出立前夜(5)
教えろ、教えない、の押し問答をしばらく続けたあと、平行線のまま互いにひとつ苦笑交じりのため息を吐いたところで、店内に再び静けさが下りてきた。
馴染んだ仲だからこそ起こる、互いの間を理解しあった上での、穏やかな沈黙。そのはずなのだが、今日はなぜか、ほんの少しだけ、重苦しい。
よいしょ、と小さな呟きと共に、穣が姿勢を崩した。畳に両手を置き、体重を預けるようにして、ゆるりと視線を天井に向かわせている。それに合わせるように、幹太もジョッキを脇にどけ、片肘を机についた。酔いの回った頭で、幹太は穣を見遣る。幹太と二人でいる時に良く見せる穣の癖、いつもと同じようにリラックスした姿。その内側に、どこかひりりと張りつめた、落ち着きのなさにも似た何かを感じ取る。
「何だよ、今更緊張してきたのか」
「ん?」
口端を持ち上げたまま冗談めかした声をかけると、わずかに焦りと驚きを含んだ表情で、穣が視線を合わせてきた。整った顔立ちに浮かぶその表情が面白く、幹太は小さく噴き出す。
「なに、ピリピリしてんだよ」
「していたか?」
「ああ、思いっきり」
幹太がからかい交じりに告げると、穣は苦笑を浮かべながら小さく唸った。眉根を下げ、ほんの少し視線をそらして、目の脇を掻く。その仕草を見ながら、幹太の胸の奥にはわずかな安堵が広がった。
「幹太、今日はどっちに帰るんだ」
「ん?」
穣の唐突な物言いに、今度は幹太が目を丸くする番だった。どっちに、の意味へと数秒考えを回し、やがて思い当たる。このラーメン屋を出て数十分も歩けば着く実家か、社会人になってから長らく居を構えている、三つ隣の町の単身者用アパートか。帰るといえば、それくらいしか思い当たらない。
「や、普通に家に、……アパートに帰るつもりだったけど。まだバスも電車もあるし」
壁掛け時計に視線を送り時間を確認すると、幹太は小さく首をひねった。
「穣は、今日もおじさんとおばさんのところに泊まるんだろ」
「ああ。明日の朝早くに発つ」
幹太の実家と穣の実家は、徒歩で数分もしない距離にある。親同士も見知った仲で、昔から家族同然の付き合いをしてきた。息子たちがそれぞれ家を出た今でも、母親たちは数日に一度は互いに招きあって話をする関係だ、とは、数年前に電話で聞いた。
「おじさんとおばさんは元気か」
「ああ。少し年を取ったけどな」
「そうか。ご無沙汰しているなぁ」
「お前のことも話題に上ったぞ。近くまで来るのに全然家には帰ってこないって、おばさんが嘆いていたってさ」
ずばりと突かれ、幹太は押し黙った。なるほど、先ほどの言葉の真意はこれか。幹太もまさに丁度、そのことに思いを回していた。用事があれば電話やメールはするが、ここ二、三年は盆や正月すら実家に帰っていない。
小さく唸りながら思わず視線を逸らすと、穣が喉の奥で笑う声が、耳に届いた。
「たまには顔を見せてやったらどうだ」
「や、いきなり帰ってもよ、……ほら、支度とか、その、さ」
「ちょっと立ち寄るだけでも違うって、たぶんな」
言い訳がましく口の中でもごもごと答えた言葉に、穣が明朗に返す。敵わないと悟り、幹太が顔を上げると、微笑を浮かべながらこちらをまっすぐ見つめる、穣の深い茶色の瞳があった。
その顔に、ふ、と陰りがかかったように、幹太には見えた。
「大事にしてやれよ。……この年になっても心配してくれるのなんて、家族くらいしかいないぞ」
言いながら、穣が壁の落書きへと視線を逸らす。こんな穣の態度は、今まで見たことがなかった。幹太が目を丸くしている間に、穣が視線は合わせないまま、もう一度口を開いた。
「俺が居ない間、うちの親父とおふくろを、よろしく頼むな」
一瞬、幹太の中の時間が凍り付いた。耳に届いた言葉が、胸の中にじわりと忍び込み、だんだんと重みを増してくる。
「……んだよ、突然に」
明るく、冗談めかして言うつもりだったが、喉の奥から絞り出した声は、どこかひきつったような色味を帯びていた。
言葉で形容しがたい冷たさが、体全体にまとわりついてくるようだ。
なんだよ、おじさんとおばさんに会ってびびっちまったか。やっぱり宇宙には行きません、地球でのんびり過ごします、だなんて言い出すんじゃないだろうな。
心に浮かぶ
目の前の穣も、次の言葉を発する気配はない。
テレビではじける爆笑の声と、ざぁざぁと鳴り響く水音が、背後から届く。おっちゃん、今日はずいぶんと水の量が多いな、そんなに洗い物が多いのか。
何かを冗談めかして話し続けるか、さもなければ叫びださなければ吐き出せそうにない感情の塊が、幹太の胸の奥で急速に出来上がっていった。
星の彼方へ 轂 冴凪 @shorearobusta
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