第8話 裸婦スケッチ
■■プロローグ
雨が降る降る 雨が降る。
雨が降る日は天気が悪い けして晴れではないそうだ。
■■1
お昼前から、今にも泣き出しそうな空模様。どんよりと重たげな灰色の雲の固まりを、一人の少年が窓越しに見上げている。室内には壁を飾る沢山の絵画と、落ち着きのある調度品が趣味良く並べられ、互いを引き立てあっていた。
それにしても、絵が多い。巷で幸福画廊と称される、とある屋敷の居間である。
いつも通りに、細身で丈の長い白の中国服を身につけて、少年はぼんやりと雲の行方を目で追っている。線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛が、ちょっとだけ育ちすぎの天使といった風情だが、何よりも印象的なのは、蒼い水晶玉のような彼の澄んだ瞳である。まだ年若いが、この館の主である彼は、その名前を
ほのかに、良い香りが漂ってくる。それが昼食のシチューパイが焼ける匂いだと白野は知っていた。朝の会話で執事とメイドが話しているのを聞くともなしに聞いていたので。
ポツ、ポツと、窓ガラスに水滴が当たる。とうとう降り始めた。最近は本当に雨が多い。空は何時でも泣きっ面だ。
「きゃああー パイがバクハツしてるぅー」
不意に。キッチンの方から、そんな悲鳴が聞こえてきた。こちらも空と同様、涙声である。メイドの
「どうしよう、どうしようー ぎゃあ、熱っちぃ!」
ガッシャーン、と何かの割れる音。そして、更なる叫び声。
「……」 少年は、ゆっくりと騒ぎの方に目線を移した。次いで小さくクスリと笑う。窓際から離れるとキッチンに続くドアに向かった。こういう事態の収拾役を果たすべき執事の
「小鳥ちゃん、大丈夫?」
「白野様ぁ~」
ドアの隙間からひょこっと顔を覗かせる。呼ばれた娘が、何とも言えぬ情けない声を上げつつ振り返った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。メモに書いてあった通りにやったつもりなんですけど、でも」 それなのに、こんな惨状になっちゃいました~。小鳥は半ベソ顔になっている。
室内に一歩踏み入れた白野の青い双眸が、心持ち大きく見開かれた。確かに、なかなかの惨状と言えた。シチューパイが無惨なコトになっている。折角のパイ生地の帽子は跡形もなく吹き飛んでいて、中身は半分以下にまで減っていた。当然ながら、オーブンの中はパイから飛び散ったシチューでベチョベチョのドロドロ。その上、何かの弾みにコップまで落としたらしく、床は水浸しでその中にはガラスの破片が散らばっている。
白野は自慢ではないが、この館の主にして画家で、家事の一切は執事とメイド任せ。当然、料理なんか作ったことがなかったので、こうしてキッチンに入る事自体、稀なのだが、それにしたって、こういう状態のキッチンというのは珍しかった。いつも整然と調理器具や食器が並べられ、清潔感に満ちているのがキッチンだと思っていたのだ。と言うか、これまでそういうキッチンしか見たことがなかった。ある意味新鮮な驚きを覚える。
「えーっと、怪我とかしてない?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、お昼ご飯を台無しにしっちゃって」
「それはイイんだけど……」
んーっと、僕は何をしたら良いんだろう?
