竜笛の音色

 夏の重たげな夜風が、じわりと吹き込んでくる。……半月ほどの間に季節は移ろいでいた。

 結い上げた黒髪。紅指した唇は茱萸ぐみのように。丸みを帯びたしなやかな肩、腰つき。衣擦れに袖から匂いやかに香る……。

 鄭妃ていひ

 色事めいたしぐさも、言葉も、何ひとつ交わさなかった。それでも綜白は、思い返すたびに幾度交わすための言葉を紡ごうとしたか知れない。

 ……だが、現実うつつと同じように、何を語ろうとしても言葉にはならず、否、そもそも語るに相応しい何事も思い描くことができないのだった。

 竜笛よこふえの音色が、夜風に乗って居室へやに届く。この闇夜に、何の風情を求める者があるのか。

 竜笛は偉柳が得手とする。綜白はそれを思い、書きかけの文書をおいた。

 その音色が近づき、やがて止んだ。それがごく近くのように感じられた。

 綜白は露台に面して開け放した扉から現れた人物を見て息を飲んだ。

「久しいな、綜白殿?」

 半月ほど前、偉柳が洋上にあると言ったはずの托陽である。彼の手には竜笛がある。

「幻でも見たような顔をされているな。いかがした」

「……洋上にあると聞き及んでいたのです。それで」

 夜更けに、この地官の庁舎の奥にある官吏の執務室にまでひとりで入り込むことのできるとは。

「それで?」

 聞き返されて、仕方なく綜白は答えた。

「……呆れているのです」

 托陽や柔らかく、忍びやかに笑んだ。それを見て、綜白は気付いた。

 己は、この男を好ましいと思っているのだと。

 生まれてから周囲には疎まれて煙たがられて生きて来た。何をせずともそうだから、煙たい存在になろうとしたし、そして周囲をそれ以上に煙たく煩わしく感じていた。

 だが、托陽を、そのようには感じない。

 好ましい、と思う。

嗣子あこが洋上にあるのでな。伊都を空にはできませぬ」

 相変わらず、身分相応とは思えぬ身形で言う。いつものように、托陽は椅子いしに腰掛けた。

「綜白殿。以前、貴方にお伝えできることがある、と私は申しました。覚えておられるか」

 言われてみれば、それは初めて会ったとき別れ際にそのようなことを聞いたように思う。しばらく忘れていたが、思えばその言葉こそが「揮尚の托陽」の人となりを気に掛けるようになった一因だったかもしれない。

 綜白は勝手にその意味を鄭妃のことを教えられた、そのことだと解釈していたのだった。

「私は今、南海に向かう港を手にしている。良い地相を持つ、港街まちです。この王国でも随一の大都みやことなった。……その程近く、海から回り込んで半日とかからぬ土地に、邸宅やしき……寮がございます」

「華家の……御方がお住まいと伺っております」

 托陽の言わんとしていることが、見えてこない。その姫君、揺瑛は噂の渦中、今なぜそれを話題とする。

 彼の表情かおが、悪戯めいている。あのときのように。

 托陽は懐から折紙おりがみされた文書を出した。その折形おりかたの様式は公式のもの、地官たる綜白の見慣れたものである。

「その『華家の寮』の地券にございます。お納めくださいますよう」

 ぼんやりとその言葉を聞いた綜白はいつも扱うように文書の折形を開いて、地券を改めた。

 確かに、華家の寮とされる邸宅の地券、権利書である。のろのろと綜白は壁の書棚たなに収められた分厚く綴じられた底簿きろくの書籍をひとつ、紐解いた。……いつものように、その書式と内容を照合する。

「どういうことです」

「その台帳の通り。かの寮は一度も華家の所有であったためしはございませぬ」

「そうではありません、家屋、土地のみならず、家人、侍女、……主人あるじまで譲り渡すなど! これでは姫君を差し出すというのと同じではないか」

「……あの寮は元は私のさいの物。だがそれは、主上から賜ったのです」

 綜白は目を見開いた。では、噂は真実まことであったのだろうか。そして華家の都合で内宮へと送られる姫君を、その前に己に受け渡すとでもいうのか。

「なぜ、私なのです」

 托陽は腕を組んだ。少し考える。

「このところ、身辺まわりが騒がしいのです。いろいろと、整えなくてはならぬことが多い。……それでも、もうすぐ終わることなのですが」

 佩いた太刀を、綜白に差し出した。あの日と同じ物を、同じように。

「これを受け取るがよろしい。貴方に、伊都を……お任せします」

 托陽には嗣子わかぎみがある。今、洋上にあるという。

 だが、托陽は太刀を綜白に押し付けるように渡して、露台から出て行った。……あとは偉柳殿に竜笛をお返しするのみ、と。

 訳もわからず、その夜、綜白は官邸へと戻らずに太刀を抱えたまま地官の一室で暁天あかつきを見た。

 明けてその日、綜白を地官を訪問した天官の使者が携えた令書には、曰く、尚氏所有伊都市舶司に任ずる旨が認められていた。

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