鏡の中
楠 薫
第1話
不思議な夢を見た。
周り一面100枚ほどの鏡に囲まれ、僕は暗闇の中、宙に浮いて横たわっている。僕が顔を上げると、一斉に鏡の中の僕が顔を上げる。振り返ると、みんな一様に振り返る。実際に鏡に映っているのならあり得ない話なのだが、足もとの鏡に映る僕も、頭の上の鏡に映る僕も、まるで写真をコピーして貼り付けたように、同じ見え方をした。
その鏡の中を、10歳くらいの女の子が次から次へと鏡を伝うように走って行く。
「私を捕まえて」
僕は鏡の一つに手を伸ばした。
クスクスクスクス……。
少女が笑っているのだろうか。後ろ向きに走り去って、次第に遠ざかっていく。そして笑い声も次第に小さくなっていく。
「ま、待ってくれ」
僕はさらに手を伸ばした。
指先が鏡に届こうとしたまさにその時、パリンと音を立てて鏡が一枚、砕け散った。
僕はハッとなって目を開けて上半身を起こした。まるで、鏡に映った自分のように。
「どうしたの?」
足を絡ませ、僕の左腕を枕にしていて寝ていた美紀が目を覚まし、露わになった胸元にタオルケットをたぐり寄せる。
「あ、ごめん。ちょっと変な夢を見たもんで……」
「どんな夢?」
「10歳くらいの女の子が、鏡の向こうで、 私を捕まえてって言って、走って行くんだ」
「それって……」
美紀は頬を染めた。そして伏し目がちに言った。
「ひょっとしたらお告げ、かも」
「お告げって?」
長い髪を掻き分け、顔を上げると真っ直ぐ僕の顔を見た。
「私、妊娠したんだと思う」
美紀は僕の手を取ると、少し汗ばんだ下腹部に僕の手を押しつけた。
「ここがほんのり暖かいの」
そりゃ、一晩に5回もすりゃ、熱くもなるだろう、と言いかけて押しとどめた。
「たぶん、女の子。そんな気がする」
美紀は体を起こすと、僕の首に手を回し、口付けをして再び僕の体を求めた。
「あまり激しくしないでね。赤ちゃん、流れちゃうかもしれないから」
僕はうなずくと、横向きに体勢を変えて美紀の腰に手を回した。
*
分娩室の中は空調が効いて、僕にとっては少し肌寒いくらいだった。
美紀は苦痛の表情で僕の手を力一杯握りしめる。その手を包み込むようにして僕は美紀の苦痛に満ちた表情を見つめた。
「ううんっ」
美紀は上半身を仰け反らせる。僕は握るその手に力を込めた。
少し間を置いて、分娩室に赤ん坊の泣き声が響き渡った。
男と見まがうほど逞しい体格をした看護師が、僕と美紀の目の前に赤ん坊を抱きかかえてやってきた。
「元気な女のお子さんですよ」
体中まだ濡れていて、猿のようにしわくちゃな顔をした赤子だった。
「うん」
僕はうなずいた。そして微笑む美紀の頭を撫でた。
「よく頑張ったな」
疲れたのか、美紀は微笑みを浮かべながら、ゆっくり目を閉じた。
僕の耳の奥でパリンと何かが割れる音がしたが、それが何なのか、その時の僕にはわからなかった。
*
その夜はすき焼きだった。
箸を置くと、僕は小さく溜息をついて周りの3人を見回した。
「あなた、どうしたの?」
さすがは僕の妻だ。美紀はいつもと違う僕の様子に気付いていたようだ。
「ん? ちょっとな、みんなに話したいことがあって……」
「また引っ越しは嫌だよ」
息子の翔が肉に箸を突き立てながら言った。
「私もヤよ。やっと新しい中学、慣れてきたとこなのに」
娘の有希は視線を逸らすと、母親に懇願の視線を送った。
「実はな、また転勤の話が出て……。今度はフィリピンのマニラなんだ」
「やりぃ、外国暮らしだぜ」
「引っ越しは嫌なんでしょう、バカ翔。それにフィリピンて言ったら、地震や津波は凄いし、治安も悪くて、翔なんかが行ったら、真っ先に死んじゃうんだから」
肉を掴んだまま、息子は固まってしまっていた。
「ごめんなさい、あなた。私もようやく落ち着いたばかりで」
「ああ、わかっている。支店長になって、やっと落ち着けると思ったら、一年足らず、だもんな。そこでなんだけれど、これを機に独立しようと思うんだ」
ふぅ、と大きくため息をついて美紀は箸を置くと、食堂を出て行った。
気まずい雰囲気が漂い、残された三人は黙ってしまうしかなかった。
「父ちゃん達が離婚したら、俺、飯の食いっぱぐれがない父ちゃんについて行くからな」
横で有希が力一杯、翔の膝をつねった。
「いてっ、痛えなぁ」
翔は有希の腕を叩いた。
