第7話 メモリー

■■プロローグ


「ねぇ、僕の執事になってよ」

 水晶玉のような澄んだ瞳を輝かせて、少年がせがむ。それに淡く微笑んだ。

「いいですよ。その代わり、一つだけお約束して下さい。出来ますか?」

「うん」

「幸せを描いて下さい」

「幸せ?」

「そう。いつも、それだけを見て……幸せな絵を描いて下さい」


 それは、遠い日の約束。真摯な願い。


■■1


 幸福画廊。そんな通り名で呼ばれている、とある館。その恒例、午後のお茶の時間である。 テーブルには、執事手製のミルフィーユと香りの良い紅茶の注がれたティーカップが人数分置かれている。そして、皿とカップの間を埋めるように点々と、スナップ写真が十数枚。突然、素っ頓狂な声がサラウンドで上がった。

「えー、本当に!?」

「ただの一枚もナイのかよ!?」

 問われた男が当惑顔で頷く。

「はあ」

「どーして?」

「どうして、と言われましても……」

「孤児院育ちの俺ですら、結構ガキの頃の写真って持ってるぞ。アルバムどころか、一枚の写真もナイなんてのは、お前らどういう育ちなんだよ?」


 テーブルの上に置かれているのは、セント伯爵主催のチャリティーバザーでの写真である。先だって行なわれたそのバザーにボランティアで参加したダグラスは、同じく手伝いに来てくれた、この館のメイドの小鳥コトリが写っている写真を届けに来たのだった。


 いっしょにあどけない笑顔で写っている子ども達の姿に触発されて、いつの間にか子ども時代の話になった。当然、この館の主と執事にも興味の矛先は向けられる。お前らのアルバムを見せろ、今すぐ持ってこい、と言うダグラスに、執事の朱里シュリが自分たちの写真は一枚もない、と答え……。そして、冒頭の叫びとなった次第である。


白野シラノ様の小さい頃って、超絶可愛かった筈なのにー」

 諦めがたい風情で小鳥がゴチる。

「はい、それはもう」

「俺は執事のガキの頃のが見たかった。さぞかし可愛い気がなかったんだろうなぁ」

「はい、それはもう」

「自分で言うな、自分で」

「あーん、写真、見たかったのにー。何で一枚もないのよー!」


 信じられない、と言いたげな非難がましい目つきを向けられて、朱里はバツが悪そうに隣に座る白野を見る。白野の方も朱里を見た。ふふ、と微笑う。少しだけ寂しげな表情に見えたのは、気のせいだったろうか。


 黒い長い髪の毛を肩の辺りで縛っている朱里は、執事と言うには年若く、しかし、その職業に見合うだけの落ち着いた物腰と雰囲気を持っていた。すらりとした長身に相応しい精悍な顔立ちは、女性なら誰でも見惚れてしまいそうな程、端正でハンサムだ。外見だけでなく中身も凄い。料理、洗濯、裁縫、その他、家事の全般から、画廊に置ける雑務、処世術に至るまで、全てに置いて優秀・辣腕。なんでもこなす万能執事だったりする。


 一方、白野は朱里よりも更に若く、まだ少年の域を脱してはいなかったが、れっきとしたこの館の主にして画家である。線の細い少女めいた顔立ちに蒼い瞳が印象的で、まるで白馬の王子様か、ちょっとだけ育ちすぎの天使といった風情だが、着ている服は何故かいつも、丈の長い白のチャイナ服にズボンなのだ。



 幸福画廊

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


 摩訶不思議、という形容で噂の絶えない幸福画廊。その要であるこの二人自体、かなり謎に満ちている。写真の一枚もないなどと、ある意味「らしい」と言えば余りにも、らしいのであるが、あんまりと言えばあんまりでもある。


「何でだ? 二人揃って写真嫌いなのか?」

「いえ。そう言う訳では」

 ゴホンゴホンと咳き込む男に、誤魔化すな、と喝が飛ぶ。

「宗教かしら? 魂を抜かれるとか、背後霊が写るとか」

「何時の時代の話ですか。……別に、特別な理由なんてないんですよ。ただ単に、写真を撮るという事を思いつきもしなかったと言うか……」

「なんじゃ、そりゃ?」

 何でお前らはそうキテレツなんだ? もうちっと、筋の通った言い訳は出来んのか? そう頭ごなしに言われて苦笑する。どうやら本気で返事に窮しているらしかった。いつも聡明怜悧なこの執事には珍しい。


「でも、そうなんですよ……。本当に、考えたこともなかった……」

 後の台詞は、ほとんど独白に近かった。それは自分で自分を不思議がってでもいる様で。何処か哀れんでいる様ですらあった。


 RRRRR……。

 電話が鳴った。朱里が立ち上がる。

「これは、伯爵。もう、旅からお戻りですか? ……ええ、ダグラス刑事もここに居ります。……は、今からですか?」

 受話器を耳に当てたまま、ちょっと考えるそぶりをする。

「いえ、それでしたら、是非こちらへお寄り下さい。……はい。大したものは出来ませんが、酒のツマミ程度でしたら。……はい。お待ちしております」


 ソファーに座る他の三人に目を向ける。ダグラスが声を掛けた。

「じーさんからか? 何だって?」

「これから、お見えになるそうです」

 受話器を戻して、答える。

「あ? 確か今日が帰国じゃなかったっけか?」

 電話の主のセント伯爵は、老いてなお、様々な事業を手がけているパワフル老人であった。久方ぶりの休暇を取って、優雅な船旅を楽しんでいた筈なのである。


「はあ。先程港に着かれたそうで。旅のお土産をお持ち下さるそうですよ。ですから、夕食はこちらで、とお誘い致しました」

 エプロンを手に取る朱里に、ダグラスが笑う。

「あー、そりゃ口実だな。俺がここの飯は旨いってさんざ吹聴したから、きっとこの機会を虎視眈々と狙ってやがったに違いない。何せ狸爺いだからな」

「きっと、伯爵様は貴方にも会いたいのよ。ちっとも顔を見せないって、チャリティーの時もこぼしてらしたじゃない」

 小鳥も笑う。慈善事業にも熱心なセント伯爵は、孤児院など幾つかの施設も運営している。ダグラスはそこの出身で、伯爵とは幼い頃からそれなりの長いつき合いがあったらしい。


「しょうがねぇだろ。こちとら、日々事件を追っかけてる平刑事だからな。そうそう暇じゃないんだよ。大体最近は妙に人恋しがりで困る。……昔はああじゃなかったけどな。爺さんも、もう歳なのかね。参るなぁー」

 盛大なしかめっ面をしてみせるが、決して本気の口調ではない。親代わりと慕い、老人を敬愛しているのだ。粗野な彼が彼なりに。


「養子縁組の話も持ち上がっている、と伺ってますよ」

「う……。何処からそんなヨタ話を仕入れやがった?」

「伯爵ご自身から。……良いお話しだと思いますが」

 そう言う朱里に、バカ言え、と喚く。

「俺は生涯一刑事を貫くんだ。爵位のある刑事なんてこの世に居るか。恰好悪い!」


 全く、何度断わっても聞く耳持たねぇんだから。ボケてきたんじゃねぇか、あの人ぁ。さんざ文句三昧垂れるダグラスを小鳥は見る。以前、ちょっとだけその話は彼自身から聞いたことがあった。

「形じゃねぇよな。心だよな?」

 その時、ダグラスがそう言って、照れたように笑った顔を、小鳥はなかなかカッコイイと思ったのだ。朱里のようにスマートでもなく、白野のように穏やかでもなく、自分たちの中では一番年長のクセに、毎度ギャーギャー喚いてばかりのダグラスは、でも、だからこそ、傍にいてほっと心の安まる人なのかも知れない。


 エプロンを着けてキッチンに向かう朱里を追って、小鳥も立ち上がる。

「ああ。いいですよ、小鳥さん」

「え、だって……」

「ゆっくりお菓子を食べてから。それから手伝いをお願いします。そのケーキも

捌けないと困りますからね。その点、私は戦力外だ」

 ケーキ作りの達人のクセに、自分は大の辛党である朱里がそう言って、部屋を出て行く。

 冗談めかしたその言葉の中に、普段ふとした折々に感じるのと同じ、人を寄せ付けない壁を感じて。小鳥は言われるままに、また椅子に座り込んだ。


「僕、もうおなか一杯だから。階上うえに行ってるね」

 そう言って、朱里とは反対のドアから出て行く白野もまた同じ。


「悪いな、爺さんの所為でなんかドタバタさせちまって」

「一人増えるも二人増えるも、大して差はありませんよ。どうせ貴方も夜まで居座るご予定だったのでしょう?」

 ダグラスが掛けた声に、キッチンから答えが返る。声が少し遠い。

「バレたか」

 あっけらかんと、悪びれず笑っているダグラス刑事の存在が、こんな時には本当に有り難いと思う小鳥だった。


■■2


「ほい、これは白野クンにじゃ。あっちにしか居らん昆虫から取れる顔料だそうじゃよ。乾くと不思議な光沢が出る。見る角度によって色合いがうっすらと変わるから、使い道によっては面白い味が出せるじゃろう」

