拝啓、芥川先生へ
神楽坂
私の隣で斎藤くんが思い切り鼻をかんだ。
私の隣で斎藤くんが思い切り鼻をかんだ。夕暮れの赤い空に、びーっという濁った音が響き渡る。
鼻をかんだティッシュでぐしぐしと鼻を擦り、手のひらで小さく丸める。そして鼻をかむためにひじに通しておいた手提げ鞄の外のポケットに押し込む。そのポケットにはすでに大量の使用積みティッシュが詰め込まれている。
「薬とか飲んだら?」
「いいんです。ただのアレルギーですから」
斎藤くんは鼻のかみすぎで赤くなってしまった鼻を指で擦る。二人で大学を出てからここまで斎藤くんは鼻をかみ続けている。どれだけ彼が鼻水を放出しても、彼の体は鼻水を製造し続ける。ウィルスや細菌と一緒に脳の中に蓄えられている記憶までもが鼻水と一緒に体外に排出されてしまいそうだ。
「それにしたって、鼻水出すぎでしょ。いつか鼻も一緒にもげるよ」
「もげてくれたらもげてくれたでいいですよ。そうしたら鼻水も出なくなるかもしれないし」
仏頂面な彼は私を見ないで右に流れる大きな河川の水面を眺めながら私の横を歩いている。ぼさぼさの髪の毛は風になびく。眼鏡に浮かぶ皮脂に日光が反射して鈍い虹色を放つ。
大学から駅に向かうまでは、この土手を通っていくのが一番の近道になっている。整備され広く設けられた河川敷には、もう人は誰もいない。季節は冬にさしかかり、夏にはあれだけ勢力を誇っていた太陽は、あっという間に地平線に消えてしまうようになってしまった。
今日の太陽も、まだ五時だというのに、すでに名残惜しそうに地平線の少し上で顔を覗かせている。赤い光が、川の水面をさらさらと照らしている。
「そんな鼻声で明日の発表大丈夫? カシミヤ先生の攻撃躱せないんじゃない?」
「鼻声じゃなくても躱せないから大丈夫です」
「どんだけレジュメの穴を指摘されても仏頂面で詭弁を弄せるから斎藤くんってすごいよね」
これだけの悪口を言っても斎藤くんは表情一つ変えない。彼にとっては、周りの人間というのは日々のノイズに過ぎないのだと私は勝手に思う。独我論な生き方だ。自分が中心にいて、周りは付属品。正直、そういう生き方ができるのは羨ましい。
「あの根性ってどこから出てくるの? 鋼の根性っていうか、ただの鈍感かもしれないけど」
「普通ですよ」
「異常だよ。私も大学院にいて結構経つけど、レジュメの欠点を攻められた時って普段落ち着いた人でも眉毛の一つくらい動かすもんだよ」
「僕だって動かしてますよ。眉毛くらい」
「いーや。ぴくりとも動いてないね」
斎藤くんはむすっとした表情を浮かべてなおも歩き続ける。
冗談めかして言っているけど、私は本当に斎藤くんが羨ましかった。
夕日に映える無表情さが羨ましい。淡々してリズムの変わらない足音が羨ましい。
私の歩みは真っすぐとは程遠く、ふらふらと道を蛇行しながら進んでいる。
「カシミヤ先生があれだけ斎藤くんのレジュメに厳しいのは斎藤くんの実力を買ってるからだけどね。修士二年の学生に対して先生が熱くなることなんてあんまりないんだから」
「勉強しない僕が嫌いなんですよ」
「嫌いだったらあそこまで厳しく指導しないよ。私みたいに放っておかれるって」
「先輩は自分で勝手に研究進められるからじゃないですか」
「違うよ。もう先生は私の実力を見極めて、私のことを見限ってるんだよ。たぶん、同じ女だからわかるんだろうね」
これも私は軽く言ってのけたが、普段考えていることの一つだった。
私ももう大学院博士課程に入って四年が経とうとしている。この世界は五年で博士課程が取れれば御の字、六年、七年とかかるのが一般的である。そして、それだけ必死に苦労をし、長い時間をかけて博士課程を取得したとしても、どこかの研究機関に就職できるのはほんの一握りしかいない。そもそも、博士号を取得できるのも大学院生中の一握りだけであり、その一握りの中の一握りだ。