美紀が食堂に戻って来て、机に通帳と印鑑を置いた。
「ここ数日、何となく変だな、とは思っていたんだけど……。これ、使って」
通帳を手に取り、僕は驚いて目を見開いた。
「こんなに……」
「あなたのボーナス、この10年間、全部貯めておいたの。いざと言う時のために」
家が一軒買うことができるほどの金額だった。ボーナス以外にも、毎月、数万円ずつ積み立てられていた。おそらくは落ち着いたら家を買うつもりでいたのだろう。
「他に買いたいものがあったんじゃないか」
美紀は小さく微笑むと、頭を振った。
子供達が寝静まった頃、珍しく美紀の方から体を求めた。しかも、ダブルヘッダーだった。
「これくらい体力があるのなら、まだまだ大丈夫そうね」
「こいつ!」
僕は嬉しかった。そして互いに横になって向かい合ったまま、膝を開かせて三回目に挑戦することにした。
それからどのくらいの時間が経っただろうか。また、あの夢を観た。
暗い空間の中、40枚ほどの鏡に囲まれ、宙に浮いているのだ。振り返ると、一斉に鏡の中の自分が振り返る。その中に鏡を伝うように走って行くあの少女の姿を認めた。
「私を捕まえて」
少女の走り去る方へと手を伸ばす。
「以前にも同じような光景を見た気がするが、昔の方がもっと鏡が多かったような……」
鏡に手が触れようとした瞬間、パリンと音を立てて、鏡が割れて砕け散った。
僕は目を覚まして顔を上げようとした。しかし僕の右腕は美紀の露わな胸元にしっかと抱き寄せられ、気持ちよさそうに小さく寝息を立てている美紀を起こすのが躊躇された。
二人も子供を産んで、もう間もなく40歳に手が届くというのに、乳房や肌の張り具合といい、ウエストのくびれ具合といい、まだ30台前半と言っても誰も疑わないほどのスタイルだった。
あれって、お告げ、なのだろうか。二人目の翔の時にはこんな夢は見なかったはずだが……。また美紀は妊娠したのだろうか。まぁ、年齢は離れているが、三人目ができてもいいじゃないか。食うに困ることはあるまい。
僕は自問自答すると、再び目蓋を閉じた。そして今度は夢も見る間もなく、深い眠りに落ちていった。
*
息をするのも億劫だった。
薄目を開けると、傍に幾人か、僕を覗き込むようにしていた。どうやら僕はベッドの上に横たわっているらしい。
「美紀……」
なんてか弱い声なんだろう、と我ながら情けなかった。
「私は有希よ、母さんは……」
「違うよ。母さんが迎えに来たんだ」
聞き覚えのある声だった。
ああ、そうだ、息子の翔の声だ。それにしては、えらく野太い声だな。まるで僕の声、そっくりだ。
ドアが開く音がして、誰かが入ってきたようだ。顔を向けて確かめたかったが、どうも体が思うように動かなかった。
「社長、会長の具合はいかがでしょうか」
「今晩が峠だろう、とさっき先生が言っていたよ」
峠? 何のことだろう。
僕は考えようとしたが、それ以上、思考を巡らすことができなかった。
「それより前島副社長、坂上専務と明日の株主総会の準備、怠りなく、な」
翔の声だ。明日の準備、おお、そうだ。株主総会だったな。こうしちゃいられない。
僕は体を起こそうとしたが、情けないことに、指一本、動かすことができなかった。
「は、はい、社長。すでに専務がスライドの準備と原稿を用意して、社の方に待機しております」
少し間があった。
「今日は無理だ。ひょっとしたら明日も……。株主総会、前島君にお願いできないかな?」
間髪を入れず、声が響いた。
「何を言っているんです。あなたは社長でしょう。あなたが総会に出なくてどうすんの。父さんから叱られるわよ」
女の声だった。ああ、そうか、これは有希の声だ。
「そんなこと言ったって姉さん……。母さんの時だって、仕事で飛び回っていて看取ることもできなかったし……」
そうだ、美紀はもう死んだんだった。僕もアメリカに行っていて、最期を看取ってやることができなかった。だが、美紀のことだ。きっとわかってくれたに違いない。
僕は目蓋を閉じた。
大きな鏡が一枚、目の前に浮いていた。
「私を捕まえて」
ああ、あの少女だ。君はちっとも変わらないな。
「私を捕まえて」
少女は鏡から顔を突き出すようにして、真っ直ぐ僕を見て言った。
僕は全身の力を込めて手を伸ばした。
なんて皺くちゃな腕だろう。
クスクスクス……。
少女が笑っているのか? 何を笑っているのか?
