第9話  イノセント

■■プロローグ


 ハンプティダンプティを知ってるかい?

 ハンプティダンプティは大きな卵

 とってもオシャレで大きな卵

 ハンプティダンプティは塀の上

 ハンプティダンプティ落っこちた

 王様の家来や馬達も

 誰もハンプティダンプティを元通りにはできなかった

 そうさ、ハンプティダンプティは大きな卵

 こんな高いところから 落ちたら割れてしまうんだ


 --マザーグースより


■■1


 少年の小首がちょっとだけ右に傾ぐ。それに連れて、栗色の巻き毛も緩やかに揺れた。春のうららかな日差しのようにおっとりとした声が言う。

「違うよ、小鳥ちゃん。ビショップの駒は斜めに動かさなきゃ」

「え? え? え?」


 昼下がり。【幸福画廊】と呼ばれるとある屋敷。今日は珍しく依頼人からの予約が入っていたが、その時間までにはまだかなり間があった。白野はメイドの小鳥を相手にチェスをしている。なかなか駒の動きを覚えられない娘に、少し困っているようだ。

 線の細い少女めいた顔立ちに蒼い瞳が印象的な少年であった。まるで白馬の王子様か、ちょっとだけ育ちすぎの天使といった風情だが、れっきとしたこの館の主人にして、画家である。


「お邪魔をしてすみません。新聞が何処にあるかご存知ですか?」

 この屋敷のもう一人の住人である執事が、部屋に入ってきた。長い黒髪を肩の辺りで縛っている朱里は、執事と言うには年若く、しかし、その職業に見合うだけの落ち着いた物腰と雰囲気を持っている。すらりとした長身に相応しく、その顔立ちも端正でハンサムだ。外見だけでなく中身も凄い。料理、洗濯、裁縫、その他、家事の全般から、画廊に置ける雑務、処世術に至るまで、全てに置いて優秀・辣腕。なんでもこなす万能執事だったりする。


「あ、ごめん」

 ここだよ、と、少年がもそもそ新聞を引っ張り出す。いつも手元に置いているスケッチブックに半分、白野のお尻にもう半分を下敷きにされていた新聞は、多少しわくちゃになっていた。

 どうも、と受け取って、一人掛け用のソファーに腰を下ろすと、男は新聞を開いて読み始める。のんびりとした午後の風景。


「えーっとね」

 スケッチブックを手に取って、白野がサラサラと駒の略図を描き始める。

「ポーン(兵隊)は前に一個だけ。ルーク(塔)は前後左右。ビショップ(僧侶)が斜めに動くんだよ」

 描いた駒の絵に、解りやすく動きの矢印を描き加える。その図を見ながら、小鳥が納得の行かない顔をした。

「でもぉ。それって、変だと思うんです」

「え?」

「だって、ビショップってお坊さんの駒でしょう? それなのに、なんで十字架の形に動かないのかしら?」

 ルークと逆だと思うんですよね、と首を捻って訴える。

「……」

 言っていることの意味は解るが、古今東西そうと定められているゲームのルールに、異議を申し立てられても困ってしまう。白野の蒼い瞳が困惑気味に宙を泳いだ。

「えーっと……」

「坊さんは、斜に構えているものですから。だから、斜めなんですよ、小鳥さん」

 新聞をガサリと捲りながら、朱里が言った。相変わらずの毒舌だ。


「わ。それって、偏見~」

「偏見なものですか。先人も皆そう思っていたんです。駒の動きが証明してます」

 したり顔で返す執事に、白野が「それじゃあ」と言う。

「ビショップって、朱里みたいな駒なんだ」

 小鳥がそれに吹き出した。確かに、朱里とは果てしなく『斜に構えた』男である。

「……白野様、それはちょっと非道いんじゃありませんか?」

「そう?」

「そんなことないです、白野様。わたし、今の説明でばっちり駒の動きを覚えました。とっても解りやすかったです!」

 ビショップとは陰険執事。だから斜向きに移動する。ものすごく理に適っている。もう一生忘れない。

「……」

 朱里が人差し指で、顎の辺りをコリコリ掻いた。反論を放棄したらしく、そのまま新聞に目線を戻す。まあ、何とでも好きにおっしゃい、という所か。


「でね、小鳥ちゃん。ナイトの駒の動きはね……」

 白野は次の駒の説明に移った。


 ナイトは跳ね馬。奇妙な動き。キングは太った王様だから、一歩ずつしか歩けない。そして、クイーンは唯一の女性にして最強。何処まででも突き進む……

「きっと、小鳥ちゃんみたいに元気な女の子なんだね、クイーンは」

 前と同じように、駒の絵に矢印を描き込みながら、なかなか巧い比喩を使って説明している。小鳥がその一つ一つにうんうん、と納得の相づちを打つ。


 そんな二人の会話をBGM代わりに、男は活字を目で追っている。

 新聞紙面には、今日も何処ぞの国で起こった紛争だの、企業同士の癒着だの、その揉み消しだのと言う、面白くもない見出しばかりが踊っている。美術展開催を知らせる全面広告を読み飛ばして、近く天体ショーが観られるとの小さな記事に目を留めた。天文ファンならさぞ喜ぶのだろうが、これにもさしたる興味は惹かれない。

 元来、朱里という男は、必要な知識を頭に納めるばかりで、それを趣味や楽しみに生かそうなどとは考えないタイプだった。そういうつまらない人間だと、自分でもとうに自覚している。唯一関心があるのは、主人の白野の事だけで……。『白野馬鹿』と周囲からさんざ囃される所以であった。


 更に紙を捲る。紙面下部に載せられた訃報欄に、知った貴婦人の名を見つけ出した。移住先の海外で永眠、とある。老婦人の死なのだ。その高齢を思えば不思議でもないが。

「……」

 自分より先に、今日の新聞を読んでいた白野は、この記事に気づいただろうか? 普段と変わった様子はなかったが、朱里自身にしろ、白野にしろ、余り感情を周囲に吐露する方ではないので、こういう判別は難しい。


 丁度、小鳥への説明を一区切りして、こちらを向いてきた蒼い瞳と目が合った。見交わす。それだけで通じ合えた。二人はもう随分長く、この屋敷で暮らしてきたので。

「……後で、百合の花を買って来てくれる?」

「かしこまりました」

 どれ、今から行って参りましょう、新聞を置いて立ち上がる男を目で追う少年に。

 次は、花の絵をお描きになるんですか? と、無邪気な様子で、何も知らない小鳥が訊いた。


 約束の時間に少し遅れて、黒塗りの車が門の中に入って来た。運転手が恭しく後部シートの扉を開け、中から女が降りてくる。遅れてもう一人、少年も。顔立ちが似ている。母子だろう。

 邸内に入ると母親は、ジロジロと屋敷の調度品やその他を不躾な様子で見回し、そして、奥の台に飾られた百合の花瓶に目を留めた。不快そうに眉をしかめる。

「あの百合を何処かへやって下さいな エドワードは花粉にアレルギーがございますの」

「お母様、僕は平気ですよ」

 エドワードと呼ばれた少年が、母親の後ろから遠慮がちに声を掛ける。

 喘息だったのは、ほんの小さな子どもの頃で。それに、とても奇麗な花です。

「まあ、そんなことを言って。また、発作が起きたらどうするんです? 貴方は男爵家の大切な跡取りなんですよ!」

 だから、こんな得体の知れない場所に出向くのはイヤだったんですよ。全く気の利かないことったら。

「小鳥さん、花瓶を奥に」

「……はい」

 朱里に促されて、小鳥は花瓶を別室に運ぶ。何だか出会い頭から感じの悪い依頼人だなぁと、小鳥は思う。あの母親の掛けた細い銀縁眼鏡が、ものすごーく嫌みったらしい。


「大変失礼致しました、男爵夫人」

 そう礼を取る男の姿も、夫人は眼鏡の奥から睨め付けた。

「まあ、髪の長い執事だなんて。ぞっとしない」 と小声で言う。

 ぞっとしないのは、おばさんのその態度でしょ、長髪の何処が悪いのよ!?

 花瓶を置いて戻った小鳥はムカムカした。小鳥の髪は癖のある猫っ毛で、実のところ、朱里のような真っ直ぐな黒髪には大いに憧れを持っていたのだ。サラサラのストレートヘアを風になびかせてみたかった。ちょっと品を作って手ぐしで掻き上げてみたりとかも。いや、別に執事にやってみて欲しいわけでは決してないが。


 男爵夫人の台詞は当然聞こえただろうに、朱里は澄ました顔をしている。こんな客には、もう慣れっこなのかも知れない。

 そう言えば、この屋敷は何時から【幸福画廊】と呼ばれているのかしら? と小鳥はふと思った。白野様のお歳からして、そう昔からというわけでもないだろう。えーっと、わたしが噂を初めて耳にしたのは……三年? 四年? もう少し前?



 白野が部屋に入って来た。夫人が驚いた風に訊いてくる。

「……彼が画家だという?」

「はい。当画廊の主、白野様です」

「ま、噂には聞いていたけれど、本当に若いこと。まだほんの子どもではないの」

 こんな子どもにまともな絵が描けるのかしらねぇ?

 ムッチャクッチャにカチンと来た。朱里がそれを見越したように、「小鳥さん、お茶を」と指示を出す。奥歯を噛みしめて小鳥は耐えた。メイドたるもの忍の一字だ。無念無想、我慢我慢。


 エドワード少年は14歳だということだった。最高級の仕立ての服を着て、母親の後ろに行儀良く控えている。大人しそうな少年だ。そばかすの浮いた頬は若さの象徴とも言える。

 男爵夫人は、室内に飾られた沢山の絵を一枚一枚、じっくりと吟味しているところだった。しばらくして、まあ一応は納得したというように、ゆっくりとソファーに腰を下ろす。

「エドワード」

 と、息子を呼んだ。花々の揺れる草原の描かれた額にうっとりと見入っていた少年が、ハッとしたように肩を揺らす。促されて、母親の隣に腰掛けた。ほんの少しだが、母親と息子の座った位置の、そこに空いた空間に、この親子の関係が垣間見える気がする。

 エドワードはちらりと横目で母親を窺った。そして俯く。


 お茶を配りながら、何だか暗い目をした子だな、と小鳥は思う。14歳という歳に見合った若さというか、活力がない。母親に似て少し痩せ気味の尖った顎の形や細くて小さな目から、何となくネズミを連想した。ネズミ取りの小さな檻に掛かって、縮こまって怯えるネズミ。彼が着た服の色の所為もあるかもしれない。


「わたくし、この子には適う限りの最高の人生を与えてやりたいと思っております」

 母親が切り出した。

 早くに父親を亡くしましたので、男爵家の跡取りはこの子だけです。片親で育てられた、などと世間様の誹りを受けぬよう、ずっと気を配って参りました。

 最高の環境。

 最高の教育。

 最高の友人。

 思いつく限りの最高級の人生を、と。

「幸い、この子も、わたくしの期待に応えて、男爵家を担うに相応しく成長してくれつつあります。でも、まだ『最高』には足りない」

 そんな折り、この画廊の噂を耳に致しましたの。どうせ眉唾なのでしょうが、まあ、気休めくらいにはなります。由緒ある貴族の子息に相応しく、この子の肖像画も一枚くらいはあっても良いと思いますしね。


「この子の『最高に幸せな笑顔』を描いて下さいな」

「彼の、最高の……?」

 白野が訊いた。正面に座るエドワードを見る。蒼い瞳がゆっくりと瞬かれた。

「ええ、この子の最高の笑顔。それが母としてのわたくしのただ一つの願いです」

「……うん、分かった」

 白野が頷く。彼の子どもっぽい物言いがまたしても気に入らなかったのか、夫人は銀縁の眼鏡の下で、また不快気に眉を寄せる。それでも、流石に今度は何も言わなかった。


「それでは、また後日ご連絡させて頂きます」

 朱里がそう言ったのを汐に、依頼人の母子が立ち上がる。


 帰り際、エドワードは壁に掛けられた絵の前で足を止めた。先程の草原の絵だ。それを見上げる。

「気に入った?」

 横に立って、白野が訊ねる。二人の少年はそう背丈が変わらない。白野の方が物腰や雰囲気はそれなりに大人びているので、一応年長には見えていたが、しゃべり口調はエドワードの方が年上っぽい。

「この絵も君が描いたのかい?」

「うん」

「こんな奇麗な景色の所、僕も行ってみたいよ」

「僕も行った訳じゃないんだ。……これはある人の想い出だよ」

「エドワード!」

 母親が呼ぶ。

「はい、お母様」

 少年が少し名残惜しげに急ぎ足で立ち去っていくのを見送って、白野は小さくため息をつく。ソファーに戻って腰を下ろした。


「……ゲームの続きでもしようか、小鳥ちゃん」

「え、いいんですか?」

 いつもの白野は依頼を受けると、すぐにアトリエに篭もるのが常だ。

「だって、小鳥ちゃんの打つ手って面白いもの」

 えーっと、とても独創的で。

 そう、付け足してはくれたが、結局は「ハチャメチャな手」って意味だろうなぁ。

 わたしって、頭脳ゲームにゼンゼン向いてないのよねー、と小鳥はちょっと哀しくなった。それでも、大好きなご主人・白野様に相手をして貰えるのはとても嬉しいことだったが。



 朱里がどけていた百合の花瓶を手に戻ってきた。チェス盤を前にうーんうーんと呻っている小鳥に、「クィーンをナイトの斜め前に」 と多少の知恵を伝授する。

 小鳥との力の差を補うために、白野の駒は最初からかなり減らしてある。

「朱里、ズルい」

 白野が口を尖らせた。


■■2


「おーい、用意は出来てるかー」

 いつものように騒々しく、ダグラス刑事がやって来た。今日はセント伯爵もいっしょである。これから、みんなでカーニバル見物に繰り出すのだ。

「白野様、上着は?」

「要らないよ」

「夜には少し冷えてくるかもしれません。取って参りますから」

 世話焼き症の執事が踵を返す。半分ほど降りた階段を、また上っていった。白野はそのまま階下に降りる。もう、他は皆玄関口に集合していた。


 ダグラスが問う。

「執事はどうした?」

「すぐ来るよ」

「手紙が届いてたぞ」

 そう言って、郵便屋から受け取った一通の封筒を示す。

 執事宛だが、差出人の名がないな。随分と小洒落た封筒だが、もしかして、この中身は奴の秘密のお相手からの恋文か?

