第3話 はじめての……

 さて、その週末のデートは特筆することはない。

 普通の友達同士がするようにただ映画を見て、食事をして、その後に適当にウインドーショッピングに興じるというだけだった。

 桜にとって楽しい一日ではあったが、夕方になって普通に別れを告げ、明日の日曜は何も予定がないことに気づき、寂しくもなった。


 桜にとっても特別なおめかしをしたこともなく、それは睦月も同じだった。

 睦月の私服姿を見られたことは収穫ではあったが、想像通りボーイッシュで大人びた格好をしていた。

 それでも外見からして女性らしさは隠せてはいないのだが、もし仲良く腕でも組んで歩いていたら一瞬だけでも恋人同士と間違えられないかどうかと妄想しなかったとは言わない。


 平日は放課後に文芸部で読書に興じ、下校はいつも一緒だった。

 休日には一緒に遊びに行くことになったし、睦月の家に招かれたことも、桜が自分の家に招いたこともあった。

 とはいえそれ以上の格別な間柄に進展するわけではなく、ただ月日だけが流れていった。


 そろそろ夏休みが見えてくる頃になって、二人の関係にわずかながらの転機が訪れる。

 いつの間にか変わっていたことは、たとえば下校中や二人で遊びに行った時に自然と手を繋ぐようになっていたことだが、指と指を絡ませる恋人同士がするような繋ぎ方ではなく、ただ普通に手を握っているだけだった。


 とはいえ、下校中はそうしていたとしても、登校は別々だったし、ごく稀に顔を合わせることはあっても、どういうわけか手を握ることはなかった。

 おそらく、それなりの照れがあったのだろうし、知り合いや他人の目が多いからでもあるだろう。

 特別意識しているはずはなかったが、そうしていないことを疑問に感じることもなかったし、逆にそれ以外では自然と手を繋いでいることにも違和感を覚えなかった。

 つまりはギリギリの一線は守っていたということだし、少なくとも桜は睦月のことを『意識』すらしていなかった。


 ある日、いつものように部室で読書をしていた時に、桜は何気なく睦月に漢字の読みを尋ねた。

 桜は睦月を真似るように昔の文豪の作品を読むようになって、時々、難解な表現や文字が出てくる度に睦月に尋ねる習慣ができていた。

 家にいるときは辞書でも引くのだが、文芸部で一々辞書を引くのもめんどくさいものであるし、ある時、睦月がさりげなく教えてくれたものだから、機会がある度についつい彼女を頼るようになっていた。


