ベル・アペティ
――――――深い深い森の奥、小さな小さな赤い屋根の
まあるい窓と煉瓦の煙突、木で出来た扉と白い壁
花散るベッドに横たわるのはだぁれ?
深い深い森の奥、小さな小さな赤い唇の
まあるい瞳と煉瓦色の瞳、絹で出来たドレスと白い肌
花散るベッドに横たわるのはベル・アペティ
いつかお姫さまだった女の子――――――
北の山脈を越えて、もうひとつ越えて、そうして大きな川を越えた先に、昔、小さな国があった。
民の言葉を聞いて心を砕く寛大な王と、優しい言葉をかけて民を癒やす王妃、勤勉で国を良く見ている王子と、そして、小さな姫。
姫は
けれど、ベルはいつも怒っていた。
何故ならその国はそれほど豊かではなくて、大好きなお菓子をたくさん食べることが出来なかったのだ。
寛大な王は、可愛い娘がお菓子をねだるのは仕方がないことだと許した。
優しい王妃は、可愛い娘にいつかたくさんお菓子を食べさせてあげようと慰めた。
勤勉な王子は、可愛い妹がどうしたらお菓子をたくさん食べられるようになるのか考えた。
けれども、ベルはいつまで経っても大好きなお菓子をたくさん食べられないままだった。
ベルも本当は、心の片隅で理解していたのだ。
お菓子をたくさん食べられなくても飢えることがないのはとても幸せなことで、自分はとても贅沢なことを言っているのだと。
我が儘ばかり言ってはいけない。
そう考えることだって、ベルは出来た。
けれども、お城の人達は口々に言う――ああ、なんてお可哀想なベル姫さま。
ベルは、分からなくなった。
『わたしはかわいそうなの?』
そう呟けば、誰もが言う――ああ、なんてお可哀想なベル姫さま。
『わがままばかり言ってはいけないって、わかっているのよ』
そう呟けば、誰もが言う――ああ、なんてお可哀想なベル姫さま。
ベルは、分からなくなった。
けれど、わたしはかわいそうなんだわ、と思うようになって、そしてそれが、ベルをとてもいらいらと、つまらない気持ちにさせていた。
お菓子を食べられないのは嫌だけれど、可哀想可哀想と言われるのはもっと嫌。
自分で自分を可哀想だと思うのも、惨めな気持ちになってもっと嫌なのだ。
ある日、ベルが薔薇園の真ん中で、侍女のフレジエを従えてお茶を楽しんでいたとき。
大好きなお菓子をたくさん食べられないベルの楽しみは、銀のスプーンで、砂糖で出来た花の飾りがついたお気に入りの角砂糖を紅茶に四つ溶かすことだ。
本当は、ティーカップを持ち上げて紅茶を飲む以外は全てフレジエがやってくれるけれど、それだけは自分の手でするとベルは決めていた。
紅茶に花が三つ浮いている。
最後の一つをシュガートングで持ち上げようとしたベルはそこで、思わず動きを止めた。
「まぁ、これはなぁに?」
そっと呟いたベルの声は、少し離れたところに立つフレジエには届いていない。
ベルは角砂糖を紅茶に溶かすふりをしながら、それをじっと観察することにした。
紅茶に溶けるはずだった花を帽子に、ひょっこりと顔を出したのは角砂糖くらいの小さな小さな白い猫。
猫は顔を洗ってから、角砂糖を置いていた小皿の上でお座りをしてベルを見上げた。
賢そうなその顔を見ながらベルは紅茶を一口飲むけれど、いつもより角砂糖が一つ足りないからなんだか物足りない。
「こんにちは、ベル姫さま、ぼくは
「まぁ、しゃべったわ!」
「喋るに決まっているよベル姫さま、なにせぼくは砂糖猫ですからね!」
あまりにも自慢げに小さな胸を張って言うものだから、そういうものなのかしら、とベルは思った。
砂糖猫は、花の帽子を押さえてすっくと後ろ足で立ち上がる。
そして小皿の上で紳士のようにおじぎをした。
「親愛なるベル姫さま、ぼくは、ベル姫さまのお願い事を叶えるためにやってきたのです」
「わたしのおねがいごと?」
そうですともそうですとも、と、猫は歌うように言う。
ベルは、見たことはないけれどきっと、オペラはこういうものだろうと思った。
「ベル姫さま、ベル姫さまは、お菓子をいっぱい食べたいとお思いだ!」
自信満々に、さぁどうだとばかりに言う砂糖猫に、ベルはそのまあるい瞳をぱちりと瞬かせた。
どうして知っているのだろうと思ったけれど、お城の人達がベルを大事に大事にしてくれるからきっと伝え聞いたに違いない。
それか、砂糖で出来た猫だから、お菓子に関する事情に詳しいのかも知れない。
「ベル姫さま、もしたくさんのお菓子を食べたいなら、ぼくを紅茶に溶かして飲んでくださいな!」
「あなたを、とかしてしまうの?」
そうですともそうですとも、と、砂糖猫はまた言った。
きゅっと花の帽子を直して、にんまりと笑ってみせる。
「ぼくを溶かして飲んだなら、ベル姫さま、お菓子は全てあなたのもの! 全てがお菓子で、お菓子は全て、あなたのものなのです!」
「まぁ、すごいわ!」
「全て、全てがお菓子の世界! 全て、全てが覚めない夢の中! 朝、起きたなら蜂蜜たっぷりの紅茶を飲んで、そうして、
「まぁ、なんてすてき!」
「つまらないことなんか全て忘れて、今こそお菓子の世界へ飛び込むとき! さぁ、ぼくを溶かして飲んで、ベル姫さま!」
砂糖猫は、そう言うなり小皿から駆け出した。
ぱちりと目を丸くしたベルが止める間もなく、ティーカップに飛び込む。
