モヤモヤさん

――きっと今回も、空想なのだろうと思った。


 子供の頃、俺の周りは不思議なもので溢れていた。家の中には『モヤモヤさん』という、大人には見えないトモダチがいた。姉とおでかけしたときは、ビルを登る小さなおじさんを見かけた。公園に行くと座ったまま動かない人に話しかけていた。空にはいつも天使がいた。河童や天狗のような昔ながらの妖怪とはまるで会えなかったが、俺の周りにはいつも必ず何かがいてくれた。

 もちろん今から思えば、単に子どもの空想世界でしかなかった。『モヤモヤさん』はカーテンの隙間から漏れる光や舞い上がる埃。おじさんは遠くのビルにいた作業員が小さく見えただけ。動かない人は地蔵か銅像か何かだろう。天使は……よく覚えていないが、きっと雲を見立てていたのだろうと思う。

 ガキの頃には周りにたくさんいたトモダチが、大人になるにつれて見えなくなっていった。知識が増え、言葉が増え、世界を認識する力がついていくにつれて、トモダチは、空想世界は、俺の元から少しずつ離れていってしまった。それでも、今でも心のどこかでは、彼らが、俺の空想が、ひょっこり戻ってきやしないかと、期待してしまっているのだ。

 

 ――だから今回がきっと、そのときなんだろうと思った。


 というかそういうことにしてほしかった。これは悪い夢を見ているのだと、俺の空想世界が悪ふざけをしているのだと言ってほしかった。家に泊まりに来た20年来の友人が、俺の股間に手をのばしてきている。最初は普通の冗談だと思った。酔ってるのだと思いたかった。しかし目が本気であることに気づいてしまった。そして俺はとうとう現実逃避を始めた。

 元々ゲイだったのなら分かる。だけどそんな素振りはこれまで一切見せて来なかった。いやそもそも夜這いを仕掛けられるような胆力のあるやつじゃない。いったい何があった。いったい何があったんだ。俺が何かしたか?覚えがない。我に返って思索していたらだんだんと腹が立ってきた。俺は奴の攻撃を防いでいた手を握りしめ、思い切り頬に振り抜いた。奴は何かわけのわからないことを叫びながら吹っ飛んでいった。悶絶している隙に上着を羽織り家から逃げていく。

 ガキの頃によく遊んだ公園まで走ってきた俺は、上着のポケットからタバコを取り出して火をつけた。湧き上がる煙は、あの頃の『モヤモヤさん』によく似ていた。

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