隣のおねえさん

 少年がその人物に話しかけられたのは、家の近所にある神社でのできごとだった。学校の帰りにふと思い立って立ち寄ったのだが、特に理由があったわけではなかった。神社という場所に行ったら、何かが汚れた自分を洗い流してくれるのではないか。そんなことを思って、何をするでもないのにフラフラと来てしまったのだ。

 汚れた自分とは言っても、少年は決して犯罪に手を染めた非行少年ではなかった。学校で虐められたとか厳しい父親が頭ごなしに叱るとか、そういう辛いことがあって心が曇ったというわけでもなかった。ただ、少年はいつも由のないぼんやりとした不安感を抱えていた。将来への不安、現在の自分への不安、過去の行いへの不安。いつのまにか大きくなって積もっていくそれらが少年の肩に重くのしかかっていた。

 しかしいざ神社へ来てみたものの、お参りしても仕様がないじゃないかと思い始めた。何だか可笑しくなってきて、口角が吊り上がった。祠の前まで来たところで、自分の考えと行動の矛盾に気づいたのだ。

 少年は宗教を信じてはなかった。が、信心深く祈りを捧げ、教義を守って働けば、神様は最終的には救いの手を差し伸べてくれるものなのではないかとぼんやり思っていた。だがそれは例えば空から天使が降りてくるということではない。その人にとって満足する結果が、その人の働きによって、その人の中にある神様が与えるのだろう、と。他人にとっては滑稽にしか見えないかもしれないが、少なくとも当人は幸せなのだろう。それが少年の宗教に対する考えだった。

 だが今は、信者でもなく神のために働いてもない自分が、不安感をなくしてもらおうと神に縋っている。馬鹿馬鹿しい。カランカランと鈴を鳴らしたところで何になる。だがここまで来た以上、ただで帰るわけにもいかなかった。――もしかしたら神のパワーでも降りてくるんじゃないか。もちろん本気で思ってるわけではなかったが、とにかく境内にベタッと座り込んで、ひたすらぼうっと呆けていた。もはやここへ来た理由も忘れて意地を張っているだけだった。心が洗われるなんてこともあるわけがなく、クリーニングしたての黒い学ランの尻が、土色に汚れただけのことであった。

「やあ」

 さすがに日も暮れてきたので帰ろうとした時、突然背中の方から声がした。少年は驚いて振り返った。先ほどまで人の気配など微塵も感じなかったのに、いつのまにかそこには女性が立っていた。スラッと長身でスタイルの良い女性だった。水色の丈の長いワンピースを着て、長い黒髪を後ろで縛っている。

「こんなところで何をしてるの」

 女性は優しい声で語りかける。だがその声が少年を俄に苛立たせた。母親がよその家の幼児に声をかける時とそっくりの声色だったので、見下されているように感じたのだ。

「別に何も」

 不機嫌さを隠そうともせずぶっきらぼうにそう答える。

「何もしてないってことはないでしょ」

 女性は全く気にしていない様子で隣に座った。肩が触れるほどに近い。――一体何なんだ、この人は。少年は困惑して眉をひそめながら、それとなく距離を離した。

「何でこんな寂れた神社に一人ぼっちでつまんなそうに座り込んでいるのかを訊いてるの。お母さんに叱られた?それとも、お友達と喧嘩でもしちゃったのかな」

「別にあなたに関係ないと思いますけど」

「あー、親切なお姉さんにそういうこと言うんだ、ハンコーキだね、ハンコーキ」

「……」

 答えるのも煩わしくなってそのまま黙った。無視をし続けたらきっとそのうちどこかへ去っていくだろう……少年が行ってしまってもよかったが、それは何だかこの訳のわからない人物に負かされることのような気がして、頑なに動かなかった。しかし、10分経っても、20分経っても、1時間が経過しようとしても、女性も少年の隣に座ったまま、動こうとはしなかった。

 ふいに冷たい風がビュウと吹き、何かの香りが少年の鼻をついた。それが隣から来るものであることはすぐに分かった。道端に咲いてる名前も分からない花のような、繊細な香りだった。毎年春の季節に必ず出会うが普段は全く意識しない匂い。とても身近で素朴で、何も特別ではない匂い。しかし、いつの間にか少年はそのありふれた匂いにつられて、隣に座る人物をじっと見つめていた。ありふれているが、それでもなぜか人を惹きつける香りであった。

