第4話 深化

 放課後の文芸部での活動はいつも変わりのないものだった。

 ルーチンワークというか、部室に来て、本を読んで、お茶を飲んで、一緒に帰るだけ。それを月曜から金曜まで繰り返しているだけだ。

 それはそれで桜にとっては楽しいことだったが、もう少し刺激的なことがあってもいいのではないかと思っていた。


 刺激的、それは過激な言い回しだったかもしれない。

 桜にとってはただ葵ともう少しお近づきになりたいだけだったし、甘えてみたいだけでもあった。

 そこで考えたのは、一緒に本を読むということだった。


「どうですか?」

 桜は少し照れくさそうに、でも満面の笑みで提案した。

 葵の反応は桜ほど熱はこもっていなかった。むしろ意外そうな目で見られ、そんなにおかしいことを言ったのだろうかと桜は恥ずかしくなったほどだ。

 数秒の沈黙の後に、睦月は微笑みながら口を開いた。


「いいよ、桜がしたいなら試してみようか。いつも別々に読書しているだけでは部活をしているという感じはないからね」

 お許しを得たことで、桜は急いで椅子を睦月のすぐ横にくっつけた。

 そして親に読書をねだる小さな子供のように、嬉しそうに座る。


「本はこれでいいのかい?」

「はいっ。睦月……先輩が読んでいるものならなんでもいいです。もっと先輩のこと知りたいですから」


 途中から読んでもおもしろいものだろうかと睦月は頭の中で疑問符を浮かべていたが、すぐに苦笑して流れに身を任せることにした。


「じゃあ、ページをめくるのは……」

「睦月……先輩のペースでいいですよ。合わせます」

「大丈夫? けっこう読む速度違うけど」


 慣れているだけあって葵の読書ペースは早く、逆に桜は読んでいる最中にも別のことを考えることも多いので異様に遅かった。

 睦月に合わせればついていけるはずもないが、桜にとっては内容よりも葵と一緒に本を読めるということの方が大事だった。


「大丈夫ですよ。ちゃんとついて行きますから」

 ニコニコと微笑んで言った。


 それなら、と睦月は本を桜との中間にずらし、再び読書に戻る。いつもよりは少し遅めのペースで読みはじめ、ページの最後でちらっと桜の様子を見てから紙をめくった。


 このペースにも慣れてきたのか、睦月はすぐに気にならいペースで文字に没頭できた。

 桜も真剣な表情で文字を追い続け、少しずつ睦月のペースに近づけるようになる。

 それでも、まだ文字のすべてを追えるようにはなっていなかったが、睦月と一緒に読書していることが楽しくてそれだけで十分だった。



 文字が同じように追えるようになると、桜は自然と葵の手を触れるようになっていた。ページの隅にそっと置いてある睦月の手の上に自分の手を乗せ、読み終わるとそっと手をさすって合図をする。


 睦月の手の感触を味わいながら読書するなんて、なんて贅沢なことだろうと思うが、浮かれてばかりもいられない。合図を送ることで待たせてることになっては不本意であるし、真剣に読書する睦月に失礼でもある。

 むしろ桜は一生懸命文字を追い続け、読了の合図で睦月の手の甲の感触を味わうことがご褒美だとがんばった。


 手を重ねた効果は他にもあった。物語の中で緊迫したシーンは手を堅く握ってしまったし、嬉しいシーンではぎゅっと抱きつくように握る。寂しいシーンでは睦月の手のぬくもりが暖かかったし、笑えるシーンでは睦月の手の震えが伝わってきた。


 いつの間にか桜も読書に没頭できるようになり、自然と本にのめり込むように体を近づけていた。

 それは睦月も同じことで、没頭しているうちに二人の頬と頬がぴたっとくっつくようになった。


 最初の時に驚いたのは桜だけだった。

 睦月の頬の柔らかい感触にドキッとしたが、過剰な反応を示したのは自分だけだった。睦月は桜と頬が触れたことなんて意に介さず読書に耽っている。

 こんなことで集中力が途切れるようではまだまだだなぁと反省し、桜はそのまま頬を寄せあって本の世界に戻る。


 結局、その日はずっと頬を寄せあったまま部活を終えた。恒例のティータイムを忘れるほどに。




 一緒に読書するのが日課になると、いっそのこともっと睦月に甘えたいと桜は思った。

 どうしたらいいのか桜は頭をひねったが、そういえば小さい頃はよくお母さんに絵本を読み聞かせてもらい、あれがすごく嬉しかったことを思い出した。


「睦月……先輩、横に並んで読むのもいいですけど、ちょっともどかしい時もありますよね。

 そこで考えたんです。こうすればもっと読みやすいんじゃないかなって」


 相変わらず奇抜なことを提案してくる後輩に、睦月は意表を突かれながらも苦笑した。

 何をするのかと思えば、桜は睦月が座っている前に立ち、そのまま睦月の膝の上に座り込んだ。


「おいおい、これはいったいどういうことだい?」

「えっ、だめ……ですか? 横に並ぶより、縦の方が集中できると思うんですけど。それとも重いですか?」


 いくら女の子とはいえ、幼女ではないのだから無理はある。元々、一人で座るような椅子なのだから、年を考えろと言いたくなるものかもしれないが、睦月は桜の体重を感じながらも嫌そうな素振りは見せなかった。


