第3話 春までは同僚の
「電車の中でいいなって思う人を見つけたんだよね」
僕の同僚が唐突に切り出した。少し遅い昼食の時間、今年の春までは同じ部署だった柳田と近くのイタリアンレストランで偶然会って同席することになった時のことだ。レストランといっても地下に降りたところにひっそりとある小さなお店だ。話は、柳田が異動した新しい部署のことや、うちの部署の近況をつらつらと話していたところだった。
いきなり話題が変わったことよりも、そんな話をする間柄ではけしてなかった柳田の中で、僕の存在がいつの間にか“そういう”話をしてもいい人になっていたことに戸惑いを感じる。異動する時に同じ部署のみんなで送別会を開いてから3ヵ月、その間、同じフロアですれ違えば挨拶をすることはあったが、それ以上のことはなかった。これまでもそうだったように。
「はっ⁉︎」
僕が続けて何かを言うのを待つような間が、戸惑いに拍車をかける。そのまま話を続けると思ったが、どうやら僕がここで何かを言わなければならないようだ。食べようとしたハンバーグを皿に戻す。そもそもイタリアンで何故ハンバーグが看板メニューなんだ? ふと関係のない思いが頭をかすめる。
「へぇ、そうなんだ。どんなやつ?」
僕の言葉は自分でも残念なほど、ありきたりでつまらなかった。言った端からもっと気の利いた返しはなかったのかと反省していた。しかし、それを聞いた柳田は何故かふんわりとした笑顔になった。その瞬間、その笑顔が僕の中で唐突な嫉妬心を爆発させた。驚きだった。そんな感情が起きたことに。これまで柳田を、同僚であるとしか意識したことはなかった。仕事が出来るうえ、可愛く、綺麗で、それなのに自分の外見に無頓着なさっぱりした女性だと、男女問わず誰もが高く評価しているのはもちろん、男性陣の何人かは熱心に彼女を食事や飲みに誘っていることも知っていたけど、女性としての彼女にはこれまで無関心だった。正確にいえば、自分などに縁がある人だとはまったく思ってなかったのだ。それだけに、急にわき起こったこの感情はいったいどうしたことだ?
「鴨志田くんはさ、例えばすごくいいなって思う人がね、笑った拍子に歯に食べカスがついてたりしたらどう思う?」
笑顔のまま、柳田が真剣な口調で言う。チラッと彼女の口元を見るが、もちろんそんなことにはなっていなかった。なんだ、僕は試されているのか?
「正直、ちょっと引いちゃうけど、出来ればそのことを教えてあげたいって思うよ。でもたぶんうまいきっかけが見つけられなくて言えないかもね」
彼女は大きく頷きながら
「そうだよね、いかにも鴨志田くんらしいよね、それ。でも、そのことで、彼女を見る目は変わったりするかな?」
「どうかな?別にそうはならないと思うけど。実際、そういうことないしね」
そうなのだ。異性に対してあまり縁がないから、実感が伴わない。
「今朝、会社に来る時に同じ電車に乗ってた人のことをね、あ、いいなって思ったんだけどね」
話は再び柳田のいいなと思う男に戻る。彼女の言葉に昼飯どころではない。すでに食べる気がなくなっていた。しかし、ふと見ると、彼女の皿はきれいに何も残っていなかった。いつの間に食べ終えたんだ?いや、そもそも何を食べていたんだっけ?