「ありがとう」

「こっちは小鳥ちゃんに。イヤリングじゃが、お気に召すかの?」

「わ、可愛い。有り難うございます、伯爵様」


 優雅な船旅を楽しんで来たという老伯爵から、土産を渡される。寄港した街々での面白い話を聞きながらの、賑やかな晩餐が進む。


「そしてな、これが大本命。幻の超逸品コニャック~」

「うぉっ!」

 酒好きのダグラスの目の色が変わる。老人がニヤニヤと酒瓶を振った。

「どうじゃ。ほれほれ、飲みたいか? 飲みたかろう、ダグラス~」

「飲みてぇ」

「お前さんも、相当イケる口だと聞いとるぞ、朱里~」

「嗜む程度ですよ」

 貰った顔料を指に付けてその色を見ている白野に、お拭き下さい、とハンカチを渡しながら朱里が言う。伯爵がニヤリと笑った。


「ダグラス、お前は3べん回ってワン、と言うたら飲ませてやる。朱里は……そうじゃの。白野クンとわしをデートさせてくれるんなら、飲ませてやる」

「……何で俺たちだけ、条件付きなんだよ? そんなんやれるか、クソ爺い」

「大切な主を、好色老人の毒牙には晒せませんね」

 男二人から、抗議の声が挙がる。


「デートって具体的に何するの?」

 使ったハンカチを返しながら、白野が朱里に訊いた。

「ぐ、具体的?」

 ダグラスが、肉を喉に引っかけた。何か悪い物でも想像したのだろうか。ゴホゴホと咽せる男に、小鳥が水の入ったコップを取ってやっている。


「私に訊かれても困ります。ダグラス刑事にお訊ねなさい。何やら詳しそうですよ」

 苦笑混じりに言われて、朱里からダグラスへと目線を移す。絵を描いている時以外はどこか茫洋として、実際の歳よりも幼く見える白野である。あどけない様子で期待の目を向けられて、男は真っ赤になった。喉に物を詰めた所為ばかりではないようだ。

「いや、勘弁してくれ! ってか、俺だって知らんぞ。全く知らん。俺は女の子が好きなんだ~!」

 食卓の上をダグラスの絶叫が駆け抜ける。


 ……食事中に話す会話じゃないなぁ。

 小鳥は、こっそりとため息をついた。


「全部、爺さんが悪いんだぞー!」

 そう叫ばれた伯爵が、しょうがなさそうにコニャックの封を切った。美味い酒に懐柔されたらしく、既にダグラスはご機嫌である。明日は非番と言うことだから、今夜は泊まり込みで飲もうと言う腹づもりらしい。

 小鳥はコニャックのように強い酒は苦手なので、ワインを飲んでいる。未成年の白野だけがジュースだったが、こちらは、隣に座る朱里の杯から一口味見をさせて貰った。

 美味しい、という少年に、その内酒豪になりそうだな、とダグラスが笑う。


「口当たりが良いので、どんどん飲めそうですが、油断していると二日酔いになりますよ」

 気づけば、何時の間にやら半分近くも飲んでしまっている少年から、急いでグラスを取り返した。心残りそうな顔をされて、朱里も微笑う。

「本当に、お強くなりそうだ」

 先が楽しみじゃな、と頷きながら、老人が言った。

「ああ、最後に立ち寄った港町は、古い遺跡の残る場所でな、建築物に彫り込まれたレリーフがなかなか見事なもんじゃった。写真を撮ったので、後で現像が済んだら、白野クンにも見せてやろうの」

「あー、そうだ。写真なー」


 昼間の話を思い出して、ダグラスが言う。

「そうだよな。普通何処かに行ったとか、何かの記念日とか。写真ってなぁ、積極的に撮る気がなくても勝手に溜まっていくもんなんだよ」

「なんじゃ、ダグラス? 何を言うとる?」

 一人、話の通じていない老人に、小鳥が簡単に説明をした。長年写真を撮る事を思いつきもしなかったと言う男は、終わったはずの話を蒸し返されて、かなり困った顔になる。含んだコニャックの味に小さく咽せた。そのまま手で額を抑える。


「俺は、こいつの事だから、自分はともかく白野坊やの写真だけは、わんさか撮ってやがると思ってたんだがなぁ」

「おお。肌身離さず、持ち歩いておりそうじゃよな。確かに」

「部屋の壁一面に、写真がズラーと隙間なく貼ってあってよ。そんでもって部屋の真ん中で、ニタニタ笑う執事が……」

「……それじゃあ、ストーカーじゃない」


 自他共に認める白野至上主義の男に、三方から揶揄混じりの声が掛かる。すぐに反論が来ると思ったにも関わらず、珍しく何の反応もない。


「……どうした、おい?」

 朱里は超万能執事と言うだけでなく大した毒舌家でもあったので、それを知る数少ない人間の一人であるダグラスにとって、彼の反応がないのはかなりに不気味な事であった。小さな沈黙が恐怖心を煽る。ちょい言い過ぎたか、やべぇ、殺られる。


 戦きつつ見れば、朱里の端正なその顔が普段と違って幾分青白い。額の辺りに手を当てて、俯きがちに形の良い眉をしかめている。

「朱里? 頭、痛いの?」

 隣に座る白野も声を掛けた。

「……ああ、申し訳ありません。ちょっと……」

「何だ、もう酔ったのかよ?」

「ううん、確かこれまだ一杯目でしょ? 白野様だって飲んでらしたし」

「何だ。じゃあ、ほとんど手つかずなんじゃねぇか」

 ウワバミ執事がどうしたんだ、とダグラスが言う。


「そういや、食も進まんようじゃったの。こりゃ、悪い時に来た。……どれ、ダグラス、手を貸してやれ。少し横にならせよう」

 立ち上がろうとするみんなを、朱里が止めた。

「いえ、大したことはありません。どうぞお気遣いなく」

「我慢の要るような間柄では、もうなかろうが。……そう思うとるのはわしらだけかの?」

 じゃったら寂しいぞ、わしは。シワの多い顔に更にシワを寄せて老人が笑う。


 ああ、このおじいさん、やっぱり大好きだな、わたし。

 小鳥は、その笑顔にそう思う。


 ほとんど無理矢理、といった風で、私室まで連行し、ベッドの中に叩き込んだ。横にならせると同時に、顔色の冴えぬ男の口から思わずといった感の、ほぅーっという吐息が漏れる。やはり、かなり無理をしていたようだ。

 老人が、朱里の額に手を載せる。

「んん、かなり熱いのぅ。どれ、口を開けてみぃ。……ああ赤いわ。こりゃあまだまだ上がりそうじゃな」

「俺、明日非番だし、酒が抜けてねぇから、今日はここに泊まらせて貰う。様子を見て病院にも連れて行くさ」

「ああ、そうしてやるといい」

 どうやら、風邪をこじらせているらしかった。二、三日前から少し咳が出ていたのを小鳥が見ている。


「……申し訳ありません。場を白けさせてしまって」

 恐縮した様子の男に、老人が言う。

「朱里や」

「はい」

「絵には余白があるよな」

「……は?」

「余白のないギチギチの絵は、見ていても苦しいもんじゃぞ。……お前さんは甘えさせるのは得意じゃが、逆の方はとんと苦手のようじゃなぁ」

「……」

「それじゃあ、わしは帰るでな。今日はすまんかったな。美味い料理じゃった。……ああ、それから頼まれていた件。良い所を捜しとるから」

「……有り難うございます」


 二人が出て行く。階下からの物音に、ようやく起きあがって、カーテン越しに庭を見た時には、もう伯爵を乗せた車が門を出て行く所だった。ダグラスと小鳥が手を振っている。ふと、白野がこちらの視線に気づいたかように振り返って見上げてきた。朱里の部屋の窓をまっすぐに。


 玄関ポーチの淡い光にさえはっきりと分かる澄んだ瞳。透明な蒼。

 ズキッと鈍く頭が痛んだ。


■■3


 夢を視ていた。


「ねぇ、僕の執事になってよ」

 水晶玉のような澄んだ瞳で、少年がせがむ。


 いいですよ。

 幸せを描きますか?

