恋に落ちた相手
オトギバナシ
第1話
四月も半ばを過ぎ、桜の花も散り、新しい生活を踏み出した人たちの、ふわふわ、きびきびとした感じも少しだけ落ち着きを見せ始めた、それほど遅くないある夜。
駅のホームに傘を持つ男がいた。
雨は朝から降っていない。いつ雨が降ったか思い出せないが、ここ最近ずっと晴れだ。その男以外、誰も傘を持っていなかった。傘を持っているだけではない。今の季節には少し合わないヘリンボーン柄のツイードのジャケット、オックスフォードシャツにネクタイ、下はジーンズに黒の革靴という姿。一見お洒落でカジュアルであるはずが、全体の印象はとても古風だった。小柄でほっそりとした体形でありながら、均整がとれてしなやか、痩せているというよりはむしろ余分なものを削いで強い部分だけ残したような身体、三十代前半くらいに見える一方、遥かに年を経たようにも見える。
あべこべな印象を持っているのに、それを矛盾なくそのまま身に纏っている、不思議な男だった。
そんな男の手に、傘は気持ち良さそうに収まっていた。場違いなところにいるにもかかわらず、まるでそうであるのが全く正しいかのように。もちろんそれを持つ男も、持っているのがさも当然であるかのように、ごく自然に携えている。だから傘を持っていない人を、一瞬落ち着かない気分にさせる。彼を目にした皆がそうだった。スマホを見ながら歩く人がその男を目にする。すると、彼のあべこべで不思議な違和感が、見た人の意識を現実に引き戻す。自分が本来いるはずの現実に戻った時の、はっとした表情。雨が地面に、あるいは水面に落ちた時の水しぶきのような…。
その男の違和感は、目覚まし時計のアラームだ。スマホの向こうに広がるネットの世界、ゲーム、映像、耳に挿したイヤホンの音楽。現実から抜け出した人の意識を、現実にある脱け殻になった身体に呼び戻す。
そして何より、その男が持ついちばんの違和感、その場にいる他の誰よりも違っていたのは、今、ここにいるというその圧倒的な現実感だった。
そんな訳で彼女は、会社から帰宅するいつもの帰り道、ほとんど無意識に通り過ぎるだけの駅のホームで、その男にまっすぐ、恋に落ちた。
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