 キッシッシ、と品のない笑いを浮かべる男に、またそんな下世話なことばっかり、と小鳥が眉間にシワを寄せた。

「わ、でも本当に奇麗な封筒。エアメールなのね」

 覗き込むと、薄く瀟洒な透かし模様の入った上質紙で作られた封筒である。何処かの名家の紋章だろうか。でも、恋文と言うにはちょっと中身が薄すぎる気がするなぁ。ハンサム執事と何処かのご令嬢の恋だなんて、ちょっと心躍るシチュエーションだと思うんだけど。

 そんな事を考えている自分に気づいて、イヤになる。何だか最近、思考がダグラスに毒されて来ている気がする。由々しき傾向だと思う。


「きっと【幸福画廊】のお客様からのお礼状か何かじゃないのかしら?」

 ダグラスから封筒を受け取って言う。「ねぇ、白野様」と同意を求める。白野も封筒をじっと見詰めた。その瞳の蒼が何故か際だって、濃く見える。怖いほどに深い蒼。

「……うん、多分ね」

 帰ったら朱里が見るだろうから、そこら辺に置いておいて。

「はーい」

 小鳥は封筒を、いつもの決められた台の上に載せに行った。


「お待たせ致しました」

 朱里が主の上着を手に降りてくる。

「遅いぞ、執事」

「あ、あのね……」

「早く行こうよ、僕、楽しみにしてたんだ、カーニバル」

 白野が朱里の手を掴む。ぐいぐいと引っ張るのに、朱里が笑った。

「白野様、玄関の鍵。泥棒が入ってしまいます」

 きちんと鍵を掛けて、皆で連れ立って歩き出す。


「もしかして、カーニバル見物も初めてだとか言うんじゃなかろうな、坊や?」

「初めてだよ」

 当たり前のように答えが返り、ダグラスは思わずため息をつく。一体、この坊やはこれまでどう生きてきたのやら。この屋敷のアトリエにただひたすら閉じこもって、絵ばかりを描いて過ごしたのだろうか。執事とたった二人きり、この広すぎる屋敷の中で。


 ダグラスは、小鳥を既に交えてからのこの屋敷しか知らないが。それ以前の様子を想像しようとすると、何故か暗澹とした気分になる。それは二人が何処かしら普通と違う『異質』を感じさせるからで、その事は彼らの絆を深めているようにも見え、また、同じ強さで互いに憎み合っているようにも思えるのだった。これは、刑事としての第六感だ。恐らく、間違ってはいないだろう。


 先程の白野は、朱里に手紙のことを話そうとした小鳥を遮ったように見えたのだが。考え過ぎか、と思う。一度も見たことがない祭りなら、それはさぞかし見たかろう。かなり強引にではあったが、誘ってやってやはり良かった。


「ほっほっほ、こりゃ、両手に花じゃのぅ」

 右に白野、左で小鳥と手を繋いで、セント伯爵はさも楽しげだ。あぶれた男二人は、当然ながら手を繋ぎ合うこともなく、苦笑を浮かべながら、その後ろを歩いていく。


「晴天だなぁ、絶好のカーニバル日和だぜ」

「そうですね」

 本当に、荘厳なまでに空は青く、そして高い。


「わ、すっごい」

 小鳥は目を丸くする。まだパレードが始まる時刻には大分間があると言うのに、既に沿道は一杯の人だかりだ。

「爺さん、頼むから、人波に揉まれて転ばないでくれよ」

「年寄り扱いするなと言うに」

「あんた、年寄りだろーがよ」

「沢山、出店が並んでるね」

 ざわざわとした人混みの中。物珍しそうに、キョロキョロと辺りを見回す少年に、朱里が「白野様」と声を掛けた。会場近くにある小さな児童公園を指さして、いいですか、と言う。

「もしも、みんなとはぐれたら、あそこで待ち合わせに致しましょう」

 覚えていて下さいね。

「うん、分かった」

 念を押す男に、素直に頷いて見せる。ハタで聞いていたダグラスの方が脱力した。

「おいおい、執事ぃ、坊やを一体幾つなんだと思ってるんだぁ」

「ですが、これだけの人混みですから。白野様だけでなく、全員迷子の可能性がありますよ」

 暗に、小鳥にも念を押しているらしい。幾らかその手の不安があるのか、小鳥も「公園に集合、公園に集合」と、ぶつぶつ小声で呟いている。


 『転ばぬ先の杖』は執事の必殺技である。言われてみれば、このメンツでは、そういう不安も在るかも知れない。老人と少年と女の子。三人の被保護者に対して、引率者は二人なのだ。頭数で劣っている。普段なら、朱里の長身とそのルックスはそれなりの目印になる所だが、これだけの人混みだと、流石にそれも無理だろう。

「あー、分かった。よし。全員、何かあったら、あの公園で集合な!」

 はーい、と小鳥が手を上げる。何だか、幼稚園の先生にでもなったような気がした。


「ねぇ、あれ何?」

 リンゴに真っ赤な飴がコーティングされたものに棒が突き刺さった、縁日でよく見かける例のアレ。その屋台を指さして、白野が問う。

「ありゃ、リンゴ飴だろ」

「リンゴ飴?」

「喰ったことナイか?」

「うん。初めて見た」

「あ、わたしも食べたことはナイかも」

「二人で買っていらっしゃい」

 朱里がそう促した。

「お、わしの分もな」

「爺さん、入れ歯のクセに喰えるのか?」

「うるさ~い!」

「あ、綿菓子もありますよ。伯爵様はそちらにします?」

「いやじゃ、白野クンとお揃いがエエ」

「綿菓子にしとけよ」

「綿菓子は、お前が喰いたいだけじゃろーが」

 確かに、ダグラスは甘党であった。図星だったらしく、一瞬、うっと押し黙る。

「歯っ欠け伯爵はみっともねぇだろ」

「平気じゃもんねー」


 何時まで経ってもらちがあかない。朱里が、ため息混じりに

「四個ずつ買って来て下さい」

 そう小鳥に指示を出す。この中で、唯一彼だけが辛党である。当然、勘定には入れなかった。


「うん、美味しい」

 綿菓子を食べてみる。舌にのせた途端にすっと消えるのが面白い。残るのはただ仄かな甘さだけだ。

「リンゴ飴は喰わないのか?」

「キレイだから。食べるのって勿体ないもの」

「ほぅ、画家さんの審美眼に引っかかったんかのぉ?」

「白野様って、リンゴがお好きですよね」

「うん」

 何時になく、白野ははしゃいだ様子だった。人混みの高揚が伝染しているのだろうか。

「朱里は、リンゴの皮をものすごく長く剥けるんだよ」

「白野様に鍛えられましたからねぇ」

 お小さい頃は、もっと細く長く皮を剥けと、さんざ無体をおっしゃって。男が懐かしそうに目を細める。

「へぇー、昔はワガママ坊やだったのか?」

 小鳥といっしょに連れだって、今度は風船の出店を見に行った少年を目で追いかけ、そして小さく首を振った。

「いえ、とても聞き分けの良い方でした」

 多分、良すぎたのだ、と思う。朱里は少年の口から恨み言の一つさえ聞いたことがない。さぞかし不満もあっただろうに。


 小鳥と一緒に風船をつついている。何事か言葉を交わして笑っている。楽しそうな白野を見ていると、自然とこちらの口元も綻ぶ反面、心が痛む。

「……もっと、こういう場にもお連れして差し上げるべきでしたね」

「まぁ……箱入り息子が過ぎるわなぁ」

 箸より重い物を持たせない、というのは良く聞く箱入り娘の話だが、白野の場合はきっと絵筆より重い物は持たせたことがないのではないか。

 ダグラスの言葉に、流石にそこまでは、と苦笑した。

「私は、不精者でして」

「敏腕、こまめ、過保護と、三拍子揃った奴が何を言う」

「いえ、本当に。何でもメンドウに思う質なんです。料理だって、自分一人ならもう絶対にやりませんよ」

 と言いますか、覚えることすらなかっただろうと思います。

 そう、真顔で返してくる。

「人混みも苦手ですし、それに……」

「それに?」

「ああ、いえ」


 白野を不用意に外に出しても良いものか、との迷いがいつも胸の中にあったのだ。少年の持つ不可思議な力は多くの可能性を秘め、朱里を全てに躊躇わせた。


■■3


 『ねぇ、朱里。リンゴを剥いてよ。もっと長くだよ、もっと長く』

 初めて出会った頃の少年は、不遇な環境の中でも、だが、それなりに笑っていたように思う。朱里が執事ではなく、まだ家庭教師として接していた頃のこと。当時は白野の父親もまだ存命だった。


 幸せを描いて下さい

 幸せ?

 そう。いつも、それだけを見て……幸せな絵を描いて下さい


 そんな約束を交わした後で、幼い白野が描いたのは、青い空に一羽の鳥が羽ばたいている美しい絵……。


「僕ね、朱里と約束したんだよ。僕、これからは幸せな絵を描くんだよ」

 いつものように定期的に館を訪れた父親に、この日は珍しく、白野の方から話しかけた。父親が驚いた顔をする。

「あのね、これ『父様の幸せの絵』」

 細く丸めて、プレゼントのように青いリボンで縛った画用紙を、小さな手が恐る恐る差し出した。リボンを用意してやったのは、勿論朱里だ。白野は館を出ることは出来ない。いや、この部屋からさえ出ては行けない。そういう決まりだ。


「……見てくれる? 父様?」

 大きな瞳が不安げに揺れている。差し出された画用紙と少年の顔を交互に見詰め、それから、少し離れた位置に立つ朱里の顔を父親は見詰めた。それに微笑んで頷いて見せる。父親も少し遅れて笑みを返した。

 わが子の手から絵を受け取ると、結ばれていたリボンをほどく。

「……」

 息を詰めて、少年が父親を伺った。

 画用紙の中には、青い空に一羽の鳥が羽ばたいていて……。


 少年の栗色の巻き毛の上に、父親の手が載せられた。ゆっくりと撫でられる。指に柔らかな巻き毛が絡む。

「とても……良い絵だね、白野」

 ぱっと少年の頬が赤らんだ。嬉しそうに笑う。

「これが、私の幸せな姿なのかい? 父様は鳥になるのかな? それとも鳥を飼うのかな?」

 そう訊ねる。確かに、この絵を『幸せの絵』だと言われても、理解に苦しむ。子供の想像力の広さは大人の範疇を超えている。きっと、白野なりの幼くも豊かな解釈があるのだろう、と朱里はそう思っている。

 なんにせよ、高く澄み切った青空を飛ぶ鳥の絵は、とても美しいものだった。だからこそ、父親にも見て欲しいと思ったのだ。白野の描く絵の不思議にいつも怯えている父親に、白野自身のことをもっと知って欲しかった。彼が過去にどんな絵を描いたにせよ、きっと、その罪は白野にはない。とても心優しい子供なのだ。閉ざされたドアから出て行くことを自ら放棄するほどに。


