朱紅い雨が降る

 すべての動きが、緩慢に見えた。

 ゆるゆると、水の中を泳いでいるように。

 何かを拒もうと、腕を振り上げるが、水に動く魚たちのようには機敏でないから、届かない。

 その太刀は、托陽ちちの物だ。

 美しい、実用の太刀。

 姉君。貴女は主上の皇女ひめであられたのですか。

 鋒両刃きっさきが目前に伸びてくる。美しく、磨かれた。

 以前、己の海船ふねで南海に出航ふなでることができるようになった頃、托陽ちち請願せがんだことがある。

 いづれは、この太刀をお譲りください、と。

 托陽ちちは笑んだ。

 腕を引かれた。倒れこんだ。

 ……父上。貴方はこの男に尚都しょうとを、伊都を譲ったのですか。

 金属かねの弾かれる音。

 そして、鈍い音が続いた。

 飛沫がかかった。紅い、飛沫が。

 ……爺?

 爺の衣が重たげに濡れていく。紅く紅く。

 その身に食い込んだ太刀の柄、握る手を掴まえて。

 爺は叫んだ。

「…………!」

 膝付いた己を立ち上がらせようと、引っ張る手がある。

 浩阮。爺が。

 転がるようにして扉から飛び出した。

 爺、爺を置いていくのか。

 足がもつれる。だが浩阮は構いもしない。手を引いて、先へ先へ。何処へ。

 柱影から、飛んでくる物がある。

 耳に吸い込まれそうな音を立てたそれは、駆け抜けた背後に突き刺さっていく。

 ……なぁ、浩阮。浩阮。征箭そやが……、己を狙う。

 振り向きもしない浩阮は、己の手を引いたその肩をもう片方の手で押さえていた。

 やがらが、矢羽が、浩阮の左肩に生えている。浩阮が痛いくらい強く己の手を握り締める。

 正堂おもやを抜け、東廂廊ひさしろうを駆ける。中天の明るさが差し込んだ門が閉じられようとしている。

 浩阮は門扉に体当てた。

 転がり出た門前には刃がきらめいていた。

 あぁ、中天の輝きを受けて……海が光るようだ。

 いくらか港へ駆けて、囲まれた。見たことのある顔であったかもしれない。

 ……中天に雲もないのに。

 ぼやけて、物を見ることができなくなってきた。

 込み上げた何かが……双眸ひとみに雨を降らせているから。

 浩阮が声を張り上げている。己をかばう。肩に刺さった物を引き抜いた。紅いものが流れ出る。

 それに構わず、腰の物を、太刀を抜いた。……切るのか。

 白刃が浩阮に降りかかる。

 頬を雨滴が伝った。温かい、と思った。

 否。……そのしずくが、紅い。右手で、己の頬に触れる。

 そこはいつの間にか、すでに港の護岸で。

 浩阮は。

 浩阮は、大きく太刀を振った。囲んだ人垣が一瞬、たじろいだ。

 己の、腹心の伴人ともびと

 傍らにあって、平然と主人あるじをからかう。そして己に従い、苦言を呈し、不足を補い、共に……笑う。その伴人が、判断に迷うことはない。

 朱漆うるしをかぶったみたいに、丹砂あかにを塗ったみたいに、紅く……真緋あかく、鮮やかに染まった顔で、呟いた。

 ご無事で。

 渾身の力で、……突き飛ばされた。港に。中天の光に、綺羅綺羅と輝く海に。

 ……泳げぬような主人ではないからといって。

 爺。あとで、浩阮を叱っておけ。このような大袖の衣では、海水みずが絡み付いて。

 浩阮おまえが、着替えよと言ったのだ。ならば海に突き落とすことはなかろうが。

 ……見えたのは、苦く笑う浩阮の顔。

 わかったよ。俺なら泳げると、思ったんだろう。だから、命ずる。

 置いて、いくな。そばに、いろよ。

 水中から見上げる海面そらは、銀色しろがねいろをしている。

 仰向けに蒼昊あおぞらを見ている。

 手足を動かしてもがくと、かえって泳ぎにくいのだと、爺が教えた。こうしていれば、浩阮がすぐに来てくれる。

 慌てて飛んできて、あとで怒るだろう。……幼い頃の毎日のように。

 双眸を閉じる。

 水の中に、雨は降らないから……意識を手放してもいいだろう?

 吸い込まれる、ように。

 ……眠るように。






                                     了

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この大海を征く ~大幟旗を継ぐ者~ 真澄 涼 @masumi_RYOU

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