朋輩と酒を

 偉柳が、綜白の官邸やしきを訪ねてきた。宴の席ではない場所で会うのはこれがはじめてだ。

「ほぅ。地官の官邸は慎ましやかで使い勝手がよさそうだなあ。余計な装飾かざりがない」

 単に綜白が手入れの手間を考えて求めないだけなのだが、大仰にも感嘆の声を上げた。ともすれば嫌味ともなるようなことだが、偉柳の言いようはそれを感じない。

 まだ日は高いが、酒を用意させた。偉柳に会うのに、酔わねばおかしな気がしたから。

 綜白があの宴から二日ほど登庁していないことを知って、心配してやってきたのだという。

「何か、あったのか」

 何もないとも言えるし、あるとも言えた。それよりも気になったのは偉柳が尋ねてきた理由だった。

 偉柳は気持ちのよい男だと思う。だがこの王宮では、親しく誼を得た者にいくら注意しても足りない。この男の背後に何者かがあるのか、よくよく見定めねばならぬ。

 そう思いながら、托陽と親しくなったときに、これほど気をつかっただろうかとも思う。

 その顔色を読んだが、偉柳は言葉を続ける。

「私は綜白殿を好もしく思っているのだ。だから言うが、あの夜の宴は、てい尚侍ないしもとめたものだったのだ。……綜白殿の舞を見たいと仰せになってな」

 そのくらいのことはすでに気付いていた。何しろ宴を主催したのは偉柳の義兄あにである。日頃の宴では良く言葉を交わすから、そのつなぎに偉柳が選ばれたのだろう。

「私の義妹いもうとが、鄭尚侍の女士じょしなのだ」

 焦れたのか、偉柳は手の内を明かした。

「偉柳殿。それを仰られては」

「いいのだ。私は朋輩ともと見定めたのだ。だから言う」

 酒席でない偉柳は意外にも強引な男だったらしい。色の白いその容貌からは想像もつかなかったが。

 華氏からは二人の姫が宮中に召されているという。それぞれの派閥の思惑と策略を背負って姫君は入内する。だが、偉柳はどちらの派にも属していない。そのことに綜白は気付いていたし、不思議に思わないでもなかった。

 女士じょしとは妃の教養や礼儀の師として仕える女官である。鄭尚侍には女士がついているというのが、妃として宮中で重んじられている証ともいえた。

「女士仕えなど形ばかりだ。公式には尚侍であるから仕える下女の数が限られるし、女御じょごがおけない。それに尚侍は女史であられたから、礼法など今更だ」

 女士の上役が女史である。下官に任じて侍女として使っているということか。

「偉柳殿。華家の派閥には……関わらぬおつもりか」

「殿、はいらぬ。……まぁ、そういうことになるか。だが、鄭氏につく、というのも違う」

 偉柳は瓷杯さかずきに酒を注いで飲み干した。

「綜白。鄭妃は……本当は鄭氏の御方ではないのだ」

「なんだと?」

「驚くだろうな。だが事実まことだ。……出自もわからぬ」

 綜白に、彼女の声が蘇った。

 ……私も、同じ。

 そう、言ってはいなかったか。

「そんな女が、今、宮中の権を握っているのだ。ただ、主上の寝所に侍るだけで。御世長くはないのかも知れぬ」

 托陽は、知っているのだろうか。鄭妃という女を綜白に教えたのは、他ならぬ托陽だった。そのとき綜白は己の今があるのは、鄭妃が鄭氏の地位を引き上げるためだったのだと解釈した。托陽はそれを否定しなかった。

