第2話 放課後ティータイム

 文芸部に入った桜の生活は、しかしながらそう変化のあるものではなかった。


 放課後に部室に寄って、本棚から目欲しい本を取り出して下校時刻まで読むだけ。ある意味退屈な時間でもあるだろうし、読書など一人でするものであるので、部活をしている実感はほとんどない。

 こんなことでむしろ廃部にならないのがおかしいくらいだが、週に一度程度の割合で入る図書委員の仕事が唯一の活動らしい活動といえた。


 大抵の場合、部室に先に来ているのは睦月の方だった。

 初めて会った時と同じ席で同じように彼女は黙々と読書をしている。

 できるだけ読書の邪魔にならないように桜は静かにドアを開けようとするのだが、どうしたところで読書を中断させてしまうことになる。


「やぁ、今日も元気そうだね」

 いつも同じ言葉で睦月は微笑みながら挨拶をする。それが少し滑稽で、桜は笑顔で元気よく返事をする。


「睦月……先輩もご機嫌ようです」

 睦月はただ頷くだけですぐ本に視線を戻し、読書に復帰をする。

 世間話はほとんどしないし、桜から振るのも申し訳なく、いつも睦月とはやや離れた席に自分も着く。


 適当に題名だけで選んだ本を開き、桜も睦月と同じように読書を開始する。

 特別興味があったわけでも、読書が趣味というわけでもないからか、特に集中して活字を追っているということもない。

 むしろ集中力の欠如は深刻であり、本の内容そっちのけで色々なことが耳から入ってくる。


 たとえば、睦月がページをめくる音だとか、ちょっとした咳払いとか、それどころか静謐な部室では睦月の吐息さえ感じられる。

 一方で時間が止まっているかのように静かなのは部室の中だけの話で、むしろ部屋の外は放課後の学校だけあってやたらと騒がしい。

 演劇部の発声練習や、体育会系の部活の掛け声、廊下を通っていく生徒の他愛のない話と笑い声。

 それらが混然となった空間は不思議な落ち着きを与えてきてくれて、妙に心地よかった。


 もしかしたら、睦月先輩もこれを楽しんでいるのかもしれない。

 睦月の真剣な横顔を眺めながら、桜はそんなことをふと考えていた。


「そろそろ休憩にしようか」

 視線に気づかれたということはなかったはずだが、ふと睦月の顔があがって桜と目があった。

 気がつけば放課後になって一時間は過ぎている。桜自身、よく退屈しなかったものだと驚きつつ、睦月の休憩の言葉に破顔した。


「文芸部の休憩には決まりがあってね。休憩を言い出した者が全員のお茶を淹れることになっているんだ」

 そう言って立ち上がるとロッカーからヤカンを取り出し、廊下に出ていった。

 しばらくして水を汲んで戻ってくる。ヤカンを電熱調理器具にかけてお湯を沸かす。


 その間に今度は白い陶器のポットと茶葉の入った瓶、カップとソーサー、帽子のようなもの、スプーン、二つの時間を計れる砂時計、それから小さなバケツを取り出し、テーブルの上に並べた。


「お湯が沸くまでもけっこうかかるからね。気にせず読書を続けていいよ」

 桜の視線を感じて睦月が言った。

 桜は慌てて本に視線を戻すものの、手持ちぶさたな睦月はずっと桜を優しく見つめているようで、とても集中できる気分ではない。


 活字を追いながら、できる限り気づかれないようにちらちらと睦月を見る。視線には気づかれているのだろう、ちらちらと見るたびに睦月は微笑んでくる。


 お湯が沸くと睦月はまずはポットにお湯を注ぎ、次にポットからカップに注いだ。茶葉をスプーンで計ってポットの中に投入し、またヤカンからお湯を注いでポットの蓋を閉め、ポットに帽子を被せて最後に砂時計をひっくり返した。


 砂が落ちる数分ほどの時間を睦月はイスに座って砂時計を眺めながら過ごしていた。砂が落ちきる前にカップを余熱したお湯をバケツに捨て、手際よく砂が落ちきっったと同時にカップに紅茶を注いでいく。

