第2話 隣の男

深夜、隣の部屋から泣き声が聞こえてくる。

子供が泣くじゃくるような泣き方。

まったく、大の大人だろうに。


 私がここに引っ越してから1ヵ月が経とうとしている。まだ建てたばかりのアパート。家賃はそこそこ、風呂・トイレ別、ロフトもある、南向きで駅から5分ほどの非常に良い部屋だった。

 これでも一応女の身なので隣にどういった人が住んでるか気になるものだが、私が越してしばらくしてから入居してきたのが、今泣きじゃくる男だった。

 そして当初言う事なしと思われていたこの部屋が、彼が越してきてからそうでないことが判明した。

 壁が薄いのだ。思っていたよりも壁が薄いのだ。

 

 彼が引っ越してから毎晩のように彼女と思わしき人と楽しげに会話する声が、普通に話しているような時でも聞こえ、時にははっきりと単語まで聞き取れてしまうのだ。

 何故「彼女」かと言えば、明らかに彼が話す声のトーンが違うから。どうして恋人同士の会話はこうなんだろう?すぐそれと分かる話し方、分かるでしょ。毎晩長電話だ。それも深夜の1時くらいに。うるさいと同時に相当うらやましい。


 私は独り身だ。あえて今は、と言っておこう。私だって捨てたもんじゃないのだ。ここ2年くらい特定の相手がいないが、特に寂しいと思うことはない。強がりではなく、独りで楽しむ術があり、少ないが親しい友達もいるので付き合う相手がどうしても欲しいと思うこともあまりなかった。勿論たまにふと、カゼをひくように誰かいたらなと強く思うことはあったが。

 なのにこの隣の男ときたら、そんな私をあざ笑うかのように毎晩彼女と楽しそうに話をする。実に楽しそうだ。

 当初、隣の部屋で毎晩繰り広げられる電話での楽しげな声に自分の生活のペースが多少なりとも乱されてしまった。髪を乾かしている時に思わずドライヤーを止めて耳を澄ましたり、友達と電話をしているのについ隣の話に、実際は何を話しているのか分からない声に気を取られてしまったり、逆にテレビの音量を大きくして聴こえないようにする、などなど。

 うらやましい。

と、同時にこんなにも無防備な状態の声を聴くのはなんだかすごくいけない事をしてるようでドキドキした。勿論私は何も悪い事をしていない。聴いているのじゃない、聴こえるのだ。だからそんな風に思う必要は全くないし、それに私は迷惑なのだ。うるさい、うらやましい、別れてしまえ。

 私の願いが通じたはずはないだろうが、今まさに彼はそんな羽目に陥っている。少しぼそぼそと話すような声。私は、彼が珍しく彼女以外の誰かと話しているのかと思った。そして、彼がここに来てから1ヵ月弱の間に彼女以外の人と話をしていた事があっただろかとその時初めて考えた。

ない。

多分ない。少なくても私が知っている限り、彼が彼女以外の誰かと話をしているのを私は知らなかった。その事を知った私は無性に彼をかわいそうだと思った。彼には彼女の他に誰もいないのかもしれない。


 隣の部屋からでもイヤな雰囲気が伝わってくる。彼は汗をかいているだろうか?それとも血の気が引いているだろうか?私はその両方だった。私は関係ないのに。点けていた見てもいないテレビを消すと、一気に部屋は静かになって急に今隣で進行している事は紛れもなく現実だってことが実感出来た。私は冷や汗と血の気が引いて力が入らない身体を痛いほど感じていた。

 そして隣の人を思う。彼はどんな状態なんだろう。ドキドキした。ただのケンカじゃない。これまでもケンカしてる感じの時もあったけど、それでもこんなに緊迫した調子では全然なかったからだ。

 突然声にならない叫びともため息ともつかない音が響いた。きたか!直感的に彼が、彼女からどういう事を言われたかはっきり、間違いなく分かるほどの明確な絶望の音。きっと全身の力が抜けているんだろう。叫びが、声が、力なく彼の中に開けられた大きな穴に落ちていくように消えていくような声。

