いかにして、レビューが可能であるか?

レビューを書こうとする度に、それがもう不可能であるかのような無力感にいつも直面することになります。

例えば、スピノザは罪もなく悪もなく、ただよい出会いとわるい出会いがあるだけだと、語ります。
わたしたちは作品に出会ったとしてそれがよい悪いという権利は当然なく、それが自分にとってよい出会いかわるい出会いかについて表現できるだけなのかもしれません。
けれどそれを言語化するときに、その表現はいつも超越的審査機関のごとき思考に絡めとられてしまうように思います。
だとすれば、わたしたちは思考の中にある超越的な審査機関について懐疑を持つべきですし、それは某かの錯誤が産み出すものだと思えるわけです。

わたしたちが書くという行為において、その超越的審査機関の介入を逃れるすべがあるのだろうかと思いめぐらすとき、ありうべきひとつの戦略として「開かれた」言葉で書くということがあります。
そしてそれは、「あの映画は本当に面白かったのか?」という作品において、とても練り込まれた形で見ることができます。
わたしたちはここでひとつのアポリアに対する解を、見いだすでしょう。
つまり、線として積み上げられた文章ではなく、様々に浮遊し迷宮のように出口を見いだせない文章にこそ新たなる可能性を見いだせるのです。

ドゥルーズは、シネマという映画に関する長大な論文を書いていますが、その中で「時間結晶」というとても美しいことばを使っています。
そこで結晶はふたつの方向に、分岐すると語られます。
わたしたちが未来に向かう時には、現働的イメージと潜在的イメージが重なりあい融合するような結晶の分岐の中にいるのでしょう。

未来に向かうには、演劇の中から一歩踏み出す必要があるのですから。





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