カシミヤ先生は、私の限界をよくわかっている。私がこれ以上時間と労力をかけても優れた研究者になれるわけではない、と。先生とはよくご飯を食べに行くし、会ったら楽しくおしゃべりだってする。傍から見れば私と先生は確固たる信頼関係を築いているように見えるかもしれない。
しかし、これらの事実は先生が私のことを同じ研究者として見てはいないということの証拠でしかない。私たちはもう同じ研究者としてのライバル同士なのではなく、趣味の合う友達同士なのだ。以前は私と先生は火花を散らして激論を交わしたものだ。しかし、そんな風景は研究室にはもうない。今あるのは、馴れ合いと退屈だ。先生が必死に斎藤くんを叱っている光景を目にすると、そのことを改めて実感させられる。
「だから、先生は斎藤くんに厳しくしてるんだよ」
「はぁ」
だからと言って、斎藤くんを妬んだり恨んだりしているわけではない。私も彼の実力を認めている。論文の構成力はまだ発展途上だけど、着眼点、論の展開、情報の収集整理能力のどれを取っても修士課程の中では間違いなくトップだし、博士課程の学生を加えても上位に入るだろう。斎藤くんは今は吉行淳之介を専門に研究しているが、おそらくこの研究を起点にして戦後文学全体に研究が及ぶに違いない。そんな展望も見えている。
そんな斎藤くんが、ただただ羨ましかった。斎藤くんだって努力している。私も自分では努力しているつもりだ。それでも、出来ないことはある。
私は、これから一体どうなるんだろう。
「斎藤くんは、これからどうするの?」
夕日はいつの間にか体の半分ほどを風景の向こう側に隠している。川面はまだかろうじて赤さを保っているが、見上げれば天頂は暗さを湛えている。夜が、そこに迫る。
冷たい風が吹く。私が着ている薄いトレンチコートを通り抜けて鋭く風が到達し、私の体を冷やす。私は資料がいっぱいに詰まった鞄を体に引き寄せて少しでも風から自分の身を守る。しかし、風は容赦なく私の体を襲う。
私は、自分に向けるべき疑問を、隣を歩く斎藤くんに向けて放つ。
斎藤くんはまた一つ鼻をかむ。ティッシュをくるくると丸め、鞄に押し込む。
「どうなるんでしょう」
彼はやはり淡々と言う。
「人生設計みたいなのってあるの? これからどうなるんだろうっていう見込み」
「わからないです」
斎藤くんはきっぱりと言う。
「わからないんだ」
「はい。自分がこの先どうなるかなんてわからないです。とりあえず今をやり過ごすことしか、僕には出来ません」
「不安になったりしないの?」
斎藤くんは沈黙する。
私の目の前にあるのは、茫漠たる不安だ。
自分には何が出来るのか。自分を必要としてくれる人がいるのか。自分はいつまで生きることが出来るのか。自分がなすべきことはなんなのか。
確かに、想像することは出来る。
書いた論文が主要雑誌に掲載され、その論文が評価されることによりどこかの大学に就職することができ、カシミヤ先生のように教授まで上り詰めるかもしれない。
今非常勤講師として働いている高校にそのまま専任教員として就職するかもしれない。
突然結婚して全てから身を引いて家にこもって主婦業に専念するかもしれない。
結局何になることもできずに、実家に戻って無為な日々を送るかもしれない。そして、親が死ぬことで財産が底を尽き、孤独のまま息絶えるかもしれない。
想像はいくらでも出来る。しかし、それはやはり想像でしかない。想像はどこまで行っても想像だ。実際に成功するわけでも、失敗するわけでもない。どうなるかは、なってみないとわからない。だからこそ、私の体の中に不安が飽和するのだ。