「綜白、もう一度聞く。あの宴の夜、何かあったのではないか?」

 綜白は今度は答える気になった。ここまで明かした者に、朋輩ともだと見定められた者に、すべてを噤むこともない。……そもそもたいしたことはない。鄭尚侍の

宵のそぞろ歩きに随従申し上げた、それだけだ。

「それだけ? 本当に?」

「ずいぶん、念を押すのだな」

 身を乗り出して真剣な表情で顔を覗きこんでくる偉柳に気圧されて、いつもの涼しい顔ができない。

媾合まぐわいてはないだろうな?」

「は?」

いてないな?」

「ななな。何を。そんなことができるはずもない」

 衿元を掴みかからんとする勢いの偉柳の様子に、返す言葉も口が回らない。だが偉柳は綜白のをじっと見て、嘘か真実まことかを見抜こうとしている。

 やがて偉柳は椅子に深く腰掛け直した。ひとつ息を吐く。

「……そうだな。くだらぬことを訊いた……」

「なんなのだ、いったい」

庭苑そのを巡って、……それで何か、話したか?」

「いや。ただ、歩いていた。花の様子があまりに妖艶で、……一言も言葉を交わさなかった」

 偉柳は安堵とも呆れともとれぬ表情かおをした。

「なんだ、見た目の通り堅物だな。いや、今回ばかりはそのほうがよかっただろうよ」

 酒ではなく、水瓶すいびょうに手を伸ばして、瓷杯さかずきになみなみと注いだ。飲み込んで空に眼を漂わせる。偉柳は一度に疲れ切ったように見えた。

「偉柳。その……鄭尚侍は主上の夜伽のひめ、だろう。そのことと何か関わりがあるのか。つまり、そういうことが以前にあったとか」

 偉柳は首を振った。

「……何から話せばよいか、分からぬ。……とにかく、綜白、別字を持っていただろう。その、殿試の際に主上からお言葉を賜ったとかいう」

 揶揄が過分に含まれているものだから、偉柳はかなりぼかして話しだした。気遣いは有難いがそれでは話が進まないので気にするなと言う。

「思うに嘘だろう、きっと。主上ではなく、鄭妃が言葉をくだした。違うか」

「……あぁ、実はあまりのことに呆然として詳しくは覚えてもいないのだ。だが、女の声でいくつか尋ねられたように思う」

「にわかに、殿試を見たいと鄭妃が望んで、だが尚侍が入れるような場所ではないからな。主上がお出ましになられたそうだ。……どれほどの寵愛ぶりか、わかるだろう。その寵妃に手を出したなんて知れれば、失脚は免れまい」