「えぇっとね、よく分からないんだけど……」

 絵の説明を請われて、困った顔をする。どうやら、解説は幼い彼の手に余る作業らしい。それでも、一生懸命に自分の絵を言葉にしようと考える。小首が深く右に傾ぐ。

「父様がね、とっても幸せな気持ちになれた時の絵なんだよ。これ」

「……もっと分からないよ、白野」

 そう言われてしまって、愛らしい口唇をへの字に曲げる。父親が笑う。朱里も笑った。


「君は、変わった青年だ」

「左様でしょうか?」

「ああ、とても変わっている」

 屋敷から、少し離れた公園に来ていた。父親がベンチに腰掛ける。促されて、朱里も隣に座る。

「そう言えば、白野様も何時でしたか、そのような事を仰っておいででした」


 季節は丁度秋に入ったところで、周囲の木々の葉が薄く色づき始めている。近くの砂場に、赤いおもちゃのバケツが半ば砂に埋もれているのが見えた。何処の子供が忘れていったものか。きっと、白野よりは幼い子供なのだろうが。置き去りにされてしまった小さな玩具は、無機物のクセにひどく寂しげに目に映る。


「あれの秘密を知ったら、誰もが逃げ出すのに。……君は逆に、館に居着く決心を固めてしまったもののようだね」

「はい。家庭教師として不要になりましたら、次は執事として雇って頂く予定です」

 父親の目が心持ち見開かれた。色は違うが、眼の形はやはり白野と重なる。面影がある。

「執事って、あの子のかい?」

「はい。白野様とそうお約束致しましたから」

「そう。……それは良いね」

 とても良い、と、父親が言う。



「私は、あれの母親の後に後妻を娶っている。その間に二人の子もある。そして、守らなければならない家名があるんだ」

 白野を自分の子として、公の場に出すことは、決して出来ない。

「お立場は存じ上げております、侯爵」

 静かに返す青年を横目に見て、父親は膝の上で組んだ手を強く握った。


「君にだけは言っておこう。あれの母親の死を絵の中に見つけた時。……私はあの子を魔性だと思った」

 心が凍り付くほどの恐怖を感じた。自分が解せない物事は、誰しも強い畏れを抱く。

「……」

 あれは、確かにそういうものなのだと思う。生まれつき、人よりも多くを視る眼を持っている。そんな眼を持って生まれたものは、きっと、私たちとは『心』も違う。

「決してあれの所為ではないが、あの子は怖ろしいものなんだよ。……それでもあの子と行くのかい?」

「はい。お仕えしたいと思います」

 淡々としたその口調に、決意の程が垣間見える。互いにどんな部分で惹かれあってしまったものか。白野があそこまで人に懐いたのも初めてのことだ。

 それが、良い兆しなのか、それとも厄災の前触れなのか。侯爵には知る術もない。


「君は、やはり変わっている」

 あの子と何処か似ているね。……そう、何を見ているんだか。そんな所が。

「何も見えていなかったのかも知れません」 朱里が応じる。

 白野様を通じて、私は初めて世界を見た。そんな気がしているんです。


 落ちる!

 バキバキッと空恐ろしい音が周囲を震わせた。

 スローモーションのように、殊更ゆっくりと男が視界から消えていく。大きく開かれた目。空洞のようにぽっかりと空いた口。バサバサッと頭上で鳥の羽音が鳴った。伸ばされた指先さえ、空を掻いて見えなくなる。

 時が止まった心地さえしたが。全ては、きっと一瞬の出来事だったのだろう。

 崩れ落ちたテラスの一角を、ただ呆然と見詰めながら、朱里は白野の小さな肩を抱く。

 腐った柵から落ちかけた我が子を庇って、男はテラスから落ちて行った。


「……と……ぅさま」

 カクカクと震える少年を庇うように抱きしめる。その朱里の腕も震えていた。何が起こってしまったのか。


「白野様、ここにおいで下さい。この部屋に。テラスにも決して出てはいけませんよ」

 軽い身体を抱え上げ、ベットの上に降ろした。

「朱里……」

「すぐに戻ります。……大丈夫ですから」

 大丈夫。

 何の根拠もない、まるで祈りのような言葉を重ねて、朱里は部屋を出る。広い階段を駆け下りる。テラスの真下、庭へと走る。


「侯爵!」

 共に落ちた破片と折り重なるようにして、男はそこに仰向けに転がっていた。片足が奇妙な方向にねじ曲がっている。破片で切ったのか、額にパックリと裂かれた傷がある。その赤い色に、死が見えた。

 傍らに跪く。朱里に気づいたのか違うのか、男の唇がわなないた。血に濡れた舌先が口腔から覗く。

「……タ」

「え?」

「見た……これが私の幸せなのか? ……あぁ、シラ……ノ」

 男の目に涙が浮かぶ。すっと一筋伝って落ちる。ほんの少しだけ、その腕が上に上がった。何かを指し示すかのように。

 朱里の目も上を見上げる。そこには空が広がってた。青く高く澄んだ空が。

 一羽の鳥の影が、とても高みを悠々と旋回しているのが見て取れた。……日差しが目映い。


「ひぃぃ~! だ、旦那様」

 やって来た下働きのボズウェルが、持っていた酒瓶を取り落とす。ガシャンと音を立てて瓶が砕けた。その音でハッと我に返る。

 侯爵は既に事切れていた。

「……」

 そっと開いたままの目を閉じさせる。手の平に濡れた感触がした。血と……涙。


「き、救急車……」

 そう言って、建物に戻ろうとする下男を追いかける。捕まえ、その肩を掴んで叫ぶ。激しく揺さぶる。

「ボズウェル! 侯爵邸に電話を。救急車など要らない。いいか、侯爵は既に死んでいるんだ!」

 侯爵家に伝えろ! 彼が事故で亡くなったと。この館で亡くなったことの処置をどうするのかと訊くんだ。全て揉み消せと言え、すぐさま遺体を引き取りに来いと言ってやれ!


 侯爵がここで亡くなったことが公になるのは、致命的だった。どうして此処で? という事になれば、白野の存在も知られてしまう。きっと、彼の秘密でさえも……。

 白野を守らなければならなかった。父親亡き今、白野には恐らくもう朱里しか居ない。


 カクカクと頷いて、ボズウェルが転げそうな足取りで走っていく。ボズウェルにとっても、この屋敷の内情が公然に晒されることは本意でない筈だった。未成年者軟禁の当事者だ。下手すれば腕は後ろに回る。

 きっと朱里自身が直接電話をするよりも結果は良い方向に転がるだろう。あの下男はアル中でよく頭が回らない。そんな男を侯爵の死体の傍に長く置けばどうなるか? 侯爵家では大慌てで動きを見せる事だろう。

 上流階級にはそれなりのコネと人脈がある。金だって大いに動かせる。貴族の家だからこそ白野が追われたと言うのなら、せめて、この時なりとその身分を役立てて貰う。


 遺体に自分の上着を脱いで被せる。鎮魂の想いを込めて黙祷した。侯爵の死は、朱里にとって大きな痛手だった。彼らは白野という不可思議な存在を介して、お互いの良き理解者だったのだ。いや、これからそうなれる筈だったのに。……そう思う。


■■4


 その後の数日間を、朱里はよく覚えていない。余りにも目まぐるしく、ただ日が昇り、そして沈んで行ったように思う。

 即日、黒塗りの車とそして数名の男達が来て、侯爵の亡骸を回収していった。庭からは事故を示す一切が拭い去られ、漂っていた血臭が消え、そして、今はテラスの修復工事が行なわれている。


 新聞に侯爵の訃報が載せられた。侯爵邸内での不慮の事故死、と書かれている。葬儀は盛大に催されたらしかった。新聞紙面にその写真が掲載されている。喪服に身を包んだ妻とその幼子が二人。遺体の納められた棺を前に、哀しみに頭を垂れている。その中に、白野の姿は当然ない。

 喪主は妻ではなく、侯爵の母となっていた。かつて賢夫人との呼び声も高かった女性だと聞く。侯爵の死に纏わる真実の一切を闇に葬った手腕は、恐らくこの老婦人のものだろう。朱里は、写真の隅に映る老女の姿を見る。息子を亡くした憔悴の色は濃かったが、それでも強い意志の宿った瞳だ。モノクロの写真なので、定かではないが、蒼い瞳ではないのかと思う。


 気が付けば、ボズウェル夫妻の姿は、館の中になかった。

 荷物がきちんと運び出されている事から推して、これも老婦人の手回しだろうか。朱里と白野に対しては、まだなんの沙汰もないが、それも時間の問題だろう。


「白野様、夕食は何をお持ち致しましょうか?」

 テラスの工事がうるさいので、今、少年は朱里の部屋に身を置いている。工事の人足たちの視線から庇う意味もあったが、何よりも少年を一人にするのは不安だった。それに、奇妙なものだが、こういう時には、ただ広い部屋よりも狭い空間の方が、何故か人は安心出来る。

 白野は朱里のベッドにずっと突っ伏したままでいる。

「ボズウェル夫妻が、ここを出て行ってしまったようです」

 ですから、お食事の用意がありません。何か好みをおっしゃって下されば、店に配達を頼むなり、市場で買ってくるなり致しますが。

「……」

「白野様?」

 そっと、枕元に腰を下ろす。柔らかな巻き毛に手を載せる。


「朱里……」

「はい?」

「僕……怖い」

「何がです?」

「怖いよ……とても怖いんだ……」

「少しおやすみなさい」

 そういう時には、眠ってしまうのが一番です。言って、頭をそっとなぜてやる。

「だって、眠れないんだもの」

「……」

 男が立ち上がった気配に、少年はぱっと顔を上げた。

「朱里、やだよ。何処行くの?」

 不安げに見開かれた瞳に、ああ、すみません、と謝る。

「ホットミルクをお持ちしようかと思ったんです。気分が少し落ち着くんですよ。あれを飲むと」

 幾ら怠惰なボズウェル夫人でも、冷蔵庫に牛乳の買い置きくらいはしてあるだろう。


「いっしょに階下に降りますか?」

「……うん」

「じゃあ、いらっしゃい」

 ベッドの上から伸ばされた腕をそのまま掴んで引き起こしてやる。手を繋ぐと、二人でいっしょに部屋を出た。


 階段を降りる時、少年はキュッと強く男の手を握ってきた。腕にしがみついてくる。

 ああ、そうか、と察する。

 白野は、自分がこの階段を使うことなどもうないと、そう決めていたのだろう。


「……大丈夫ですよ。見咎める者は、もう居ません」

 同時に、守り手も失われた。この館には、二人だけだ。


 冷蔵庫の中や戸棚を漁ると、幾ばくかの食材が見つかった。食パンとチーズがある。熟れすぎのトマトと玉子も使えそうだ。


「実は、料理など全く経験がないんです」

 食べられるものに仕上がるかどうか、分かりませんが。

 そう断わりながら、食パンにバターを塗ってチーズを載せたものをオーブンに放り込む。時間加減がとんと謎だった。10分ぐらいだろうか? とにかくセットしてみる。

 玉子とトマトはスープにしようと思ったが、トマトを切ろうとして、まな板と包丁が見あたらないことに気づいた。自室に戻れば果物ナイフくらいはあったが、取りに行くのがメンドウ臭い。鍋の中、手で握りつぶして、切る代わりにした。水を足してコンソメを突っ込んで煮立ったものに、玉子を溶かして流し込む。


「朱里、何だか焦げ臭い……」

「おっと」

 しくじった、時間設定が長すぎたか。

 慌てて、オーブンの中を覗き込む。チーズがグツグツ泡立っている。周囲は炭化しかけていたが、そこを除けば。まあ、何とか食べられそうだ。

 パンに気を取られている間に、スープの鍋が噴きこぼれる。こちらも慌ててガスを止める。

 スプーンの置き場が分からないので、出来たスープはマグカップに注いだ。焼けた取っ手に指先が触れて「熱ッ」と自分の耳を掴む。


「……ふふっ」

 キッチンの椅子に腰掛けて、その様子を見ていた白野が、小さく笑う。床に着かぬ両足をゆらゆらと揺らす。

「何です?」

「朱里って、何でも知ってて、何でも出来るんだと思ってた」

「ガッカリなさいましたか?」

「ううん」

 目を閉じて、首が振られた。

「家庭教師なら料理など無用でしたが。……執事になるのなら、これも覚えなくてはいけませんかね」

「執事って料理もするの?」

 訊かれて、朱里も「おや、そう言えば」とちょっと首を傾げる。

「さて……どうでしたかね?」


 二人で、簡単な夕食を始める。スープは塩気が足りなかったし、パンはやっぱり焦げ臭かったが、白野は「美味しい」と食べてくれた。


「私のベットは狭いので、落っこちないで下さいね」

 白野の部屋は、テラス工事の際のラッカーだか何だかの薬品臭が入り込んでいて、長く居ると頭が痛くなりそうだった。それに幾分埃っぽい。他にすぐに使える部屋もないので、今日の所は白野には、朱里のベットで我慢して貰う他はない。