「それは……感冒かんぼうだね。インフルエンザのことを昔はそういう風に言ったんだよ」

 耳元で囁かれて桜はドキっとした。いや、それだけではない、睦月は優しく桜の手に自分の手を重ね、撫でるように触っていた。


 どうしてこんなにエッチな風に感じるのか、桜はただ戸惑う。

 ただ手と手が触れているだけだし、手を繋ぐのも初めてではない。

 優しく微笑んで意味を教えてくれることも初めてではなかったし、睦月が桜に対して特別な感情を持っているとは夢にも思ったことがない。

 しかし、桜はそんな風に睦月を意識してしまうことが恥ずかしく、頬を赤らめて俯いた。


「ん? どうかしたのかな。顔が赤いみたいだ。

 インフルエンザということもないだろうけれど、風邪でも引いたかな」

 そう言って睦月は不思議そうな表情をして桜の顔をのぞき込み、顔と顔を近づけて額に額をくっつけた。


「少し熱があるのかな」

 睦月の吐息が桜の顔に吹きかかる。

 桜はさらに上気させて瞬間的に数度ほど熱が上がったかのような錯覚に陥るものの、睦月を心配させまいと慌てて否定する。


「いえっ、風邪じゃないですっ。その……」

 しかし、まさか睦月を意識してしまっているだけだとは言うわけにもいかず、桜は口ごもる。

 元々、睦月も本気で心配していたわけでもないのだろう。

 そんな桜の表情を察し、額をつけたまま微笑んだ。


「冗談だよ。もし、桜の具合が悪いならすぐに気づいたさ。

 でも、桜は顔が真っ赤だよ。どうしたのかな?」

 全てお見通しのくせに、睦月は桜を焦らすように、からかうように言った。


「……ううっ……いじわる……」

 こんな間近で睦月の顔を見たことは初めてだった。

 端正で凛々しく、かといって女性らしい長いまつげとふっくらとした唇が美しい。

 どうして睦月にドキドキしているのか桜はわからず、ただ戸惑うばかりだった。


 睦月は桜とは逆に、戸惑うことも恥じらうこともなく、ただ真っ直ぐに桜を見つめていた。

 その視線を覚え、目を逸らそうと思いながらも、睦月の黒い瞳に映る自分の姿に吸い込まれそうな錯覚を覚える。


(睦月先輩の瞳の中にわたしがいる……)

 その意味をゆっくりと考える。

 もし、桜が目を瞑ったとしても、睦月の瞳の中の自分は逃げられるわけではない。もうとっくに捕らえられてしまっているのだと、桜は観念して漠然と睦月の瞳を見つめながら、ただ事態の推移を見守った。


 瞳の中の自分が大きくなっていく。きっと、自分の目にも睦月の姿が映っているはずだった。

 顔と顔がさらに近づいていく。額と額がくっついているのだから、あとはもう唇と唇が重なるのを待つだけだった。


(キス……しちゃうのかな……。まさか初めてが睦月先輩とだなんて!)

 女の子同士でのキス。それもじゃれているだけでもなく、遊びでもない。

 本当の、本物の口づけ。

 その意味を走馬燈のように考えながら桜は静かに目を瞑った。


 期待した唇への感触はついに来なかった。数秒、数十秒が経過して何かおかしいと気づき、桜はおそるおそる目を開ける。

 いつの間にか睦月は桜が目を閉じる前よりも離れた位置にいた。

 それでも吐息はかかりそうな距離ではあるが、ただ優しく微笑んでいる。


「ひゃっ」

 キスがない代わりに睦月は桜の豊かな胸に手を触れていた。

 興奮していたからか敏感に反応してしまい、桜は変な声をあげる。


 声を上げても睦月の手は桜の胸から離れなかった。

 ただ手を当てているだけの軽いお触りだが、睦月の表情は変わらず、顔の位置も同じままだ。


(今度はおっぱい触られてるよ。なっ、なんでだろう。まぁ、女の子同士で触りっこしたりするのは珍しいことじゃないし、わたしだって向日葵の胸を揉んだりとか、向日葵に揉まれたりとかはよくあったけど……)


「あんまり目立たないけれど、桜の胸って大きいよね。私は小さいから、こんなに柔らかいのはちょっと羨ましいよ」

 想像とはあまりにもかけ離れた言葉に桜はようやく我に返った。

 今まで自分一人だけ盛り上がっていたのは何だったのかという気分になり、醒めるとともに恥ずかしさも覚える。


「えっと、あんまり嬉しくないです。あまり男の人にジロジロ見られないのはいいんですけど、体育の着替えとか修学旅行のお風呂とかで同級生に好奇の目で見られるのはやっぱり恥ずかしくて……」

「じゃあ、こうやって揉まれるのも嫌い?」


 睦月は形を探るように桜の胸をまさぐり、手のひらで柔らかさを確かめながら密かに突起を探りさりげなく擦りつけた。


「んっ……別に嫌いってわけじゃないですけど……」

 向日葵に触られても感じることはなかった。それなのに睦月に揉まれて初めて性的な快感を覚えたことに戸惑いつつも、突起が甘く痺れるような感覚に桜は必死になってあえぎ声を我慢する。