完璧主義な万能執事の手で、超過保護に育てられた所為か、おっとりが過ぎるのが、この少年の長所であり、また短所でもあるのだった。知らず、ただつっ立ったまま、しげしげと小鳥を見る事になる。小鳥の頬がほのかに赤く染まっていった。
ドアのチャイムが鳴らされた。
「きゃ、誰か来た」
ガラスの破片を拾っていた小鳥が立ち上がったが、玄関に向かおうとして、水浸しの床に阻まれ、躊躇する。
「ああ、いいよ。僕が出るから」
手、切らないようにね。そう言い置いて玄関に向かう。
シチューパイがバクハツする食べ物だなんて事も、今日初めて知った。小鳥ちゃんはいつも新たな発見を与えてくれるなぁ、そう思う。
「よぉ、坊や。お前さんがお出迎えとは、珍しいな」
「ダグラス刑事」
扉を開けると、頭や肩に掛かった雨の滴を払いながら、ダグラスが入ってくる。急に雨になったんで雨宿りに来た、などと言っているが、少し離れた車止めにはちゃっかりと彼の車が停められていて、何をか況わんやふざけた事をや、である。暗黙の了解で、今日もまたまた食事時を狙ってやって来たらしい。
「良い匂いがしてるなー」 くんくんと鼻をヒクつかせる。
「俺もご相伴に預かれるかなー」
にんまりと笑う。こういう押しの強さと言うか、図々しさが嫌味になっていない辺り、ダグラスという男は、とても得な性格をしている。
「それが、小鳥ちゃんがパイをバクハツさせちゃってて……」
「あーん? それで執事が出てこないのか?」
「ううん、朱里は今、居ないんだよ」
「そりゃ、珍しい」
二人で歩きながら話す。キッチンに入ると、ダグラスは口をあんぐりと開けた。
「うーん、なるほど。惨状だ」
「うっさいわねぇ。バカ刑事、出てけ」
小鳥が、むくれっ面で言う。涙目のクセに強気の口調がアンバランスで、そこら辺をダグラスは可愛いなーと思っている。痘痕も靨と言う奴である。
「まあまあ、手伝ってやっから。……それで、執事は何処行ったって?」
水たまりをひょい、と飛び越して、棚のキッチンペーパーを掴む。それを大量に引き出して、先ずはオーブンの扉に付いた汚れを拭う。
「セント伯爵から電話があってね、朝から出掛けた」
白野も今度は屈み込んで、ガラスの欠片を拾い始める。小鳥が慌てて止めた。
「白野様、ご主人様がそんなコトしちゃイケナイです。止めて下さい。わたし、怒られちゃいますから」
それに。白野が顔を上げた。少し首が右に傾ぐ。「怒るって、朱里が?」
そう不思議そうに真顔で尋ねられると、ちょっと困る。
「えーっと。いつも怒られるような事ばっかりやってるわたしが、モチロン悪いんですけど。でも、あの、そのぉ……」
例え根は悪くない男だと分かっていても、陰険執事の嫌味攻撃は、やっぱりちょっとコワイのである。
「朱里は、滅多な事じゃあ怒らないと思うけど」
そりゃあ、白野様にとってはそうでしょうとも! と、心の中で小鳥は思う。朱里という男は、自他共に認める白野至上主義の執事なのだから。彼が白野を怒っている図なんて、想像もつかない。地球が滅亡したってあり得そうにない話だ。第一、白野自身、人を怒らせるような性格ではない。小鳥のようにドジでもないし、のんびりではあったがノロマではなかった。
黙っている小鳥に、何を思ったのか、白野がこう付け足した。
「朱里が小鳥ちゃんにいつもお小言言ってるアレはね、からかってるって言うんだよ」
「……」
「わっはっは」
二の句が継げない小鳥の代わりに、大笑いしたのはダグラスだった。
「一本取られたな、小鳥。そうだそうだ、ありゃあからかわれてるんだよなぁ。うんうん」