僕は確かめたかった。
目の前には少女の顔があった。僕はその頬に触れた、いや、触れた気がした。
指先が鏡を通り越して、僕は鏡の中に吸い込まれるようにして少女の傍に降り立った。
いや、正確には少女と共に宙に浮いていた。
僕は少女の手をそっと握った。
「ふふふ……。やっと捕まえてくれた。でも、ちょっと遅かったみたい。あなたの魂は、もう元の世界に戻れないみたいよ」
僕は振り返った。
そこは病室だった。
こちらからは窓の外から室内を覗き込むかのように、向こう側の様子が見えた。あるいはマジックミラーを通して、隣の部屋を覗き見ているとでも言ったらよいだろうか。
その部屋では心電図計のアラーム音が鳴って、赤いランプが点滅していた。
白衣を着て聴診器を持った、医師と思われるデコボコ・コンビの二人が心電図を凝視していた。おもむろに若くていかにもまだ駆け出しという雰囲気を漂わせた、背が低い方の一人がベッドの上に横たわる患者に視線を戻すと、慣れない手つきで目蓋を指でこじ開け、ペンライトを照らす。そしてまるで一音でも聴き逃さないような丁寧さで、聴診器を胸に当てていた。
その体は年老いていた。痩せ細り、髪も薄くてほとんど白髪だった。そして、息をしていなかった。
僕じゃないか!
何をしている。人工呼吸だ。いや、その前に心臓マッサージだろう。早くしろ、医者が二人もいて、何でなにもしないんだ。
若い医師が首に指先をあてる。そして頭を振ると視線を腕時計に移した。
「午後、10時2分。永眠されました」
そう言うと頭を下げた。
指導係の医師だろうか、年配の医師もゆっくりと頭を下げた。
続いて、居合わせた全員が頭を下げた。
パリン、と音を立てて鏡が割れた。同時にそれまで見えていた向こうの世界が砕け散った。
僕が掴んでいたはずの少女の姿はいつの間にか消えていた。僕の体も星がまたたく闇の世界に溶け込んでいくように人の形を失って、靄のようなものが漂っているだけだった。
天空にはオーロラのような巨大な光の帯が輝き、揺らいでいた。
声はその中から聴こえてきているようだった。
「人型が時空の境界を超えてこちらの世界に来るなんて、奇跡ね」
少女の声だった。いや、実際には声ではなく、そのように認識される、意識体による電流変化が僕の脳に直接伝わって聴こえてきていると言った方がいいだろう。もっともその時には僕には脳と呼べるものは存在していなかったのだが。
「実験は成功だね」
男の子の声のようだった。実際には男の子の声のように聴こえる電流変化なのだろう。声が聴こえるような時には、光の帯が揺らいでいるようにみえた。
「この魂魄を繰り返し数世代人型に移植して行けば、肉体のまま時空の壁を超えることが出来るようになるかもね」
「あの空間ではこの魂魄は人型になったけれど、他ではどうかしら」
「魂魄が人型になるとは限らないからね。あの空間において生物界の頂点である人型になっただけでも上出来なのに、時空を超える能力を手に入れるって、今までより数段、難しいんじゃないか。でも、ここまでできたんだ。可能性はないわけじゃない。この空間の生命体が住む惑星が恒星に飲み込まれる前までに時空を超えることができる人型、頑張って作れよ」
「うん、ありがとう」
二人の意識体はハイタッチして扉を開けた。扉のさらに奥の光の中へ二人が入っていくと、ギ~ッと音を立て、バタンと扉が閉まったようにみえた。そしてブラウン管テレビが消える時のように、ブン、と鳴って全てが真っ暗になり、辺りは漆黒の闇に包まれた。
鏡の中 楠 薫 @kkusunoki
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