第2章 黒猫のダンス
「すみません、
もう応接室に声は届かないだろうというところまで歩いたところで私は室谷に詫びた。
「いいんですよ。そんなに恐縮しないで下さい。皆が皆あの番組を観ているわけじゃないし」
室谷は言うが、『守護精霊の客室』は平均視聴率二十パーセントを越える超人気番組だ。
「それに、先生の話を信じない人もたくさんいることだって分かってますよ。いい大人が信じるほうが変ですよね……おっと失言でした、今のは聞かなかったことに」
室谷は肩をすくませる。
なんだ、
「それにしても、
室谷が冗談ぽい口調で言う。私が思ったのと同じ表現を使ったのがおかしかった。
「そんなことないですよ。皆さん分別のある方々だと思ってますから。自分が信じるものを認めない輩は暴力で排除するような野蛮な宗教じゃないですものね、見星教は」
「はは、参ったな……」
答えになっていない返答をされたが、室谷は流してくれた。
「でも私も少し態度が悪かったかもしれません。ここにいる間は、他の皆さんを怒らせないようには努力します。すみませんでした」
理真が頭を下げたので、慌てて私も倣った。
「そんな、謝ったりしないで下さい。面白い人たちだ。付きましたよ。ここがお二人の部屋です」
部屋は十畳くらいの大きさ。右側に高そうなベッドが二つサイドテーブルを挟んで並んでいる。入って左の壁の一部は全面サッシの窓になっている。南向きなのだろう。暖かい日差しが入り込んでいる。ベッドの他にはテレビも棚も何もなく、家具と呼べるものはドア隣の建て付けのクローゼットのみだ。
「すみませんね。殺風景な部屋でしょう。購入して改装したばかりなんですけれど、まだ家全体に手が回っていなくて」
「そんなことないです。いいお部屋ですよ。私、シンプルな部屋好きです」
理真は荷物を置きベッドに腰を下ろした。これは社交辞令ではない。実際理真の部屋は、呆れるくらい物がない。
「そう言っていただけるとありがたいです。。寝間着はお持ちでしたか? なければ、クローゼットに用意してありますよ。ガウンだけでも使って下さい」
そう言われて私はクローゼットを開いてみた。寝間着とガウンが二人分、綺麗に畳まれて籠に入れてあった。寝間着とガウンはセットのものだろう、どちらもクリーム色の生地に花びらを散りばめた柄の洒落たものだ。
デザインは二着とも一緒だが、使われている花びらの種類が違う。桜とバラだ。撫でてみると、滑るような手触りが心地いい。寝間着の用意はあるが、これは使わせてもらわなければ。桜は私が使うことにしよう。私はさりげなく桜デザインの寝間着とガウンを自分のベッドのほうに寄せる。
「空気が籠もっていますね、入れ替えましょう」
室谷がサッシへ向かったところ。
「あ、猫だ」
理真が外を指さす。見るとサッシの外側、庭の芝生を踏みしめながら一匹の猫が近づいてきていた。全身真っ黒。見事な黒猫だ。
「あっ、クロ。あいつ、いつ外へ出たんだろう」
との室谷の言からすると、ここの飼い猫のようだ。サッシを開けて室内に招き入れるのかと思いきや。
「お二人とも、猫は平気ですか? よかった。面白いものが見られますよ」
平気どころではない。理真も私も猫は大好きだ。
理真は自宅に猫を飼っている。名前はクイーン。あのレジェンド探偵、エラリー・クイーンから恐れ多くも名前を頂いたのだ。残念ながら同じく偉大なレジェンド探偵の名前を冠した有名なあの猫と違って、クイーンが事件解決の役に立ったことは一度もない。同じ三毛猫なのに。
室谷はサッシに近づき、施錠されていた半月錠を半回転させ解錠した。
するとどうだろう。黒猫が体を横にしたかと思うと、両前足の爪をサッシの枠に引っかけ後ろ足をじたばたさせる。まさか自力でこの重いサッシを開けようとしているのでは? 黒猫は前足でサッシを引き続ける。懸命に己が全体重をかけ体をくねらせる様は、まるでダンスを踊っているかのようだ。
黒猫のダンスが続くにつれ、徐々にサッシが開き始める。十センチ弱ほど開いたところで黒猫は前足を離して起き上がり、今までの重労働など全く感じさせない悠々とした歩みで室内に進入した。
