真実は「能面」が示す
枕木きのこ
プロローグ
空は青紫に染まり、まるで異世界に迷い込んだかのような居心地の悪さを覚える。
一部の生徒はすでに薄いニットを羽織るようになり、どうも怪談を語るには時が過ぎてしまった。
赤根果歩はむっつりとした顔で私のほうを見ていた。間に挟まれるは創立以来使われ続け古びた机。机上で蝋燭がちろちろと揺れている。中には教科書やノートが入れっぱなしになっていて、そんなことないとはわかっていながらも、火事が心配だった。
「もうやめようよ」
声音は、不意に通り過ぎた秋風に呑まれ、恐らく、果歩には届かなかった。炎が形を変えたきり、向こう側には何も反応が無い。
かれこれ、見詰め合って半時間が経とうかというところだった。試験期間中で部活動は無い。それでも残っている生徒たちの声がちらほらと廊下から聞こえてくるが、この教室には誰も入らなかった。扉一枚を挟んで、私たちはどのように見えるのだろうか。
七不思議を検証しよう、と言い出したのは、もちろん、果歩のほうだった。彼女からその言葉を聞くまで、この学校にもそれらしい怪談話があることさえ知らなかった。いつも、彼女はそうやって私を巻き込み、いつの間にか、どこかへ連れ去っていってしまう。今回も、まさか七つ目まで付き合う嵌めになるとは、当初の私の思惑からは相当に逸脱してしまっている。早々に、諦めてくれるものだと思っていた。
しかし、それも仕方ない。
というのも、この七つ目まで、何一つ伝えられるような現象が起きていないのだから、私が彼女の立場でも、どうも諦められなかったかもしれない。そう思うのは、精一杯の優しさだろうか。
なぜ果歩が高校生にもなって七不思議に興味を示したのか、そして固執するのかはわからない。ただ、彼女は昔からそういう爛々とした好奇心を絶やすことの無い少女だったから、不思議は無い。きっと、気まぐれに終始する。近くの家で、二ヶ月あとに産まれてしまった私は、幼少期からずっと、彼女のわがままに振り回され続けている。
彼女のことを憎んだことは無い。それも、そうさせてしまう私が悪いのだとわかっている。昔からこういう風な経験を積んでいるという、それだけの話でしかないのだ。
蝋燭はもう少しで全てが溶ける。
今回も何もなかったとしたら、果歩はどうするのだろうか。七不思議なんて子どもだましねと笑うかもしれない。どうして何も起きないのと怒るかもしれない。そのとき、私は彼女になんと言葉を返そうか。
七つ目の怪談は、放課後、同性で仲の良い二人が蝋燭を挟み見詰め合えば、そこに「何か」が訪れる、という曖昧なものだった。これまでの怪談と違うところは、その「曖昧さ」に尽きる。まるで具体性が無いのだ。例えば一つ目の怪談はどうだったかと言えば「放課後」「音楽室で」「ド、ファ、ソの三音を」「一分間」「連続して鳴らし続けると」「指の欠損した少女が現れる」と、時間や場所、行為と結果が判然としていた。ところが七つ目にはそういったものがほとんど無い。どれほどこれを続ければいいのか、そして何が起きるのか、そういうところがいまひとつ不明瞭なのだ。
果歩は、そういう不明瞭さが却って真実味を増している、というようなことを言っていたが、今の表情を見る限りは、蝋燭が溶けるより早く、彼女はこれを偽と認めるのではなかろうか。
日が沈んだ。
私は彼女から視線を逸らした。
「もうやめよう。遅くなっちゃったよ。帰ろう」
何を言われるより早く、私は床に置いた学生鞄を取ろうと身を屈めた。
すると、ギー、ギー、トン、ギー、トン。
何かを引っかくような音、そして、叩くような音がする。
私は慌てて顔を上げた。果歩は驚きを顕に、両手で口元を押さえて、私のほうを見ている。
「何か、が来たのね」声音は、それでも楽しげだった。「ラップ現象ってやつだ」
「何かって、何よ」声が震えるのを抑えられなかった。「やめてよ、帰ろうよ」
「何言ってんの、これからじゃない」
静かに、蝋燭の火が絶える。
電灯の点いていない教室内は、窓から差し込む薄明かりに照らされたのみで、視界がぼやける。
目の前の果歩が、まるで果歩ではないかのような、そんな恐怖心がフッと芽生える。
「ちょっと……」
ギー、ギー、トン、ギー。
また、音が鳴る。
くつくつと声を漏らしたのは、消えた蝋燭を弄っていた果歩だった。果歩の、はずだ。
「こんなので、何が来たのかしら」
「やめよう、帰ろう。よくないよ、早く……」
「怯まないでよ」念願の「不思議」に出会えた果歩は、嬉しそうだった。「さあ、早く、姿を見せて。あなたが何者なのか、私に教えて」
しかし反応は無い。答える気は、ない。