 隣人は視線に気づいたのか、顔を少年の方を向けた。二人の目が合う。目があって、少年はそのまま蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。

 女性は特筆すべき美人という訳ではなかった。切れ長でシュッとした目だが吊り上がっているわけではなく、鼻も決して団子鼻ではないが、かといって高いといえるほどではない。全体としては薄い、印象に残りづらい顔だった。

 だが目だけは違った。何と表現したものか、「そこに目というものが存在しない」とでも言えばいいだろうか。もちろん黒目と白目のある、人間の目としての要件を満たしたものが2つ揃っていることに違いはないのだが。

 少年が見ているものはその人の「目」のところにいる「少年」だった。レンズに映っている像を見ているのではない。そこに目というレンズはない。少年そのものが「目があるはずのところ」に、そのままそっくりいて、「少年」が少年を見つめ返している。

 ああ、この人は「目」を通して俺を理解してしまったのだ。そんな突拍子もないことが少年の心に思い浮かんだ。

 俺の中にあるドロッとした黒いものも、綺麗でかけがえのないものも、全てがえぐり出されて、「俺」がつくりあげられているんだ。この人はえぐり出した俺を「俺」として再構成して、それを「目」に映して見せつけている。君はこういう人間だろう、と。私は理解したぞ、と。

 恐ろしい。

 少年は思った。これは、突然話しかけてきた不審者に対しての「恐ろしい」とか、年上の女の人に対する「恐ろしい」とか、そういったものとは一線を画していた。人間の「上」に在るものに出会ったような、今までサバンナの王者であったライオンが初めてその生命を脅かすものに出会ったような、心臓にズンとのしかかる恐ろしさだった。額を冷や汗がつたう。奥歯がガチガチと鳴る。ただただ、恐怖という感情に全身が支配されて行く。それでもなぜか大声を出したり一目散に逃げ出そうという気は一切起きなかった。少年は永遠とも思える時間――実際は1分も経っていなかった――の間、その空虚な「目」を見つめていた。

「関係あるよ」

「へっ?」

 突然音が鼓膜を揺らし、少年は驚いて素っ頓狂な声をあげた。その音が目の前から来るものだと理解するのに一瞬の間が必要だった。

「さっき、あなたには関係ないってあたしに言ったでしょ?」

「え、あ、は、はい」

 頭を整理する。そうだ、この人、急に話しかけてきた変な人だ。なぜこの人と僕は見つめあってたのだろう……考え出した少年の顔はみるみる赤くなっていった。

「だってそうでしょ、あなたがなんのつもりで俺に話しかけてきたのか知らないけど、赤の他人同士なわけだし、こーんな寂れた神社で座ってただけで別に誰かに迷惑かけたでもないし。もういい加減どっかに行ってよ」

 少年は早口でまくし立てる。すると女性はクスッと鼻で笑った。恥ずかしさを払拭しようと少年は大声で叫んだ。

「なんなんだよ、一体。分かった、あんた、俺のことバカにしたいんだな。そのために話しかけてきたんだろ。バカにしたいだけならもう気が済んだろ。もうどっかに行ってくれよ」

「いやいやいや、ごめんごめん。確かにそうだよ、あたしと君はなんの関係もないよ、急に話しかけたりしたのは謝るよ、ごめんごめん」

 いつの間にか、女性の目はただの目になっていた。何の怖さもないただの素朴な女性だ。少年はそれまで怯えていたのが嘘のようにキッと力強く――少なくとも自分ではそのつもりだった――睨みつけた。

「君とあたしが関係あるかどうかとかじゃなくてさ」

 またクスッと笑った。

「だってさ、ここあたしの家だもん」

「えっ」

「人の家の前に座り込んでるなんて、もしかして現代で絶滅しかかってるツッパリってやつの生き残りかな、なんて思って。珍しくてつい話しかけちゃったわけ」

「ちょっと待って、家って……」

 立ち上がって周りを見渡す。

 どこを見ても家なんて見つかりはしない。そこにはただ、葉の散った木と、お粗末な祠があるだけの、人の気配のしない神社があった。

 少年は先程の女性の目を思い出す。何もかもを見透かす超然とも言える眼。

 ――神様。

 そんな言葉が、彼の頭に浮かんだ。

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