「お見事」
理真が小さな拍手で黒い進入者を迎える。私も思わず拍手。
「たいしたものですよ。この体のどこにあんな力があるんだか」
室谷は黒猫を抱き上げ頭を撫でてやる。
「この家で飼ってらっしゃるんですか?」
いつの間にか室谷のそばに移動した理真が、黒猫の背中をさすりながら訊いた。
「いえ、僕が東京の部屋で最近飼い始めた猫なんです。数日こっちの別荘に滞在するんで、先生の許可をいただいて連れてきたんです。クロです。よろしく」
室谷はクロと呼んだ猫の頭を押さえ、おじぎをさせた。黒猫のクロちゃんか、愛称だろう。まさかと思い問うてみる。
「猫ちゃんの名前、何て言うんですか?」
「えっ?、クロですよ。クロ。分かりやすいでしょ」
どうやら正式な名前のようだ。まあ、猫に付ける名前なんて、そんなものだよね。クイーンという理真の猫の名前が妙に気取ったものに感じてきた。
「外に出るのが大好きで、隙あらば出奔しようと狙っているんですよ。施錠していない窓なんか、今みたいに自分で開けて出入りしますからね。それでも御飯の時間になれば帰ってくるんです。ちゃっかりしてますよ」
別荘の床は全面フローリングで、肉球がクッションになり足音ひとつしない。クロには鈴も付いていない。確かにこの条件ならば、人間が玄関のドアや窓を開け閉めしする瞬間を狙ってするりと外へ抜け出ることなど、猫にとっては朝飯前に違いない。
「大切な集まりがあるからお前にかまってられないんだ。今日はもう外には出さないからな」
哀れクロは今日一日虜囚となる運命のようだ。そんなことは想像だにしていまい。飼い主の腕の中でごろごろと喉を鳴らしているこの黒猫は。
「いつもは自由に外に?」
理真が今度はあごの下を撫でながら問う。撫でているのは、もちろん室谷のではなく、猫のあごをだ。念のため。
「出しているというより、出ていってしまっている。というのが正しいですね。この辺りは治安もいいし車も少ないし。いいかなって。ちゃんと避妊手術はしていますよ。ただ、先生が嫌がるんですよね。クロが外に出るのを」
お、大道先生、クロの心配をしているのか? 飼い主よりも。
「先生の寝室は一階の中庭に面した場所にあるんです。その部屋にも庭向きにここと同じサッシがあるんですけれど、先生、毎晩そのサッシを少し空けたままにして就寝されるんです。先生、冷房があまり好きじゃないんですよ」
避暑地の夜風を感じながら眠りに着く、か。
「それでクロが外に出っ放しだと、深夜帰って来るときに先生の部屋のサッシから入ってくることがあるんですよ。中庭は塀で囲まれていて、直接外と繋がっていないんで、防犯上問題はないんです。でも猫は塀なんて簡単に越えてきますから。先生も猫は嫌いじゃないけれど、寝ている間に部屋に侵入されるのがいやで。先生の寝室は先生お気に入りの高価な絨毯が敷いてあるんで、土足で踏み荒らされるのがね」
なるほど。心配していたのはクロの身ではなく、自分の寝室が荒らされることだったのか。まあ、無理もない。
「だから、ここに来てからは寝る前にサッシを施錠しないといけない。せっかくの軽井沢の夜風に当たれないと嘆いていますよ」
大道見星も猫には勝てない、か。
室谷はクロを抱いたままサッシを全開にした。今度は黒猫ではなく、心地よい風が勢いよく入り込み、長い時間閉めきられていた部屋の空気は完全に入れ替えられた。
気持ちいい風。私はさっきまでの完全アウェイ状態を忘れ、軽井沢で過ごす余暇を心から楽しむ気分になっていた。
その後、私は室谷を引き留め、今日の集まりの趣旨を尋ねた。理真は全く気にしていないようだが、私は気になる。
詳しい説明の前に、二階の物置にクロを閉じ込めてくるというので、室谷は一旦部屋を出た。
戻ってきた室谷は、今日のことについて詳しい説明を始めた。
ファンクラブである精霊会の中から無作為に選ばれた三名をファンサービスとして招待し、誰よりも早くその重大発表を知る、そして大道見星と会食を共にする栄誉を味わってもらおうという企画だ。
なるほど。それで番組のプロデューサーがいるのは分かった。では作家の理真、本来は不破が呼ばれた理由は?