 琥珀色の液体がぴったり均等に白いカップを染め、最後の一滴まで絞り落した。


「冷めないうちにどうぞ」

 給仕されたカップから甘く軽やかな芳香が広がっていた。


「ありがとうございます。……でも、あの、その……、砂糖はないんですか?」

 にっこりと笑顔で尋ねる桜に睦月は意表を突かれたような顔をして、「ああ、ごめん」と謝り、棚から角砂糖の瓶を取り出した。


「いくつ?」

「えっと……三つでお願いします」


 睦月の好意にそこまで甘えてしまってよいものかと桜は恐縮するところだが、このまま図々しく最後までお願いしてしまった。

 角砂糖を三回トングで摘んでカップの中に投入していく睦月の手を桜はなんてしなやかなのだろうとドキドキしながら見つめていた。


「ほら、入ったよ。砂糖三つだ。それとも足りなかったかな?」

 あまりにも睦月の手に見惚れていたためにうっかり飲むのもお礼を言うことも忘れていた。紅茶の前でぼーっとし続ける桜に睦月は怪訝そうに声をかけ、やっとのことで桜は我に返る。


「えっ、あっ、すみません。大丈夫です。

 ありがとうございます、いただきますっ」

 慌ててカップに手を取って紅茶に口をつける。

 今まで飲んだことがない美味しい味に桜はびっくりするとともに、慌てて飲んだため熱くて舌が火傷したように感じた。


「熱っ!」

「慌てて飲むから。そんなに急がなくてもお茶は逃げないし、冷めるここともないよ」


 睦月に苦笑され、桜は急に恥ずかしくなって静かにカップをテーブルの上に置いた。軽く火傷した舌をはふはふさせながら桜も睦月に照れ笑いを返した。


「美味しい紅茶ですね。こんなに美味しいの初めて飲みましたよ」

「ありがとう。でも、少し誉めすぎじゃないかな。ただの紅茶だよ」


「そうですか? 家ではティーバッグしか出てこないし、外では午後の紅茶とかしか飲まないし、なんか全然別物! って感じの香りですよ?

 なにかすごい紅茶だったりするんですか?」


「そんなことはない。まぁ、桜とは初めてだからちょっと奮発してダージリンのセカンドフラッシュを淹れたんだけどね。他の茶葉でもしっかりルールを守って淹れれば誰だって美味しい紅茶を作れるし、仮にティーバッグだって美味しく淹れられるものさ」


 ダージリンはよく聞いていても、セカンドフラッシュは初めて聞く言葉だった。どういう意味だかはわからないものの、それが特別なものだということは桜にも理解できた。


「そういえばその……、睦月……先輩はお砂糖入れないんですか?」

 紅茶の説明しながらしれっとカップに口を付けていた睦月に桜がふと疑問をぶつけた。

「私はあまり好まなくてね。桜だって緑茶に砂糖を入れたりはしないだろう? とはいえ、私だってたまには蜂蜜やメープルシロップを入れることもあるし、ジャムやマーマレードを入れることもある。緑茶に入れたらマズそうだけど、紅茶にはよく合うんだよ。それに、意外かもしれないけれど、私はミルクティーやレモンティーも好きだからね」

 どことなく高尚ぶってみたところで睦月は照れるように笑う。


「さぁ、お茶だけ飲むのも悪くはないが、お菓子と一緒に楽しまないのでは魅力も半減するのと同じだ。買い置きで悪いけれど、クッキーもお食べ」

 元から置いてあった缶を開けて桜の前に差し出した。睦月の勧めるままに桜はありがたく頂戴し、紅茶をすすりながら口の中にクッキーを放り込んだ。


 読書の合間の放課後ティータイムは格別なものだった。そこでおしゃべりに花を咲かせることもまた楽しいし、いつの間にか時間もかなり過ぎてしまっていた。名残惜しいものを覚えながらも下校時刻が迫っていることに気づき、桜たちは慌てて後かたづけをして帰り支度をした。




「あの、お茶にしませんか?」

 翌日は桜からお茶を申し出た。先日のように睦月に先んじられては桜の目論見も潰えてしまう。放課後に部室に集まってわずか三十分も過ぎた頃に、桜は慌てて立ち上がり睦月に向けて言った。