 ……描けますか?


 ひどく哀しげな少年の顔。

 そんな顔は見たくなかった。もう、何も見たくはない。疲れているのだ、と思う……。


 暗く湿っぽいが、それでも美しい造りの屋敷だった。前を歩く男と共に広い階段を上る。どの窓も厚いカーテンが引かれている。シンと静まった屋敷の中に朱里と男、二人の足音だけが低く響く。


 中年の小太りな男が一人やって来た。薄汚いなりをしている。プンと酒の匂いが鼻をついた。ひょこりと腰を曲げて挨拶をする。

「おいでなせぇませ。また、今度のは随分お若い先生ですね」

 品定めよろしく、じろじろと不躾な視線が朱里に注がれる。よろしく、と会釈すると下卑な薄嗤いを浮かべた。歯が欠けている。

「下働きのボズウェルだ。……あの子は?」

「もちろん、お部屋で」

 来なさい、と言われて、また歩き出す。


「……これまで付けた者達は、みんなあの子に手を焼いてね、いっそ歳が近ければ、あの子もうち解けるかも知れない。とても難しい子どもでね」

 二階の南の奥に向かう。男が鍵を取り出して錠を開けた。キィィ。軋んだ音と共に扉が開く。


 薄暗がりに慣れた瞳に、大きな窓から差し込む光が眩しい。

 かなり広い部屋だった。床の中央に小さな影が座り込んでいる。散らばった白い四角い紙。絵を描いているらしかった。


「こちらの部屋では絵を描くな、と言っておいたろう。どうしても描きたければ奥の部屋に行くように、と」

 男が冷徹な声で言う。描くことに没頭していたらしい影が突然の声にビクリと震えた。

「今度見つけたら描くもの一切を取り上げるからな。さあ、その絵を仕舞ってこっちに来なさい」


 立ち上がり、ノロノロと言われたとおり、絵を奥に片づけてからこちらに来る。

 水晶玉のような瞳をした少年がそこに居た。父親からもうすぐ9つになると聞いていたが、身体の作りは華奢で、年相応より小さく思える。だがその蒼い双眸は、何故かずっと年上の大人のそれに見えた。何処か遠く、果てを視ている。


「新しい先生だ。今度は追い出すんじゃないぞ。……それじゃあ、私は階下したに居る。後で、そこの呼び鈴を鳴らしてくれ」

 男が出て行く。また外側から鍵の掛けられる音がした。


「白野様、ですね」

 腰を屈めて、目線を低くする。

「……」

「家庭教師として参りました。朱里と申します」

「今度は若い人なんだ。幾つ?」

 澄んだ声が響いた。小首がちょっとだけ右に

ぐ。それに連れて栗色の柔らかそうな巻き毛も揺れた。蒼い瞳が朱里を見る。

「17です」

「ふぅん」

「……何か?」

「お前は何日ここに居るのかな、って思って」

「もう、追い出す算段ですか? まだ来たばかりですのに」

 朱里が笑った。面白い子どもだ。


「僕、追い出してなんかいないよ」

 少年が言った。

「みんなが僕を嫌って、出て行くだけだ」

 そんな生意気な事を言って、ぷいっと小さな口を尖らす様が、可愛らしい。


「では……」

 朱里は少年の頭に手を載せる。

「私は白野様のことを好きになりましょう。そうしたら、出て行かずに済みますね?」

 元から大きな瞳が、更に大きく見開かれた。とても奇麗な瞳だった。


「とにかく、あの子を外には出さぬ事。そして、誰にも会わせぬ事」

 父親が、そう念を押す。

「それから、当然だが、一切この館の中の事は他言無用だ。分かっているね?」

「心得ております」

 無表情に一礼する。心の中で皮肉に思う。


 家庭教師の名を借りた看守、と言う訳か。成る程、法外な給金の理由もそれで全て合点がいく。上流階級の家庭にはよくある話だ。世間体の悪い、みそっかすの血族。体裁の悪い面汚し。あの白野という少年にどれほどの理由があるのかは知らないが……まあ知る必要も無いことだ。


 朱里にとっては、他人のことなどどうでも良かった。ただ、眠る場所と、なるだけ人と隔絶された静かな時間。そして興味を見いだせる数冊の本があれば、それで充分に満ち足りていられる。一日数時間、少年の勉強を見る。ただそれだけで、住む場所と食事と金が手に入る。万々歳だ。そう思う。


 それではよろしく頼む、と言い置いて、父親が館を出て行く。ふと、その足が止まった。振り返る。

「ああ、もう一つ。あの子は放っておくと一日中でも絵を描くのだが。

 ……その絵は見ない方がいい」

「かしこまりました」

 意味が分からなかったが、とにかく、承っておくことにする。ただ、奇妙にその時の父親の表情が心に残った。


 哀しいような、怖いような、愛のような……。


■■4


「お。すまん、起こしたか?」

「……」

 ダグラスだった。軽く記憶が混乱する。何か、昔の夢をみていたようだ。


「今……何時です?」

「まだ11時前だ。少し眠っていたようだが、どうだ、何か喰えそうか? 小鳥がスープを作ったんだが」

 外の気配はまだ夜だ。それなら、ほんの一時間ほど眠っていたということになる。頭の芯は重く痺れている。上体を起こすとグラリと揺れた。ダグラスが支えてくれる。男の体温と比較して、自分のそれはかなり高い。しくじった、と思う。熱はまだまだ上がりそうだ。


「頂きます。さっさと治さなくてはね」

「よっしゃ」

 サイドテーブルに置かれていたスープをお盆ごと男が渡してくれる。野菜やベーコンの切れ端と潰したコーンを合わせたものらしい。まだ熱い湯気がたっているのが、妙にしみじみと有り難い。スプーンで掬って一口啜る。

「……旨いか?」

「……」

「実は、さっきちょいと味見したんだが、はっきり言って旨くねぇ。……小鳥は味音痴だったのか?」

「と言うか、よく塩や砂糖を間違われます」

 更に掬って飲んでいる。

「えーっと、勧めといて何なんだが、お前よく平気で飲めるな」

「有り難いことに、全く味がしないんです。温かさが美味しいです」

「おお、そりゃあ重畳」


 ダグラスが笑いながら、握り拳に親指を立てた「Good!」ポーズを突きだしてくる。朱里もスプーンを持ったままの手で同じポーズを作ると、付き合いに軽く上げてみせた。

 小鳥の呪いでも掛かったものか、かなり長い間咳き込んだ。


「あ、食べたのね。良かった」

 空になった皿を持って降りてきた男に、キッチンから小鳥が声を掛ける。後かたづけも丁度済んだ所らしい。エプロンで手を拭き拭きやって来る。

「美味しかったって?」

「あー、うん。……まあ、喰ってたな」

 ダグラスが曖昧に言葉を濁す。キッチンのダイニングテーブルに腰を下ろして、小鳥が受け取った皿を洗うのを、頬杖をついて見ている。


「……ヒドいわよね」

 泡だらけのスポンジで皿を擦りながら、ポツリと小鳥が言った。

「具合が悪いのなら、そう言ってくれればいいじゃない。わたしメイドとしてここに雇われてるのよ? お給金だって頂いてるのよ? それなのに、あの人ったら、何時だってぜーんぶ、一人でやっちゃうんだもの。あれじゃあ、疲れちゃうわよ。ぶっ倒れるのも当然よ」

「……まぁな」

 胸ポケットをごそごそ漁って、煙草を取り出すと、ライターで火を付ける。

 あ、ここで吸うと怒られるんだったか。まぁ、いいか。鬼の居ぬ間の何とやらだ。


 深く煙を吸い込んで、ふぅーっと吐き出す。小鳥が「これ、使って」と、普段使われていないらしい小皿を一枚置いてくれた。サンキューとそれに灰を落とす。皿洗いの済んだ小鳥も、こちらに来て座る。コーヒーのカップを二つ持っている。この家で出されるには珍しいインスタント製品だ。どうやら、小鳥が自分専用として常備しているものらしい。


「そりゃあさ、わたし、気も利かないし、役立たずだし、頼りにならないのは分かってるけど。でも、せめてこんな時くらい……」

 何だか悲しくなってくる。朱里の不調に気づけなかった自分の事も情けないが、決してそれを表に出そうとしなかった、彼自身の心が悲しい。まるで、小鳥なんか居ても居なくても同じ事だ、と言われたようなものではないか。