「それはですね、今日の重大発表に関係があります。というのは、『守護精霊の寝室』をメディアミックス展開する、というのを今日発表する予定なんです」
メディアミックス。何と金の匂いがぷんぷんする胡散臭い言葉だろうか。
「守護精霊たちのいるミドルスペースを舞台にしたアニメ映画の制作が決定したんですよ。そこで、その原作小説を不破先生に書いていただくことになったんです」
なんと。そんなところにまで商売の手を広げようとしているとは。
アニメにしたのは、ミドルスペースに存在するという幻獣や神話上のキャラクターを実写やフルCGで再現するのは、役者の関係など、この国の映画制作状況では不可能と判断したからだという。確かにそうかも。
「精霊会の方々には発表まで内緒に願いますよ」
私と理真にそう釘を刺し、さらに、大道見星が散歩から帰ったら会食を始めると告げて室谷は部屋を出た。
「先生がお戻りです」
ノックの音の後に
「奥の食堂へお願いします」
と言い残し室谷は去ったようだ。他の招待客にも声を掛けに行くのだろう。
結局室谷にこの部屋に案内されてから、部屋から一歩も出ることなくベッドに寝転んでまんじりと過ごしてしまった。
同じようにベッドの上に寝転がっていた
奥にある食堂にすでにパーティーの用意は成されているという。主人のご帰還待ちだったというわけだ。
「さて、ご馳走を食べにいきましょう」
理真は軽やかな足取りで部屋を出るが、私はあの完全アウェイスタジアムのただ中に戻るのかと思うと足取りが重い。おまけに今度は相手のエースストライカーがいる。監督と言ったほうが適当か。
大道見星を怒らせたら一体どうなるのか。一介のアパート管理人の私など何てことはないだろうが、作家として糊口をしのいでいる理真は心配だ。見星が出版界に顔が効かないなどということはあるまい。
先ほどまでの戦場だった応接室のドアの前を通り過ぎたところで、二階への階段から降りてくる室谷と鉢合わせした。
「ああ、お二人とも。会場はこの奥です。皆さんもうお揃いのはずですよ」
私の「大道さんも?」との問いには「ええ」と答える。
やばい、重役出勤だ。ということは、二階には誰かを呼びに行ったのではないのか。
「クロにご飯をあげてきたんです。パーティーが始まるとそうそう抜け出せなくなりますから」
哀れ虜囚の身となったクロ。しかしこの場で室谷と出会えたのは
「一緒に行きましょうか」
室谷のほうから声をかけてくれた。よくできたマネージャーだ。
応接室も広かったが、食堂はさらに広い。八畳間六つ分くらいはあるだろうか。中央に設えた円卓を参加者たちが囲んでいる。主人は入り口正面大きな風景画の架かった壁を背に座っていた。大道見星だ。
さすがに私も理真も見星の顔は知っている。豪勢な料理と各種アルコール類がところ狭しと密集する円卓。空席は三つ。もちろん私たち二人と室谷の座るべき席だろう。問題なのはその位置だ。
見星の左に一つ、右に二つの椅子が空位となっている。室谷は黙って左の空席についた。まあそうだろう。残る右の二席に必然的に私と理真が座ることになる。理真は堂々と見星の隣に座る。しかし今日、本来招かれるはずだったゲストは、人気作家
いや、代役の
「やあ、ようこそお越しくださいました。大道見星です」
主人は機嫌よさそうに私たちを迎えてくれた。
「安堂理真です。本日はお招きいただきありがとうございます」
理真も腰を折り丁寧に答えた。私も同じように名乗って挨拶する。
隣の
「では、皆さんお揃いになりましたので」
室谷が自分のグラスを掲げるのを合図に、全員が各々のグラスを手に取る。
「乾杯!」私は両隣とグラスを打ちならした。見星が理真の前を越えてグラスを差し出してくる。私は一層恐縮しながら、今をときめく守護精霊見と乾杯のグラスを合わせたのだった。