 ホットミルクを与えて、横にならせる。布団の中から、白野が訊いた。

「朱里は寝ないの?」

 暗に、こっちに来てよと言っているようだ。

「……あー、私は我ながら体積が大きいですから……」

 二人で寝るには、ちょっと苦しいと思います。

「大丈夫だよ。僕ちっちゃいし。朱里だって、縦には長いけど横幅ないもの」

 自分の身体を横にずらせて、ほらほら、とベットを叩く。おいでおいで、と手招きまでされて、何だかどちらが子ども扱いされているのか分からなくなる。


 仕様がないので横になったが、居心地悪げにもぞもぞする。そんな男に白野が訊いた。

「やっぱり狭い?」

「実を言うと、人といっしょに眠るのは初めてなんです」

 一時期、娼館を定宿代わりにさせて貰った事ならあるが、あれはかなり意味合いが違う。まあ、子どもに聞かせる話でもないが。

「そうなの。僕、ずっと小さい頃は母様といっしょに眠ったよ」

 自分の言葉に昔を思い出したのか、人恋しげに男の肩口に頭を擦り寄せて来る。

「……寝にくい?」

「いえ。何だか不思議な感じです」

 頬に触れるふわふわの巻き毛が多少くすぐったい。大きなクマのぬいぐるみを抱えて寝るのは、こんな感じなのだろうか。いや、クマと言うより少年は……どちらかと言うと、長毛種のネコっぽい。そんな事をつらつらと思い浮かべて、クスリと笑う。


「……ねぇ」

「はい?」

 あのね、さっきのキッチンでの話。

「本当に、僕の執事になってくれるの?」

「そう、お約束しましたでしょう?」

 男がそう言って微笑んだ。それに、安堵したように目を閉じる。しばらくすると、穏やかな寝息をたて始めた。


 ナイトスタンドの仄かな明かりの中。天井を見詰めながら、このまま、この館から白野を連れ出すことは可能だろうかと考えてみる。

 無理だ、と結論づけた。相手は侯爵家なのだ。逃げ切れるとは思えない。貴族社会の権力の程は骨身に染みて知っているつもりだ。

 白野の容姿はかなり目立つ方だし、こういう大きな館でならともかく、修学期の子どもを学校にも通わせず小さなアパートに置いていては、すぐに周囲に噂も立つ。


 侯爵家がこの後、どういう処置に出るつもりなのか。全てはその出方次第か。



 それにしても。

 侯爵の最期の言葉を思い出す。

 『見た……これが私の幸せなのか、白野?』

 あの時、侯爵は今際の際に何が言いたかったのだろう? 彼は死の直前に、一体何を見たのだろう? ……ひどく心に引っかかる。


 小さく吐息を漏らす。明かりを消して、目を閉じた。


■■5


 少年と同じ目の色をした、老婦人が館を訪れたのは、それから更に数日を経ての事だった。

「お祖母さま……」

「大きくなりましたね、白野」

「はい。お祖母さまもご健勝で何よりです」

「ホホ……。まあ、随分と難しい言葉遣いを覚えたこと。お前の家庭教師は優秀な者のようですね」

 朱里の方に向き直る。小さな、朱里の胸までもない程の老女だが、その目には人を制する威圧があった。足が不自由なのか、杖を持っている。

「初めてお目もじしますね。白野の祖母です」

「朱里と申します」

 お目に掛かれて光栄です、と礼を取る。


「白野や、お祖母さまは彼とお話しがあります。しばらく席をお外しなさい」

「……」

 動こうとしない白野に、声を掛ける。

「白野様、私の部屋で待っていて下さいますか?」

 少し腰を屈めると、頭に手を載せて微笑んでやる。白野は朱里の顔をじっと見詰めて、それから部屋を出て行った。何か言いたげだったが、何も言いはしなかった。



 パタパタと小さな足音が遠ざかるのを待ってから、老婦人は近くの椅子に腰を下ろす。

 ここ数日、と話を始める。

「貴方がどういう行動に出るものかと、様子見していたのですが」

 ちっとも動きを見せないので、しびれを切らせて、とうとうわたくしの方から来てしまいましたよ。

 そう言って、男を見上げる。

「逃亡は無意味だと思いまして」

「短慮な方ではないことが分かって、安心しました」

 いろいろと事を荒立てたがる手合いは好みません。わたくし共には体面があります。

「肝に銘じておきましょう」

 私は、小心者ですので。

「ホホ……なかなか言いますね。本当に面白い青年だこと」

 朱里の返答が気に入ったものか、老婦人が可笑しげに笑い声をたてた。


「わたくしは、これでも周りには『怖い年寄り』で通っているのですが、貴方は怖くないのかしら?」

「白野様と同じ瞳の色をしておられます。僭越ながら、お会いした当初から親近感が湧きました」

 それに。意味ありげに老婦人が含み笑う。

「そう……わたくし共の血筋には、時折、この色の目を持つ者が生まれます。少しばかり人よりも『良い目』を持つ者が」

 何時の間にやら今の地位まで成り上がっているのは、多分にそのお陰です。意味はお分かりでしょうね?

 蒼い双眸が朱里を見詰める。その濃度が増した気がした。


「……お訊ねしてもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

 そう促される。その為にわざわざ出向いたのですからね。この老骨に鞭打って。

「それならば、何故、白野様だけがこの館にあるのですか? 解せません」

「簡単です。あの子は『視えすぎる』のですよ」

 コツンコツンと手にした杖で床を突く。規則的にコツンコツン。


 ほんの少しだけ他者より秀でる事は周りからも歓迎されます。でも、出過ぎた者はね、いけません。その者が望むにせよ望まぬにせよ、周囲を壊してしまいます。ですから、排斥せねばなりません。

「貴方にも経験のある事だと思いますよ。沢山壊して来たでしょう。貴方もかけ離れているようですね、周囲から」

 貴方はきっと優秀すぎます。


 それに。一瞬眉を寄せたが、すぐに諦めたように緊張を解く。

「昔をお調べになりましたか?」

 ああ、それとも『視える』のでしょうか?

 そう問う男に、夫人が目を細める。本当にね、優秀だこと。

「いいえ。わたくしにはそれ程の力はね」

 幸いなことです、と小さく指で十字を切る。


「やはり……私には解せません。何故同じ瞳をお持ちなのに、白野様を……」

「貴方だって、守りたいものとそうでないものの区別を付けているでしょう? わたくしもそうしているだけです」

 そう話す老婦人の目の色は、氷のように澄んでいる。


「同じ色の目を持つからこそ、逆にあの子の事が殊更に怖ろしいのですよ。『視る』ことは時として苦痛を伴います。心の扉を閉じたくなります」

「……」

「恐らくね、人は何処かで帳尻を合わせようとする生き物なの。目の見えぬ人の聴覚や触覚がどんどん俊敏になるように、視えすぎる者は視すぎてしまわないように、何処かでその帳尻を合わせるの」

 いちいち目に映る物の全てに心を掛けていたら、精神が参ってしまうから。きっと本能的にそれを知っているのでしょう、あの子は。

「白野は、とても怖ろしい子どもです。あれには『心』というものがない」


 開放していた窓から、秋のそよ風が吹いてくる。薄いカーテン地がふわりと揺れ、その隙間から一枚の枯葉が舞い込んできた。カサリ、と微かな音をさせて床に落ちる。


「そうでしょうか?」

 朱里は、知らず両の手を握りしめる。白くなるほど、きつく強く。

 人が心をなくすのは、孤独から目を反らす為ではないか。あるからこそ、ないもののように見えるのではないか。

「白野様は、優しい方です」

 そうだ。私などよりきっとずっと。

「無垢、とすら思えます」

 老婦人は目を閉じると頭を振った。解っていない、と言うように。


「……あの子は父親にどんな絵を描きました?」

 きっと、無邪気な顔をして『運命』を見せつけたのでしょうね。……残酷なことです。無垢とは清らかなものではありませんよ。とてもむごいものなのです。白さは人を傷つけます。

「よくお言葉の意味が解りません」

「それでは、お考えなさい」

 先ず知りなさい。そして、知った後も、あの子の傍に貴方が居られると言うのなら。……好きにするといいでしょう。


 老婦人が杖をよすがに立ち上がった。

「わたくしどもは、近く国外に移り住む予定です」

 嫁の実家の事業が軌道に乗ったのです。先々から息子もそのように考えて、準備を進めておりましたのでね。息子は、あの子を置いて行くことは考えられなかったようですが、わたくしの考えは異なります。あの子は明かに『異端』です。


「切り捨てる、と仰るのですね?」

 それに。夫人は、不意にくしゃりと顔を歪めた。哀しみとも自嘲とも怒りともつかぬ不可思議な表情を浮かべる。

「非道い祖母だと責めますか? 酷薄だと」

 そうだとしたら、この瞳の所為です。わたくしも、きっと人より心というものが足りないのでしょう。

 わたくしの所為でもない。あの子の所為でもない。でも、だからと言ってどうしようもない事なのだ。運命は決して変えられない。


「わたくしは、亡き息子の意志も尊重するつもりです。この館は既に白野の名義になっております。本邸を売った後には、それなりの金銭の譲渡も出来るでしょう。ですが、わたくしに出来ることはそこまでです」


 あの子は貴方の言うとおり、切り捨てようと思います。


 老婦人が去り、朱里は一人テラスへ出た。柵の修復工事は済んで、もう事故の痕跡は跡形もない。庭に植えられた高い木々の梢から舞い落ちる枯れ葉の散ったテラスを歩くと、時折カサリと靴の下で乾いた音を立てて砕ける。

 柵に手を置いて下を見下ろす。風でたぐまった赤い落ち葉が見えた。その色に血の匂いを思い出す。あの父親はここで死んだ。

「……」

 反転して柵に背もたれる。やがてそのままズルズルと床に腰を着いた。額に手を当てて、目を閉じる。緊張に張りつめていた糸が、つい緩んでしまった。そんな感覚。深く溜めていた息を吐き出す。

 老夫人は何を考えろと言ったのか、私に何を知れと言ったのか。

 こめかみが鈍く痛んだ。知らない筈なのに、既に知っているようにも思う。気づきたくない。何も、考えることを放棄する。



 どれだけの時間、そうしていたのか。

「……朱里?」

 少年の声が躊躇いがちに男を呼んだ。その小さな声に反応したのか、いつの間にか朱里の傍までやって来ていた一羽の鳥が、羽音を響かせて舞い上がった。反射的に、音の軌跡を目で追いかける。そこに広がる青い空。言葉と映像が走馬燈めいて脳裏を流れる。


 『あの子は父親にどんな絵を描きました?』

 『見た……これが私の幸せなのか、白野?』

 青い空に一羽の鳥が羽ばたく絵。それを白野は『幸せの絵』だと……。


 そうだ。あの日、テラスの崩れる音に驚いて、一羽の鳥が飛んだのだ。この青い空に高く、高く。きっと落ちていく瞬間、侯爵の目に映ったものは、あの美しい白野の絵。


「……」

 両の手で顔を覆う。ゆっくりと頭を振る。ジンと頭の芯の痺れるような、重力を帯びた虚無感がある。

 小さな指先は運命を描く。ああも邪気なく微笑みながら。

「朱里……?」

 少年の軽い足音が近づいてくる。それに問うた。

「……何故です?」

「え?」

「どうして、あのような絵をお描きになったんです?」

 低く響く声に怯えて後ずさる少年の細い手首を、伸びた男の腕が掴んだ。

「父君にお見せになった絵は、幸せの絵ではなかったのですか? 幸せな絵を描くと、そうお約束した筈でしょう!?」

「だって、僕、ちゃんと父様の幸せな絵を描いたもの。嘘じゃない。嘘なんかついてない!」

 痛い、痛いよ、朱里、手が痛い!