「手など出せぬ」

 出さぬとも、と偉柳は苦い顔をした。綜白にもその表情の理由わけは分かる。官府は違っても、猾吏の考えることはどこまでも似通ったものだ。

 見る者があれば、媾曳あいびきのようだろう。

 ……親しい朋輩とも義兄あにが催した宴席に示し合わせて、逢瀬を重ねる。そんな噂が立ってもおかしくないのだ。

 それが真実まことであれなんであれ、この宮中では噂というものは人を追い落とすことのできる最も確実な手立てだった。

「偉柳はなぜ、鄭尚侍と私がいたなどと思ったのだ」

 偉柳は少し考えて、だがもたれていた背を正した。綜白は偉柳の杯に酒を注いだ。

「綜白、まだ酔ってないな? 酔うているなら話せぬ」

 こんなに酒癖の悪い男だと思わなかった、と笑う。

 酔って舞い始め、それが宮中で評判になるような男だったとは。それは綜白自身も思ったこともないが、そう思われても仕方ないと今なら思う。

「こうなれば私は朋輩おまえ運命さだめを共にする。そのつもりで聞いてくれ。……鄭妃は孕んでいる」

 偉柳は未だ内宮でもほとんど知る者のない秘事ひめごとを漏らした。

 主上には皇女ひめがあるほか、皇子みこの誕生は未だない。男御子であれば、すぐに太子ひつぎのみことして立つことになってもおかしくはない。

「先の宴は鄭妃の気晴らしのために催したのだ。それで宮中でも評判の綜白の舞を御覧に入れよ、と義兄あにの命でな」

 ところが宴から戻って二日、鄭妃の様子がおかしい。孕むと気鬱になることもあれば、悪阻つわりに悩むことも普通だから、義妹はさほど気にしていなかったのだという。

 鄭妃の不快を聞いて、王帝は特に召さなかった。孕んでからは話相手だけでも望んでいたが、悪阻となればさすがに御身を大事に、と伝えられたきりである。

 ところが宮中に数多ある貴妃の一人が、鄭妃がお忍びで内宮を退出して華家の官邸で催された宴に出たのを知って騒ぎたてた。

 鄭妃は一の寵妃、傷を付けておきたくて不平や中傷を言う貴妃はいくらもある。

 折悪しく悪阻でお召しに応じなかったことも、事情ことを知らぬその貴妃にとってはつけ入る隙、に見えたのだろう。主上に真実まこと心を込めてお仕えする者であれば、そう度々宮中を抜け出すことができるはずもない、と主上に直に訴えた。

「度々? 先日の宴だけではなく?」

「鄭妃と呼ばれて内宮の殿舎に住まってはおられるが、尚侍だからな。公務があれば出入りするだろう」

 問題は王帝の耳に入ったということである。とはいえ、この程度のこと、権勢誇る鄭妃のこと、自ら収めてしまうはずだ。

 だが、鄭妃は動こうとしない。どういうつもりか、いつものようには指示を下さず、捨て置け、という。よほどの物思いにとらわれているようだ。それで偉柳の義妹は宴で何かがあったのだと考えた。

 ……噂の舞君、鄭綜白に心奪われたのではないかと。

「なんだその舞君というのは」

「知らぬのか。ここのところ、あちらこちらと宴に招かれて舞を披露しているではないか。そうしたの邸宅の侍女らが、ひそかにそう呼んでいるというぞ」

 思わぬことに綜白は顔をしかめた。

「……それで、なぜそこで私の名が出てくるのだ」

「それはよく分からぬ。だが鄭妃が殿試に鄭氏のかばねを見つけてから、気に掛けておられたのは確かだ。……心当たりはないのか?」

 ない。はじめは鄭妃が己の出自とする氏族の地位を引き上げるためだと思った。だが鄭妃は、その出自など分からぬただの女なのだという。

 それは綜白の境遇と同じではあるが、だからといって理由には乏しいように思えた。そもそも鄭妃とその名を冠して持つならば、鄭氏の所縁ゆかりであることは確かだろう。ならばどんどん鄭氏を己の周辺まわりに用いればよいのだ。官の処々に鄭氏を入りこませて高官に召し上げれば、己の地位の安泰につながる。

 だが、綜白は己の交際範囲まわり、つまり大夫として官庁にあって、鄭氏を名乗る人物に会ったことがない。綜白が鄭氏にしては異例の存在だった。

 そのとおりだ、と偉柳は頷いた。

「偉柳。托陽殿を知っているか」

「托陽殿? 揮尚の托陽殿か。大僕の」

「彼は……華家ではどう関わっておられる」

 偉柳は首をかしげた。偉柳に聞くのは適当でなかったかも知れない。托陽は春官侍礼宗伯の宴で見かけたから、つまり侍礼宗伯の派についているということだ。対して偉柳は派閥には属していないようなものだ。

「綜白? 何か知っているのか? 確かに侍礼宗伯の宴にはおられたようだが。今は洋上にあるだろう。……逃れた、というべきか」

「逃れる?」

「……噂が広まったから、逃げたのだろう。主上の命かも知れぬ」

 ここ二ヶ月ほど囁かれる噂がある。托陽の姫君のことである。

 華家に嫁いだが、寡婦となった。揺瑛ようえい、という。亡き母御によく似た美形で、今は伊都から離れた華家の寮でひっそりと過ごしている。

 噂は、その揺瑛の母のことだという。

 名を玉雲ぎょくうんと言った。王の正妃たる王后玲凛れいりんの侍女と

して鄭氏から召された。

 玉雲が托陽に出会い、妻女となって生まれたのが揺瑛である。それだけなら何の不思議もないが、玉雲が王后の元を退出して托陽に嫁いだとき、すでに彼女は身籠っていたのだという。