ぽちゃん。
くるくると浮かんだ花の帽子も、少し経てば溶けて見えなくなってしまった。
テーブルの上に残されているのは、砂糖猫が駆け抜けた後に点々と落ちた砂糖の粒だけ。
ベルは、ううん、と唸って首を傾げた。
「あんまりおかしがたべたいから、ゆめをみてしまったのかしら?」
ベルはもう一度、ううん、と唸った。
テーブルの上のティーカップをじっと見つめて、そうして、また首を傾げる。
あんな夢を見てしまうなんて、今日はもうお部屋に戻ろうかしら、とベルは思った。
けれど、もし。
もし、さっきの砂糖猫が本物で、本当にお菓子がたくさん食べられるのなら。
高鳴る胸をそっと押さえて、ベルはティーカップを持ち上げた。
さっきより甘い香りがする。
「おいしい」
ほぅっと息を吐いて、ベルは呟いた。
花の香りが舌の上で踊って、そして温かさと共に下っていく。
柔らかな甘みがふわりと解けて、そして苦みと共に溶けていく。
夢のような心地だった。
目を閉じると、全てが砂糖で出来ているような気がしてくる。
かり、とティーカップに歯を立てれば、小さく欠けて舌の上で甘やかに溶けた。
薔薇の生け垣はきっと、ビスキュイの幹にヌガーやサブレの葉っぱがついているのだ。
花は何で出来ているだろう。
芝生は
目を開けて風に誘われるまま振り返ったベルは、少し離れたところにある大きな大きな
どうしてあんなところにあるのだろう。
そう思ったけれど、ベルはどうでも良くなってしまった。
今なら大好きなお菓子をたくさん食べられるのだと思えば、他のことなんかとても小さなことなのだ。
駆け寄ればフレジエが少しだけ動いたような気がしたけれど、それも小さなこと。
ベルは瞳を輝かせて、大きな大きなフレジエにかじりついた。
「おいしい!」
いつもなら、はしたないと叱られてしまうような食べ方だけれど、ベルはお構いなしだ。
どこかから絹を裂くような音がした気がしたけれど、やっぱりそれも小さなこと。
ベルはジェノワーズの芝生の上にフレジエを倒して、上だったり、下だったり、横だったり、好きなところからたくさんかじりついた。
どのくらいの時間が経ったのか、きっとまだ
いっぱい食べて、でも何故だかまだまだ食べられるような気がして、ベルは立ち上がった。
「あ、こんなところに! あっちにも!」
お城の中には、ベルが思った通りにお菓子がたくさんあった。
ベルは嬉しくなって、次々にかじりついていく。
シュクル・スフレの太陽が沈んでも、
どのくらいの時間が経ったのか。
何回も何回も太陽と月が追いかけっこをして、けれどベルはそれに気付かないままたくさんたくさん食べて、とうとうショコラ・ブランのお城も食べ尽くしてしまった。
そこでようやく、ベルは満足して座り込む。
ふかふかしていたはずのジェノワーズの芝生も、今はもうない。
「ううん、おいしかった!」
ベルはそう言って、まぁるく膨らんでしまったお腹を押さえた。
そうしてから、首を傾げる。
なにか、なにかとても大切なことを忘れてしまっているような気がするのだけど。
けれど、全然思い出すことが出来ない。
思い出すことが出来ないのなら、きっとたいしたことじゃないのだろうと、ベルは思うことにした。
「すこしねむって、そして、またおかしをたべるの」
ベルはその場で横になった。
空にはボンボンの月と星が輝いていてとても綺麗なのに、お腹はお菓子でいっぱいなのに、何故だか寂しい。
頭を撫でてくれる手がいつかはあった気がするのに、ベルはそれがいつのことで、誰の手だったのか思い出せなかった。
どうしてだろう。
ベルはそう呟いて、眠りに落ちたのだ。
「ああ、なんてお可哀想なベル姫さま」
白い三角の耳を震わせて、それは言った。
にんまりと笑って、小さな身体で眠っているベルの周りを駆け回る。
「ああ、なんてお可哀想なベル姫さま」
花の帽子をきゅっと直して、それは言った。
力なく首を振って、真っ赤な海の真ん中で眠っているベルの周りを歩き回る。
「
「もっと早く気付けたら」
「失わずに済んだのに!」
にゃにゃにゃ、と砂糖猫が笑う。
にゃにゃにゃ、と砂糖猫が泣く。
「お可哀想なベル姫さま、大きな国の王さまが、この国に目を付けなければ、ぼくが君に気付かなければ、周りが君を哀れまなければ、こんなことにはならなかったかもね」
にゃにゃにゃ。
「さぁて、掃除をしなくちゃ」
ぽん、と軽い音を立てて、砂糖猫は姿を消した。
眠ったままのベルを抱き上げる男の腕があったけれど、ベルは当然気付かない。
気付かない内に森の中の小屋の中、花散るベッドに寝かされた。
甘い香りが漂っている。
ベッドの上の花達が、砂糖菓子の花だからだ。
「おやすみ、お可哀想なベル姫さま。君の国があった場所は、ぼくの王さまがちゃあんと面倒を見ますからね。ベル姫さまは安心して、ずっとずっと、覚めない夢を見てくださいな!」
にゃにゃにゃ。
――――――深い深い森の奥、小さな小さな赤い屋根の
眠り続けるのは
いつかお姫さまだった女の子――――――
PostGoth~鳥籠姫の謌 相良あざみ @AZM-sgr
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