 大体、最初から、朱里は小鳥がこの館に来たことを快く思っていない様子だった。それでも最近は少しは仲良くなれたかな、と思っていたのに。そう都合良く思いこんでいたのは自分だけだったと言うことか。嫌われたままだと言うことか。


「わたし、やっぱりここに居たら迷惑なのかしら? お給金泥棒かなぁ」

「……そんな事ぁねぇよ」

 落ち込んだ様子の小鳥に、ダグラスが言う。ぷかーっと煙をふかす。

 食欲がないとでも、はっきり

不味

いとでも。何とでも言い訳はたつものを、わざわざ飲んだんだもんな。あいつはスープを。本当に、小鳥を嫌っているのなら、そんな事ぁしねぇよ。……なぁ、執事。


 小鳥にその事を教えてやろうか、と思ったが、止めておいた。敵に塩を送るのは柄ではないし、あっちも送られて喜ぶタイプのタマじゃない。

 と言うか、かなり意図的に彼女を自分達から遠ざけたがっている節があるので、様子見したが良さそうだ。何よりも、小鳥の味付けについて、言及するのは、今は避けたい気分だし。


「単に、あいつが可愛い気のない男だって事。それだけの話さ」

 煙草の火をもみ消しながら、そう言った。


 小鳥が先に部屋に引き取った後、ダグラスはコニャックの酒瓶とコップを失敬して、またチビチビ飲み始めた。ツマミ代わりに昼の残りのケーキを食べていたりする辺り、この男の味覚も何処か普通とは違うようだ。ダイニングテーブルで、ケーキを突きつつコニャック。良い酒も形無しの所業である。


 コトンという物音に振り返ると、パジャマ姿の白野が立っている。

「どうした? まだ寝てなかったのか?」

「うん。……朱里、どうしてた?」

「何だ、自分で見てくれば良いじゃないか」

「だって、風邪が移るから部屋に近寄るな、って言ってたもの」

「何だ。じゃあ、俺には移っても良いと思ってやがるんだな、あの野郎は」

 笑いながら、まあこっちに来い、と誘う。白野が頷いて、向かいの椅子に座った。新しい煙草に火を付けようとして、ふと手を止める。


「おっと。煙、嫌いなんだよな」

「全然平気。吸っていいよ」

「へ? じゃあ、何でここは館内禁煙なんだ?」

 外で、一旦吸い始めると、かなりなヘビースモーカーに変じる朱里が、普段、この屋敷で一切煙草を吸わないのは、てっきり白野の所為だと思っていたのだが。


「絵があるからかな? よく知らない。僕の絵なんてどうでもいいのにね。大体、額にはガラスだって入ってるんだし」

「ミクロン単位の細かいことを、いちいち根ほり葉ほり気にするタイプの男だよな。あんなんだから神経疲れしてぶっ倒れるんだぜ」

 ケケ、と笑って酒を飲む。それを、ちょっと羨ましそうに白野が見た。

「……飲むか?」

「いいの?」

「いいんだよ。俺なんざ、こーんなチビの頃から爺さんと飲んでたぜ」

 立ち上がって、グラスを持ってくる。注いでやる。


「その代わり、執事には絶対ナイショだぞ。ついでに二日酔いもするな」

「うん」

 グラスとグラスを合わせて、乾杯する。


「……おつまみはケーキなの?」

 白野がテーブルを見て目を丸くする。

「アーモンドがあったと思うよ。朱里がいつもクッキー焼く時に使う奴」

 戸棚をごそごそ捜して、持ってきた。缶を開けようと缶切りを持って。……巧く開けられない。どうにも手つきが悪すぎる。


「何だ、不器用だな。もう酔ってるとか言うなよー」

 代わって、ダグラスが缶切りを使う。キコキコとすぐに缶は開いた。ごめん、と白野が謝る。

「一度も使ったことなくって」

「あ?」

「缶切り。いつも全部、朱里がやるから。僕は何にもやったことない」

「はぁぁ~?」

 訊いてみると、家事一般のちょっとした手伝いどころか、自動販売機でジュースを買ったことも、一人で汽車に乗ったことすらないと言う。

「お前、それはヤバいんじゃないか? ってか、実社会でやっていけないだろう、そんなんじゃあ」


「僕、朱里が居なかったら、三日で飢えて死ぬタイプ」

 ふふ、と笑ってみせる。ちょっと寂しそうな笑みだ。


「……僕がこんな風だから、朱里はくたびれちゃうのかな? だから、病気になるのかな? 朱里は……僕のこと、嫌いかな?」

 おいおいおい、とダグラスは思った。小鳥に続いて坊やまで。

 何だか知らんが、みんながお前の愛を疑ってるぞー。由々しき事態に発展してるぞー。風邪でダウンしてる場合じゃないみたいだぞー、バカ執事。


「そんな訳ないだろう。鳥肌が立ちそうなくらい、薄気味悪く、熱烈一途に坊やに献身してるじゃないか」

 どちらかと言うと、妄信的すぎて怖いほどだ。

「……だって」

 グラスの中の液体を見詰めながら、少年が低くつぶやく。


「僕は、絵を描くことしか出来ないから」


■■5


「白野様、お勉強の時間ですよ」

 ボズウェルに鍵を開けて貰い、部屋に入る。少年はそこに居なかった。また、いつものように奥の部屋で絵を描いて遊んでいるのだろう。扉をコンコン、とノックして、こちらに来るように促す。雇い主の父親から厳命されるまでもなく、朱里はその部屋に入る気など全くなかった。子どもの描く絵など、どうでも良い。


「……」

 しばらくして、白野がこちらに戻ってくる。窓に面して置かれたテーブルに二人で向かい合って座った。今日は計算問題と、外国語をさせようと思う。異郷の言葉を特に重点的に教えるように言われているのは、近い将来、父親が少年を遠い異国の地まで追い払おう、という心づもりへの布石だろう。……それも、知ったことではない。それまでに精々稼がせて貰おう、そう思うだけの事だ。


「はい、正解」

 赤ペンで大きく丸を書いてやる。

 少年の学力は同年代のそれに比べて、遙かに高いものだった。朱里が説明することを大した苦もなく理解する。飲み込みが早い。利発な質なのだろう。ただ、集中力にひどくムラがある。今日も、問題を数問片づけた頃には、飽きて足をバタバタさせ始めた。


「こら、お行儀が悪いですよ。勉強は静かにやるものです」

「ねぇ、朱里は学校に行ったことある?」

「ええ」

「じゃあ、いっぱい友達がいる?」

「私は飛び級ばかりしていたので……」

「飛び級って?」

「早く、大人になる為の手段ですよ」

「ふぅん」

 分かっているのかいないのか、いつものクセで小首が少し右に傾ぐ。


「学校では、みんな静かに勉強するの?」

「そうですよ。そうしないと先生が乗馬用のムチで手の甲を叩くんです」

「……それって、痛い?」

「どうでしょう? 私はいつもお行儀良くしていましたからね」

 含み笑いながら、こう付け加える。

 でも、叩かれた子はみんな泣いていましたよ。私は白野様を叩いたりしたくないのですが、貴方の先生ですから、仕方ないですよね。次の授業からはムチを用意した方が良いですか?


