出立前夜(4)
ふとした沈黙が落ちて、行き場のなくなった視線をテレビに送る。先ほど番組に出ていたアイドルの顔が見えた。笑顔を振りまいてはしゃいでいた幼さはなく、髪を下ろして風になびかせ、わずかに顎を持ち上げた色気のある表情で唇に紅を引く。売り文句に続けて、何色もの新製品がクローズアップされる。正直に言えば、幹太には「濃い赤」や「ピンクっぽい」程度の色の差としか認識できない。などとうっかり口を滑らせるから、同僚や後輩といった女性陣にこっぴどくブーイングを受けるのだろうか。と、普段の会社での自分の立ち位置を思い返してため息を吐く。穣ならきっと、女性受けする――いや、万人に愛される立ち回りを、ごく自然にすることができるのだろう。
「そういやさ」
穣の声で、幹太の心は引き戻された。視線を相手へ向けると、入れ違いのように穣もテレビの方へと眼を遣っていた。彼の手元は数本のラーメンを掴んではいるものの、口へ運ぶ気配もない。空耳か、と思いかけた瞬間、穣がするりと視線を戻し、徐に口を開いた。
「幹太さ、好い人はいるのか」
「は?」
思いがけない言葉に、幹太の喉から気の抜けた声が出た。思わず相手をまじまじと見つめる。穣の丸い深茶色の瞳が、いつものように好奇心を宿して見返してくる。たった数秒も耐え切れず、幹太は視線を外し、ラーメン屋の内装へと向けた。あんなところに染みがあったのか。などと、適当に思考を散らしながら。
「いや、んなもん居ないよ、仕事が忙しくて」
親友と呼ぶ相手にそんな話題を切り出されるとは思いもよらず、幹太はちりりとした気まずさに、手探りで水の入ったグラスを掴んだ。汗をかいたグラスは氷も融け、一息に煽ると、ぬるい感触を口と喉に残していった。
「そろそろ良い年になってきたんじゃないか、俺達」
穣は気づいているのかいないのか、呑気に口にする。ちらりと見遣ると、どうやら次のCMを眺めているらしい。幹太は落ち着かない気持ちのまま、空になったグラスをやや強めに机へ戻した。
「30代の結婚なんて、何十年も前から普通だろ。別にいいんだよ。そういうお前はどうなんだよ、あちこちから引く手あまただろ」
ほんの少し毒を混ぜた言い方に、穣の視線が戻ってきた。不思議そうに瞬きをした後、穣は、いや、と小さく呟いた。
「居ないし予定もない。下手したら十数年は離れ離れだろ。地球に帰って来られるかどうかも確約できない。だから俺は、家族は持たないまま行くよ」
まっすぐな、一つの迷いもない瞳。簡潔にまとめられた言葉。テレビの中で見る「宇宙飛行士、武田穣」の姿が目の前にあった。その姿から、目を逸らすことができない。喉元を通り過ぎたはずの水が、思い出したように冷たさを残していく。後ろのテレビが、賑やかな音楽を立てた。
いったいどんな表情を相手に向けていたのだろう。穣がふっと苦笑いを浮かべ、きんとした空気を緩めた。
「まあ、もっと早くに相手を見つけていれば、また別だっただろうけれどな。今回のクルーで独身なのは、俺ともう一人くらいだし。宇宙局も、クルーの家族のサポートは重要なミッションと考えているんだ」
「ふぅん。……ま、とにかく、むしろお前の方が条件としては悪くなるってことだな、帰ってきたら40代のおっちゃんだもんな」
わざと明るく冗談めかして言った幹太に、穣は余裕のある笑みを返してきた。
「さて、それはどうかな。お前より若くなるかもしれないぞ」
「はいはい、そりゃさっきも聞きましたよ、っと」
もう少しだけ酔いたくなって、幹太は片手を上げると、おっちゃん、ビールもう一杯、と店主の背中へ声をかけた。テレビにかじりついていた店主が、生返事と共にのろのろと腰を上げる。よくよくテレビを見ると、かつて名を馳せた往年の女性俳優の姿が、クイズ番組の片隅に映っていた。
ずるり、という音と、小さなうめき声のようなものが聞こえ、幹太はテーブルへと視線を戻す。穣が空の箸を手にし、咀嚼しながら片眉をあげている。
「伸びた」
「無駄話をしているからだろ」
届けられたジョッキを手にし、幹太は即座に喉に流し込む。適度な苦みが、胸の奥の淀んだ感覚を胃へ流し去っていった。
「幹太、お前、そんなに飲んで大丈夫か」
「まだ二杯目だ。夜風に当たれば醒めるだろ」
「ふぅん」
穣が器の底に残っていた麺を箸で掬い上げ、そしてしばしの逡巡の後、スープの中へと戻した。代わりにと言わんばかりに顔を上げるまでを、幹太はぼんやりと眺めていた。
「で。お前の好みってどういう奴なんだ」
ビールが気管に入りかけ、幹太は誤魔化すように固くなった餃子を口に放り込んだ。
「誰が教えるか」
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