 どうあっても自分がお茶を淹れるという意気込みに睦月は意表を突かれるとともに、可愛い後輩の健気な努力を苦笑して頷くように微笑みを返す。

 許可を得て喜び勇んだ桜は昨日の睦月のようにお茶の道具を棚から取り出してお茶の準備を始めた。


 と、茶葉を置いてある棚で桜はいきなり戸惑ってしまった。

 昨日はダージリンという話だったが、お茶の銘柄が口から出てくるほどに棚はお茶の入った瓶が所狭しと並べられている。


 ダージリン、ウバ、ニルギリ、アッサム、ヌワラエリア、キャンディ、ケニア、ダージリン・セカンドフラッシュ、キーマン、ディンブラ、ジャワ、アールグレイ、プリンス・オブ・ウェールズ、ピーチ、ラプサンスーチョン、ストロベリー、静岡……。


 瓶に張ってあるラベルには馴染みのあるものから初めて聞くものまである。

 見た目は茶葉の大小はあれどれも似たような外見で、どれを選んでいいのか見当もつかない。

 セカンドフラッシュは奮発してと言っていたのだから、これは特別で高価なのだろう。では普通にダージリンにするべきなのか、昨日と同じお茶で明らかに劣るであろうものでいいものか、それとも全く未知なものにチャレンジしてみるべきものなのか。


「どれでも好きなものを選んでいいよ」

 瓶の前で桜が迷っていると、睦月が言った。


「先代の部長の趣味でね。似たような茶葉もたくさんあるんだが、次々と買ってきてしまって。さすがに飲みきれないし、微妙な違いなんて私の舌にはわからないからそのうち減らそうと思ってるんだけど」

 睦月のフォローが入って桜はほっとした。

 想像ほど睦月が紅茶にこだわっているわけではないことと、つまりは本当にどれを選んでもよさそうだということだ。


「じゃあ、このキャンディっていうのにしてみますね。なんだか美味しそうな名前ですし」

 嬉しそうにキャンディの瓶を取り上げる桜に睦月は勘違いを見透かしたものの、あえて黙った。


 睦月の見よう見まねでお茶をできる限り手際よく淹れる準備をする。

 紅茶を淹れたことのない桜には難しいところもあったが、茶葉の量も適当に、緑茶を淹れるのを参考にスプーンに盛る。

 お湯が沸き、ポットに注ぐ。沸き上がる香気に嬉しくなりつつも、名残惜しく蓋をする。次はポットに帽子を被せて砂時計を逆さまにした。


「この帽子可愛いですね」

「ティーコジーって言うんだよ。お茶が冷めないように使うものだけど、なくてもそんなに問題はないな」

「そうなんですか? でも、見た目も可愛いし、手間でもないなら使った方がいいですよ。睦月……先輩が淹れた紅茶がすごく美味しかったのもきっとこの帽子のおかげが少しはあるはずですよ」


 可愛いキャラクターが描かれたティーコジーを愛おしそうに桜はつつく。

 砂時計が落ちきるまでの時間はわずか数分とはいえ、待っているだけは意外にも長く感じ、かといって読書中の睦月にあれこれ話しかけるのは失礼な気がして、手持ちぶさたな桜はただ砂時計が落ちていくのをじっと見つめていた。

 その時、硝子越しに読書に興じる睦月の姿が見えるのに気づいた。



 青い砂と硝子によって歪んだ睦月の凛々しい顔が見える。

 ひょいと視線をずらせばいつもの睦月の顔が見える。

 読書中にじっと見つめるのははばかられそうだし、もし視線に気づかれれば「あまりジロジロ見ないでくれ」と言われるかもしれない。

 堂々と睦月の顔を眺めていられる時間に桜は感謝しつつ、砂が落ちきるまでの時間を過ごした。


 どうしてタイマーを使わないのか、その理由がなんとなくわかった気がした。

(もしかして、睦月先輩も私のことをじっと見つめていたのだろうか)

 新しい発見に桜は明日もまた自分で紅茶を淹れようと決める。


 時間が過ぎて、名残惜しく感じながらも紅茶をカップに注ぐ作業に移る。美味しいかどうかはドキドキだったが、見た目は赤く綺麗な色だったし、香りも芳醇で美味しそうに感じた。


「睦月……先輩、紅茶が入りましたよ」

 コトっとテーブルにカップを置くと、睦月は気難しそうな顔でまず一口、カップに口を付けた。


 美味しいと言ってくれるだろうか、それはまったくの未知数でドキドキすることであったが、桜の期待をよそに、睦月は眉をしかめて二口目をすすり、苦笑しながらカップを置いた。