 ギリッと更に力を込めた。少年が悲鳴を上げる。

「嘘じゃない。父様はあの時、幸せだったんだ。本当だよ!」

 か細いこの腕。このまま折ってしまおうか。いや、いっそ……

「……ッツ!」

 恐怖に駆られて闇雲に暴れる少年の爪が男の頬を引っ掻いた。赤く滲んだ血の色に、少年の動きがハッと止まる。朱里も止まった。先程の鳥は既に天空の高みにある。白野の見開かれた蒼い瞳から、大粒の涙がポトリと落ちた。


 私は……。

 恐れを感じた。弾かれたように立ち上がる。

「朱里、嫌だよ、僕を置いていかないで。傍にいてくれるって、僕の執事になってくれるって、そう約束したじゃないかー!」


 逃げ出して。哀しい叫び声が何時までも耳から離れない。


■■6


 パンッ、という銃声と共に、射的の的が倒れる。

「わ、上手!」

 小鳥が手を叩いて喜んでいる。

「流石、腐っても刑事! 伯爵様もお上手ですね~」

「狩猟は貴族の嗜みじゃぞい」

「『腐っても』はよけいだ! ウサギのぬいぐるみ、取ってやらんぞ」

 合計で20点分の的を当てると豪華景品が貰えるらしい。あと、5点分だ。


「朱里、弾がなくなっちゃった」

 一発も当てられなかった少年が、とても悲しげに訴える。笑いを押し隠して訊いた。

「もう一回なさいますか?」

 首を振る。

「僕、向いてないと思う」

「執事はやらんのか?」

「いえ、私は……」

 子どもが走ってきた。屋台に繋がれた電気コードに足を取られて転びかける。

「おっと」

 それを支えてやる。弾みに、子どもの手にしていたアイスクリームが、朱里の上着にべったりと貼り付いた。

「ボクのアイス~」 と、子どもが泣き出す。

 父親らしい男が後から駆けてきて「こりゃ、すみません」とぺこぺこする。

「いえ、洗えば落ちますから」

「こら、坊主。走ったら危ないだろーが」

「パパ、新しいアイス買ってよー!」

 うーむ。最近のクソガキは礼の一つも言えんのか。次はあの小僧の尻を射的の的にしたろーか。

 ギャーギャー買ってくれを連呼しながら去っていく親子に、ダグラスはムカっときたが、服を汚された当人は、それを気にした風もない。

「すみません。ちょっと、何処かで洗ってきます」

 そう断わって、脱いだ上着を手に行ってしまう。


「待っておる間、白野クンももう一回やってみんかの?」

「ううん、見てる」

 新しい弾を込めながら、ダグラスがぼやいた。

「しっかし、あいつも人が良いな。俺なら、この人混みで三段アイスなんぞ抱えたまま走るガキは、そのまま放って転ばせとくがね」

「でも、ケガしたら可哀想よ」

「転ばねぇと、痛いってことがわかんねぇだろ!」

 次の的に狙いを定める。当たった。あと3点で、ウサギをゲットだ。


 セント伯爵がもう1点。ダグラスが最後に3点の的を射止めて、豪華景品が渡された。可愛らしいピンクのウサギのぬいぐるみを胸に、小鳥は大喜びだ。


「ダグラス刑事、見直しちゃった~」

「わしは? わしは?」

「伯爵様も愛してます~」

「……その台詞、逆にしてくれ、頼むから」

 今一つ報われないダグラスであった。はぁ~とため息をついていると、長身の執事が戻ってきた。


「すみません、水場を捜すのに手間取りました」

「見て見て、ウサギ!」

「ああ、取れましたか。流石ですね、お二人とも」

 それで、白野様は? と訊いてくる。

「へ!?」

 皆がキョロキョロと辺りを見回す。居ない、居ないぞ、何処へ行った?

「ついさっきまで、そこにいらっしゃったのよ」


 しばらく、その場で待機してみたが、やはり帰ってきそうにない。

「集合場所を決めておいて、正解でしたでょう?」

 ややあって、児童公園に向かって歩き出した一行が、そんな朱里の言葉に、一様にコクコクと頷いて見せた。


 一人、集合場所の公園で待つ。

 射的の出店前で。シャボン玉吹きの珍妙な扮装の男が通りかかったのを、ぼんやりと目で追っていただけのつもりが、ふと気づくと勝手に足まで動かしていたらしい。おや? っと思った時にはもう、自分が何処にいるのか皆目分からなくなってしまっていた。

 混雑の中、出店に戻ることは諦めて、目先の利く執事に言われていた通り、一旦会場を出て、公園までたどり着いた。白野はふぅーっとため息をつく。


 会場の喧噪とは裏腹に、この公園は静まっていた。ブランコと滑り台が置かれただけの、ちっぽけな敷地の中で小さな男の子が一人、地面に四つん這いになっているのが見て取れる。何となく足はそちらに向かってしまう。


「何やってるの?」

 とは、訊くまでもなかったかもしれない。男の子は地面に棒きれで絵を描いて遊んでいる所だった。凸型の下に丸が二つ付いていて、まあ一応、車だと分かる。

「絵をかいてるの」

 分かり切った答えが返り、お兄ちゃんは何やってんの? と、逆に訊かれる。

「えーっと、人を待ってるんだ」

 迷子になってるトコだよ、とは、流石にちょっと言いにくい。

「ボクもお母さんが来るの、待ってるんだよ」

 あのね、お母さんは今日お仕事ソウタイなの。それでいっしょにお祭り見るの。お父さんも来れるといいんだけどなぁ、よく分かんないって言ってた。

 共稼ぎの家の子どもらしい。父親は忙しい職種に就いているのだろう。


 キコキコと棒きれを使って丸が描かれる。それに目と鼻とにっこり笑った口が付いた。胴体が付け足され、三角形のスカートが着せられる。手にも何か持たされた。フライパン? と白野は思う。

「あのね、これ、お母さん。いつもおいしいご飯を作ってくれるの!」

 でも、怒るとおっかないんだよ。そう小声で告白する。更に横にも人物らしき絵が加わる。お母さんよりもずんぐりしていてヒゲがある。

「でね、これがお父さん。お仕事から帰ると、いつも大車輪してくれるの。ビューンってね、ボクを持ち上げてぐるんぐるん回してくれるの。すっごく楽しいんだよ」

 この前はね、お母さんも大車輪されてね、目が回るーって。でも、お母さん、笑ってた。


「お兄ちゃんのお父さんとお母さんは?」

「もう、死んじゃったんだ」

 そう言ったら、男の子が途端にしゅんとした。

「お兄ちゃん、さみしいの?」

 訊かれて、小首がほんの少し右に傾いだ。


「そんなことないよ」

 白野も傍に落ちていた棒きれを使って、地面に絵を描いてみる。細長い身体にネクタイを足した。

「あのね、これ朱里。いつも美味しいご飯を作ってくれるんだ。でも、怒るとおっかないんだよ」

 ピーマンを食べ残した時の朱里の顔を思い浮かべて、クスリと笑う。もう一人、今度はエプロン姿の女の子を描いた。

「そしてね、こっちは小鳥ちゃん。色々ね、僕らを振り回してくれるんだ。びっくりするけど、楽しいんだよ」

「それが、お兄ちゃんの家族?」

「……うん」

 僕の大切な人たちだよ。……もうじき居なくなっちゃうけど。


 じゃあ、真ん中にお兄ちゃんの絵も描こう。

 ぐるぐるの頭が朱里と小鳥の間に、男の子の手で描き込まれる。

「……ちゃーん!」

「あ、お母さんだ!」

 棒きれを放り投げて、男の子がパッと立ち上がる。花柄のワンピースを着た女の人目指して、だーっと走っていく。母親の腰に抱きつくと、思い出したように、白野の方を振り返った。

「ばいばーい、お兄ちゃん」

 手を振り返す。母親が軽く会釈をした。


「……」

 白野も立ち上がる。棒きれを捨てて、手をはたいて砂を落とす。

 足下に絵がある。朱里と小鳥の真ん中で、ぐるぐる頭だけが首までしかない描きかけだ。まだ、鼻も口もない。大きな目だけがそこにある。



「あ、いたいた。白野様ー!」

 みんながぞろぞろやって来る。小鳥が大きく手を振っている。

 少年は、そちらに向かって歩き出した。


 シャボン玉に見とれて、ついうっかりと大道芸人の後ろについて行ってしまった、などと弁明する困った少年を、公園にて無事回収して。一行はもう一度会場へと戻った。

 もう、パレードは始まっている。

 ダグラスが持参したカメラを手にシャッターを切る。狙っているのは全て際どい衣装を身につけて踊るグラマー美人ばかりらしい。

「こりゃ、ダグラス、あの緑の服の子も撮らんかい」

「男の尻なんぞ撮って、何が楽しい」

「わしが楽しい」

「爺さんのイかれた趣味なんざ知らんわい! 俺はただひたすらグラマーが好きだ!」

 何を大声で叫び合っているのか、恥ずかしい人達である。周囲の喧噪にかき消されるのがせめてもだが。


「朱里、見て。あの山車すっごく大きい!」

「はい」

 白野は、とても楽しそうだ。祭りは最高潮。渦巻くミュージック。踊る人々。火を吹く男。縦に五段も繋がった一輪車乗りの金髪美人が、高みから周囲にキスの雨を振り撒く。山車からまき散らされる色とりどりの紙吹雪が宙に舞う。


 白と青のドレスを着た少女が山車の上から可愛らしく沿道の観衆にお辞儀をする。横に並ぶのはトランプの兵隊。大きな懐中時計を気にする白ウサギ。卵のお化けハンプティダンプティ。誰もが見知ったキャラクター。不思議の国のアリスの山車だ。作り物の木の上ではチシャ猫がニタニタ笑いを浮かべている。


「小鳥ー、こっち向けー」

 振り返った顔に、カシャッとシャッターが切られる。

「坊やも執事もこっち向けー」

 呼ばれて、白野がにっこりと笑う。朱里は眉間にシワを寄せる。

「こら、執事、笑えよ!」

「……なんだか、妙に緊張しますね」

「いつもは不必要にニタニタ薄笑いしてやがるクセに何を言う。……おい、誰か、そいつをくすぐってやれ!」

「はーい」

「小鳥さん、その手はなんです? やり返しますよ」

「こりゃ、わしを忘れるな!」

「よーし、撮るぞー」

 カシャッと再びシャッターが切られた。


「俺も撮ってくれ、俺も」

 伯爵にカメラを渡して、こちらに来る。小鳥の肩に手を回して抱き寄せたら、ウサギのぬいぐるみでぶん殴られた。

 セント老人は、恰好のシャッターチャンスを物にした。


■■7


 やがて、華やかなパレードが終わり。

 一行は伯爵家から回されて来た車に分乗して、老人の馴染みの店へと河岸を変えた。そこで、奇遇にも男爵母子と出くわせてしまった。小鳥は、銀縁眼鏡を光らせた夫人を見て、楽しい気分が一気に沈むなぁ、と思う。


「まあ、セント伯爵様」

「これは、男爵夫人。息災でしたかな?」

「エドワード、伯爵様にご挨拶なさい」

「伯爵様、お久しぶりです」

「おう、大きゅうなったのぉ」

 礼儀正しく頭を下げる少年に、老人が顔をほころばせる。夫人がその後ろに立つ白野達に気が付いた。

「あら、そちらは【幸福画廊】の……」

「ほぉ、ご夫人も彼らをご存知じゃったか?」

「……はぁ」

「気の良い若者達での。今日はいっしょに祭り見物なんぞさせて貰うた所じゃて」

「カーニバルですか?」

「そうじゃよ。エドワードも見に行ったかの?」

「いいえ、僕は……」

「まあ、とんでもありませんわ!」

 母親が息子の言葉を引き取る。

 あのような場所へなど、エドワードは決して参りません。品のない踊り子達が肌も露わな形をしているとか。考えただけで身震いがしますわ。


「……」

 所在なげに首を巡らせたエドワードが、白野の手にしている物に目を留めた。赤くて丸い小さな包み。

「あの……それは何?」

「リンゴ飴だよ」

「リンゴ?」

「そう、君も知らないんだ」

 白野が小さく笑う。

「一本あげるよ。ダグラス刑事がくれたから」

 そう言って、二本持っていた方の片方を渡そうとした。エドワードが手を伸ばす。


「エドワード!」

 母親の声にその手が止まった。

「折角ですけれど、エドワードもわたくしも、特別に吟味した最高の食材しか口に致しません」

 そんな毒々しい色の薄気味悪いもの、頂いても困ります。最近はどんな添加物が入っているかも知れませんもの。おお怖いこと。ねぇ、エドワード?

「……はい、お母様」

「全てはあなたの為を思えばこそなんですよ」

「はい、お母様」


「ご厚意は嬉しく頂戴致しますわ。……それでは伯爵様、ご機嫌よう」

「おお、それではの」

 母子が立ち去っていくのを、一同無言で見送る。エドワードがこちらをちらりと振り返った。暗い寂しい目をしていた。


「なーんじゃ、ありゃ? いけ好かねぇおばはんだな!」

「でしょでしょー?」

「……まあ、少々お堅いご婦人じゃて。白野クン、気を悪ぅせんでやっておくれ」

「うん」


「おお、そう言えば。ほれ、ナタリー・サンクレアの絵。大した盛況ではないか」

 老人が思い出したように、朱里に言った。

 映画の前宣伝を兼ねて、現在とある美術展に先行展示中の白野の描いた裸婦像は、映画会社の目論見を遙かに超えて大きな反響を呼んでいた。その影響で、絵の作者を知りたがる人間が出始め、朱里は現在、その対応に追われている最中なのであった。

 モデルで依頼人でもあるナタリー・サンクレア本人は、朱里に弱みを握られているので、よもや【幸福画廊】のことを言い出したりはしないと思うが、何処からか漏れるとも限らない。朱里は万全を期して、伯爵にもその旨の揉み消しを頼み込んでいたのである。

「はい。ご面倒ばかりをお願いしてしまって、申し訳ありません」

「なんの。しかし、そうまで隠さねばいかん事なのかの?」

 老人が訊く。

「はい。【幸福画廊】の価値はその『神秘性』にあると思っておりますので」

 朱里が薄く笑う。予め、用意しておいた答えである。その点にも抜かりはない。白野の絵を万人に知らしめるのは、まだ……とても危険すぎる。

「ほっほ。朱里、お前さんも商売上手な男じゃのぅ」

 やはり、お前さん、わしの会社に引き抜かれんかい?