看板メニューのハンバーグは自分の手元ですでに冷めつつあった。お店のおばちゃんに申し訳ない気持ちになる。
「いいなって思ったのは特にどこがってことじゃなくて、だからこそ気になってしまったのね。でね、その人が同じ駅で降りたのよ。お、運命的だなって思って私も降りたの。まぁ、会社に行くんだから当然なんだけど」
この会社の最寄り駅はオフィス街のど真ん中にあるので、通勤時間に会社員が同じ駅で降りただけで運命的というのは少し大げさじゃないか? いや、そんな冷めた考えも突然の嫉妬心のせいだろうか。
「そのまま後ろ姿を見ながら歩いてたら、改札も同じでね」
ちなみに、改札はふたつあるので、そこも驚くほどのことではないが、彼女の話ぶりでは“運命的”な出逢いが、まさに運命だったと言わんばかりだ。
面白くない。普段あまり波風が立たない自分にしては珍しく気持ちが乱れる。課長のダメ出しはまったく気にならないというのに…。
「でね、いつの間にかその人のすぐ後ろに続いて改札を通るようになったんだよね。途切れないでどんどん人が改札を抜けていくよね。朝だし皆んな少し急いでるから。で、その人が改札を通ったんだけど…」
柳田が急に話をやめてしまった。誰か知ってる人が店に入ってきたのかと少し慌てたが、昼の時間を少し外した今、店内には僕と柳田のほか誰もいない。音楽が流れている。イタリアンだけにオペラでもかかっていて良さそうなところ、何故かノラ・ジョーンズがかかっていた。好きだけど、店内がイタリア一色だけに違和感は拭えない。赤のテーブルクロス、低い天井には赤と緑の飾り付け、イタリアの地図に風景画まで、どこから見てもイタリアンの店だった。そんな中、急に話を止めて水の入ったグラスの水滴を指先ではじく柳田がいて、半分ほど残されたハンバーグを乗せた鉄板が目の前にあり、沈黙をより際立たせるような場違いなノラ・ジョーンズの歌声が、じわっとしみこんでいく。あぁ、そうだ、彼女の主演した「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は良かったっけ。
仕事の合間のただの昼休みが、急に現実感をなくして僕の手から離れていくようだった。今、ここにいるはずなのに、自分ではどうすることも出来なくなっている。
「定期入れを叩きつけたんだよね」
白昼夢から覚めるように、きっぱりとした柳田の声が僕を現実に引き戻してくれた。
え?
急に話が続けられてうまく飲み込めない。はてなマークが僕の周りに踊っているのを見て取った柳田は、また例のふんわりした笑顔を見せてくれた。同じ部署の時にこんな風に笑ったところを見たことがあったっけ? あったのかもしれない、いや実際にあったんだろう。でもその時の僕はあんまり関心がなかったから見過ごしていたに違いない。これは、きっと、本格的に僕は彼女のことを…。
「あたしがいいなって思った人が、改札機のカードをタッチするところに、定期入れを無造作に叩きつけたんだよね。分かる? あそこって、かざすだけでも充分なんだよね。だいたいの人はちょっと触れさせて通ると思うんだけど、その人はね、 バチン!って。それでねもう一気に冷めちゃったんだ。なんだこんな人かって」
変な笑顔が出る。勝手に笑顔になってしまう。それを抑えようとするのと、笑顔がぶつかりあって変な顔になる。嬉しいのか。てっきり好きになった人との出会いについての話だと思ったら、まるっきり逆の話だった。嬉しい。いや、だからといって僕と柳田の関係がどうなった訳でもないから、喜んでも意味はない。それは分かっていたが、それでも思わず笑ってしまう。
「何、その反応?面白いの?」
いぶかしんだ柳田が聞いてくる。そうだ、これを笑わずにいられようか。
「うん、うん、そうだね、なんか面白いよ。てっきりいい人の話かと思ったら全然違ってたし、冷めたポイントも変だったからね」
「えぇ? そう? そんな変かな?」
「あ、いや、すごく分かるよ。たまにいるよね、そういう人。そんなに叩かなくてもいいんじゃないのってくらい乱暴にするやつね」
「でしょ!いるよね、そういう人。意味が分からないの、ああいう人たちって。無神経なのか、がさつなのか、嫌なことがあったのか分からないけど、駄目なんだよね。どんなにカッコよくて、性格が良くても、その一点だけでもう私は駄目だわ」
「言われてみれば、そうかもしれないな。可愛い女の子がそんなだったら、怖いよね」
僕の同意に満足したのか、傍らのグラスの水をぐっと飲み干す。食後に出てくるアイスコーヒーはすでに飲み終わっていたようだ。まるで気が付かなかったことに軽いショックを受ける。僕は目の前にいて何も見えてないのだろうか?もしかしたら、緊張してたのかもしれない。僕のハンバーグは相変わらずそのままだった。とにかく、柳田が好きになったかもしれない男が、スタートラインに立つ前にいなくなったのだ。一方で柳田に思いを寄せる男どもの数は減ったわけではないのだ。いや、減るどころか数多いる男たちの群れに、僕自身が加わることになったかもしれないのだ。いや、正直にいって、僕もなってしまったのだ。