「よっぽど悪いと思います!」 と、小鳥は言った。
「あー、バクハツはしてるが、味は良いぜ、このシチュー」
ダグラスが、指に付いたソースを舐めながら言う。
「執事の料理に負けないくらい、旨いと思うぞ」
「下ごしらえは、彼がやって行ってくれたのよ。わたしはただ、冷蔵庫から出して、オーブンに入れて焼くだけだったの。メモにあった通りの温度でセットして、書かれてた通りの時間で焼いたんだけど……」
成る程、道理で旨いはずだ。小鳥の慰め作戦、失敗である。
「朝から出掛けたんだろう? それなのに昼飯の用意までして行きやがるのか、あいつは」
つくづくと、マメな執事である。頭が下がる。
「通訳のピンチヒッターを頼まれたんですって」
「へぇー、それはそれは」 俺なんか、母国語一つにでも堪能とは言えねぇぞ。更に深く頭が下がる。
「おい、坊や。そっちのテーブルの下にも欠片が飛んでるぞ」
「あ、ホントだ」
もそもそとテーブルの下に白野が潜る。欠片を拾って戻ってくる。
「お、気を付けろ、頭……」
ゴン! っと、鈍い音が響いた。更に災難な事に、振動でテーブルの上にあった紅茶の缶が倒れる。小鳥がフタを閉め忘れていたらしいそれの中身が、後頭部を押さえる少年の上に降り注いだ。
「白野様……」
「……痛い。……何か降ってきた」
茶葉まみれの頭を、痛そうにさする。プルプルッと頭を振ると、髪に絡んでいた茶葉が四方八方に飛び散った。
……うーむ、何でわざわざ立ち上がってから頭を振るかな? この坊やは。
惨状が更に増してしまった。まだ拭き取っていない床の水溜まりに浮かぶ紅茶の葉っぱが、水分を吸って膨張を始め、物の哀れを漂わせている。
「おいおい、何時からコメディ劇場になったんだぁ、ここは?」
朱里はよくもこの二人の面倒を見ているもんだなぁ。しみじみと感心する。本心から頭が下がった。
■■2
ようやっと、片づけを済ませて、何とか食事にこぎ着けた。とにかく、パンだけは沢山あるのが救いである。紅茶は切らせてしまったので、小鳥が自分用に買い置きしているインスタントコーヒーを飲むことにした。後は、バターとジャムと、少なくはなっているが、シチューも温め直してみた。三人で分けたら、ほんの一口ずつしかないが。
「ごめんなさい、こんなご飯で」
「まあ、たまにはイイんじゃねぇか、なぁ坊や?」
「うん。インスタントコーヒーって美味しいんだね、僕、初めて飲んだよ。お茶っ葉被ったのも初めてだったし。ちょっと面白かった」
思い出して、クスクス笑う白野に、笑い事かなぁ、と小鳥は思う。コーヒーもう一杯飲みたいと言う白野に、俺もとダグラスが追従する。小鳥はお湯を沸かす為に席を立った。
そう言えば、ガラスの欠片を拾ったのも初めてかも、そう付け足す白野に、ダグラスが呆れる。
「初めての多い坊やだなー」
若い内にやりたい事は何でもやっておかないと、後で後悔するんだぞ。執事任せにばっかりしてるんじゃダメだろう、と爺むさく諭す。
「やりたい事って……あんまり思いつかないな」
「若いクセに、枯れたこと抜かすなよ。好きなものとかあるだろう」
「好きなのは、朱里」
「……」
「あ、小鳥ちゃんもダグラス刑事も好きだよ、うん」
いや、そう言う事じゃなく……。
いかん。執事の刷り込みが、よもやここまでとは。オソロシイ。
「朱里は何でも出来て、羨ましい」
「坊やだって、何でもやってみればいいだろう」
「初めて会った時から、色んな事知ってて、教えてくれて」
僕の描いた絵を上手だって褒めてくれて、ずっといっしょに居るって言ってくれた。
