【最終話】さよなら、ほずみ先生

「最後に……この三十年間、僕はかけがえのない人達と出会い、そして別れてきました。……中にはもう二度と会えない人達もいるけど。だけど彼らと交わした約束が、僕をここまで引っ張ってくれたんだと思います。彼らが、そして君達がいなければ僕はここまでやってこれなかった。だから僕が今日ここを去る時に言う言葉は、やはりありがとう、というもの以外見当たらないかな。……皆、ありがとう」

 そう言うと、八月一日ほずみ先生は深く長く頭を下げました。

 八月一日先生が司会の教頭先生を見ると、教頭先生は頷いて「それでは改めて、八月一日先生、三十年間お疲れ様でした」と話し、その言葉を合図に生徒達と先生方、そしてわたし達OB・OGは一斉に拍手を八月一日先生に送り、先生は体育館の舞台から降りられました。

 万雷の拍手の中、八月一日先生は一人一人にお礼をするように何度も小さくお辞儀をしながら、花束をぎこちなく抱きかかえて体育館の真ん中の、生徒達の列の間を進みます。そして生徒達の列を抜け、奥に控えていたわたし達の前まで来るとまたお辞儀をして、またかつての教え子一人一人に視線を送り、その存在を確認しながら八月一日先生は体育館を後にしました。その後ろ姿は、あれから何十年も経つというのに、まったく変わらない、相変わらずの八月一日先生のモノでした。力強くもなく、でも弱々しくもなく、何だかいつだって後ろから押してあげたくなるようなそんな背中で、そこに抱きついた時の感覚を、わたしはまだ昨日のように覚えています。

 体育館の扉から外に出た八月一日先生が校庭を歩いていくと、誰かがHADを使ったのでしょう、その先生の歩みに合わせて桜の花が一斉に、早送りのように咲き始め、まるでライトアップされたみたいに校庭が桜色に光り、その光景に大歓声が上がりました。

 先生はも驚いたようで、「君達ぃ、だめだろ……。」と、そんなしょうがない感じの笑顔をでこちらを振り返ります。

 八月一日先生のHADは昔と違い徐々に失われ、今ではほとんど普通の人としてこの学校に勤められていたんです。本当に何も出来ない、ただの普通の人として。でも先生が昔わたし達におっしゃってくれたように、HADが八月一日先生を八月一日先生にしていたんじゃないんです。先生にもし特別な才能があるとしたら、先生がおっしゃられるように、みんなが先生に引っ張られるのではくて、みんなが先生を引っ張ってあげたくなるような、そんな魅力だったんじゃないでしょうか。この人のためなら頑張ってみたい、そう考えたことがあるのはわたしだけじゃないはずです。そしてその気持ちが、あの頃のわたしたちを支えていました。

 先生は昔も今も、何度もわたし達に謝って感謝ばかりしていたけれど、けれどやっぱり私達の方も先生に伝えたいことは、この一言なんだと思います。

 

 ありがとう、そして……

 

 さよなら、ほずみ先生


 

 八月一日は学校を去った後、郊外の寺にある無縁仏を訪れていた。

 その墓はかつて、人類の敵とまで目された人間のものだった。

 墓前で手を合わせると、八月一日は長く黙祷する。

 経堂中学の生徒達と蒼海学園の教え子たち、瞼の裏で自身の人生を振り返りながらの黙祷だった。

 目を開けると八月一日は墓標の文字を、薬指と小指が無くなった左手でなぞりながら何かを話しかけ、まるで墓がそれに応えてくれたように頷いた。

「お久しぶりです、八月一日先生。いらっしゃると思いました」

 そう言って現れたのは、八月一日よりも一回り年配の住職だった。

「ありがとうございます、掃除してくれてたんですね……。」

「貴方の頼みですから……。」

 その住職も墓前まで来ると軽く手を合わせ黙祷した。

「終わりましたね……。」

 黙祷を終えた住職が言う。

「……そう言ってしまっても、良いんでしょうか?」

「……良いんじゃ、ないですか?」

 住職は八月一日を見て「そうすべきですよ、もう終わったのだと、言ってあげるべきです」と付け加えた。八月一日はそれを受けて目を細め、(「さよなら、ほずみ先生」か……)と苦笑いをしながら心の中で呟いた。そしてその時、八月一日は自分の手からいっさいの力が失われたことを感じた。

「……皆、誰しもが芝庭なんでしょう。何かを損ないながら、そしてそれから回復しようともがき続ける。芝庭真生しばにわ まことは、そんな人間の業そのものだったと思うんです」

 八月一日は顔を空に向かって上げると、「そうだろ、芝庭……」と住職が辛うじて聞こえるくらいの声で呟いた。

「不思議ですね……。」

「はい?」

「空がとても綺麗です」

「……ええ」

「……空は、空がこの色を選択したわけではありません。ましてや綺麗に見せようと思ったことなど一度もないはずです。なのに、これほどまでに心を打つ……。」

 二人の上には、硬質さを持っているような蒼穹の空が広がっている。それは決して爽やかではなく、ただ深く、何の意思を持たずに彼らを覆っていた。


 芝庭事件、あの出来事によって多くのものが損なわれた。それは、98名の命だけではない。彼らにまつわる人々から、そしてこの国からは、あの事件以来、取り戻せないものが損なわれていた。

 しかしそれでも、取り戻せないものを取り戻すため、取り戻せないものを忘れるため、またその代わりを見つけるために人は歩み続ける。喪失に身をやつすのは、ただ緩慢な死を迎えることでしかないからだ。

 実に半世紀近い時を要した。永い時間の中で、歩む者たちは着実に回復し獲得し、更に次の者がそれを引き継ぎ、それは過酷な環境で種子を残そうとする植物のように今もなお飛散し続けている。

 そして今日、歩み続けた一人は、決して歴史に名を刻むことなく、その舞台から静かに降りていった。

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さよなら、ほずみ先生 鳥海勇嗣 @dorachyan

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