candy store企画参加作品集

神村律子

アイスクリームの女とバツイチの男

 私はバツイチ子なしの中年サラリーマン。


 妻に離婚届を突きつけられ、売り言葉に買い言葉で判を押した。


 そして、妻が出て行って一週間と経たないうちに後悔した。


 箪笥のどこに何が入っているのか、全くわからない。


 洗濯機の動かし方がわからないし、風呂の沸かし方も謎だ。


 自分でも情けない男だと思う。


 しかし、だからと言って、元妻(すでに法律上はそうだ)に頭を下げて、


「やり直したい」


などとは、口が裂けても言いたくはない。その程度のプライドは心の片隅にあるのだ。


 更に悪い事に、何も考えずに離婚してしまったため、元妻の住所すらわからない。


 当然、携帯は番号を変えられ、勤務先も変わっていた。


 ご丁寧な事に、


「教えないで欲しいと言われています」


と前の勤務先の事務員に言われた。癪に障ったが、どうする事もできない。


「くそ」


 私は携帯に毒づき、キッチンのテーブルの上に投げ出した。


 床にはカップめんの容器の残骸がこれでもかという具合に散乱している。


 少し臭い始めているものもあるようだ。


 今気づいたが、ゴミの日もわからなかった。自分の生活能力の低さに唖然としてしまう。


 イライラしたのでタバコを探したが、ズボンのポケットには空箱が入っているだけ。


 買い溜めしておいたのはわかっているが、それをどこにしまったのかがわからない。


「何だってんだよ!」


 更にイラつき、ゴミ箱に空箱を叩きつけた。


 するとそのせいでゴミ箱が倒れ、中にあったものが溢れ出てしまった。


 それを片づけるなんて考えもせず、私は家を出た。




「寒いな、これじゃあ」


 私はTシャツ一枚で出てしまったのに気づいた。


 いくら桜の開花が始まっているとは言え、こんな薄着で外を歩いているバカはいない。


「タバコを買うだけだから、いいか」


 戻って服を着るのも面倒だったので、そのまま歩き出す。


 ところが、その日はとことんついていなかった。


 いつも使っている自動販売機が故障中なのだ。


 私は仕方なく、そこから一番近いコンビニを目指した。


 段々、体温が奪われていく気がする。


 若い時なら、これくらいの薄着はどうという事はなかったのだが、歳をとるとはこういう事なのか、と妙な感慨に耽ってしまう。




 コンビニに入る。


 私の薄着は奇異なのか、それとも自意識過剰なのか、客の視線が集まっている気がしてしまう。


 ついでに飲み物を買おうと思い、店の奥へと歩き出す。


 その時、若い女性が買い物籠いっぱいにアイスクリームを入れているのを見かけた。


 数が尋常ではない。十個どころではないだろう。カップのもの、棒のもの、モナカ系と様々。


 三十個はあるのではないだろうか?


 よく見ると、奇麗な女だ。大きくて黒目がちな瞳、高い鼻、魅惑的な厚い唇。


 アイスクリームを好む女性は多い。


 元妻も、夏は毎日食っていた。


 そのせいかどうかわからないが、あいつは夏太りしていた。


 それにしてもだ。数が多過ぎる。まさか、彼女一人で食べるのではないだろう。


 もしそうだとしたら、あの細い身体は凄い。何故太らないのかと訊きたくなる。


 それとも、大家族なのだろうか? 家族全員がアイスクリーム大好き人間で、大量に買い込まないといけないとか。


 そんな事を空想しながら、私はあるメーカーの缶ビールを一本だけ冷蔵室から取り出した。


 レジに進むと、さっきの美人が買い物籠を台の上に載せていた。


 重そうだ。店員が思わず手を貸した程だった。


 彼女の後ろにつくと長くなりそうなので、私は隣のレジを選んだ。


 缶ビールを台の上に置き、タバコの番号を告げる。


 そして、ズボンの尻のポケットに手を伸ばす。


 血の気が引いた。財布を忘れた事に気づいたのだ。


 いい大人が、財布を忘れたので商品を戻して帰るのか?