「……本当はね、一つだけあるんだ。やりたい事」
「ん?」
「絵がね、描きたい」
何だよ、そんなの、とダグラスが笑う。
「幾らでも描けばイイだろ? お前さんは画家だ」
「……うん、そう言えばそうだよね。僕、画家だもんね」
「おいおい。自分の職を忘れてどうするよ」
そうだよね、と白野も笑う。
「コーヒー、お待ちどう様」
小鳥が、お盆を抱えて戻ってきた。上には湯気の立つカップが三つ。
「はい、どうぞ、白野様」
「うん。……ありがとう、小鳥ちゃん」
「コーヒーのお代わりくらい、何杯でも言いつけて下さい。これ位ならもう失敗しないで作れる自信がありますから」 胸を張って答える。
「もう、ってお前。インスタントコーヒーの失敗って、どんなんだよ、小鳥?」
「うっさい、黙れ」
「俺と坊やで、どうしてそうも態度が豹変するんだよー」
「顔と優しさが違うでしょ?」
「顔はともかく、俺は優しい男だろーが。さっき、掃除を手伝ってやったのをもう忘れたのか、この野郎」
「女の子を野郎呼ばわりする人なんて、ちっとも優しくないと思いまーす」
「全く、口の減らないアマっ子だ」
「何ですってー」
「ちゃんと女呼ばわりしてやっただろーが」
こんな風な、たわいない言い合いや笑い声を、当たり前のようにこの館に運び込んで来てくれたのは、小鳥ちゃんだ。感謝している。本当にとても。ダグラス刑事も良い人だ。
「悔しかったら、白野様みたいに、優しく微笑んでみなさいよ。このバカチン」
「俺様のニヒルな微笑みの価値が分からないとは、困ったもんだぜ。このニブチン」
二人は白野の物思いも知らずに、激しい舌戦を繰り広げている。でも、僕は、ちっとも優しくなんかないんだけどな。小鳥が煎れてくれたコーヒーを啜りながら、そう思う。
ポーンと、またベルが鳴った。
「えぇ、またお客様?」
小鳥が戸惑ったように言う。この館を訪れる客は、皆無ではないが、そう多くもない。ダグラスの場合は、客は客でもほぼ食客だ。敏腕執事の留守中に限って、ドアベルが鳴るのはどういう事だ。大事なお客様だったら困るなぁ。そう思いながら、廊下を急ぐ。
「はい。お待たせ致しました」
教えられたように、静かに丁寧に扉を開ける。
雨の中、真っ赤な華が咲いたような錯覚に捕らわれる。深紅のドレスを身に纏った、美しい女性が立っていた。甘く濃密な香水の香りが鼻孔をくすぐる。
「貴女は……!」
「お久しぶりね、お嬢さん」
映画女優のナタリー・サンクレアが、そこに居た。
「えっと、申し訳ありません。お茶をお出ししたいんですけど、実は今、インスタントコーヒーしかなくってですね、あの、そのー」
小鳥が、ソファーに優雅に腰を下ろしたナタリーに言う。しどろもどろだ。
「僕がさっき、紅茶の缶を落としちゃったんだよ。朱里も居ないし、どうしようもない。勘弁して」
白野が助け船を出す。
「あら? 別にお茶を飲みたくって来たわけではありませんもの。お気になさらないで」
アポも取らずに、突然参りましたし。そう、ナタリーが微笑む。
「でも……そう。あの素敵な執事さんはお留守でしたの。でも、その方がかえって好都合ですわね。アポを取らなかったのは、きっと彼に追い返されてしまうと思っていたからなんですもの」
「貴女がこの画廊に来るのは、これでもう三度目だものね。そんな人は今まで一人も居なかったから。……胡散臭いとは僕も思うよ」
「フフ……」
あけすけに言う少年に、女は含みのある声で笑う。
例え、インスタントコーヒーでも、やっぱり出さないよりは出した方が良いだろうか?