 ちょっと脅かすと、ブンブンブンと強く首を横に振った。足の動きがピタッと止まる。可愛いものである。前任の家庭教師達は、全て短期間で彼から逃げ出したと言うが、それほど手数の掛かる子どもではない。そう思う。恐らく、この少年の置かれている境遇に、何らかの思いを持って、早々に辞めて行ってしまうのだろう。

 また、計算問題を解き始めた少年を見ながら、そう思う。


「……また、お食事を召し上がっていませんね」

 扉の横に置かれている台の上には、昼食がほとんど手つかずのまま残っている。


 白野の食事はボズウェルの奥方が用意する。ついでに朱里の分も。ボズウェル夫妻は、階下の召使い用の部屋に住んでいた。朱里は、二階の階段前の一室を使わせて貰っている。この広い館で使われているのは、わずかに四室のみである。


「美味しくないんだもの」

「……まあ、確かにね」

 特に異論はない。確かにボズウェル夫人の料理と来たら、ブタのエサ並の味付けだ。

「しかし、こう毎日小食が続いては、身体を壊してしまいますよ。……ああ、そうだ」

 立ち上がって、呼び鈴を鳴らす。しばらく待つと、ボズウェルがやって来て、鍵を開けてくれた。陰気くさい顔が扉から覗く。


「……先生、勉強時間はもう終わりですかい? いつもより早くねぇですか?」

「いえ。部屋に必要な本を忘れてしまったもので。取りに行きたいのです」

 チッと、男が舌打ちをした。酒の匂いが口腔から漂う。

「ほれ、鍵は渡しとくから、勝手に本でも鉛筆でも取って来なさるといい。後で、返しに来て下さいや」

 ボズウェルは、鍵を朱里に放るようにして渡すと、足音も荒く、階下に戻っていった。酒の時間の邪魔をされて、かなり頭に来たらしい。


「ちょっと待っていらっしゃい」

 そう少年に言い残して、部屋を出る。わざわざ鍵は掛けなかった。少年は逃げない。そう思う。この屋敷に住んでみて分かったのだが、白野の軟禁環境は、朱里の目から見れば恐ろしく

杜撰

な、言うなれば手ぬるいものだった。


 少年の部屋にはかなり広いテラスが付属しており、彼はそこに自由に出られる。館自体が立派なので、二階と言っても下まではかなりの高さがあったが、それでも屋根づたいに降りようと思えば何とか降りて行けるだろう。高所恐怖症だとか、ひどく意気地がないだとか、そういう様子は少年からは窺えなかった。


 それに、テラスの下は時折、ボズウェル夫人が呼ぶ行商人が通る。例えば、それらに「ここから出して!」とでも叫べば良い。そんな事も思いつけないほど、愚かな子どもでない事は、彼の学力レベルから見ても明らかだ。カーテンを引き裂いて縄を作り、手すりに結びつけて降りることだって出来る。まあ、これは一番危なそうなので利口な彼ならパスするだろうが。


 第一、ボズウェル自体が御しやすそうな男だ。夜と昼となく、いつも酔っぱらっている。食事を運んで来る時にでも、彼を振りきって逃げることは出来そうだ。


 一週間ほど前。白野は風邪をひいて熱を出した。その時、医者の往診を受けたが、その医師は近所の普通の町医者らしく、こちらの事情など全く知らぬ者だった。ボズウェルが面倒がるので、医師の応対には朱里が出たが、閉めきられた館の陰気な様子に、異質を感じ取ったようで、内情を誤魔化すことに閉口した。


 もしかして、少年が医師に何かを告げるか、と思ったが、何も言わぬままだった。それどころか、朱里に巧く口裏を合わせて、窮境を助けてくれさえした。


 医師を見送った後、白野の部屋に戻ると、少年は蒼い瞳をぼんやりと開けて彼を見た。

「……この部屋から出たいと思われた事はないんですか?」

「……うん」

 熱の所為で、蒼い瞳が潤んでいる。呼吸が普段より速い。額に載せていたタオルを洗面器に取ってきた冷水で洗う。

「それがみんなの為だって。僕にとっても幸せなんだって……父様は言うよ」

「……」

「それに」

 絞ったタオルを額に当ててやると、一瞬気持ちよさそうに目を閉じた。また、すぐに開く。

「ここを出たら、朱里はもう僕の先生じゃなくなっちゃうんでしょう?」


「そう、ですね」

 声が、掠れた。蒼い瞳は罪だ。澄みすぎていて、イヤになる。ポーンポーンと時を告げる時計の音がした。


「ねぇ、本を読んでよ。『ドン・キホーテ』がいいな。冒険がいっぱいで楽しい」

 ベットサイドに置かれた本を開く。読んでやっていると、ふと、何を思ったのか、手を伸ばして、彼の黒髪に触れてくる。


「何です?」

「どうして、髪を伸ばしてるの?」

「床屋の主人と世間話をさせられるのが、面倒で」

「ふぅん。朱里って厭世主義?」

「随分難しい言葉を知っていらっしゃいますね」

 長い髪を指に巻き付けて遊ぶ。軽く引っ張ってみたりする。


「本が読めませんよ」

「サラサラしてる。……母様みたいだ」

 色は違うけど。と、少年は言った。


 私室に戻った朱里は、目当ての紙袋を取り上げた。その横に置いた、別の文具店の名の付いた青い紙包みに目が留まる。少し考えて、一旦、手の中の袋を下ろした。先程、ボズウェルから借り受けた鍵を見る。


 ガサガサと青い袋の中を漁ると、白野にちょっと面白い理科の実験をさせてやるつもりで買っておいた工作用の粘土を取り出す。ビニールを破って、粘土の上に強く鍵を押しつけた。それほど凝った仕様の鍵ではない。この程度でも充分に合い鍵を作ることは出来るだろう。


 フッと嗤う。こんな事をして、どうすると言うのだろう。自分には何も出来はしない。白野を救おうとか、助けようとか、守ろうとか、そんな気持ちがあるわけではなかった。自分は彼の父親に雇われている看守側の人間だ。ただの家庭教師と生徒。それだけの関係。

「……ボズウェル氏にいちいち鍵を借りに行くのが、面倒だから」

 そんな独り言を言う。我ながら、言い訳臭い台詞だと思った。



 南端の部屋で。白野は足をバタつかせながら、やはり逃げ出す事もなく朱里を待っていた。持ってきた袋から、リンゴを取り出す。

「昨日、市場で買ったのですが、一人で食べるには多すぎます。一緒に食べながら、勉強しましょう」

「うん」


 昼食のパンの載った皿から、パンをどけて、その皿を借りる。そうして、テーブルの方を振り返ると、白野はもうとっくに、リンゴを丸かじりにしている最中だった。笑いながら言う。

「そら、皮を剥きましょう。お寄越しなさい」

 果物ナイフを使って皮を剥く。クルクルと手の中でリンゴが回るのに連れて、赤い皮が帯のように伸びていく。

「ボズウェルは、いつも皮付きのまま、リンゴをくれるよ」

「そうですか」

「……その皮、貰ってもいい?」

「貰って、どうなさるんです?」

「だって、すっごく長い。リンゴって小さいのに皮がこんなに長いのは変だよね?」

 持ち上げて遊んでいる。途中から切れた、と文句を言う。


 ついでに、球体と表面積の事でも教えてみようか、と朱里は思った。流石に難しすぎるだろうか?


■■6


「あの子は、君によく懐いているようだ。……感謝している」

「恐れ入ります」


 一月に一度、男はこの館にやって来る。

 不思議な親子だ。そう思う。この男に我が子への愛情が皆無だとは思えなかった。白野の方も、父親の仕打ちを恨んでいるようには見えない。ただ、子どもは黙々と絵を描き続け、そしてその父親はそれを否定し続ける。そんな親子。奇妙な親子。


 父親はいつも我が子を不可思議な目の色で見つめる。

 哀しいような、怖いような、愛のような……。


 今日は、画用紙や絵の具や鉛筆や……そんな絵の道具を山ほど白野に渡していた。描くな、と言いながら、そんなものを渡すのも、恐らく、やはり愛なのだろう。


「おもちゃや菓子を買い与えても、全く喜ばないのでね。本当に変わった子どもだ」

「最近は、本も沢山お読みになります。冒険物がお好きなようです。それに、画集も喜ばれるでしょう。あれだけ素晴らしい絵を描かれるのですから」

 途端、父親の顔が険しくなった。緊迫した形相で詰め寄ってくる。


「あれの絵を、見たのか!?」

 しまった、と思う。つい口が滑った。


「君は良くやってくれている。白野もよく懐いている。出来れば、解雇はしたくない。……君にも、ここから出て行きたくない事情だってあるだろう」

「……」

「だったら、もう、あの子の絵を決して見るな!」


 でないと。

 君自身が、きっと後悔することになる。

 男はそう言って、去っていった。


 テラスに出ると、日差しがぽかぽかと照っていて、とても清しい風が吹いている。

「白野様」

 声を掛けると、少年がこちらを向いた。その拍子に悪戯な風が少年の指先から画用紙を奪う。風に乗ってふわりと舞い上がる。

 巧い具合に、朱里の足に引っかかって止まったそれを、手に取って見る。


「ダメだよ、朱里。見たらダメ」

 白野が慌てて、駆けてきて、紙を取り返そうとする。

「おっと」

 ひょい、っと手を軽く上に上げれば、もう長身の朱里から、少年が絵を奪い返す事は出来なくなった。それでも、一生懸命にぴょこぴょこと周りを跳ねる様子が可愛らしい。かなり運動不足気味の彼だから、もう少し、このまま跳ねさせておくのも良いかもしれない。