 今度は恥ずかしさで顔がドンドン紅潮して行くのを感じた。


「お客様?」


 レジの店員は不思議そうに私を見ている。


 私は苦笑いして、頭を掻き、


「その、財布を落としたみたいで」


 店員の顔が一瞬だけ、不機嫌そうになった。


「私が立て替えましょうか?」


 まだレジが終わらない「アイスの君」が言った。


 私と店員はほぼ同時に、


「え?」


と彼女を見た。彼女は微笑んで、


「困った時はお互い様ですわ。どうぞ」


と千円札を私に差し出す。


「さ、遠慮なさらずに。レジがつかえていますよ」


 ハッとして後ろを見ると、二人の客がムッとした顔でこちらを見ていた。


「あ、はい、ありがとうございます」


 私は「アイスの君」が貸してくれた千円で支払をすませ、脇にどいた。


 そして、「アイスの君」のレジが終わるのを待った。


 しばらくして、ようやく支払をすませた「アイスの君」が大きくて重そうなレジ袋を二つ提げて私に近づいて来た。


「どうもありがとうございました。お金をお返ししたいので、連絡先を……」


 私は恐縮しきりで尋ねた。すると「アイスの君」は、


「それなら、このアイスを私の家まで運んで下さいな」


「あ、はい」


 貴方は昔から美人に弱い。


 元妻の言葉だ。


 確かにそうかも知れない。


 お近づきになりたいとは思わなかったが、どこの誰なのかくらいは知りたかったので、二つ返事だった。




 彼女の家は高層マンションだった。二十階建てだ。


「それにしても、たくさん買われましたね」


 レジ袋の重さで、肩が悲鳴を上げそうだったが、何とか作り笑顔で言った。


「ええ。これから暑くなりますから、たくさん買っておかないと」


 「アイスの君」の名前は、東海林しょうじ慧璃茄えりな。随分と難しい字を書く名だが、何となくエキゾチックな彼女の雰囲気に似合っている。


「なるほど」


 暑くなる? まだ春先だぞ。随分気の早い人だな。


 玄関で袋を渡して帰ろうと思ったが、


「是非、お茶でも」


と言われ、さも申し訳なさそうに中に入った。


「突き当りがキッチンですから、そこのテーブルの上に置いて下さい」


 私は奥へと歩いて行き、テーブルの上にレジ袋を放り出すように置いた。


 これで住んでいる場所がわかったから、すぐにでも財布を取りに行って、借りた金を返そう。


 そう思ってキッチンを出ようとした時、


「ねえ」


と慧璃茄さんに後ろから抱きつかれた。


「貸したお金の返済方法、私が決めていいですか?」


 むにゅうと何かが押しつけられる。彼女、細身の割には胸が大きいようだ。


 鼓動が高鳴る。呼吸も荒くなる。汗が噴き出す。


「は、はい」


 嫌ですなどという返事はあり得なかった。


「お風呂、先に入ってて下さい。後から行きますから」


 耳元で囁かれ、身も心も蕩とろけそうだ。


 私は言われるがままに行動した。


 キッチンを出て、バスルームに行く。


 真昼の情事か。顔がにやける。


 我が家のユニットバスとは大違いで、浴室は広々としている。


 脱衣所でそそくさと服を脱ぎ、浴室に入る。


「あれ?」


 風呂が沸いているにしては、中はヒンヤリしていた。


「沸いてないのか?」


 私は浴槽の蓋をどけた。


「え?」


 そこには、大量のアイスクリームに埋もれるように、完全に息をしている様子がない裸の男が目を見開いて寝かされていた。


「ぐ!」


 後頭部に硬いものが振り下ろされた。一瞬、意識が飛びそうになる。


 私はよろけて、浴槽に倒れ込んだ。


 背中に当たる冷たい塊。


「ほら、さっき貴方が運んでくれたアイスクリームよ。これで貴方の身体を冷やすの」


 慧璃茄さんの声がした。


「夏が来る前に、よく冷やして頂くわ」


 頂く? 食べるのか、私を……?


 大量のアイスクリームに埋もれたせいか、頭が働かない。


 いずれにしても私はもう……。

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