小鳥はキッチンの方に行く。丁度ダグラスが帰ろうとしている所だった。
「ちょっと待ってよ、帰んないで!」
「何で? 客が来たんだろ?」
「だってだって、わたし一人でどうしろって言うのよー」
「って、俺が居たから何だってんだよ。第一こっちにも仕事が。既に昼休み大幅超過なんだぞ」
「ダメー、お願いだから帰っちゃダメー」 しっかりと袖口を掴む。ぜーったいに放すものか。
「何だよ、ヤバい客なのか? 女の声だと思ったが」
「ナタリーなのよ。あの女優のナタリー・サンクレア。ほら、以前貴方も会った事あるでしょう? ここで」
ああ、彼女か。道理で何処かで聞き覚えのある声だと思ったぜ、とダグラスが言う。確かに以前、ダグラスも彼女とこの画廊で会ったことがある。まあ会ったと言うよりは垣間見した、という程度の事だったが。
「絵のクレームでも付けられてるのか?」
「それは、まだよく分からないけど。でも、何だかおかしな感じなのよ。ナタリーさんも以前とは随分雰囲気が違ってるし……」
ああ、朱里さんはまだ戻って来ないのだろうか? 彼の帰りが待ち遠しい。
■■3
そぼ振る雨の中、門を出て行く黒塗りの高級車を見送って、長身の男が一礼する。彼が傘を差し掛けている小柄な老人も鷹揚に手を振って別れの合図を送りながら、横に立つ男にこう言った。
「いや、助かったぞ、朱里。感謝しとる」
「いえ。慣れぬ事で至りませんで。氏にはご満足頂けておりましたでしょうか?」
「ああ、万事が上等じゃった。」
セント伯爵が太鼓判を押す。
ここはセント伯爵邸。困り声の伯爵から電話が掛かってきたのは、昨夜。夜もかなり更けた時刻の事だった。大切な遠方からの客人に、美術コレクションを披露する約束をしているが、その為に手配していた通訳が急病で倒れた、と言うのである。
「氏も忙しいお人じゃからな。こっちの都合で予定を入れ替える訳にもいかん」
相応に絵の素養があり、更に氏の母国語に堪能な者で、尚かつそつなく接待をこなせる人材となると、流石においそれとは代わりが見つかる訳もない。老人が、参った参った、と首を振る。
「お前さんが引き受けてくれて、良かったわい」
「伯爵直々のお頼みとあっては、お受けしない訳には参りませんよ。いつも良くして頂いておりますし」
以前、幸福画廊が依頼を受けて、伯爵のために一枚の絵を仕上げた事を縁にして。一体何が気に入ったのか、この老人は何かにつけて、白野に誘いを掛けてくる。海外からの珍しい旅行土産を届けてくれることもちょくちょくだったし、オペラやコンサートの桟敷チケットを回してくれることも多かった。
絵を描く以外で、画廊の一切を取り仕切っている朱里とは商売上の取引もあって、まだまだこの世界を勉強中の彼自身、伯爵を頼りにしている面が大きいのだった。
老人の息子も同然のダグラス刑事とも知己となった今日では、更に親交は増している。朱里のことも気に入っているらしい老人は、その事をとても喜んでいた。
「ダグラスは、ありゃ女好きで、喰い意地がはっておって、口が悪くて、もう果てしなく阿呆っぽいが。……馬鹿ではないんじゃ。まあ、仲良くしてやっておくれ」
そんな老人の言いように、思わず吹き出してしまったのは、まだ記憶に新しい話である。
「おっと。お前さん、わしにばかり傘を差し掛けて。濡れておるではないか。ほれ、さっさと屋敷に入ろう」
「はい」
雨で床が滑りますから、お気を付けて。そう言った朱里を、お前さんもダグラスみたいにわしを爺い扱いしおってからに、と睨み付けた。誰が何処からどう見ても、立派な爺さんの伯爵だが、心はまだまだ若いらしい。
召使いが渡してくれたタオルで、濡れた肩口や袖を拭っていると、メイドがお茶を運んできた。気の張る用事は済んだとばかりに、さっさと室内着に着替えをすませた伯爵が、何故かいそいそとした様子で戻って来る。その手に抱えられている物を見て、朱里が微苦笑を浮かべた。チェス盤だ。
「またですか、伯爵。お好きですねぇ」
「三勝一敗。一引き分けじゃ。わしゃ、五連勝せんと悔しくて眠れん質なんじゃ」
わしの無敗伝説に黒星を付けた責任は取って貰うぞい。そう本気とも冗談とも取れぬ顔で凄まれて、朱里は困り顔でため息をつく。