「ご冗談を」

 以前にも申しました通り、今の職にあぶれない限りはイヤですよ。

 男のけんもほろろな物言いに、伯爵はむぅーっと口をへの字に曲げた。


「なんじゃい、どいつもこいつも、わしの傍には来たがらんのじゃから!」

 老人が朱里とダグラスの顔をそれぞれに睨み付けた。ダグラスも伯爵からの養子縁組を固持し続けて、現在に至る。

 全く、可愛くない奴らじゃ。言われて、二人の男が互いに顔を見合わせて苦笑う。



「まあ、エエわい。……それで。男爵夫人も、依頼客かね?」

「はい。只今手がけさせて頂いております最中で」

「ふぅむ」

「白野様、絵は進んでいらっしゃるんですかぁ?」

「うん」

 先程の男爵夫人の振る舞いを思い浮かべる。全く、嫌な人だと小鳥は思う。いちいち指図されて、あの子だって可哀想。わたしだったら、きっと息が詰まっちゃう。あんな人の為に幸せの絵なんて描いて欲しくないけれど、白野様はやっぱりお描きになっているんだなぁ。

 ……でも、あの子の幸せって一体どんなものだろう? ちょっと見てみたい気はする。


「リンゴ飴、あげたかったな……」

 小さく白野が呟いた。

 顔も雰囲気も全然違うのに、白野とエドワード少年は少し似ている、と小鳥は思う。とても寂しい、何かを閉じこめているような、そんな目を二人はしている。まるで閉じこめられているような……。


「さて、飯じゃ飯じゃ。腹減ったのぅ」

 老人がパンッと手を叩く。小鳥は物思いから我に返った。


 ゆっくりと旨い食事に舌鼓を打った。

 食後に出されたデザートとコーヒーを前に、何やら『込み入った話』になってしまったりもしたもので、屋敷に戻ってきた時刻は、もうかなり遅かった。


「今夜はご馳走様でした」

 朱里が車中の伯爵に、丁寧に頭を下げる。

「何の。また遊びに行こうの。白野クンもな」

「うん」

「ダグラス、お前、今日はわしの所に泊まらんかい?」

「やなこった」

 あんなしこったお屋敷じゃ、息が詰まって安眠出来ねぇ。

 憎まれ口を気にするでもなく、老人がほっほ、と笑う。

「小鳥ちゃんや」

 ウサギのぬいぐるみを抱えた娘を、ちょいちょいと手で招いた。

「は、はい!」

 込み入った話の途中から、ずっと呆け面だった小鳥が、名前を呼ばれて飛び上がった。それにしわくちゃの顔が笑いかける。

「ゆっくりでええから、先刻の話、よーく考えておいておくれ」

「……はい」


 パッパー、とクラクションを鳴らして、黒塗りの車が走り去っていく。それを見送って、屋敷に入った。



「くたびれた。……僕、寝る」

 白野は半分目を閉じた状態で、階段を登ろうとしている。帰りの車中でも、ずっとあくびを連発していたのだ。日頃から館に閉じこもりがちの所為か、たまの遠出は疲れるらしい。

 なんだ、若いクセにだらしないぞ。朝起きてジョギングでもしろ、とダグラスが言う。確かにセント老人より体力に劣っているのは問題だ。


「ああ、白野様。ちょっとお待ち下さい」

 そう言って、朱里が少年の頭に手を伸ばす。何かを摘み上げた。

「?」

 髪の毛に絡んでいた一枚の紙吹雪は、今日のパレードの残り香だ。

「……今日、楽しかった」

「それは、よろしゅうございました」

「朱里、その上着。クリーニングに出した方が良いと思うよ」

 ああ、と朱里が苦笑う。多少、クリームの染みが残っているのは気づいていた。

「おやすみ」

「おやすみなさいませ」

「歯ぁ、磨いて寝ろよー」

「うん」


 先に白野を見送って、やはり未だ心ここに在らず、と言った風情の小鳥にも声を掛ける。

「小鳥さんも疲れたでしょう。今日は、早めにお休みなさい」

「え、えっと。でも……」

「急な話でしたしね。落ち着いてから、ゆっくりお考えなさい」

「……はい」

「俺の事は気にするなよ。小鳥の好きにしていいんだからな」

「はい」

 ダグラスの言葉にもいやに神妙に頷くと、ピンクのウサギを抱きしめて、小鳥も階上に上がっていく。ふと思い出したように振り向いた。

「あの、これね、ありがと」

 と、ウサギを示す。ダグラスが笑った。

「次はもっとデカい奴、取ってやるよ」

 小鳥が少しほっとしたような表情を浮かべて、おやすみと言った。


 一人減り、二人減り、最後に残った男に尋ねる。

「で? 刑事、貴方は?」

「そーだな、明日の出は夜からなんだ。泊めてくれよ」

「はいはい。お好きにどうぞ」

 私もいささか疲れました。今日はさっさと休みます。

 そう言って、朱里も階上に上がろうとする。それをダグラスが呼び止めた。

「おっと、そう言えば……」

 出がけに手紙が届いてたんだぜ。お前宛の。気づいたか?

「いえ」

「ちょっと待ってろ」

 職業柄、一日中歩き回ることには慣れているのか、一人疲れ知らずのダグラスが、身軽に封書を取りに行き、そしてすぐに戻ってくる。

 受け取ろうと何気に伸ばされた男の手が、その消印をみとめてほんの一瞬、躊躇した。

「どうした?」

「……ああ、いえ」

 すみません、と礼を言って受け取る。

「どっかの美人からのラブレターかなぁ?」

「まさか」

 と、軽くかわされる。この手の冗談には乗ってくれない。冷たい男だ。


「おやすみなさい」

 と、部屋の前で別れた。


■■8


 自室で。朱里は頬杖をつきつつ、受け取った手紙を矯めつ眇めつ弄んでいる。

 海外からの消印と、何よりも使われている紙に織り込まれた紋章で、差出人など無くても、侯爵家からの封書だと分かる。あの日「切り捨てる」と宣言された言葉の通り、以後一度も接触の無かった彼らから、一体どういう風の吹き回しなのだろう。老婦人の訃報と何か関連があるのだろうか? 白野宛てでなく、朱里宛てであるのも引っ掛かる。


 ペーパーナイフで封を切る。一つ息を吐いてから、中身を見た。たった一枚の便せんのみで、書かれた文字も一文のみだ。とてもポピュラーな慣用句。隅に老婦人のサインがある。

 『玉子が先か、ニワトリが先か』


 もう一度、封筒を確認する。消印から推して、これが投函されたのは、老婦人の死の直前であったろう。

「……」

 最後の忠告、と取るべきだろうか。ご親切なことだ。彼女はこれで私に何が言いたかったのか。だから守れと? あるいは逃げろと? それとも……。


「……どうやらあの方は、謎掛け遊びが大層お好きなだったようですね」

 皮肉めいた笑いが浮かぶ。

「それに、人の神経を逆撫でするのも、相変わらずお上手だ」

 人が折角気づかぬ事にしているものを、こうもずけずけと突きつけてくるとは。全く、非道いご婦人だ、と思う。老婦人がかつて自らをそうと語ったように、彼女にも確かに心が足りなかったものと見える。


 『玉子が先か、ニワトリが先か』

 今更、どうしろと言うのか? どう変われと?

 どちらが先でも、結局同じ事なのに。私たちが知る現実はいつも一つだ。何も変わりはしない。何一つ。


 ほうーっと、深いため息が漏れる。シャワーの後で、まだ湿り気の残る髪を鬱陶しげに掻き上げた。毛先から散った水滴が、紙の上でインクの文字を滲ませた。


 館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。

 多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。闇の中でも、濃い絵の具の臭いが鼻を突く。ふと気がつけば、またこのアトリエに足が向いてしまっていた。薄闇の中を朱里は歩く。


 部屋の片隅には中くらいのカンバスの立てかけられたイーゼルが置かれていた。そのカンバスにだけは白い覆いがかけられていて、なにか他と違う<特別な>絵であることを感じさせる。

 その絵は、もう長いことそこにそうしてあるのだった。そう、あの日からもうずっと。カンバスの縁をそっとなぜる。


「朱里」

 名を呼ばれて、ギクリ、とする。

 カーテンの影に白野が立っていた。その気配に気づけないとは、私もよくよく迂闊なことだ。

「きっと来るって思ったよ。朱里は真夜中に、よくこのカンバスの前に居るでしょう。僕、ずっと知ってたんだ」

「お気づきだろうとは思っていました」

 少年がゆっくり歩いてくる。長身の男を間近に見上げた。

「お祖母さまは、お前に何て?」

「……大した事では」

「僕に嘘ついても無駄だよ」

 知ってるクセに、とそう言った。強いが、少し哀しげな口調で。白野の瞳は今夜も蒼く澄んでいる。


 確かに。ひた隠しにした所で、無駄とも思えた。白野の蒼い瞳が何を何処まで視ているかなど、朱里に分かりはしないのだから。それでも。小さな抵抗を試みる。

「私は何も存じません」

 知っていらっしゃるのは、寧ろ、貴方様の方でしょうに。そんな言葉を苦い思いと共に飲み込んだ。

 幸せの何たるかも、人の心の不可思議も、私には何も分からない。その全てを見据えているのは、きっと、ただ白野の蒼い瞳。それだけだ。

 彼は淡々と。そう、ただ淡々と。幸せの真実を描いていく。それを私に見せつけるのだ。そして、私は無力感に囚われ続ける。

 出会った日から、もうずっと。


「……朱里」

「はい」

「父様はあの時、幸せだったんだ。本当に。僕のあの絵は嘘じゃない」

「はい」

 頷く。我が子の命を救った親の心は、確かに幸せだったろう。幼い日に少年が描いた、美しい青い絵が目に浮かぶ。

 白野の脳裏にも、あの絵が浮かんだのかも知れない。遙か遠くを見る眼差しで、そして不意に泣き笑いのように顔を歪めた。

「でも、あの後、天国で。父様は後悔したかもしれないね」

 僕を生かしてしまったことを。

「お前も後悔しているんでしょう?」

「……私が後悔しているのは、あの日、貴方様を置いて逃げてしまった事。それだけです」

 朱里が低く掠れた声で、主の言葉を否定した。


 一度は逃げ出したこの屋敷へと、戻ってしまったのは何故だったろう。

 幼い白野は真っ暗な闇の中、膝を丸めて胎児のように、じっと踞って震えていた。与えられた部屋の中、与えられた物だけを食べ、許された分だけ息をして。そうして暮らしてきた少年に、生きる意欲は希薄だった。既に全てから切り捨てられた存在だったのだ。放っておけばあのまま朽ちた。


 そうと知っていながら、一度差し伸べた手を一方的に切り離し、彼を手酷く裏切った挙げ句、またおめおめと私はここに戻ってきたのだ。

 朱里の頬に自嘲めいた笑みが湧く。

 我ながら、非道い仕打ちをしたものだ。最初から突き放していた者達の方が、まだしもだ。老婦人のことなど私に言う資格はない。私の方が余程心というものがない。私が彼を永らえさせてしまったのは……エゴなのだと、そう思う。


「さぞ、お恨みでしょうね」

「ううん。朱里はとても良くしてくれてる」

「勿体ないお言葉です」

「僕が、この屋敷を離れたくないと言った時も、ずっと絵を描き続けたいと言った時も。お前は何時だって、僕の言うことを聞いてくれたんだものね」

 この屋敷に居させてくれて、そして絵を描かせてくれて。朱里が居なければ、きっと僕は何も出来ない。何一つ。

「……そんな事を、白野様が気に病まれる必要はありません。私は貴方様の執事なのですから、お仕えするのは当然のことです」

「……うん」


 だけど、この館で暮らす月日が増える毎に、僕の絵が一枚仕上がる毎に、僕らの溝は深まっていく。それは、一体どうしてだろう? やっぱり僕が悪いのかな……。


「ねぇ、朱里。……僕は、怖い?」

「いいえ」

「じゃあ、僕の絵は怖い?」

「いいえ」

 白野は深く息を吐く。朱里は、昔からずっと嘘つきだ。

 ゆっくりと歩いて、一つのカンバスの前に立った。裏返されていたそれを表に返す。

「本当に?」

 月明かりの薄い光を頼りに、その絵を朱里は見た。絵を意味を悟ったその目が僅かに軋む。

「……白野様、この絵は……何です?」

「あの子の、……エドワードの『幸せの絵』だよ」

「……」

 ずっと、ナタリー・サンクレアの件で動き回っていて、この絵の依頼を失念していた。しまったと思う。そうだ、これは当然予期すべき絵だったのに。ああ、彼らはなんて『悪い客』だ。


「……この絵を、小鳥さんは見ていませんね?」

「どうして?」

「私以外の誰にも、見て欲しくないのです」

 クスリと嗤う。

「やっぱり、怖いんじゃないか」

「違い、ます」

「嘘ばっかり」

「……そうじゃない」

 為す術もなく、言葉尻に力をなくしていく男を真っ直ぐに見上げて、白野は更に追い打ちを掛ける。もう今更引き返せない。もう、言葉を飲み込むのは終わりにしよう。胸につかえて息も出来ない。


 ねぇ、朱里、教えてよ……

「既に確定した未来が視えるから、僕は絵を描くのかな? それとも、僕が描いたから、未来が決まってしまうのかな?」

 玉子が先か、ニワトリが先か? ニワトリが先か、玉子が先か? ねぇ、どっち? どっちなの?