料理に手を付けながら、隣同士で世間話のような歓談が始まった。
精霊会のメンバーたちは、大道見星と話をしたい様子だったが、席が離れているため、座したままで会話を行うのは難しい。かといって席を立って見星のもとまで酒を注ぎにいくのもはばかられるようだった。当の見星が隣に座った安堂理真にしきりに話しかけているからだろうか。
彼も安堂理真の名前は知らなかったが、今回不破ひよりの代役で参上すると分かってから、理真の著作を読んだという。
「刊行順に全作読ませていただいたが、すっかりファンになりましたよ」
「ありがとうございます。楽しんでいただけて嬉しいです」
ビールを注ぎ注がれしながら、見星は理真の作品の感想を述べていく。その話しぶりから、あらすじや斜め読みではなく、きっちり読破したのだなというのが分かる。忙しい身であるだろうに。理真の顔も自然とほころぶ。よかったね、有名人の読者をひとりゲットしたよ。
「連載エッセイなども可能な限り読んでいますよ。先生はどうやら占いといった類のものに否定的なお考えのようですね」
見星がビールを注ぎながら笑顔で言った。
空気が止まった。と私は感じた。冷静になって周りをみると、精霊会の面々は、ずっと見星と理真の会話に耳を傾けていたようだ。
確かに理真はある情報誌のエッセイで、占いやら超常的な人生相談が跳梁することに苦言を呈した内容の文章を書いたことがある。
おいしい料理と、何より見星の機嫌がいいことで忘れていた。ここはアウェイのただ中なのだ。
「全面的に否定してはいません。遊びや読み物の範囲で楽しむのは結構だと思います。それが人生の選択の中心になってしまうのはどうかしら、という程度のものです」
毎朝、テレビの星占いを観てから出社する女性がいる。その時間に家を出ればちょうど始業時間に間に合うのだ。ところがある日、緊急ニュースが番組に挿入され、占いのコーナーがいつもより遅い時間に放送されることがあった。それでも彼女は占いを確認してから家を出て、結果会社に遅刻してしまった。
その日の彼女の星座のアドバイスが「時間に余裕を持って行動しましょう」だったというのは笑い話にもならない。
これは理真の知人の体験談で、どこかの雑誌のエッセイにも書かれたはずだ。見星が読んだというのはそれかもしれない。
「それでもそういったものが人を救うことはあると思います。九十九パーセント行動に移すか迷っている人がいたとして、占いや霊視なんかが残り一パーセントの背中を押して行動に移せる。というふうに。気を付けたいのは、その結果が失敗だったとしても、占いのせいにはしないことです。九十九は自分の判断なんですから」
理真はグラスを口に運びながら語った。
気が付けば他のメンバーは全員歓談を止め、理真と見星の話しに聞き入っているようだ。
「しかし安堂さん、世の中には半分、いや、自分の意志が一で残り九十九を占いで決断してしまうような人も存在します。残念ながら。そういった人たちのために、我々は真剣にアドバイスをする。責任を持ってこの仕事をやっているつもりです」
見星の目が鋭くなった。
「占いや超常的な力に依りすぎないよう、最後はしっかりと自分の決断で人生を歩むよう導く、それが占いや霊視を商売にする人たちの責任ではないでしょうか。さらに中には、買わないと不幸になるなどと客を脅して壷やらなにやらを法外に高い値段で売りつけるような不届きな輩が跳梁しているとも聞きます」
理真も一歩も怯まない。怯まないというか、言っちゃったよ。しかし見星は表情ひとつ変えない。
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