「返してってば!」

 泣きっ面になる。やり過ぎたか。拗ねた彼は頑なに何日でも口をきいてくれなくなる。それはそれで一向に構わないのだが、そういう時の少年の目はちょっと困る。何とも形容しがたい恨みがましい瞳でじぃっと上目遣いに朱里を睨み続けるのだ。

 実際、白野には朱里ただ一人しか話し相手が無いわけで、沈黙し続けたところで、困るのは白野の方なのだが、何となく、蒼い瞳に睨み付けられている内に、知らず、朱里の方がいつも折れて謝っている。年長者の尊厳も家庭教師としての威厳も何もあったものではない。


「はいはい、お返ししますから。申し訳ありませんでした」

「……」

「でも、どうして見てはダメなのです?」

「父様が、絶対に人に見せちゃダメだって。父様は、きっと怒って僕から紙もペンも全部取り上げちゃうよ」

「私が黙っていれば、お父様には分かりませんよ。この前のネコの親子の絵も、とてもお上手でしたのに。……新しい絵も見せて下さいませんか?」

「……」

 とても困った顔になった。


 あの日、ネコの絵を見たのは、ほんの偶然で、白野や朱里の意図した所では決してなかった。

 勉強の時間なのに部屋に居ないな、と思ったら、今日と同じように少年はテラスに居た。床の上で俯せになって、クークー寝息を立てている。いつものように絵を描いている内に春の温かな日差しに負けて眠ってしまったものらしい。


 その寝顔があんまり幸せそうなので、起こすに忍びなくなった。別にノルマがある訳でもない。今日の授業は「昼寝」という事にしておくか、そう思って、朱里も白野の横に転がる。一応、風邪をひかないように、自分の上着を小さな背中に着せかけておいた。


 寝転がって見る空は、青く高い。空を見上げたのは久しぶりな気がした。こんな風に、のんびりとくつろいだ気分になったのも、久しぶりだ。小鳥が二羽、互いにじゃれ合いながら、視界の隅を横切っていった。


 眠気が伝染したように、あくびが出る。隣で眠る白野を見遣って、ふと、彼の指の下にある画用紙に目が留まった。風に四隅を揺らせている。そのうち飛ばされそうだな、そう思って、そっと少年の手をずらして、絵を取った。


「……!」

 驚く。これが子どもの描く絵だろうか? 鉛筆の下書きに水彩で色が塗られている。ネコの親子の絵だった。母ネコが横向きに寝転がって、子猫に乳をやっている。母ネコは三毛猫で、朱里も何度か屋敷の周りで見かけたことがあるメスだった。そうとすぐ判別がつく程に、毛並みの描写や表情がリアルである。子猫は三匹居た。母ネコの頭の方から黒白、茶白、黒。全身ほとんど黒のくせに、右の後足にだけ白い靴下をはいている。


 白野自身が、決して見せようとしなかったのと、朱里にも大した興味がなかった所為で、これまで彼の絵をきちんと見る機会は無かったが。凄い、と思った。父親はこの事を当然知っているだろうに。何故この類い希なる才能を伸ばしてやろうとはしないのか?


 ふいに、手元から絵が奪われた。破けた紙の切れ端が朱里の手の中に残る。

「ダメだよ、見ちゃ」

 何時の間に目覚めたのか、自分の絵を胸に抱きしめるようにして、白野が言った。


「だって、僕、朱里に嫌われたくないもの」

「どうして、私が白野様を嫌いになるんです?」

「僕の絵を見ると、みんな、僕のこと怖いって言う。……父様も、前居た先生も、みんな」

 よく分からない。彼の言っている意味が。しかし、少年の目は怖いくらいに真剣だった。父親が言っていた「後悔することになる」という言葉とも奇妙に符合する。一体彼の描く絵に何があると言うのだろう? 確かに、子どもの域を遙かに凌駕した絵を描く、ということは分かるが、それで何故嫌うとか、怖いという言葉に繋がるのか? あまつさえ、後悔するとはどういう事だ?


「白野様」

「……」

「私は、この間、貴方様のお描きになったネコの絵を見てしまいましたよね?」

「……うん」

「それで、私は白野様のことを怖がったりしましたか?」

「……ううん」

「嫌いになったように見えますか?」

「……」

「私は、白野様のことが好きですよ。……本当です」

「……」


 おずおずと、絵を差しだしてきた。その指が僅かに震えていて、その事に何故か心がひどく痛んだ。

 私は、本当にこの少年を好きになっているらしい。そうだ、私たちは何処か似ている。好きという言葉に怯えつつも、祈りのようにその虚像に必死で縋りついている姿が。


 新しい絵は、風景だった。まだ、色は付けられていない。付けるつもりはないのかも知れない。たった一本の木が全面に押し出されたシンプルな構図を、黒と白とのコントラストが巧みに引き立てている。

 その木は焦げて折れていた。落雷にでも打たれたのだろうか? 先日読んでやった本の中にそういうシーンがあったのを思い出す。


「……朱里」

 服の裾をつまんで、ためらいがちに引いてくる。見上げて来る蒼い瞳が不安そうに揺れている。

「……大丈夫、嫌いになってなんかいませんよ。……とても上手に描けてますね」

 途端に、ぎゅうっと強くしがみついて来た。頭をそっと撫でてやる。この少年の傍に居たい、とそう思った。


■■7


 リンゴが食べたいと白野がねだるので、今日は市場まで出向いた。他にも目につくままに幾種類かの果物を買い求めてみる。真っ赤なリンゴは3つ買った。


「ねぇ、朱里。またリンゴ剥いてよ」

「リンゴがお好きですね。他の果物はお嫌いですか?」

「桃も好きだけど、皮を長く剥けないでしょう? クルクル皮が伸びるのが好き」

「それなら、梨だって出来ますよ?」

「梨の皮は赤くないもの」

「……」

 果物の好き嫌いの話で、味でも形でもなく、皮が重用視されている辺り、よく理屈が分からない。子どもなんてみんなそんなものだろうか。


 クスクスと思い出し笑いをしながら、家路を急ぐ。

 小さな鳴き声を耳にして、ふと立ち止まった。子猫の鳴き声だ。路地裏の草陰で、母ネコが子猫たちに乳をやっていた。

 ああ、あのネコだ、と思う。白野が以前絵に描いたネコ。もう次の子どもを産んだのか。


 乳を吸う子猫は三匹居た。黒白と、茶白と、そして黒。

 おや? と思った。奇妙な既視感。


「……」

 もう少し近寄って、子猫を見る。親ネコが朱里に気づいて身じろいだ。つられて、黒い子猫も身体の向きを少し変えた。今まで胴に隠れて見えなかった右の後足が覗く。身体の中でそこだけが……白い!

 黒白、茶白、全身ほとんど黒のくせに、右の後足だけ白足袋の……


 紙袋に詰めていたリンゴが一つ、転がり落ちた。母ネコが「フーッ」と朱里を威嚇する。子猫達は母ネコの背後に隠れてしまった。もう、黒猫の足は見えない。


 落としたリンゴを機械的に拾い上げる。指先がひどく冷えていた。確かに掴んでいる筈のリンゴの感触が、鈍い。

 私は……今、何を考えた?


「……バカな」

 クスリ、と笑う。そう。そんなバカな。


 朱里がリンゴを剥く間。白野は、椅子に行儀悪く逆さに馬乗りに座って、背もたれに顎を載せている。椅子の脚をカタカタ揺らす。「もっと細く長く剥いてよ」と、かなり無体な事を言う。……そう。そんな子どもだ。ただの小さな。


「こら、お行儀が悪いですよ」

 そう、

める朱里を、じっと白野が見る。

「そんなに人を凝視するものではありません。私の顔に穴が空いたらどうします?」

 苦笑混じりに言う。気がつけば、言われるままに、細く長くを意識してナイフを滑らす自分が居る。そのうち精進しすぎて、皮むき選手権のチャンピオンにでもなれそうだ。


「不思議なんだ」

「はい?」

「どうして、お前は他の人と違うんだろう?」

「……私は、何処か変ですか?」

「たった今、この世界が終わっても、ちっとも構わないって顔してる。未来とか過去とか、お前にはどうでもいいんだね」

「……」

 本当に。時折、歳以上にひどくませた口をきく。子どもかと思うと、急に大人の顔になる。そういう時には、決まって瞳の蒼が深くなる。

「……そう見えますか?」

「そうなんでしょう?」

 深い蒼。水晶玉のような瞳が、朱里を見ている。


「ねぇ、朱里」

 白野が、窓の外に目を移す。空は澄み渡って青い。

「はい」

「もうすぐ、嵐が来るよ」

 それがどういう事か、朱里には分かるような気がした。そう、もうすぐきっと分かる。

「……そうですか」

「うん」



 白野の言った言葉の通り、夕刻頃から空は重い雲が増していき、やがて強い嵐になった。稲妻と雷鳴が館を取り巻く。白野が怖がっているかも知れない。朱里は、以前作っておいた合い鍵を使って、彼の部屋へ入る。

