第2話 知らない着信音

 最初は誰のことだろうと思った。

 でも、彼女の奇麗な指が僕を指差す。一斉に集まる視線。さっき財布に悪戯された事に気付かなかったおじさんすらも、怪訝な目つきで見つめるに至って、僕の事だと理解した。

 でも、それはあくまで僕が痴漢容疑で疑われている、ということだけ。

 当然だけど、僕は混乱の極みに陥った。

(えええええええ!? 僕が痴漢―っ!?)

 驚くばかりで否定の言葉すら出てこないのは自分でも呆れるけど、頭の中を様々な「どうして?」が飛び交うばかりで、まともな対応が出来ない。

 どうして、彼女はそんな事を言うのだろう?

 どうして、僕は痴漢と間違えられたのだろう?

 どうして、こうなったのだろう?

 どうして、僕がこんなに困っているのに、彼女は微笑んでいるんだろう?

 そんな事を考えていたら、駅の階段を駆け上がってくる制服姿の男の人たちが見えた。僕を捕まえに来たのだろう。よ、よし、ここはちゃんと事情を説明して誤解を解かなければ。

 と、思ったにも関わらず、次の瞬間、僕は咄嗟に車内から飛び出して、男たちが上ってくる階段とは逆方向にある階段に向かって駆け出していた。

(おおい! 逃げてどうするよ、僕!? これじゃあ僕が本当に痴漢をやったみたいじゃないかぁぁぁ!!)

 すかさず自分の行動にツッコミを入れるも、僕は必死になって走る。

 咄嗟に思い出したんだ、痴漢の冤罪を実証するのはとても難しいって事を。いくら僕がやってないと主張しても、彼女が痴漢されたと言い放ったら、僕に勝ち目はほとんどない。捕まってしまったら最後。抵抗するなら今しかないと思った。

 僕が向かった階段は、幸いにもそれほど混雑してなかった。僕は巧みに行き交う人々を避けながら全速力で駆け下りると、改札口をハードル競争の要領で飛び越える。駅員が慌てて声をかけてきたけど、全力で無視して見知らぬ街を駆け抜けた。

 あとはもう無我夢中だ。

 後ろを振り返る余裕すらなく、ただひたすら体力の許す限り逃げ続けた。


 どこをどうやって走り抜けたのかなんて覚えていない。

 気がつけば僕は路地裏の壁にもたれながら、乱れきった呼吸を整えていた。

 一体何がなにやら、わけがわからない。

 僕はただ電車が揺れてよろめいた彼女を受け止めただけで、確かに押し当てられた胸の感触を楽しむようなことはしたし、「あ、思ってたよりもおっぱい大きい。ラッキー」なんて思ったけれどそれは故意ではなく偶然で、決して痴漢呼ばわりされるような意図はまったくなく……。

 逃走中、脳裏を駆け巡った言い訳が今もまたヘビーローテーションしかける。慌てて僕は頭を振って、もっと建設的な考えに思考を向けた。

 まずは状況の把握からしていこう。


 今は夏休み。にも関わらず、僕は定期のSUICAを使って朝の通勤電車に乗り込んだ。

 目的はスリまがいの悪戯で、スリルやら義賊気分を楽しむため。ちなみに真夏だと言うのに長袖の大きめのシャツを着ているのは、袖口にシールを仕込んでおいたり、スった財布を素早く隠すためだ。

 ところが電車の中でたまたま居合わせたスーツ姿の女の子(最初はお姉さんと呼んでたけど、僕と同じぐらいの年齢だと思うから女の子でいいだろう)が、僕を痴漢だと訴えてきた。

 もちろん僕はやってない。冤罪。痴漢ダメ絶対。

 でも、僕の主張が聞き入れられる可能性が低いと思ったので逃げる事にした。

 今まで降りたことのない街を闇雲に走りまわり、なんとか逃走には成功した模様←今ここ。

 

 うわん。我ながら状況は最悪だ。

 夏休みだから学校の制服も着てないし、鞄なども持ってない。身元を割り出すのは難しいだろうと一瞬思ったものの、記名した磁気カードの定期を使っている。と言うことは、防犯カメラから僕の顔を認識し、どの駅で乗ったのかを探し当てれば、あとはその時間帯の磁気カードの使用データを参照すれば一発だ。夏休みだし、僕ぐらいの年齢の利用はぐっと少ないから、僕を特定するのは結構簡単なんじゃないだろうか。

 てか、そもそも、防犯カメラがいたるところに設置されている今の世の中、顔が割れている犯人が逃げ切るのは相当に難しいと思う。

 逃げる事が抵抗だと判断したのは間違いだったかもしんない。

「まいったな。一体どうすればいいんだよ、これ……」

 思わず弱音が漏れて、頭を抱えて僕はその場にしゃがみ込む。

 三方をビルに囲まれた袋小路の路地裏。ビルに入っているテナントのゴミが積み重ねられ、ところどころには従業員が休み時間に吸ったものだろうか、タバコの吸殻が地面に押しつぶされている。

 面白いことに壁にはテレクラのちらしが無数に貼られてあった。こんな掃き溜めみたいな所に貼って意味があるのだろうか? いや、掃き溜めだからこそ、こういう需要があるのかもしれない。

 ぼんやりと壁を眺めていて、ふとひとつ、テレクラとは違うものがあるのに気がついた。

「カツラ法律事務所。借金返済に困っている人、なにかトラブルを抱えている人、一人で悩まず何でもご相談下さい」とある。

 法律事務所と言いながら、チラシに書き込まれた電話番号が携帯のものなのはなんとも怪しかったが、痴漢容疑の相談にも乗ってくれるのだろうかとその番号を心の中で復唱してみる。

 そんな時だった。

 

 いきなり音楽が、すぐ近くで鳴り響いて心底驚いた。

 曲は泥棒グループが活躍する有名なアニメのオープニング曲。

 でも、問題はそれじゃない。誰がこの音楽を鳴らしているか、だ。

 僕は慌てて辺りをきょろきょろと見渡す。ビルに囲まれた袋小路の路地裏。小さな窓や勝手口はあるものの、どれも閉じられている。人が隠れるようなスペースもない。

 それに何よりも音楽は、僕のとても近くから聞こえてくるような……

 ハッとして僕はお尻のポケットに手をやった。

 いつも無造作に突っ込んでいるスマートフォン。買った時のまま剥き出しの状態で使っているのは、金属の冷たい感覚が好きだからだ。

 ところが今、手に触れる感触はざらざらとしたゴムのもの。しかもなんか変なでっぱりがある。

 恐る恐るそれを取り出して――再び僕は混乱した。

 僕の手にはあの女の子が使ってた、うさぎの耳を模したカバーがかけられたスマホ。

 さっきから流れる音楽は、こいつの呼び出し音で。

 画面には僕が本来使っているスマホの電話番号が映し出されていた。

 どういう事だ? わけがわからない。

 どうして僕のスマホがここになくて、あの子のがここにある?

 いつの間に入れ替わった?

 記憶を遡る。そんなことが出来たのは、そうあの時、電車が揺れて二人の体が重なったあの瞬間。僕がドギマギしている最中、彼女はものの見事に入れ替えを成功させていたことになる。

 それって、つまり彼女も……。


 僕の中でカチリと何かが噛み合う音がした。

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