 その頃、王帝はまだ太子ひつぎのみこであった。王后は太子妃とはいえ、内宮の殿舎にその居を得ていた。

 内宮は後宮、北宮ほくぐうともいう。この内宮に仕える女が、誰彼と簡単に出会える機会があるはずもない。玉雲が托陽と出会ったのは、彼が太子の射人ごえいであったためだろう。

 玉雲は美しく気立てもよかった。王后もそれを気に入り、常に傍らに置いた。……王帝となった太子の目に触れることもあっただろう。

 やがて先王は崩御し、慣例ならいでは即位の際に正妃を定め立后となる。そんな宮中の慌しい最中に、玉雲は退出した。

「つまり、玉雲殿は主上の御子を身籠っていたというのか?」

 玉雲の出自が鄭氏にあるのだと聞き、托陽が己を気に掛けるのはそのためだろうかと思いながら、綜白は尋ねた。

「……そういう噂が立ったのだ。御即位の前、玉雲殿の腹が目立たぬうちに大僕に払い下げ渡されたのだとな。知られてからでは体裁が悪かろう。主上には異母兄弟が多いから、難しい判断をなされたのだと。私は信じてはおらぬ。……主上は王后様を大切にしておられたから」

 王后が亡くなり、十年が経とうとしている。

「だが、ずいぶんと以前の話だろう。今更なぜ噂になったのだ」

「綜白は揺瑛殿にお会いしたことがあるか?」

「いや」

「私もしばらくお目にかかっていないが……。そうだな、夫君であった月進げっしん殿の葬儀にお会いしたのが最後だ。悲しみにくれて、だがそれがなにやらいっそう美しく見えた」

「不謹慎だな。亡き母御に良く似た美しい御方だと聞くが、お会いしたことはない」

 偉柳は意外な表情をしている。

「托陽殿と親しいのではなかったのか。本当に堅い男だ。美しい、それも寡婦、親しき人物の姫君とくれば、くどき落とすのに不都合があるか」

 それでいまだ独り身なのか、と偉柳は笑った。とにかく揺瑛殿を掌中に入れるなら早い方が良い、という。

 偉柳は托陽と綜白が親しくしているのは、美人の姫君を得るためだと思っていたようだ。だが一度華家に入った女を得るにその父から当たるのは、遠回りだろう。

「なぜ早い方が良いのだ」

「なぜ、とはつまり。噂が今頃になって立った理由だ。玉雲殿が……真実まこと主上の御手掛けであられたなら。それに正妃も今はおられぬから、気兼ねされる方面むきももうない。よく似た姫をもとめられてもおかしくはないだろう。この噂は揺瑛殿の入内を妨げようとする連中が、敢えて流したのだと、私は思っているのだ」

 噂の通りなら、揺瑛は王帝の御胤たね、ということだ。事実まことはどうあれ、それだけの噂が立ったなら、入内を反対する大儀となり得る。

「それで、……偉柳はいかがする」

 偉柳は華家の派閥に属さずとも、このまま鄭妃が生む御子が男御子であればよい。だが。

 鄭妃が生む御子が姫御子であったなら、さらに王帝に新しく寵愛する貴妃が入内してしまったなら。

 そしてその貴妃に男御子が生まれたしまったら。

 ……偉柳は危うい権力の綱上を渡っている。

 鄭妃と呼ばれる女は尚侍ではあるがその実、なんの後ろ盾もない。一方で揺瑛は需められて内宮に入っても寡婦であるから貴妃とはされまい。おそらくは鄭妃と同様に女官としての位を賜って、形式かたちでは「出仕」することになるだろう。

 華氏の寡婦である揺瑛と、華家傍流の偉柳。血縁つながりを頼みにはできまい。

 だが、托陽と親しくしている綜白を通じて、繋がりを持つことはできるかも知れなかった。

 偉柳は首を振った。

 ただ、派閥に属さずに、この宮中を渡るのは、存外にからいものなのだ、とだけ言った。

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