 存外に、少年は嵐を恐れてなどいなかった。ただじっと窓辺に立って、外の雷雲を凝視している。閃光が光るたびに、小さな白野の影が黒くそして長く、不気味に尾を引く。

 不可思議な……どこか陶酔にも似た<予感>があった。


 ガラガラガラ

 轟く雷鳴。吠える空。閃光。

 大地が揺れた。館の庭、窓から見える一本の木。

 真っ二つに裂けて折れた黒こげのそれ。それは、あの時見た白野の絵をそのままに……。


「……朱里」

 窓から目を逸らさぬまま、白野が男の名前を呼ぶ。

「朱里。ねぇ朱里、……僕が、怖い?」

「……」

 少年を抱き上げた。軽い身体を片腕に載せるようにして抱えると、二人で窓の外を見る。強い雨粒がガラスにぶつかり、そして流れる。ただ、ずっと雨を見ていた。


 翌朝、いつもとは違う間隔で、白野の父親が館にやって来た。落雷の報を受けての事だろう。そして、男は、朱里の顔を一瞥しただけで、全てを察したらしかった。「やはり、な」と呟いて、深くため息を漏らす。


「だから、後悔することになる、と言ったろう」

 そう言って、胸ポケットから封筒を取り出して、テーブルに置いた。厚い。

「退職金だ。どうか、この館での事は一切を君の胸の内だけに留めて欲しい」

 そう言って、低く頭を下げる。


「……それは、必要ありません」

「ああ、確かに。君は誰にも言わないだろうね。君はあれを好いてくれていた。……これはせめてもの、その事への礼だと思って、是非受け取ってやって欲しい」


 朱里は静かに首を振る。

「いいえ。お受けする理由がありません」

「朱里君?」


「私は、白野様の家庭教師を辞めるつもりはありません。ですから、退職金など無用です」


 君は解っていない。まだ、何も解っていないんだよ。

 哀しいような、怖いような、愛のような……。

 そんな表情で涙した父親。

 それでも。朱里は館に残り、そして、白野の家庭教師を続けている。



「さあ、ちゃんと椅子を引いて座って。今日は歴史をやりましょう」

 普段と何も変わらない一日。少年は椅子の上で足をバタつかせ、男はそれを窘める。


「こら、足をバタバタさせない」

「僕、勉強って好きじゃない」

「勉強は大切ですよ。沢山学んで多くを知って、その知識だけが今の私を生かしている。こうして貴方様の家庭教師として雇われて、私自身を養っている」


 白野が、いつものクセで小首を傾げて朱里を見る。

「朱里がいっぱい勉強したから、僕らは会えたの?」

「そうとも言えますね。後は白野様のお父様が私を雇って下さったからでしょうか」

「……今日、父様、来てたよね?」

「はい」

「朱里も、ここから出て行くんじゃないの?」

「……」


 君は解っていない。あれは……あの子の絵は、自分の母親の死すら予言したんだぞ!

 君は、何一つ解っていない。あれの正体を知らないんだ……。

 哀しみと、畏れと、そして愛と。そんな様々の、互いに相容れぬ感情に翻弄されて、苦悩する男。そんな父親。


 だが。それが何だと言うのだろう。他人のことなどどうでも良かった。ただ、眠る場所と、なるだけ人と隔絶された静かな時間。そして興味を見いだせる数冊の本があれば、それで充分に満ち足りていられる。あとは、傍らに彼が居れば。


「私は何処にも参りません。白野様のことが好きですから」

 蒼い瞳に安堵の色が浮かぶ。この上なく嬉しそうに笑った。

「僕も、朱里が大好きだよ」

 足をバタつかせる。まるで子犬の尻尾のように。


「ねぇ。朱里の父様や母様って、どんな人?」

「よく知らないのです。父はさるお屋敷で執事をしていて、母もそこで働くメイドだったそうです。

流行病

で二人とも相次いで亡くなりました。私が物心つく前に」

 父母の雇い先である貴族の情けで、養って貰い、教育を受けて……そして今の私に至る。


「執事って何?」

「そうですね。いつもご主人の傍にいて、そのお手伝いをする人、でしょうか?」

「ふぅん、朱里も朱里の父様の後を継いで、いつか執事になるの?」

 白野の質問に、少し驚く。

「……そんなことは、考えたこともありませんでした」

 顔も覚えていない、父と同じ職に、私が?


「そうだ! 朱里、僕の執事になってよ。家庭教師じゃあ、僕が大きくなったら居なくなっちゃうでしょう? 僕の執事になって。そして、ずっと傍に居て」


 自分の思いつきに、水晶玉のような澄んだ瞳を輝かせて、少年がせがむ。それに淡く微笑んだ。

「いいですよ。その代わり、一つだけお約束して下さい。出来ますか?」

「うん」

「幸せを描いて下さい」

「幸せ?」

「そう。いつも、それだけを見て……幸せな絵を描いて下さい」



 遠い日の約束。心からの真摯な願い。


■■8


 ああ、また昔の夢を視ていたのか。

 もう、深夜のようだった。朱里は大きく息を吐きながら、寝返りを打つ。


 過去は何故、ただ過去のまま過ぎ去っては行かないのだろう? もう決して塗り替えられぬ思い出のクセに、幾度でも幾度でも甦っては、現在の足下を掬いにかかる。


 愚かな真似をした、と思う。

 まだ、幼かった白野に「幸せを描け」と言ってしまった。

 その言葉の真の意味など、私にも分かってはいなかったものを。


 幼い白野は、あの約束の直後に、一枚の絵を仕上げた。

 青い空に、一羽の鳥が羽ばたいていて、白野はそれを「父様の幸せの絵」と呼んだ。


 腐った柵から落ちかけた白野を庇って、父親がテラスから落ちたのは、それから間もなくの事。駆けつけた朱里に、虫の息の父親はこうつぶやいたのだ。

「見た……これが私の幸せなのか、白野?」 と。

 その日、空は高く青く……テラスの崩れる音に驚いて、確かに一羽の鳥が飛んだ。


「何故です? どうしてあのような絵をお描きになったんです!?」

「だって、僕、ちゃんと父様の幸せな絵を描いたもの。嘘じゃない。嘘なんかついてない!」

 詰め寄る朱里に、白野は逆に問い返したのだ。

「じゃあ、幸せって何? 本当の幸せって何なの?」

 ……答えることは、出来なかった。


 そう。我が子を助けた安堵か、それとも命と引き替えに出来るほどの我が子への愛を確信できた充足か……。それは知るよしもなかったが、父親はあの瞬間、確かに幸せだったのだろう。白野が絵を描いたのだから。彼の絵は、決して嘘をつかない。


 苦い笑みが浮かぶ。

 ともすれば熱に沈み込みそうになる身体を叱咤して、起きあがる。部屋を出た。


 館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。

 多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。闇の中でも、濃い絵の具の臭いが鼻を突く。白野のアトリエである。

 キィィ、と微かな音を響かせて扉が開く。長身の男が一人、足音を忍ばせて入ってきた。朱里だ。乱雑な室内で、それでも何かにぶつかることもなく、薄闇の中を歩く。


 部屋の片隅には中くらいのカンバスの立てかけられたイーゼルが置かれていた。そのカンバスにだけは白い覆いがかけられていて、なにか他と違う<特別な>絵であることを感じさせる。