「お止め下さい!」

 いっそ、悲鳴にも似たその響き。でも、僕は止まらない。だって、僕には心なんてないんだから。誰もが僕にそう言った。

「朱里だって、ずっとそう考えていたんじゃないの?」

 だから、あの日。僕に『幸せだけを描け』って言ったんでしょう?

「違うの?」


 窓から見える月の光が二人の影を薄く長く床にのばす。朱里は白野の問いかけには答えず、逆にこう訊いた。

「……すぐにこの絵は処分致します。いつものように。よろしいですね?」

「ううん、ダメ」

 絶対にダメ。

「白野様?」

「朱里は、僕の決めたことには反対しない。そうだよね?」

 小鳥ちゃんは、僕を好いていてくれるから……きっと、頼みを聞いてくれるだろう。もう、僕は引き返さない。

「白野様、一体何をお考えなのです? 何が……視えているのです?」

 戸惑った声がそう訊いてくる。何だか笑ってしまいたくなる。そう、笑ってしまいたいくらい、とても可哀想な朱里。僕となんか出会わなければ良かったのに。


「……間違ってたね、朱里」

 同じ力を込めるなら、僕の腕を折ろうとしたあの時、お前は僕の首にこそ、その手を回すべきだった。


「朱里、教えてよ。未来って何? 怖いって何? 幸せって何? 好きって何? 愛って何?」

 ねぇ、僕って……何?

「……それを、私にお訊ねになるのですか?」


 ハンプティダンプティを知ってるかい?

 ハンプティダンプティは塀の上

 そうさ、ハンプティダンプティは大きな卵

 こんな高いところから 落ちたら割れてしまうんだ

 もう、元には戻らない


■■9


 自分のアパートよりも州警から近いだとか、居心地が良いだとか、何だとか。多彩なゴタクを並べては、この屋敷に泊まらせて貰っているダグラスは、執事と別れたその足で、慣れた様子で扉を開けた。そこは最早ダグラスの部屋だとも言えた。ちょくちょく泊めてもらうようになって以降、既に常備されている私物も幾つかある。

 図々しくも壁にグラビア美人の特大ポスターまで貼っていたら、掃除で部屋に入ったらしい小鳥の不興を買って剥がされてしまった。ビキニ姿の姉ちゃんすらダメだなんて、ここは何処ぞの学園寮かい? とか思う。


 いかにも金持ち屋敷な仕様で、各部屋に備え付けなのだというバスルームで汗を流して、小鳥が洗っておいてくれたらしいパジャマに着替えて、ゴロリとベットに転がり込む。

 今日はなかなか大変な一日だった。前半はともかく後半が。


「……しっかし、喰えない爺さんだぜ」

 一人ごちる。夕食後、運ばれてきたデザートを前に、セント伯爵は、爆弾発言をかましやがってくれたのである。



 コーヒーをかき混ぜながら、老人が話し出した。

「ところでのぅ、小鳥ちゃんの次の就職先の事なんじゃが」

 それに、驚いた顔で小鳥が訊ねる。

「……わたしの、就職先?」

「ああ、すみません」

 朱里が間に割って入った。

「実はまだ、当人には話していなかったんです。ある程度固まってからと思いまして」

「おお、そうじゃったか。そりゃすまなんだ」

「……いえ。丁度良い機会です」

 小鳥の方に向き直る。

「先々から、伯爵に貴女の新しい就職先をお世話して頂けるよう、お願いしていました」

「……」

「伯爵のご友人のお孫さんがお話し相手を欲されているとか。如何でしょう?」

 お話し相手、と言っても、まだ小さなご令嬢だそうです。私どもより条件もずっと良い所ですし……。

 そこで、ちょっと間を置いた。はっきりと口にする。

「何より、貴女にメイドは不似合いです」

「おい、執事……」

 そりゃ、ちょっと言い過ぎじゃないか。っつーか、真実はもうちょっとオブラートにくるんだ表現にしてやるべきでは? 顔に似合わずフェミニストのダグラスが、心配そうな声を出す。


 小鳥が食べかけのフォークを置いた。俯く。

「……それって、さっさと出てけってこと?」

「もっと貴女の気質にあった職種を選んだ方が良い、と言っているんです。メイドなどという小さな枠にはめるには、貴女は破天荒です。……勿体ない」

 本心からそう思ってます、と朱里が言う。この男にしてみれば、最大級の賛辞なのかもしれない。毒舌なら幾らでも出るが、小鳥を褒めるのは珍しいのだ。


「他にも二、三、心当たりがあると伯爵は仰って下さっていますし、そのどれにも最高の推薦状を書いて頂けるそうですよ」

 私も及ばずながら、最低限のマナーだけはお教えしたつもりですしね。苦労しましたが、と苦笑する。

 貴女なら何処でもやって行けます。


「あ、その話じゃがのぅ」

 老人が、ひょいと手を上げた。ちょい待て待て、と注意を惹く。

「わしも色々考えたんじゃが。小鳥ちゃん。お前さん、わしの所に養女に来んか?」


 ずっと黙って皆の話を聞いていた、白野の首がゆっくりと右に傾いだ。

 朱里が一瞬息を止め、小鳥は口をポカンと開けた。ダグラスの声が低くなる。

「……爺さん。今、なんつった?」

「だから、わしの娘になってくれんかのーって」

「小鳥には、しっかと父親がおるだろーが!」

 戦場ジャーナリストで、ほとんど帰っては来ないと聞くが、確かに小鳥には親が居る。


「あ、小鳥ちゃんの親父さんとはもう話がついておる。死線を潜り抜けただけあって、流石に練れたお父上じゃぞ。娘の意志に任せるそうな。『こっちも好きにやっとるから、そっちも好きに生きろ』じゃと」

 ほっほっほ、と老人が笑う。電話で話しただけじゃったが、帰国したら是非酒でも酌み交わそうと約束したぞい。


「電話でしゃべった程度で、一人娘を養女にやるってぇのか? そんな親がこの世に居るかー?」

「……言いそうかも。あの父なら」

 好きに生きろ、と言うよりも、勝手に生き抜け、根性を見せてみろ! という類の父親だ。幼い娘をわざわざ戦地へ連れて行ったような過去からしても、まあ元から普通ではない。

「父娘揃って破天荒なんですか?」

「何か、すごいね」

「小鳥、 お前苦労したんだなぁ」


 何だか、すっかり訳の分からぬ話になってきた。老人が、それでじゃな、と話の筋を軌道に戻す。


「別に、養女云々と言って、お父上との関係を切れとか、そういう話ではなくての。小鳥ちゃんにわしの後を継いで欲しいと思っとるんじゃよ」

「伯爵様の後って……私、会社の経営とか出来ませんけど」

「ああ、そりゃ分かっとる」

 伯爵が、フォークで切り分けたケーキを口に放り込む。もしゃもしゃと食べて、コーヒーで流し込む。


「不祥、わしの会社にもそれなりの首脳陣はおるさ。わしの亡き後の経営に関してはそいつらに任せる気でおるよ。そこら辺は無問題じゃ」

「えーっと、じゃあ、一体どうして?」

「わしが心配しておるのは、施設と美術品のことなんじゃ」

 ああいうのはな、金が掛かるのは当然じゃが、さりとて、『経営』してはいかん。金の工面には相応の者を着けるとして、運営・管理は心ある者に任せたい。言うておる意味が分かるかの?

「えっと、分かる気はしますけど……。ダグラス刑事を養子になさる筈でしたよねぇ?」

 ダグラスの方をちらっと見る。老人がフンと鼻を鳴らした。横に座る男の耳をグイっと引っ張る。アイテテテ、とダグラスが叫んだ。


「こいつが、大人しく来てくれるもんかい!」

 昔から、一度こうと決めたらテコでも動かん偏屈じゃった。もう、わしは諦めた。第一、同じ理由で養子にするなら、ダグラスよりも小鳥ちゃんの方が孤児院運営には適任じゃ。こいつは州警を辞めんじゃろうし、その片手間で出来るほど楽な仕事でもない。しかも、小鳥ちゃんの方が百万倍も素直で可愛い!!

 一気にまくし立てる。全てが一理ある、というか、筋が確かに通っている。


「まぁ、わしにも思惑はあるぞい。ダグラスと小鳥ちゃんが後々一緒になってくれれば、自動的にこやつもわしの息子になるなー……とか何とか」

「爺い!」

「ウルサイ、黙っておれ」

 吠えようとしたダグラスの耳を更に強く引っ張って黙らせると、老人が笑った。

 しかし、それは二次的希望であって、あくまで本命は、施設の今後と美術品の処遇じゃて。

「こんな阿呆より、もっと良い男は幾らでもおるわい。努々早まってはいかんぞ、小鳥ちゃんや」

「……俺の前で、よくもそんなコト言えるなぁー。爺さん、ヒドすぎ」

「だって、本当のことじゃもーん」

「あの、わたし……」

 小鳥が口ごもる。突然のこと過ぎて、何と答えたものかが分からない。


「ああ、まだ、わしも早々には死なんしな」

 まぁ、急がんでええから。ゆっくり考えておいてくれんかの?


「あー、もう、ホントにあの爺さんはよぉ……」

 つらつらと思い出していると、モヤモヤ気分が増してきて、どうにも寝付けない。別に自分が養子候補から漏れた事が問題なのではなかった。伯爵家の財産など欲しくもないし、どちらかと言えばそれがあるからこそ、養子縁組を固持し続けて来たダグラスである。小鳥も良い娘だと思っているので、その点にも文句はない。伯爵を大事にもしてくれるだろうし、孤児院もさぞ賑やかになるだろう。

 だがしかし。

「小鳥を自分の籍に入れたかったのは、俺の方だっつーの!」

 そうなのである。例え意味は違うとは言え、後から来てかっ攫うのは幾ら何でも反則だ。

「ひでぇぜ、爺い。恨んでやる」


 結局の所、伯爵はダグラスが素直に養子に納まりそうにないので、業を煮やして、搦め手の作戦に出たのであろう。しかも、これには更に『裏の裏の思惑』って奴がありやがる、とダグラスは睨んでいる。

 セント老人は、「美術品も小鳥に任せる」と言ったのだ。

 小鳥にその手の知識があるか? 当然、いちいち事ある毎に小鳥は、この画廊に助けを求めて泣きついてくることになるだろう。絶対だ。命の次に大切な警察手帳を掛けても良い。

「執事の奴、、逃げ切れっかなぁ~?」

 ダグラスは、まず無理だろうと予測する。朱里は結局の所、小鳥にだって甘いのだ。斜に構えたそぶりでも、その実、結構なお人好し野郎だ。執事が釣れれば、それにべったりの白野坊やだって、漏れなくセットで付いてくる。

 狡猾爺いは芋づる式に、俺たち全員を囲い込もうという腹なのだ。老後の楽しみを極め尽くすつもりなのだ。……ああ、何とオソロシイ。


「ぐわぁぁぁ~、爺い、どうしてくれよう~」

 わしゃわしゃと頭を掻きむしる。

老人の企みが分かったからといって、結局は小鳥次第なのである。妨害工作しようにも、そのやる気がどうにも湧かない。と言うか、そんな真似が出来る筈もない。そこら辺まで踏まえた上での老人の周到さを思えば、腹の煮える思いではあるが。


 煙草を取り出して、ライターがガス欠なのに気づいた。ナイと分かると殊更に吸いたくなるのがこの手の嗜好品である。既にかなり夜も更けてしまっていたが、窓から伺うと、執事の部屋にはまだ明かりが点いているようだった。よし、起きてやがるなと、部屋を出る。



