第5話 禍福はあざなえる縄のごとし

 その日は朝から散々だった。

 と、桜は立腹していた。

 大雨なのはまだいいとしても、トラックに水をかけられそうになるし、それでなくてもせっかく穿いてきたストッキングはびしょびしょに濡れていた。


 学校では課題を家に忘れてきたことに気づいて頭を抱え、授業中には苦手の英語で先生に訳文を当てられてしまった。

 あげくには楽しみにしていたお昼の購買で焼きそばパンを目前で買い逃すなど、今日は厄日に違いない、と桜は一人力説するのだった。


 そういえば、朝、出かけに見てくる今日の占いでも、桜の星座は運勢が最悪だった気がする。

 こんなもの信じているわけではないが、それでもこう嫌なことばかり続くと気分のいいものではない。



 こうなれば楽しみはもう放課後の睦月との読書会だけだった。

 睦月に背から抱かれながら、落ち着いたアルトの声で耳元に囁かれるのは、桜にとって何者にも代え難いご褒美でもある。

 首を長くして待った放課後がやってくると、桜は急いで文芸部へと向かった。



「えへへへ。睦月、睦月っ。今日もお話を聞かせてくださいね」

 当然、桜の方が先に部室に付き、睦月が後からやってくると待ちきれない子供のように満面の笑顔を向けて睦月の手を引っ張った。


「おいおい、なんだかご機嫌だね。いいことでもあったのかな」

「睦月に会えたのが今日一番嬉しいことですよ」

 桜がブルーだった理由も知らない睦月はいつものように苦笑するが、桜にされるがまま引っ張られていく。


「そんなに慌てなくても本は逃げないよ」

 いつも読む本は睦月が選んでいたが、今日に限っては桜が適当に本棚から引っ張りだした。

 タイトルも作者もよく確認しなかったが、睦月の声で読んでもらえればどんな駄作でもベストセラーになる。


 いつもの定位置に座って——つまり、睦月の膝に桜が座って——睦月の朗読が始まるのを待った。

 本のタイトルを見た睦月は一瞬、手を止めたが、すぐに表紙をめくって、いつものように桜の耳元で読み聞かせ始めた。



(あ、あれ……、これって……!)

 なんの変哲もない始まりでは気づかなかったが、すぐに熱い男女の恋愛物であることに桜は気づいた。

 普通なら恋愛小説を読んでも心が躍るだけではあるが、睦月の声で読み聞かせられるなら話は別だった。


 睦月の声で愛をささやかれるのだ。

 それも耳元のすぐそばで。

 しかも、睦月が感情を込めて読んでくれるものだから、まるで自分に対して愛を語りかけてくれるかのように聞こえてしまう。


(これはまずいことをした……)

 そういえば、睦月が恋愛小説を朗読に選んだことはなかった。一人で読んでいる時はけっこうそういうものを読んでいた気がするというのに、である。

 きっとこうなることがわかっていたから避けていたのだろうし、睦月が最初に本を見た時に一瞬、戸惑ったのもこれがそういう本だったからだと桜はようやく気づいた。


「好きだよ」

「愛してる」

 愛の言葉を耳元で囁かれて桜は顔を真っ赤にしていた。

 恥ずかしいということもあるが、睦月にこういうことを言わせて恥をかかせたのではないかという疑問が一番恥ずかしかった。


 いっそのこと、

「ごめんなさい、本を間違えました。これはヤバいです。中止にしましょう!」

 と言えればいいのだが、桜は恥ずかしさとともに、睦月に愛を囁かれて心がとろけるような高揚感を覚えていた。


(こんなの……無理だよぉ……)

 ただ読み聞かせてもらっているだけならまだ我慢できたかもしれない。今の状況は睦月の膝の上に乗っかり、ほとんど睦月に背中から抱きしめられているのと同じ状況だった。


 睦月のぬくもりと柔らかさを背中に感じるとともに、桜の心臓の高鳴りさえも睦月に聞こえているのではないかと桜は懼れた。


 そうこうしているうちに、物語はキスシーンを迎えていた。

 感動的な場面で愛し合う二人が熱いキスをかわしている。

 桜は自分がヒロインになり、睦月を主人公に当てはめて、頭の中で本の中と同じように睦月とキスをしている妄想をしていた。


(あぁ……もうだめっ……)

 のぼせるように睦月の体にもたれかかり、自然と彼女の方へと顔を向けてしまった。

 紅潮し、半開きになった口からは熱い吐息が漏れ、虚ろな目で睦月を見る。

 睦月はそこまで真っ赤にはなっていなかったが、それでも少し照れくさそうに桜を見つめ返すと、優しく目をつむって顔と顔を近づけてきた。


(えっ?)