 その絵は、もう長いことそこにそうしてあるのだった。

 そう、あの日からもうずっと。


「いつか幸せが何か分かったら。そうしたら、朱里に幸せの絵、描いてあげるね」

 約束だよ。

 そう言った、誰よりも無垢な瞳をした少年の、小さな指と指切りをした。


 幸せ。

 それは人により、時により、様々に変わる。

 満足。野心。夢。希望。解放。悲願。欲望。愛。安らぎ。追憶。感動。充足。安寧。探求。激情。

 生と死。過去や未来。現実に虚構。儚さと強さ。


 白野と過ごした日々。随分と沢山の幸せの形を見てきた、と思う。いっそ幸せは業に近い。

 人の心の不可思議を、彼はただ淡々と描き続け、私はそれから目を逸らさぬ事だけに躍起で。

 そして、私たちは、まだ答えを見つけられずにいる。

 まだ、絵は完成していない。


 アトリエと続き部屋である、白野の寝室への扉をそっと押す。

 音もなく、空気だけを僅かに震わせて、ほんの少しだけ扉が開く。白野は決して自室に鍵を掛けなかった。外鍵を内鍵に取り付け直してやった、その後も尚。

 ベッドの中で、白野はぐっすりと寝入っているようだった。規則正しい呼吸音が聞こえている。


「どうして、小鳥さんをこの屋敷に置こうと思われたんです?」

 前に、そう尋ねた時、白野は少し戸惑った顔をしたが、やがてこう言った。

「さあ? 僕にもよく分からないけど。……でも、何かが分かる気がして」


 自ら積極的に外界に働きかける白野を、初めて見た。時は移ろう。否応もなく。

 もうじき、白野はその何かを見つけるだろう。

 そうして、絵は完成する。

 その時、小鳥が自分と同じような

懊悩

を味わう事にならなければ良いが。ただ、それだけが気がかりだ。今なら、白野の父親の思いが解る気がする。哀しみと、畏れと、そして愛と。知りすぎることは……災いだ。


 扉をそっと閉めると、朱里はアトリエを後にした。もう、絵の方は見なかった。


 私室に戻るとダグラスが居て、驚いた。


「このクソバカ執事。今にも果てそうな景気の悪い

を晒して、何処をホテホテ出歩いとるか!」

 一喝されて、バツ悪く笑う。どうせ、自分が今何処へ行っていたのかなど、とうにお見通しだろう。この男は粗野で野放図な外見の割に、とても聡い。あのセント伯爵が直々に仕込んだ男だ。まぁ、適うはずもない。


 ベッドに直送されて熱を計られ、挙げ句、更に怒鳴られた。頭に響く。

「……音量落として下さい。みんな起きます」

「お前が起きてることが問題なんだよ!」

 ベシャっと額に濡れタオルが叩きつけられる。それで、自分の

表情

が半ば隠れただろう事に安堵を覚えた。確かに今の自分はさぞかし不景気面だろうから。……こういう所が勝てないのだ。


「……どうも熱の所為か、昔の夢ばかり見るので。気晴らししたくなったんですよ」

「へぇー、どんな夢だ?」

「秘密です」

「可愛いくねぇなー」

「男に可愛い気があっても仕方ないでしょう」

「じゃあ、白野坊やから可愛い気が消えても良いんだな?」

「ああ、それは困る。……と言うか、寂しいですね」

 小さな頃から、ずっとお仕えして来ましたから。そう付け足す。頭をボリボリ掻きながら、ダグラスが言った。


「そりゃまだ大分先の話みたいだぞ。白野坊やはお前さんに、まだまだおんぶに抱っこで居て欲しいらしいからな」

 その声に。朱里が視界を覆っていたタオルを取って、ダグラスを見上げた。意外だという顔をする。

「……そうなんですか?」

「どう見たってそうだろうよ」


 あの歳で、白野が何一つ身の回りのことも出来ないと言うのは、本人が意図的にやっているとしか思えない。そうすれば、朱里をずっと自分の傍に引き留めておけるとでも思っているのだろう。大したガキの発想だ。しかし、まぁ……

 ベッドの中から、自分を見上げている男を見る。


 どっちもどっちなんだから、こりゃあしょうがねぇよなぁ


「ああ、しくじった」

「何だよ、どうした?」

 朱里が不意につぶやいた。ダグラスが訊く。

「今日は、白野様にお休み前のホットミルクをお持ちするのを忘れてしまいました」

 あのなぁ~、と頭を抱える。

「お前はヒナにエサを運ぶ親鳥か!? 過保護癖も大概にしとけ! お前があんまり甘やかすから、坊やは何時まで経っても、何一つ知らないガキなんだ!」


 それに。

 朱里が笑った。きっぱりと否定する。

「そんな事はありません。あの方の方が私より、ずっと何でも知っている。遙かな先まで。……彼が一番大人なんです」


■■エピローグ


 コンコン……、と遠慮がちなノックの音が響いた。ぼんやりと追っていた活字から目を上げて、「どうぞ」と答える。声に促されて入ってきたのは白野だった。ベッドの中で、ヘッドボードに立てかけた大きな枕を背もたれに、本を読んでいた朱里に向かってこう言った。


「小鳥ちゃんがね、何か夕飯に食べたいものはありますか、って?」

「何なら美味しく作れますか? と、逆に聞き返したい所ですが。……止めておいた方が賢明でしょうね。フライパン片手に殴りに来られても困ります」

 そう言って微笑う。熱は大方下がったが、まだ多少頭がふらつく。小鳥たちの言うことを聞いて、明日くらいまでは大人しくしていた方が賢明なようだ。何事も

らせると禄な事にはならない。


「小鳥ちゃん、朱里の分まで一生懸命頑張ってるよ」

「そうですね。献立は何でも良いから、健闘を祈る、と伝えて下さいますか?」

「うん」


「……?」

 用事が済んでも、立ち去る様子のない少年を、朱里が見返す。どうなさいました? と、目で問いかける。

「……頭、まだ痛む?」

「いいえ、もう」

「熱は?」

「大丈夫ですよ」

 静かに微笑みを浮かべているが、やはりまだいつもの怜悧さに欠ける。


「……何の本、読んでたの?」

「ああ。『ドン・キホーテ』です。何だか懐かしくて、読み返したくなりました」

 膝に載せたままだった本に目を落とす。騎士ドン・キホーテとその従者サンチョ・パンサのちょっと滑稽な夢と冒険の物語だ。同じ主従でも、違えば違うものだな、と思う。別にこうなりたいとは思わないが。


 出窓の上に置かれた卓上時計の振り子が揺れた。チーンチーンチーンと澄んだ音を響かせて、時を告げる。まだ、3時か。今日は何故だか妙に時間が間延びする。本を読める時間が増えたのは良いが、どうも限られた時間をやりくりしている時の方が、内容が面白く感じるのはどうしたものか。パラパラと戯れにページを繰る。


「……今日は、お菓子も焼けませんでしたね。すみません」

「そんなの、いいよ」

 テーブルの上に果物籠が置いてある。セント伯爵が見舞いにと届けてくれたものだ。横には果物ナイフと皿。籠の中からリンゴの一つを選んで皮を剥こうとしている白野に気づいて、声を掛けた。

「お食べになるのなら、剥きましょうか」

「いい、出来る」

 そう言ってはみたものの、言葉と裏腹にその手先はとても心許ない。おぼつかない手つきで、ほとんど削るような仕草で赤いリンゴと格闘している。

 昔と変わらず、絵筆を動かすこと以外には、てんで不器用なままの主の姿に苦笑する。


「指を切りますよ。そら、お寄越しなさい」

 手を差しだして、そう促す。白野がちょっと口惜しげに、それでも今度は素直にナイフを渡した。


 確かにダグラスが言う通り、自分はこの少年を甘やかし過ぎなのだろう。しかし、そうしないで居られる程、私は強くない。彼を掌中に置くことで慰められているのは……寧ろ、私だ。そう、思う。


 本の代わりに皿を膝に置いて、その上で朱里がリンゴを剥き始める。

 クルクルと手の中でリンゴが回るのに連れて、赤い皮が帯のように伸びていく。白野は近くにあった椅子を引きずって来てベットの脇に寄せると、その椅子に行儀悪く逆向きに座った。馬乗りで背もたれに顎を載せた姿勢で、じっと朱里の器用な手つきを見詰めている。

「フフ……」

 手元に視線を落としたままで、朱里が微笑う。

「……?」

「そうしておいでだと、子どもの頃に戻られたようだ」


 独り言にも似た呟きは、けしてからかっている口調ではなかったが、言われた少年は椅子の上で、少し口唇を尖らせる。

「今だって、子どもだと思ってるクセに」

「まさか。……はい、剥けましたよ」

 途中まで白野が剥いたので、端が少し、いびつなそれ。切り分けられたリンゴを一つ取ると、白野はそれを朱里の口元に持っていく。朱里が少し戸惑った色を浮かべた。

「食べて。風邪、早く治して」

 蒼い瞳がそう告げる。僕の執事になってと、せがんで来たあの日と同じ真摯な様子で。


「……はい」

 男の顔がほころんだ。もうしばらく、この平穏な時間が続くといい……。


 幸福画廊

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩はたいても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。

 幸福画廊

 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。

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