 私だって、フラれたこともある。フッたこともある。でもこんな悲しくて絶望的な声を上げたことも聴いたこともない。でもはっきり分かった。

 彼は今、大好きな彼女に別れを言い渡されたのだ。

大好きなって、これまで隣から聴こえてくる声の様子からは分かった。でも今あの声を聴いて、どれだけ彼女の事を好きだったか、大好きだったかがもう私の心臓に真っ直ぐ突き刺さるほどの明確さで分かった。彼は本当に彼女を大好きだったんだ。それを知った瞬間私はなんだか分からない嫉妬を感じた。彼女に対して?それとも彼に対して?分からない。両方かも。

そこまで彼女を好きな彼に対してか、それともそこまで好かれている彼女に対してなのか?分からない。でも彼の名前が無性に知りたくなった。そうだ、私は彼の名前どころかほぼ毎晩声を聴いているのに実際に彼を見たことがないのだ。


 彼は間髪入れずに声を上げて「何で!!??」と言った。声が大きいよ。耳を澄まさなくても聴こえるくらい。何でなんだろ?私も思う。ドキドキしながら。でもまだ冷やかし半分に。彼は問い詰めていく。なんで、どうして、ひどいよって。いつもののほほんと、こっちが腹の立つくらいの甘い調子じゃ全然なくて、するどく、厳しく問い詰めていく。余裕なんてかけらもなく、何か話していればどうにかなるんじゃないかって、何かを言ってないと崩れてしまうのを必死になって抑えているような、そして彼女が去っていこうとしてる現実に抗うような、そんな切迫感がひしひし伝わって、こっちまで息苦しくなってくる。

 寒いけど窓を開けなくちゃ、なんて思っていたら、一際大きな絶望を含んだ「ひどいよ」と声がして私は本当にビクっと飛び上がってしまった。今は夜中の1時だ。すばやく時計に目をやる私に、こんな切迫した時に時間を気にする自分が恥ずかしかった。

 そして彼は、とうとう泣きはじめた。彼の泣き方ははじめからすごかった。泣く。とにかく無防備に。抑えることなんて少しもなく。号泣だ。慟哭ってこういうことなんだろうな。

 私はうらやましかった。こんなに思い切り泣く彼が。こんなに泣ける彼が。そんなにも好きになる相手がいる彼が。そんなにも好かれていた彼女も。そして私はまた嫉妬した。私は彼のことがうらやましくなって、でもかわいそうで、私の中の母性が、自覚する機会がほとんどない母性が、その長い眠りから目を覚ましてしまうほどの強烈なパワーが薄い壁を乗り越えて飛び込んできた。私はそのことに動揺する。私は関係ないのに。無理にでも客観的になろうと努めて聴くようにしなくちゃいけないんだ。私は関係ないのだ。

 泣いたってことはつまり、彼は認めてしまったんだろうな。彼女が去っていく意志が変らないことを。そして変えられなかったことを。泣かないで頑張っていたけど、彼は認めざるを得なかったんだろうな。

 彼は泣き、帰ってきてくれと懇願し、何でと繰り返し、ごめんね、ありがとうって、ずっと呪文のように口走っている。泣くじゃくりながら。慟哭しながら。号泣しながら。

かわいそうだな。なんとかならないのかな。でもほんとに子供みたいに泣いている。大学生じゃなさそうだし、それなりの男の人がこんなにも泣くなんて。いや考えてみると人がこんなに泣けるとは。もしかしたらフラれたとかじゃないのかもしれない。普通こんなに泣かないだろう。きっと違う内容の電話に違いない。そう思うとこれまでの盛り上がりから急に気持ちが冷めていくのと同時に眠気が襲ってきた。いつまでも続く泣き声に背を向けよろよろと布団に入り込んだ私はカレンダーに目をやる。

あぁ、今日から12月なんだ。

こんな年の瀬に。

クリスマスまでもうすぐだって言うのに、彼はフラれてしまったんだ。

かわいそうに。

でも違うかもしれない。どうなんだろう?知りたい。本当の事が知りたい。

 隣の男の泣き声が布団に入った私の身体いっぱいに、私が眠りに落ちるまで静かに降り注いだ。しとしとしと。涙が私の中に染み込んでいく。

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