夏の恋はエラ呼吸

 人の家が水槽に置き換わり始めてからもう10年だ。ある日突然、エラ呼吸ができる人間が1000人ほどあらわれたのがきっかけだった。いや、表れたのではなく、「鰓呼吸ができることを明かした」というのが正しいだろう。彼ら『鰓人間』は実は有史以前から存在する種族だという。

 「陸人間」が知性を獲得して生物の王者として君臨し始めたころ、鰓人間の統治者の間では会議が頻発した。このまま彼らに覇権を渡していいのか。我らが先に獲得するはずだったものをむざむざ明け渡していいのか。タカ派の統治者たちは盛んに叫ぶ。だが、鰓人間は本来争いを好まない種族であるため、結局「陸人間の仲間としてひっそり生きる」のが最善であろう、ということになった。彼らは種族としての誇りだとか、鰓人間としての優位性だとかを主張するつもりは毛頭なかったようだ。そうしていつの間にか、われわれの隣人として鰓人間は陸人間の中で生活するようになっていった。

 不思議だったのは、彼らが水に入らなくなって何千年も経つはずなのに、一向に鰓が退化する気配を見せないことだった。それ故に、鰓人間たちは親兄弟からうまい鰓の隠し方を教わって、陸人間にばれないように生きてきた。河童は実は鰓人間であったというのは今や常識である。また、陸人間との恋も固く禁じられていた。鰓人間はオルガズムに達すると鰓が大きく開くため、確実にばれるからである。

 ではそんな鰓人間がなぜ突然存在を発表したのか。理由は簡単で、鰓人間の数がどんどん減少の一途をたどっているからだ。初め、鰓人間は陸人間とほぼおなじ数がいたという。しかし本来の生活圏でない陸での生活は負担であったようで、病気などでどんどん数を減らしていった。それでも、陸の便利さを捨てきれなかった。しかしもはや限界であると鰓人間の統治者は判断したのだ。陸人間の協力を仰ごう。陸人間とも積極的に交配し、われわれの子孫を残していこう。そういった経緯で声明を発表した。もちろん反対意見もあった。陸人間は争いばかりしている。我らは確実に迫害される。しかしどちらにしろ、鰓人間はこのままでは絶滅するのだから、博打に出てみても良いだろう、ということだった。

 結果として、博打は大成功だった。陸人間は鰓人間をあっさりと受け入れた。その結果として、鰓人間たちは大手を振って歩けるようになったのだ。恋も自由になった。鰓人間側には、悲恋の物語がいくつもつづられている。もう種族の違いで引き裂かれることもない。鰓人間用の家具や家も売られるようになった。防水であったり撥水性の高いものは爆発的に売れた。水槽型(もちろん水で満たすのではなく、陸地もつくるタイプの、陸人間が亀などを飼うときのようなインテリア)の家は、今や従来型の家よりも多い。鰓人間と結婚する将来を見越した陸人間も購入するという。

鰓人間と陸人間。彼らは真の意味で隣人同士となったのだ。





 夏の日差しの強いある日のこと。

「……あ、先輩」

 とある陸人間の女の子が、家の前で一人の男を見つける。その家は水槽型で、陸人間用の勝手口とは別に、水に満たされた玄関があるタイプだった。

「……ん、やぁ。君の家もこっちだったんだね」

「こっちが玄関ってことは。……先輩、鰓人間だったんですね」

 そういう彼女の声には何の感慨もこもっていなかった。落胆。驚嘆。感動。そういったものは一切ない。鰓人間が数を増やしても学校は相変わらず水気のないままで行われている。最近は鰓人間であることを隠したがるお年頃の子も多く、そういったものに配慮してプールの授業がない学校も多い。だから、卒業するまでどちらかわからない場合も少なくない。

「そうだよ。言ってなかったっけ?僕は純粋な鰓人間。親も兄弟もみんなそう」

「じゃあ何で陸用の勝手口つけてるんですか」

「んー、そうだなぁ」

 先輩と呼ばれた男は意地悪そうな笑みを浮かべながら考えるそぶりをする。そのようすが女の子のカンに触ったようだ。

「どうせ陸のカワイイ女の子をつれこむつもりだったんでしょ」

「……そうだね、親に無理言って陸用のスペースをつくってもらったよ、かわいい子を連れ込むために」

 ほらやっぱり、と彼女は少し不機嫌な顔を見せる。先輩は女たらしだから、いつも私以外の女の子と仲良くしてしまう……彼女はうつむいて、失礼しますと言ってその場を立ち去ろうとする。

「でも、一番には君を呼ぶつもりだったんだよ。気が向いたら、いつでもおいで」

 ……え?

 振り返った時にはもう、先輩は水槽のロックを外しているところだった。上蓋をあけるとそこには澄んだ水が揺らめいている。先輩は何のためらいもなくそこへダイブし、深くへと沈んでいった。彼が飛び込んだ瞬間、太陽に照らされた水しぶきが、彼女の制服のブラウスに降り注いだ。

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ケロッと!掌編集 一ノ瀬ケロ @ichinosekero

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