「桜がそうしたいなら構わないけど、膝の上に座るのもけっこう大変だよ。座り心地は椅子より悪いからね。疲れたらすぐに言ってね」

 相変わらず睦月は桜には甘いというか、なんでも受け入れてくれている。それをすべてわかった上で甘えてしまうのはどうかという気もするが、ここはあえて甘んじさせてもらい、桜は睦月に体重を預けた。


「えへへ、なんか楽しいですね」

 くっついていちゃいちゃするだけでも十分すぎるのに、その上、これから一緒に同じ本を読むのだ。物語のドキドキやワクワクを一緒に体感する。これはこの上ない娯楽だった。


「桜がこんなに甘えん坊だったなんて知らなかったよ。まぁ、でも、そうだね。本当はこういうことをしたかったんだろう?」

 睦月は桜の耳元で囁くと、そのまま本の朗読を始めた。


「えっ、やっ……どうしてわかったんですか?」

 目を丸くして驚く桜に、睦月は苦笑して答える。

「わかったも何も、子供が読書をねだる時はこうするじゃないか」

 自分では最高のアイディアだと思っていたのに、考えることは誰も一緒だった。


 さすがに幼稚すぎて桜は気恥ずかしくなったものの、睦月の方はそのまま文字を読み上げてくれた。

 二人以外には誰もいない文芸部だからこそこんなこともできるが、他の場所ではとてもではないが恥ずかしすぎてできそうにない。クスクスと笑われる光景が目に浮かぶ。


 しかし、この読み聞かせスタイルは桜が思っていた以上に素晴らしかった。

 睦月に抱かれながら、睦月の落ち着いたアルトの声が耳のすぐ側で発せられるのだ。

 物語を楽しむと同時に、睦月の声で桜はうっとりとした。

 想像以上に効果はてきめんで、胸がキュンキュンしすぎた桜はその日、肝心の物語のことはほとんど頭に残らなかった。




 この読み聞かせスタイルが文芸部の通常活動になって、これが新しい桜のお気に入りとなった。

 たまには交代してもいいのかもしれなかったが、たぶん睦月は断るだろうということ、また、やはり睦月の声を耳元で囁かれたいという気持ちがあったからだろう。


 そのことに睦月が不満を感じたのかどうかはわからない。

 ただ、ある日、いきなり彼女が桜の耳元で、本当に耳に口が付くくらいの位置で囁いたのだった。


「ひゃっ、ちょっと、くすぐったいですよ」

 耳に息を吹きかけられるみたいな感じになり、桜は思わず体をよじった。それでも睦月はやめようともせず、むしろ面白がっているかのようにさえ感じられた。


「ん? どうしたのかな。普通に読んでいるだけなんだけど」

「耳の穴に睦月……先輩の息が直接入ってきて……んっ、ほんと、だめっ……やっ……だめ……ですって……」


「耳に息をかけられて感じちゃってるのかな」

「感じちゃう……って?」


「気持ちよくなってるってこと」

「そんなこと……ないです……こそばゆくって、あっ。変な声が出ちゃう……」


「桜の声、気持ちよさそうに聞こえるよ?」

「違いますって……んっっ、くすぐったいだけ……あはぁ……んっ」


「ふーん、そう。じゃあ、睦月って呼び捨ててくれたら、やめてあげてもいいけど」

「そんな……」


「文芸部のルールって言わなかったっけ。いつまでも先輩をつけてるから、桜は私に心を許してくれてないのかと思ってるんだけど」

「そんなこと……あっ……ない……んっ……です……」


「じゃあ睦月って呼んで」

「わか……っぁっ……りま……あっあっ……む……つき……お願いですからやめてく……ださ……いっ……」


「よく聞こえないよ。もう一回」

「いじわるですよぅ……んっ……睦月……」


 根負けして睦月の名前を呼ぶと、彼女はすぐに息を吹きかけるのをやめてぎゅっと桜を抱きしめてきた。


「ごめん、ちょっとやりすぎた。それと、睦月って呼んでくれてすごく嬉しかった」

 桜の肩に乗る睦月の顔の重さを感じながら、桜はこれなら恥ずかしがらずにもっと早く呼ぶべきだったと反省する。


「えへへ、もういいですよ。わたしも睦月に桜って呼ばれてすごく嬉しかったですから」

「桜、ありがとう……」


 睦月にされるがまま時間が過ぎて、ようやく落ち着いてきた頃、また睦月が桜に囁いた。

「でも、本当にくすぐったいだけだった? これってけっこう気持ちいいはずなんだけど」


「えっ? やっ、あっ……。睦月のばかっ」

 思い返せばくすぐったさ半分、それと何とも言えない気持ちの良さが半分だった。

 その快感を咀嚼そしゃくするように思い出すと、桜は急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして俯いた。

 その日の文芸部の活動は特別なものになった。

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