一瞬の喜びもつかの間、重い気持ちになっていく。困った。この店に昼を食べに来なければ良かった。
ほぼ常連としてお店のおばちゃんにも覚えられて、居心地も良くなってきたのに。
いつも遅くに行くからハンバーグと並んで定番メニューのオムライスは、まだ一度も食べたことはないのに。
ノラ・ジョーンズも悪くなかったのに。
「鴨志田くんはよくこのお店に来るの?」
こっちの気持ちなど知る由もなく、柳田が話しかけてくる。彼女に罪はないが少し恨めしい。
「この店、ランチが他より遅くまでやってるから、来る時は遅い時間に来てるんだ」
「そうなんだ。ノラ・ジョーンズ、ちょっとどうかと思ったけど、いいよね」
「初めてなんだ?」
言った後でそうだって分かった。柳田みたいな目立って、かつ社交的な人なら、この店のおばちゃんとすぐに仲良くなってるはずだ。ここのおばちゃんは、誰にでもぐいぐいと話しかけて数回来ればもう顔なじみの常連のようになっているのだ。柳田がさっき店に入ってきた時の感じでは初めて来たのは間違いない。
「けっこう好きなんで、はじめ、何でノラ・ジョーンズが?って思ったけどなんか合うのね」
「確かに悪くないよね。あ、さノラ・ジョーンズが好きなら、映画は観たことある?」
今度は彼女の周りにはてなマークが飛ぶことになった。ちょっと首をかしげる仕草が可愛かった。
「ごめん、彼女が主演している映画があるんだけど、好きなら知ってるかなと思って」
「何それ、知らない。何ていうの? そうか、鴨志田くんて映画に詳しんだったよね」
先ほど思い出したタイトルを告げると、柳田は何度か呟いてしっかりと頭にしまったようだった。会社帰りに近くのTSUTAYAとかで借りて帰るのだろうか?風呂上がりにビールを飲みながら、部屋を暗くして映画を観る柳田の姿が想像できた。そこに誰かが一緒にいるイメージが浮かびそうになるのをなんとか抑え込む。
「今度、観た感想、言うね」
柳田はそう言った。それっていつと思いながらもそこははっきりさせない。社会人によくある「行けたら行く」というやつだ。実際には実行されないであろう事柄なのだ。それは暗黙の了解として静かに流されていく。柳田がそれを言った時点で、この会話自体も終わりだというニュアンスが感じられた。時計を見ると会社を出てから1時間が過ぎようとしていた。
「あ、俺、そろそろ戻らないと」
一緒に出るのも何だか恥ずかしい。空気を察したのか柳田はもう少し残ると言い、僕はハンバーグ定食の代金ちょうどを柳田に預けて出ることにした。
「午後も頑張っていこうね」
柳田は手を振って見送ってくれた。何となくそそくさと出る僕に対して、柳田はきちんとこの偶然の昼の会食を締めてくれたばかりか、ごく自然に憂鬱なはずの仕事に向かう僕の背中を押してくれさえしたのだ。
良い人だな。会社へ戻る道すがら、つくづくそう思う。思いの差こそあれ、皆んなが彼女のことを好きな理由が分かる。でも僕にはハードルが高すぎる。せいぜい会って話せばそれなりに話せる同期の元同僚ってところだ。今はちょっと彼女の熱にやられてしまったけど、そんなに会うこともないし、すぐに落ち着くはずだ。いいなって思っても僕にどうしろっていうんだ。ぐじゃぐじゃとどうしようもなく気持ちが乱れている。昼飯に会社を出た時には想像もつかない状態になっていた。これから今日までにまとめなければいけない面倒な資料が待っているのに、遅くなることは決まりだな。
はじめから諦めたら何もできないぜ。
突然、かつてのサッカー少年の僕が、今の僕に言い放つ。冗談めかしてマジな気持ちを言う少年の僕は、熱くなるのを避けたがる今の自分には少し痛々しいほど眩しかった。そうだ、はじめてサッカークラブに入った頃、リフティングが全然出来ずにいたけど、みんなに冷やかされるのが悔しくてひたすら練習して、半年後にはみんなが驚くほど出来るまでになったっけ。
はじめから上手なやつなんかいないだろ。
クラブとは別に、家の近くの公園でリフティングの練習に付き合ってくれた親父の言葉が胸を打つ。そうだ、なかなか続けてボールを蹴ることが出来ずにふてくされていた僕に言ったんだ。それまで気付かなかった当たり前のこと。その言葉は、その後、色んな場面で僕を励ましたのだ。
はじめから上手にいくやつなんかいだろ。
そうだ、今の僕もそうだ。柳田のことを諦めるには早すぎる。というか、まだ何もしてないじゃないか。はじめから上手にいかないのは当たり前だ。少年だった僕を励ました親父と、その少年の僕の声が今の僕を正してくれる。
言われなくても頑張るよ
僕は自分に向けて呟く。僕は柳田のあの笑顔をもっと見たいんだ。
恋に落ちた相手 オトギバナシ @MandM
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。恋に落ちた相手の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます