夜に咲く花

 宴に招かれることが多くなった。

 舞を所望される。

 春官の知人が増えた。

 托陽にはあれから会っていない。また南海へと海船ふねを出したのだろう。

 当然ながら春官には華氏の者が多い。彼等の噂話に付き合うと、華氏の内々のことまで知るようになった。

 地官は地に基づく権を有するために、それは実際的な力を有していると言えたが、春官は違う。祭礼のためには必然、国の秩序のためにあらねばならぬ官だが、実権に乏しい。

 そのためか有事においても平時においても、権力を争うのは他官とではなく、春官内部、特に同じ華氏の他家と派閥を形成しては争っているようだった。

 綜白はたかが地官の中大夫だが、なにしろ殿声でんせいという別字の由来を知らぬ者はない。加えて先の侍礼宗伯の宴で舞を嗜むと知れ渡り、これ幸いと宴に招きたがる。春官は皆、一人でも多く実権を持つ地官を自派に引き入れたいのだ。

 さほど宴が魅力的だとは思わない。だが、以前のように上官に取り入るために宴を渡り歩くよりはいい。

 出席に応じるのはその程度の理由である。……敢えていえば、托陽のことが気に掛かるからだ。

 托陽が裏で動いているのかも知れない、そう考えてよいものか、綜白には単純にそうは思えなかった。

 宴に出るように促したのは間違いなく托陽だった。その後の春官侍礼宗伯からの宴の誘いも、関わりがないはずがない。

 腑に落ちないのは、托陽と侍礼宗伯との関わり。

 いくら托陽の姫君が華家に入っていても、侍礼宗伯との繋がりが深いとは言えない。侍礼宗伯は華家本家の家主あるじで、派閥で言えば同じなのかも知れないが、姫君の夫君はすでに他界している。

「……『ただうそぶく 管弦覚束なしと』」

 綜白が顔を上げた際にあった顔は見知った春官の一人。偉柳いりゅうである。

 同じ年に生れたことを知ってから、宴に居合わせると声を掛けてくるようになった。色は白いが、酒を含むと見る間に頬を赤く染める。そのくせいくら呑んでも酔うことがない。

「私も綜白殿のように酒に酔って、吟じて舞を披露したく思うのですが、今宵もまた酔えずにいるのです」

「ははぁ。それでは貴方が酔うのは、いづこかの女性ひと。ということですか?」

 綜白はいつものように軽くかわすつもりでいた。

「これは。やはり私の想いは秘めても隠し切れるものではないということでしょうか。今宵は簾中れんちゅうに『宝玉』の気配がございますゆえ」

 偉柳は綜白の背後の御簾に怪しげな目線を流して言う。それで起こった微かな笑う気配に、初めて女性ひとの在るを知った。

「偉柳殿、せっかくの物思いですけれど。どこまでも隠し切っていただかなくては、応えることはできませんの」

 忍びやかな笑い含みの声が、いたずらめいて返ってきた。若い郎女いらつめではなく、相応の落ち着きある玲瓏たる美女を想わせる。

「これは手厳しい。ですがいづれ焦がれて、尚侍ないし殿のお姿を求めて内宮ないくうに忍び込むやも知れませぬ」

「まぁ、命懸けのお心、嬉しゅうございますわ」

 綜白は二人の掛け合いをぼんやりと聞いていた。……尚侍殿、と偉柳は呼びかけたのだ……。

「この通り、いつも本気にしていただけないのだ。綜白殿、取り成してくださいませんか」

「偉柳殿、困っておられましょう。私、ご挨拶もしておりませんのに」

 綜白は慌てて礼をとった。尚侍といえば女官の最高位、卿伯けいはくである。

「今宵は忍び、無粋な礼はとるに及びませぬ。……大夫は伺っていた通りのお人柄のようですね」

 優しげな忍び笑いが耳に届く。

「『われ彼地かのちの景色も知らず』」

 綜白は顔を赤らめた。未熟な詩吟をからかわれたように感じたから。簾中の様子はこちらから窺い知ることができないのだ。

 だが、彼女にそのつもりはなかった。

「偉柳殿に伺いました。大夫は故郷を持たぬのだと。……私も、同じ。何やら勝手に慕わしくも懐かしい心地がいたしました。お会いするのを、実はとても楽しみにしておりましたわ。……綜白殿、とお呼びしても、よろしいかしら」

「は。もったいないことでございます」

 偉柳は宴には相応しくないほどに堅くなった綜白に助けのつもりか、口を挟んだ。

「綜白殿。先の宴の折の舞を、尚侍殿に御覧いただいてはいかがか。私も拝見しておりましたが、詠ずる様子もまた雅やかで、日頃の生真面目な綜白殿とは思えぬ程でございました」

 綜白は焦った。酒にも月にも酔わずに、あのような真似ができるはずもない。だが、固辞するほどに期待を持たせてしまい、ひとさし舞わぬわけにはいかなくなった。

 偉柳が竜笛よこふえを奏でた。


 旧来くらい いにしえ想う露台の端

 てん仰ぐ 季春はるの朧月夜

 われ 彼地かのちの景色も知らず

 ただうそぶく 管弦覚束なしと


 音色は見事だった。稚拙な出来の舞だとしても、素晴らしいと見えるとするなら、偉柳の合わせる腕のためだと思った。

 句を詠ずるほどに周囲のざわめきが落ち着き、やがて聞こえるのは笛音ふえのねのみ。……曲を終えるのが惜しまれる、そのときにはひとさし舞い終え、扇を収める。

 御簾越しに、柔らかな微笑みと目が合ったように思った。

 宴もたけなわ、綜白は殿舎の階段きざはしきざはしを降りた。

 舞い終えた後、衆目を浴びて気疲れした上に、酒を勧める者が増えて少し酔っていた。

 さほど人目につかぬように抜け出したつもりで、だから主催あるじの春官に辞する旨を伝えようと、家人か侍女まかたちがいないかと辺りを見回した。

 薄桃色の沙羅うすものの衣を纏った女が佇んでいた。

 侍女と見るには、身に付けている衣の風情が良すぎる。綜白は膝を付いた。

「卿伯……!」

 簾中にあった尚侍だと、わかったのだ。

 尚侍は歩み寄った。

 良く行き届いた、美しい苑である。初夏の今、早咲きの夏花と、遅咲きの春花が数多く咲き競う。

 八重桜、藤、合勧木ねむ、橘、牡丹、石榴、浜梨はまなし、芍薬、薔薇そうび花菖蒲あやめ睡蓮はちす……。

 他にも名の知らぬ、遠方から運ばれたと見える花々。宵に閉じていても、その香りを楽しませるのか。綜白は柔らかく甘い香りがあるのに気付いていた。

「及びませぬ、と申しました。私は酔いました。庭苑そのをそぞろ歩きたく思います」

 一人の伴人ともびともなく、歩かせるわけにはいかない。否、はじめから、そのつもりで待っていたのか。

 苑に回遊する小径こみちを、ゆるりと巡る。月影と、ところどころに用意された篝火かがりしるべである。

 時折、咲く花に足をとめる。分かれ途は、美しい花のある方を選ぶ。

 話すことはしない。何も語らず、歩いた。

 さわさわと涼しげな衣擦れの音。その度に、ふわりと漂う甘い香り。

 この香りは、苑の花ではなく、彼女の袖から薫るのだとわかった。彼女を仄かにも麗しく匂いたたせる。暗がりでは、どれほど見事は玉や装飾かざりよりも、女を美しくさせる。

 艶やかに匂い、咲き乱れる花。

 夜に咲く花。

 その本当の意味に綜白は気付いた。

 宮中で「鄭妃ていひ」と呼ばれる女は、美しい花だと思った。

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