この不安は簡単に払拭出来るものではない。「何かになる」瞬間というのは、いつ訪れるかわからない。どこかで教師になったからといって、そこで安心できるとは限らない。教授になっても、死ぬ間際になっても、不安が解消するとは限らないのだ。
研究のために芥川の書籍を読むと、芥川が抱いていた不安が私に乗り移ってくるような感覚に陥る。
芥川は母親からの遺伝による発狂に恐怖し、時代の荒波に恐怖し、自身の創作に対する不信感に恐怖する。そして、漠然とした不安に陥って、最後は自らの手で自分の生涯に幕を下ろす。
私は、自殺が出来るほどの度胸が自分に備わっているとは思わない。自ら命を絶つ、というのも自分で重大な決断を下さなければならない。自分の才能を見限ることなく、見て見ぬふりをしながら惰性で大学院に残り続けている私にそんな決断が出来るはずがない。
「とりあえず博士課程には進むんでしょ?」
「はい。でも、多分他の大学に行くと思います」
「そうなんだ。志望校はもう決めてるの?」
「とりあえずは」
「そうなんだね」
私が古びた巣でぴーぴーと泣きながら来ることのない餌を待っている間に、斎藤くんは巣から飛び立とうとしている。飛ぶ練習をすることすらも忘れた私を置いて、斎藤くんは飛び立つのだ。
「じゃあ、修士論文はきっちり書かないとね」
「無理です。間に合う気がしません」
「大丈夫。修士論文なんて二週間もあれば書けちゃうからさ」
「僕には先輩ほどの文才がないっすから」
「何言ってんの。適当な文章書くことは誰にも負けないくせに」
「適当じゃ試験受かりませんからね」
「その通り」
そう言って、斎藤くんはきっちり書き上げてくるのだ。
斎藤くんの良いところはここで「先輩はこれからどうするんですか」と聞き返してこないところだ。別に私の境遇をちゃんと慮ってあえて聞かないわけではない。周囲の人間に対して興味を抱いていないだけだ。それに甘えて、私の漠然とした不安をぶつけてしまう。
「あーぁ。もう今年も終わりだよ。あっという間だったね」
「そうですね」
「別に年末だからって何にもないだろうけどさー」
こうしてまた年を越す。
年なんて越して欲しくはない。十二月が終わったら、十三月が始まればいいのだ。次の年の三月が来なければ、進級する必要もなくなり、私は一生大学院に居続けることが出来る。
しかし、季節は無常なものだ。冬が過ぎれば、必ず春が来る。そして持統天皇が感慨にふけるまでもなく、夏が来て、また季節は冬に向かっていく。この国は、私の意志にかかわらず、季節の変化を押し付け、時の経過を思い知らせて来る。季節が過ぎれば、また私の不安は増してくる。
自殺という結論にいたることなく、アウトプットされることのなく体内に居座り続ける不安。膨らみ、蝕み、私を巣食う不安。
私たちの横を緩やかに流れる川の水に溶かして、大海原まで運んで行ってはくれないか、とも思う。しかし、水に流すことも出来ない。
これから、私はどうなっていくのだろうか。
このどうすることも出来ない不安を抱えたまま、生きていかなかければならないのだろうか。形に出来ることのない不安を飼ったまま、生きていけるのだろうか。
「先輩、年末はなんにもしないんですか」
めずらしく斎藤くんの方から話を振ってきた。
「別にー。どうせ資料とにらめっこしてたら十二時過ぎてるってだけじゃないかな。どうせ雪が降ったって窓から外を見るだけで終わるだろうし」
「雪ですか」
「そうそう。最近降ってるところ直接見てないなー。今年はちょっと見たいかも」
「雪、見たいんですか」
「降るかどうかわからないけどね。降るんだったらみたいかな」