 桜が驚いた時には既に睦月の唇と自分の唇が重なり合っていた。

 睦月の弾力があり柔らかい唇の感触を知った瞬間だった。

 物語のようにディープなキスではなかったが、紛れもなくキスをした瞬間だった。


「睦月ぃ……」

 その時、桜は抗議をすべきなのか、大げさに驚くべきなのか、それとももっとねだるべきなのか、よくわからなかった。


 一瞬というには長い触れ合いが終わり、睦月は目を開けて桜を見つめると、すぐにしまったという顔に変わった。

「ごめん、つい……」


 なにか謝られることをされただろうかと桜は疑問に思う。睦月との……キスは気持ちよかったし、もっとしたいと心から思っていた。

 どうして睦月はすまなそうな顔をするのか。そんな悪いことをされただろうか。むしろ、謝るとしたら唇を離してしまったことへではないのか。


 いろいろなことが桜の頭の中で巡っていたが、単純に唇を突きだして意思表示をした。

「睦月……んっ」

 もっと、とねだっても、睦月はすぐに唇を合わせてはくれなかった。

 また困惑したように苦笑し、天井を見つめてため息をついてから桜に言った。


「していいの?」

「うん……。睦月に……してほしい……」

 その意味を詳しく考えずに、ただ睦月ともっとキスをしたいという気持ちだけで桜は目を閉じた。


 視覚を遮断してすぐに、再び睦月の唇の感触を感じられた。

 ふわっとした柔らかい睦月の唇。

 甘噛みするように上唇と下唇で挟まれ、また離れる。

 もっと……と、切望しているうちにまた睦月の唇が重なり。今度は桜から睦月の唇をんだ。


 キスを繰り返しているうちに、桜の胸の中は熱いものがこみ上げてくる。

 これがどんな感情なのかはわからなかったが、心地よく、せつなく、ドキドキと、ふわふわとする気持ちだった。

 キスをするたびにそれらが、どんどんどんどん膨らんでいく。

 もっともっと欲しくなって、桜はむしゃぶりつくように睦月を求めていた。


「えっ? やらっ……睦ぅ……月ぃ……?」

 たかぶっている間に、睦月の舌が突然、桜の口の中に入ってきた。

 ねとっとぬるっとしたそれが自分の口の中に入ってきて舌に絡み付いてくる。

 粘膜と粘膜が擦れあい、誰にも触れられたことのない場所が犯されていた。

 脳が痺れるような快感に桜は戸惑いつつも、溺れそうになった。


(これがディープキスなんだ……。大人の……すごくえっちなキスだよぅ……)

 ただキスをしているだけだというのに、舌を絡めているだけなのに、すごく気持ちよくて、しかも睦月を近くに感じられた。

 この気持ちよさをもっと味わいたく、睦月にも味わってほしく、桜は睦月に教わるように自分からも舌を絡ませていった。


「んっ……んあっ……あっ……んんっ……」

 静かになった文芸部の部室の中で、ただ舌と舌を絡ませ合う卑猥な音と、桜の喘ぐ声だけが響いていく。


 時間にしてそれほど長い間ではなかったはずで、口を吸うことに夢中になりすぎてつい呼吸を忘れ、酸素を求めるように睦月の唇が離れた。

 つつ、と舌と舌を繋いで唾液が延びていく。

 時間とともに線が途切れ、ようやく桜は我に返った。


「キス……しちゃった……」

 睦月の顔も紅潮していた。彼女も自分と同じように気持ちよかったのだと知り、桜は少し安堵した。


「うう……ごめん……やりすぎた……」

 少ししおらしくなる睦月を可愛いと思い、桜は微笑む。


「キスってこんなに気持ちいいんですね。

 みんながキスする理由がわかりましたよ」

「本当に大丈夫だったの?」

 心配する睦月の意味がわからず、桜はいつものように笑って答えた。


「大丈夫ですよ。嫌だったら、こんな気持ちにはならないはずですし」

 その言葉に睦月はほっと胸をなで下ろし、桜をぎゅっと抱きしめた。

「えへへ、先輩に抱きしめられて嬉しい」

 睦月の体に頬を寄せて桜は言った。

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