「おーい、ライター貸してくれやー」

 おざなりのノックをして、返事も待たずに扉を開ける。

 ベットに腰を下ろし、頭を抱えるように俯いていた朱里が、ハッとした様子で顔を上げた。


■■10


「……ああ、刑事でしたか」

 そう言えば、今夜はお泊まりでしたっけね。そう言って、吐息混じりに自分の顔をツルリと拭う。

「何だよ、お前?」

 まるで、化け物でも見たような面しやがって。失敬な。

 いや、こいつ、マジで顔色が悪くないか? 酷い面構えになってやがる。こいつの方が幽霊みたいだ。

「……急にドアを開けられたら、誰だって驚きますよ」

 ライターでしたね、と立ち上がる。ハンガー掛けに手を伸ばそうとして、そこに服がないことに気づいた。クリーニングに出すつもりで下に置いてきた事を思い出す。ライターは上着のポケットに入れっぱなしだ。

「取ってきます」

「悪いな」

「いえ」

 男が部屋を出て行った。ふむ、と何気に室内を見回す。

 相変わらず、今一つ生活臭に欠けた部屋だとダグラスは思う。アイドルグラビアくらい貼っておけ。デカい本棚にも小難し気なタイトルばかりが並んでいて、なんとなーくイヤミったらしい。端に数冊ドンキホーテだの三銃士だのがあるのは、白野の本棚からでも紛れ込んだものだろうか。おっと、マザーグースまでありやがる。

 ふと、机に置かれたままの封筒に目が留まる。美しい紋章の織り込まれたあの封筒だ。既に封は切られている。

「なーんだかなぁ……」

 どうも妙に気に掛かる。


「お待たせしました」

 戻ってきた執事に礼を言う。

「おお、悪かったな」

「いえ、私も丁度欲しいと思っていたところですので」

 そう言って、箱から一本取り出すとライターで火を点けた。ダグラスにも箱ごと放ってやる。

「……」

 やはり、今夜の執事はちょっと妙だ。疲れていると言っていたが、どちらかというと、やけっぱちぽく目に映る。部屋で煙草を吸い始めたのも、この男にしては珍しい。ダグラスも貰った煙草に火を点けた。一口吸い込んで、訊いてみる。


「そう言やぁ、何で、普段は屋敷で禁煙してるんだ?」

 ああ、と笑う。机の端に置かれていた金属製のペン皿の中身を他にこぼすと、それをトントンと指で叩いた。それを灰皿代わり使え、ということだろう。


「随分昔の話ですが、白野様に『煙草って美味しい?』と訊かれまして」

 こちらがまだ喫煙年齢に達してない頃でしてね、ちょっと返答に困ってしまって。で、教育上よろしくないかと、自主的に屋敷内禁煙に致しました。

「そういう理由なら、もう、とっくに解禁じゃねぇのか?」

「そうなんですがね、何となく……」

 興味深そうに、じぃっと見ていらっしゃるもので。吸いにくいんですよ。

「あー、ちょっと分かるような気がする」

 確かに、少年の目は何を考えているのかちょっと分からない部分があって、見詰められると妙にドギマギする時がある。

「あんな澄んだ目ン玉で見詰められると、弱いよな」

「そうですね」

 少し、皮肉めいて男が笑った。


 多少、室内が煙っぽくなってきた。立ち上がって、窓を開ける。

 ふぅーと外に向かって吐き出した紫煙を目で追いながら「ところで」と、朱里が言った。


「他人宛の手紙を見るのは、確か罪になったと思うのですが」

 その台詞にギクリとする。

 やっぱりバレてやがったか。ってか、気づいていながら、今まで引きを持たせるとは。つくづく底意地の悪い男だ。

「……一応、殴られる覚悟は出来てるぞ」

 それでも自分が全面的に悪いので、ここは潔く非を認める。まあ、抗弁させて貰うなら、伊達や酔狂で覗き見したというつもりはない。先刻の朱里の表情に、今朝方の白野の行動を思い出したのだ。やはり、あれは男に手紙を読ませたくなかったのだと思う。これからの楽しい時間のその前に、それを壊されたくなかったのではないか。そう思い返せば、白野は確かに刹那めいてはしゃいでいた。


「気晴らしには良さそうですが」

 朱里がゆっくりと煙草を揉み消す。

「内容を忘れて頂けるまで殴るのは、私の方も大変です」

「おいおい……」

 そこまで殴り込む気構えか。物騒な事をいう執事である。

「そんなに見られたくないものなら、出しっぱなしは不注意だったな」

 お前にしては、大チョンボじゃないか。

 それに、朱里が文句を言った。

「仕方がなかったんですよ。あそこであからさまに手紙を隠せば、貴方の興味を更に煽るだけでしょうに。逆効果です」

「ああ……」

 確かに、言われてみればその通りだ。俺の性格からして、そりゃもう是が非でも見たくなる。それこそ、こっちから殴ってでも。

「成る程な。お前やっぱし頭イイわ……」

 いや、良すぎて馬鹿なのか。そんな気もする。

「貴方の刑事としての良心に、一抹の期待をしておりましたのに。思いっきり裏切ってくれましたね」

 悪い刑事さんだ、と横目に睨む。空気があらかた入れ替わったのを確認して窓を閉めた。机の上の封書を取り上げる。それをダグラスの方にパサリと投げ出す。


「まあ、いいですよ。どうせご覧になった通り、一文きりの手紙ですから。別に種も仕掛けもある訳じゃない」

「『玉子が先か、ニワトリが先か?』 ……こりゃ何だ?」

 ひどく可笑しげに、クスリと笑う。

「おかしな話だ。どうして私の方が職務質問を受けるんですか?」

 罪を犯したのは、刑事さんでは? そう茶化す。

「不当な尋問ですね。黙秘させて頂きます」

「おい!」

 ダグラスが業を煮やして、語気を荒げたが、それを気にした風もない。長身を壁に預けてより掛かる。足を組んで恰好だけはリラックスした様子だが、こちらも生憎、目は笑っていなかった。


「刑事は以前、小鳥さんが心配だと仰いましたね」

「……ああ」

「では、貴方は小鳥さんだけをお守りになればいいでしょう。そうするべきです」

「それで? お前は、坊やだけを守るのか?」

「……」

 それならば。坊やは何を抱えてる? お前は何を怖れてる?


「近日、小鳥さんはこの屋敷を出られます。そうすれば、貴方が此処に来る理由だって、必然的に無くなるでしょう」

 何時になく賑やかだったこの館に、つい心地よさを感じて。彼らに深入りしてしまった。彼らに深入りさせてしまった。急いで引き返さなくては、手遅れになる。

「もう、私たちの事は放っておいて下さい」

 あの日から、もう随分と月日が流れていて。いつの間にか油断した。都合の良い夢を見た。もしかしたらとも思ったが。結局、私たちは変われないのだ。どうやっても、どう足掻いても。


「随分と、友達甲斐のない台詞を言いやがるじゃねーか」

 クソッタレが。

「友人だと思うから、お願いしています。……刑事」

 男の目が伏せられた。

 今日は疲れました。私は残念ながら、貴方ほどタフではないんですよ。もう休みますので、出て行って下さい。

 そのままそう言って、背を向ける。

「……」

 これ以上、何を訊いた所で無駄らしい。今日の所は引き下がろう。

 ダグラスが封筒を取り上げる。

「これ借りてくぞ。いいな?」 そう言って、部屋を出て行く。朱里はそれを止めなかった。


■■エピローグ


「また、いらしたんですか。刑事……」

 勝手に居間まで入ってきた男の気配に、朱里は伏せていた顔を上げた。

「来るさ」

「貴方の給料が血税で賄われているかと思うと、何だか義憤に駆られます」

 この程度の嫌味で退散してくれる程軟弱な男でないことは、とうに承知しているが、追い返す事に心血を注げる気分ではない。ダグラスも、そうと見取っているのか、苦笑を浮かべながら、朱里の向かいのソファーにどっかりと腰を下ろす。

「小鳥は?」

「伯爵からお電話がありまして。施設の事など、色々と見せておきたいからと」

 それで出掛けている、と告げる。セント老人は着々と己が野望を達成せんと、働きかけているらしい。孤児院の子ども達の笑顔は、小鳥にとってかなり強力な有効打だろう。


「今日の菓子は、林檎のタルトか」

 テーブルに置かれた皿を見て、ダグラスが言う。

「しかし、お前。自分は全然喰わないクセに、よくも毎日作るなぁ」

 前にケーキを作る執事を暇つぶしに見学していたことがあったが、粉を篩ったり、クリームを泡立てたり、大した作業工程だった。幾ら白野坊やの為とは言え、よくよく作り続けていられるものだ。


「味としては好みではないんですが、甘い香りはね、好きなんです。……何となく、幸せっぽい感じがするでしょう?」

 頬杖をついて、菓子を見る。横には紅茶のカップがある。

 それに……と言って、その頬に自嘲めいた笑みを浮かべた。

「以前はお菓子でかなりの所、懐柔されて下さっていたんですよ」

 最近では、すっかり通用しなくなってしまいましたが。


 伸ばした指でカップを弾く。チーンと鳴った。もうすっかり冷めてしまった紅茶のカップ。白野は部屋から出て来ない。何を考えているのか。何を視ているというのか。朱里にはそれを知る術がない。

 また、昔に逆戻りだ……

 まるで、灯の消えたようなこの館に。

「白野様はご機嫌を損ねると、本当にちっとも口をきいて下さらなくなるので。……堪えます」

「どっちが親鳥だかヒナなんだか、分からねぇ顔つきになってやがるぞ、お前」

 それに、つるんと顔を拭った。非道いことを仰る、と言う。


 誰の手も付けられていない菓子に、今気づいたというように、それを示す。

「ああ、よろしければお食べ下さい。お茶は……すみませんが、勝手に煎れ直して頂けますか?」

 ソファーの背に寄り掛かる。首を回して、乱れた髪を鬱陶しそうに掻き上げた。


 キッチンで、新しく二人分のお茶を煎れてきたダグラスが、立ったまま胸ポケットから封筒を取り出す。朱里に宛てられたあの封筒だ。それをパサリとテーブルに落とす。朱里がそれを受け取った。ビリビリとその場で破り捨てる。ダグラスが口を開いた。

「それに付いていた紋章を調べた。侯爵家の紋だった」

「……」

「この館の登記も調べた」

 元は侯爵家の持ち物で、その当主は6年前にかなり不審な死に方をしている。警察の調べは、なあなあだったようだな。きっと上に根回しがされたんだろう。戸籍簿も調べた。息子が居たな。6才で死亡、となっていたが、巧妙に改竄された後があった。俺の目は誤魔化せねぇ。

 そこで、ダグラスは一旦言葉を切った。そうして告げる。

「侯爵の顔写真が、古い名士年間に載ってたよ。……坊やに似てる」

「……それで? それが何だと言うんです?」

 そんな事は、貴族の家ではよくある話だ。出生の秘密など、秘密であって秘密ではない。侯爵の死も、例えここで死んだ事が公になったにせよ、結局、事故死だ。それが事実で真実だ。朱里自身がこの目でちゃんと見ていたのだ。一部始終、その全てを。あれは単なる事故だった。


「白野様は……ただ、絵をお描きになった。それだけです。ダグラス刑事」

 朱里が言う。

 それだけなんです……

 彼の不思議を知ったからと言って、私に白野様を嫌うことなど、不可能だった。

 そう。今更見捨てることが出来るくらいなら、私は最初から彼と関わることなどしなかった。

 何物にも染まらぬ純粋な白。ただひたすら真実だけを真っ直ぐに見詰め続ける汚れなき瞳。私はあれを無垢だと信じる。そう、無垢だと言うのなら……

 ああ、そうだ。ただ、複雑すぎる人の心が悪いのだ……。全てその所為だ。全てはその……


「私は一度、彼を裏切ってしまいました。ですから、二度とは裏切れません。私は……もう、二度と彼の傍を離れたくなどないんです」


 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


 【幸福画廊】と呼ばれながら。その屋敷に住みながら。私たちは何とそれからかけ離れていることか……。


 もうずっと。酷く気を張って生きてきた気がする。たった一人の少年を、ただ守ってやりたくて。ずっとそれだけを願って、そのことばかりを考え続けた筈なのに。私は何時の間に、何処で道を間違えてしまったのだろう。


 俯く男の傍らで、ダグラスはただ無言で立っている。

 棚に置かれたチェス盤が目がとまる。整然と並べられたポーン、ルーク、ナイト、王に姫君、そしてビショップ。

 ああ、そうだ。坊主嫌いのクセしやがって、こいつはまるで『殉教者』のような顔をする。

 どうして、そうも妄信的なんだろうな。お前さんは一体何を抱えているんだろうな。この館には、何が巣喰っているというのだろう?


 誰も何も語らない。居並ぶチェスの駒達さえも、ただ沈黙を守っている。



 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 【幸福画廊】


 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。

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