんな幻覚に見舞われる。


 壁伝いに歩いていき、下調べの段階で鍵の掛かっていないことがわかっていた保健室の窓から侵入することになった。先に校舎内に踏み入った果歩が手を伸ばして、私を引き上げてくれる。乗り越えた先は、ひんやりと冷たい、淀んだ空気に満ちているようで、肺が腐ってしまいそうだった。黄ばんで文字も読めない書類を踏みながら、カビだらけのベッドを二つやり過ごす。


 廊下に出ると、右も左も、真っ暗だった。月明かりは探検には心もとなく、果歩はポケットからスマートフォンを取り出してライトを灯し、私にもそうするように促したが、

「無い」

 いくら弄っても、そこに在ったはずのものが、無くなっている。

「忘れたの?」

「そんなはず無い。確かにポケットに入れて……」そこで、あの不恰好な滑降を思い出し、「多分出てくるときに落としたんだ」

「まあ、仕方ないね」果歩は前を向き、「とりあえず二階を目指そう」


 壁や、通り過ぎる教室の黒板には、どこの若者の仕業か、スプレーによる落書きが施されていた。族のマークなのか、髑髏をデフォルメしたような絵を見て、果歩はくすくすと音を忍ばせて笑う。彼女が一体なにに対しここまで愉快に感じるのか、私には一生、わからないのだろう。


 階段を上っていく足音は、この空間にひしめく何かに音を消されているかのように反響もせず、きっちり二人分の歩みを示す。一段先を上がる果歩に、迷いや躊躇いはない。或いは恐怖を感じるための何かが、欠落しているのかもしれない。


 ライトを照らし、室名札をひとつずつ見ていくが、私の目では「社会科室」は見つけられても、問題の「社会科資料室」は無いように思われた。

 そうして疑問に思っているのを見透かしたかのように、

「廊下からは行けないようになってるんだ」

 顎で社会科室へと促した。そうだとすれば酷く不便な造りだと思ったが、実際にそうであったのだから、こればかりは仕方がない。よくも悪くも、果歩の下調べのおかげでスムーズに進んでいく。


 社会科室は一般教室とほとんど同じ内装だった。教室後方には世界地図と、日本、アメリカ、イギリスの三国の時刻を表していたらしい時計が三つ、それぞれの札の上に掛かっていた。うらぶれた机が点々と転がっており、いくつかは脚が切断されたように綺麗になくなっていて、もうそれとしての機能を果たせなくなっている。黒板にはやはり、落書きがされていた。

 果歩はその落書きにライトをあて、

「勇者の笑い声高らかに……、だって」

 読み上げると、口角を上げてこちらを見た。

 なにを感じているのか、その自覚は無いが、頬が痙攣するのはわかった。

「勇者ってなんだろうね」一瞬あとにはまるで興味を失ったかのように、ライトを前方へ向けた。「ここだよ、資料室」


 黒板のすぐ隣に扉があった。その上に、探し求めた「社会科資料室」の室名札を見つける。途端に、血液の循環が活発になるのを感じ、暑くもないのに浮き出た額の汗を、何気ない振りをして拭う。

 鍵は掛かっていなかった、と言うより、元々付いていなかった。社会科室からしか行けない場所なのだから、社会科室に施錠をすればいいだろう、という安直な思考が読み取れるようだった。或いは盗まれて困るようなものは、そもそも無いのか。


 果歩がノブを捻って、緩慢な動作で扉を開いた。わざとらしい鼻息が、軋みに取って代わる。

 中は、縦長の六畳ほど、手狭なところだった。その中に棚が二つもあり、圧迫感で息苦しい。


 棚の中には、かつては幾人もの子どもたちに触れられたであろう白地図や学習漫画などが、乱雑に放ってあった。床には吐き捨てられたガムや置き去りにされた空き缶が無造作に死んでおり、私たちの訪れる以前の「勇者」たちの痕跡が見受けられた。


 奥へ進んでいく果歩に追いつこうと踏み出すと、足に何かが当たる感触が伝わる。ころころと転がっていったのは、支柱を失った地球儀だった。それが行き着いた先に、異様な存在感を放つ木箱が置かれていた。

「ねえ」

 言って、果歩にそれを示すと、麻紐で何重にも封をされた木箱を、何の気負いもなさそうに拾い上げ、

「どこに置いたっけ、と思っていたところ」

 悠長な台詞を吐き、今日一番の笑みを向ける。心が平静を失っていくのが、身体に現れ、手先が、ぶるぶると震えるのを抑えられなかった。


 ポケットから鋏を取り出すと、カバーを投げ捨て、躊躇いを持たない彼女の手が、封印を解く。

 爛々と光る彼女の目は、昇降口のガラス片のように、この世ならざるものに思えた。

 

 中から出てきたのは、真蛇の面であった。

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