「これは私が悪かった。それとも、桜の好みがこれだというのなら文句はないんだけどね」

 期待とは正反対の言葉に桜はショックを受け、クラクラと目眩がする思いでたたらを踏んだ。

 そして慌てて自分のカップを味見して、睦月以上に顔をしかめて叫んだ。


「苦いですぅ。キャンディって書いてあったのに全然甘くない……」


「桜、キャンディっていうのはスリランカの地名で、飴のことじゃないよ。それを抜きにしてもちょっとこれは濃すぎるね。しっかり教えなかった私が意地悪だったんだが、この茶葉はダージリンと比べて量は少な目にした方がいいし、蒸らす時間も短くていい。砂時計の短い方の時間に合わせるとだいたいちょうどいいよ。濃い薄いは好みの問題もあるから、桜が美味しいと思うように調整してくれて構わないんだけど」


 桜はがっくりと肩を落とし、ふらふらとよろけながら睦月のカップを下げようとした。

「もう一回淹れ直しますね……」


「桜、わざわざそんなことをしなくてもいいよ。冷蔵庫にパックの牛乳が入ってるから、それを使ってミルクティにしよう。きっとコクが出て美味しくなるよ」


 泣いた子が笑ったように桜はパッと表情を変えて冷蔵庫に走っていった。

 小型のペットボトル用の冷蔵庫を開けると自販機で売っている牛乳パックとジャムが置いてあった。

 牛乳を手に取り、鋏で口を開けて、今度は入れすぎないように慎重に牛乳を足していく。


「牛乳の量が少なくても美味しくないからもっと入れても大丈夫。好みの差もあるけれど、多い分にはロイヤルミルクティーになるだけだからね」

 桜は本当に紅茶のことを何も知らなかったのだと痛感し、さらに肩を落とした。こんなことで安易に自分がお茶を淹れると宣言して恥ずかしくまた申し訳なくなり、小さくなって自分の席に戻り、ポトポトと自分のカップにも牛乳を継ぎ足していく。

 言われた通り少し多めに牛乳を入れ、さらに砂糖もいつもよりたっぷりとスプーンに盛ってカップの中をかき混ぜた。

 失敗した紅茶を飲むのは気が重いところもあったが、微笑んでいる睦月を見てから桜もカップに口を付けた。


「あれ、美味しい……?」

 いつも飲んでいるペットボトルのミルクティーとは段違いの味だった。

 コクがあり、べとつくような甘さもなく、香りも良い。

 こうやって自前で作るミルクティーを飲んだらもう既製品のお茶は飲めないような美味しさがあった。


「心配しなくても美味しいミルクティーだよ。桜が初めて私に淹れてくれた特別のお茶だね」

 そう言う睦月の笑顔に桜はキュンと来て、ぎゅっと手を握りしめて笑顔を返した。


「でも、その、あのっ、ごめんなさい。次はもっともっと上手に淹れられるようになりますから」

「これでも十分すぎるほど美味しいよ。私がやっているところをしっかり真似してゴールデンルールをしっかり守ったおかげだね。あとは何回か淹れているうちにコツが掴めるようになるだろうし、桜ならすぐに自分の好みに淹れられるようにもなれるよ」