いつの間にか、生徒の大半は帰路に就いたらしく、先刻まで聞こえていた楽しげな会話の断片は、もう耳に届かない。世界に、私と果歩だけになってしまったかのような、そんな寂しさと、苦しさがあった。
もう帰りたい。このままじゃ、どうなってしまうかわからない。
心中を満たすのは、それだけだった。
ギー、ギー、トン、ギー、トン。
また、音が繰り返される。果歩は汗を拭うように、額を撫でていた。
ギー、ギー、トン、ギー。
「怖いよ、果歩。もう怖いから、帰ろう。帰ろうよ……」
泣きそうになっている自分を、恥じる余裕も無い。薄闇で、自分が自分である確たる保障も持てない。そんな心地になる。闇に紛れてしまえば、私を私とする要素は、分散して、消えていく。それは果歩も同様だ。私の目の前に居る人間は、本当に赤根果歩なのだろうか。こうして、嬉々としている彼女は、私が昔から知っている彼女なのだろうか。
いや、そんなことは考えるまでもない。私は私だし、彼女は、赤根果歩だ。結果、こうして「何か」が訪れてしまった。
果歩は立ち上がり、音の発生源を探しているようだった。四隅を見やり、いや、と呟いたと思うと、
「近くから鳴っている気がする」
視野を奪われると、聴覚が鋭くなる、と聞いたが、実際には、不安感で感覚は鈍重になる。要するに、それほどの余裕が、すでに無いのだ。特に果歩は、興奮が高まって、うまく耳が機能しないようにも思えた。
秋風が、また、カーテンを揺らした。カタリ、と鳴った音は、机上に置かれていた彼女のボールペンが床に落ちた音らしかった。それが、トンと耳の奥に入り込むように、嫌に鮮明に頭に刻まれる。
「ねえ」
上から、声が降ってきた。
「何?」
「もしかして、この机の下から、音が鳴っていなかった?」
「机の、下……?」
彼女はゆっくりと視線を下げた。恐らく、落ちたボールペンを見ている。
「そう、ここ、から」果歩の深呼吸の音に、思わず、耳を塞いだ。「覗くよ」
心を落ち着けているのだろうか、何度か頷くように首を動かし、それが十回目を迎えたとき、彼女は勢いよく机の下を覗き込んだ。
「きゃ!」
悲鳴が、手を突き抜け、耳に届く。
釣られて、私も声を出してしまう。
一瞬あとには、笑い声がする。
「なんてね。何にも居なかった」
溜息が漏れる。
「もう、やめてよ……、びっくりした」
「本当に怖がりだなあ」立ち上がり、伸びをする。「あーあ、残念。七つ目には何かが起きると信じていたのに。こんなもんかあ」
「でも音はしたじゃない」
「あれね、私が鳴らしてたんだよ」
「果歩が?」
「そう、ちょっと脅かしてやろうと思って。まあ、少しは楽しめたでしょ? お望みどおり、もう帰ろう」
蝋燭を片付け、教室をあとにして、下り方面の電車に乗り、やがて彼女の家の前に着いた。
「いや、悪かったね。こんなことに巻き込んで」
頭を掻いて謝る姿は、少年のようだった。
「いいよ。それより、もうこんなことはやめてよね」
「うん、反省する」
「わかったならいいよ」
「うん、じゃあ、また明日ね」
「ばいばい」
ひとり、点々と街灯の灯る夜道を歩く。果歩の家から、五分もせずに家に着く。
その僅か五分の間に、私は先ほどの出来事を、回想していた。
そして、果歩は優しいと、思った。
彼女に、音を鳴らすことなど出来ないのに、巻き込んでしまったという負い目からか、そこで起きた事象を、誤魔化した。音は確かに鳴っていた。だが、彼女が鳴らしたものではないのだと、そう私が行き付かないと、軽んじたのかもしれない。その厚意に感謝はするが、どうも彼女は不器用に違いなかった。
七つ目の怪談を知ると不幸になる、怪異が起きる、という話がある。或いは直接的に「死ぬのだ」とする話も、聞いたことがある。
あのとき、音を鳴らした「何か」は、一体なんだったのか。
私は、果歩は、不幸になるのだろうか。死んでしまうのだろうか。
もう、不幸なのだろうか。
いや、これ以上考えることはよくない。私たちは結果として、今、こうして、家にたどり着くことが出来た。蝋燭の火が何かに燃え移ることも、学校から出られなくなることも、電車が脱線することも無く、ちゃんと二人で、それぞれの家に帰り着いた。それだけで、よしとしよう。
私は、頭に浮かんだ「何か」の答えを、過ぎった感情を、忘れるように、頭を三度振って、
「ただいま」
扉を開ける。
七つ目の怪談は、私には必要ない。
ギー、トン、ギー、トン、ギー。
トン、ギー、ギー、トン。
トン、ギー。
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