私はそう言って、歩き続ける。雪なんて、降ったって歩きにくいだけだ。見たくもなければ、触りたくもない。雪を楽しむほどの余裕があるわけでもない。
と、思っていると突然斎藤くんが立ち止まった。
私も立ち止まり、斎藤くんを振り返る。
「どうしたの」
斎藤くんの小さな体が最後の夕日に照らされ、淡い橙色に染められている。
そして、いつも下を向いている視線は、私を捉えている。
自分の心臓がとくん、となったのを覚える。
すると斎藤くんは突然鞄を地面に降ろし、ポケットの中を両手でまさぐり始めた。
そして、そのまま両腕を天に向けて広げた。
それと同時に、いくつもの白い物体が薄暗い空に舞い上がった。白い物体はそのまま風に吹かれながらふわふわと冬の夕暮れの空を漂う。その白にも、平等に日暮れの光がうっすらと与えられる。
それはまるで、冬の夜を彩る白い雪のようだった。
白い雪は、もちろんそれは斎藤くんの鼻水をくるんだティッシュであるが、河川敷に群生する雑草の上にしんしんと積もっていく。
私はその光景を唖然と見ていた。
急に、この子はどうしたんだ。
斎藤くんが一風変わっている人間であることは間違いないのだが、さすがにこの行動は唐突すぎやしないか。
「僕には、こんなものしか見せられないっすけど」
斎藤くんは言った。私は言葉を口に出来ず、斎藤くんの言葉を待った。
「先輩、元気だしてください」
斎藤くんは、草の上にひっそりと乗ったまがい物の雪をじっと見ながら言った。
「え?」
「今日の先輩、元気がなかったと思うので」
斎藤くんの横顔は、やはり薄い橙色に染められている。
それは、日の光によるものなのだろうか、それとも。
「先輩が元気ないと、こっちも調子狂いますし」
私は、それを聴いて吹き出してしまった。
河川敷に私の笑い声が響く。斎藤くんは笑っている私を向く。
「なにそれ。こんなの雪でもなんでもないじゃん」
私は、言いながらなおも笑い続ける。
単純に、うれしかった。
素直に、よろこばしかった。
そうか、斎藤くんも人間なんだ。私は強く思う。
芥川先生。
あなたの時代も、私が生きる時代も、そしてこれからの時代も人間を襲う不安はなくなることはないでしょう。漠然とした不安は、人の体内を蝕み続けるでしょう。あなたが小説の中で描いた人物のように、不安に駆られ続けるのだと思います。
でも、芥川先生。
そんな不安を一瞬打ち消してくれる存在も、いつの世の中にもいると思います。
電車から弟たちに向かって蜜柑を投げた少女のように。
河川敷にティッシュの雪を降らせた斎藤くんのように。
大きな不安を和らげる小さな希望というのも、世界にはいつでもいるのだと思います。
私は、こんな小さな希望と出会いながら、そんな希望を愛おしみながら、不安と共に生きていきます。
「こんなに散らかしちゃって。これどうすんの」
私は涙を人差し指で拭う。
「片付けます」
仏頂面のまま、河川敷に降りていく。そして、体をかがめて溶けることのない雪をひとつづつ拾っていく。
「仕方ないなぁ」
私も斎藤くんの後に続いて河川敷に降りていく。
巡っていく季節とは違って、私の中には常に冬空が広がっているかもしれない。常に薄暗い夕闇がはびこっているかもしれない。そして、それを払拭することはできないのかもしれない。
だから、だからこそ、その冬の中にある小さな春を、私は慈しむんだ。
「ごめんね」
私は小さく謝った。
そして、鼻水が溶けた雪を一つずつ拾い集める。
拝啓、芥川先生へ 神楽坂 @izumi_kagurazaka
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