「いいえ、その、わたしは睦月……先輩の好みに合う紅茶を淹れたいです。きっとそれが自分の好みですから」

 決意したように宣言した言葉も、睦月には届いたのか届かなかったのか、ただ微笑するだけで返事はなかった。


「せっかくの記念なんだし、もう一つだけ教えておこうか。桜はシナモンは好きかな?」

「えっと、あんまり食べたことはないですけど、苦手ってことはないです」

「そうか。じゃあこれも試してみると気に入るかもしれないね」


 そう言って睦月は冷蔵庫から小さな瓶を取り出し、自分のカップと桜のカップに茶色い粉を振りかけた。

 紅茶の湯気に混ざってシナモンの良い香りが立つ。


「本当はスティックとかを使うらしいんだけどね。粉末の方が安いし持ちもいいから。あんまりにも減らなくて困ったりもするんだけど」

 毒味でもするかのように睦月は先にカップに口をつけ、満足そうな笑みを浮かべて桜に促す。

 桜も一口飲んで、すぐに笑顔を返して言った。


「すっごく美味しいです。こんな風に楽しめるなんて初めて知りました。きっとわたしのお気に入りになりますよ」

 紅茶を半分ほど飲んだところで、桜は自分がお茶菓子を用意してきていたのを思い出した。

 睦月が紅茶を飲み干す前にと慌てて鞄からラッピングした袋を取り出し、彼女の前に進み出てぐっと突き出した。

「そうだ、あの……、クッキーを焼いてきたのでよかったらどうぞ……」


「昨日の今日でいきなり作ってこなくてもよかったのに。でも、ありがとう。さっそく食べてもいいよね」

「はい。あっ、でもクッキーとか焼くのも初めてだったからあまり美味しくないかも……。見た目もぶきっちょでいかにもって感じですけど……」


「はっはっは、手作りっぽくていいんじゃないかな。だいたい、私が作るものよりはよほど上手だよ」

「また謙遜を……」


 桜は睦月がクッキーを食べるのを固唾を飲んで見守った。

 味見したものはとびっきり美味しいという感じではなかったが、自分が作ったものの割にはまずまずの出来だった。

 睦月の舌を満足させられる自信はさっぱりだったが、それでもお世辞の「美味しいよ」の一言くらいは欲しかった。


 睦月の繊細な指が桜の不器用な形のクッキーを摘み、口元に運ぶ。

 うっすらとした淡い唇が開き、クッキーを半分ほど口に入れるとさくっと真っ白で綺麗な歯が焼いた小麦粉の固まりをサクッと噛み砕いた。

 咀嚼そしゃくする睦月の妙な色気にドキドキしながら、次に口が開くのを千秋の思いで待つ。


 睦月は桜を見つめてにっこりと微笑み、桜が欲していいた言葉を口にした。

 ほっと胸をなで下ろし、喉の渇きを覚えて桜も紅茶を口にする。睦月の勧めに従って自作のクッキーを自分も食し、味に問題がないことを確認した。


「あの、もしよかったらまたクッキーを作ってきてもいいですか?」

 押し売りにならないだろうか、ずうずうしくはないだろうかと思いつつも、また睦月の笑顔が見たくて桜は言った。


「ありがとう。こんな美味しいクッキーなら毎日でも食べたいけれど、お菓子を作るのも大変だからそう無理しなくていいよ。そうだ、お礼に明日は私が用意することにしよう。桜が作るより美味しくできる自信はないんだけどね」


「そんなことないです、睦月……先輩が作るものですから絶対に美味しいです」

「おいおい、あんまりプレッシャーをかけないでくれよ」

 桜の意気込みすぎな言葉に睦月は苦笑して言った。




「そういえば、睦月……先輩はいったい何の本を読んでいるんですか?」

 話題を逸らすことと、なんとなく気になっていたことを桜は口にした。


「ん? これは川端康成の美しさと悲しみとだよ」

「へぇ、さすが文芸部だけあってちゃんと文学作品を読むんですね」


「世間の文芸部がそうなのかどうかはわからないし、先達がどうしていたのかはわからないけれど、まぁ、蔵書なのだから読んでいたのだろう。比較的新刊も棚にはあるけれどね」

「睦月……先輩は川端康成が好きなんですか?」


「別にそういうわけでもないよ。ただの暇つぶしさ。谷崎潤一郎でもいいし、吉屋信子でもいいし。目欲しい本はあらかた読み終えてしまったから、適当に読み返しているだけだ」

「ふーん、でもやっぱり昔の文豪の作品ですよね。わたしも読んだ方がいいのかなぁ」


 睦月はあれを読めとか、これがオススメだとかは一切言ってこない。

 完全に放任スタイルで好きにすればいいと言うし、実際に桜もその日に読む本は適当にタイトルで選んでいるだけだった。

 睦月が文芸部の蔵書を全て読破したとは思えないが(仮に毎日、一冊ずつ読んだとしてもまだ蔵書の方が多い)好んで読んでいる本には何か意味があるのかもしれない。


「そうだ。桜、週末は予定が入っているかな?」

 そんなことを漠然と考えている時に、睦月からお誘いが入ったものだから、桜はその意味をすぐに忘れてしまった。

 睦月から映画の誘いを受けて、桜はすぐに二つ返事をした。

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