「じゃあもうちょっと揉んでてもいいよね。こうやって揉んでると私にも御利益がありそうだし」

「あっ……ちょっ……睦月……先輩っ……」


 桜は身を捩らせて悶え、睦月の手から逃れようとするものの、睦月は執拗に迫ってきて桜を逃がさないように背中に手を回して抱きかかえるようにしていた。


「冗談だよ。桜はどんなことでも一生懸命本気になって可愛いなぁ」

 胸の方ばかり意識を集中していたら、不意打ちのように睦月の顔が近づき、あっと言う間に睦月の唇が桜の鼻の頭に触れた。

 軽いスキンシップのようなキスをすると、ようやく睦月は桜を解放し、その後は何事もなかったかのように自分の席に戻って読書を再開した。


(キス……だよね。唇同士じゃないけれど。でも、これはいやじゃなかった……)

 まだ火照る体を深呼吸して落ち着かせ、桜も読書に戻ったが、ページをめくっても文字が頭の中を素通りしていくだけで一向に内容が頭に入ってこなかった。


 その日の下校もいつもと同じように二人一緒に帰ることになったが、どうしてか手を繋ぐのは恥ずかしくて桜はわざと避けるようにしていた。

 睦月からわざわざ求めてくることもなかったので、もしかしたら彼女も同じ気持ちだったのかもしれないが。




 次の日の睦月はいつもと同じ睦月だった。桜も文芸部の部室に来るまでは緊張していたものの、普段通りの睦月が定位置に座って普通に読書をしているのを見て安堵した。


 お茶の休憩も桜の方から申し出て、やはり何事もなくただ駄弁って下校時刻になった。

 昨日の睦月はいったい何だったのかと思いたくなるような何事の無さではあったが、桜はあまり気にせず、むしろほっとするように自分の方から睦月の手を握って一緒に下校した。


 二日振りに繋ぐ睦月の手は柔らかくて暖かく、桜は内心嬉しくなってぎゅっと握る手に力を込めた。

 また次の日も、その次の日も同じような日常が続いた。

 少しだけ違ったのは天候であり、雨が降る日はさすがに手を繋いで帰るというわけにはいかない。


 睦月の手を握れないというだけのことで桜は寂寥せきりょう感を覚え、厚く暗い雨雲を恨めしそうに見上げた後に、あるアイディアを思いつき、笑みをこぼして開いた自分の傘を閉じて睦月の傘の下に潜り込んだ。


「今日はこうやって帰りましょう」

 そう言って甘える桜に睦月はしょうがない奴だなと苦笑するものの、拒絶もたしなめもなかった。


 いくら一緒の傘に入っているからといって、手を繋ぐのは難しい。

 外側の手で傘を持てば桜が濡れてしまうし、桜が濡れないように手を回し、抱きかかえるようにして空いた手を繋ぐのもなんだかフォークダンスでもしているかのような滑稽さがある。


 必然的に二人の中央で傘を持つようにすると、手と手を繋ぐのは無理があった。それでも一緒に傘を持つという手もあったが、桜は躊躇なく睦月の腕に抱きついた。


「いいですよね。

 こうやってくっつかないと、睦月……先輩が濡れちゃいますから」

 女物の傘だけあって二人で入るにはやや小さい。

 こうやって恋人同士がするように腕を組めば、少し濡れるだけで済みそうだった。


「まったく、仕方のない奴だな。まるで相合い傘で帰るカップルみたいじゃないか」

「愛合い傘みたいに見えますかね? 睦月……先輩はかっこいいから、遠目だと男に見えちゃいますかね」

「スカートを穿いている男なんてちょっと嫌だな」


 さすがに凛々しく時にマニッシュに見える睦月とて、女子の制服を着ていればさすがに男と間違われることはなかった。それでも遠目からではあまりもの仲睦まじさに恋人同士と紛うほどではあったが。


「えへへ、じゃあ今度はズボンを穿いてきてくださいよ。きっと睦月……先輩なら似合いますよ」

「そんなに桜は私と恋人同士に見られたいのか」

「別にちょっとくらい良いじゃないですか。恋人ごっこもきっと楽しいですよ」


 どこまで本気かわからないような洒落を言い合って、二人とも満更でもなく駅までの道を歩いていった。

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