「私のは手前流ですから。先だってはその所為で勝手がお違いになっただけですよ」
一戦だけならお付き合い致します。そう言う男に、せめて三回勝負と、老人がだだをこねる。
「冗談じゃない」 州の歴代チャンピオンの中に名を連ねておいでの伯爵ですのに、そのお相手をさせられる私の身にもなって下さい。この前ももう一盤もう一盤と引き延ばされて。私はあの後、頭が痛くなりました。
「イヤじゃ、イヤじゃ。わしゃ、お前さんとやりたいんじゃ」
「そんな、小さな子どもみたいに」
「歳を取ると、人は子どもに戻るもんじゃて。……子どもの相手はお得意じゃろうが?」
にんまりと笑う老人の顔。その表情が、誰かさんを思い出させる。
「ダグラス刑事とそっくりな嫌味をおっしゃる。全く、どちらがどちらに似たのです?」
「さぁて、どっちじゃったかのー」
ほれ、さっさと席に着かんか。そう急かされて、覚悟を決めた。三戦以上は絶対に断わるぞと言う、かなり譲歩した覚悟だったが。
「チェックメイト(詰み)」
「参りました」
「ここでのルフト(キングの逃げ道を確保する為、ポーンを前進させる事)は、面白い手じゃたが、もう少しこっちのビショップにも気を配るべきじゃったの」
「坊さんは苦手です。愛情を持てません」
老人が笑う。さて、もう一盤。
しばらく、コツン、カツンと、駒を動かす音だけが響く。やがて老人が口を開いた。
「……チェスという奴は面白いもんで、八×八、六十四マスの市松模様のボードの中に、打ち手の心がよう見える」
「怖いことをおっしゃいます」
「お前さん、あんまり勝つ気がないじゃろう?」
「私が手を抜いているとでも? それは非道いですよ、伯爵」
そう言う意味ではないんじゃが。
言いながら、白がチェック(王手)を掛けてくる。黒がキングを後ろに逃がす。
「ほぉれ、やっぱり攻めて来ん」
闇雲に攻めるばかりが能ではないが、お前さんのは遠慮が過ぎる、と伯爵が言う。それに、私は臆病者なんです、と朱里が笑った。
「……のぅ、朱里や」
「はい?」
「お前さん、今の自分に満足しとるのか? 望めば幾らでも高みを目指せるかと思うが」
「今の暮らしが性に合っています。人付き合いの良い方でもありませんし、人の上に立てるような器でもありません」
「勿体ないのぅ。何ならわしの方で、是非とも雇い入れたいくらいなんじゃが」
「……そうですね。今の職にあぶれたら、お願いに上がります」
「そりゃあ、望み薄じゃなぁ」
「どうですか。先のことは分かりませんよ」
朱里がルークを動かす。白のビショップをとった。そのルークがルークにとられる。続けてクイーンもとられてしまう。中盤でキングを後方に逃がした事が、ここで大きく響いてきている。
「普段のお前さんを見ておると、こういう駒の動きは想像出来んよ。……いやはや、チェスとは偉大なゲームじゃ」 そうは思わんか、朱里?
「伯爵の手は、大らかで且つ大胆ですね。盤面以上の広さをご覧になっているように思えます。お年の功は偉大ですね。……はい、チェックメイト」
あー! と老人が叫ぶ。まさか、まさか。そう来よるとは思わなんだ。
「こいつめ、やりおったな」
私はとても臆病者なので、と、澄まし顔で駒を片づけながら言う。
「負けが込むのも怖いんです」
朱里が笑って立ち上がった。本日の勝負、黒の一勝二敗である。とにかく三戦のノルマは果たしたので、さっさと逃げよう。老人が黒星を増やされておかんむりだ。
■■4
「それで、今日はどうして此処へ?」 白野の問いに、ナタリーが笑った。
「決まっています。絵の依頼に参りましたのよ。幸福画廊に」
幸福画廊
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
ナタリーは、以前、夫と共にこの画廊を訪れた。そうして、二人の幸せな肖像を描いて貰った……筈だった。
「貴女に依頼された絵は、もう描いた、と思うんだけど」
「でも、わたくしは、まだ幸せになっていないんですもの」
ううん、少し違うわね。ご免なさい、貴方の絵を否定しているわけでは決してないのよ。お分かりになってね……と、媚びを含んだ目を向ける。
一度目に絵を描いて貰った時のわたくしは、幸福と夢と希望に満ちていた。それは確かだ。だけど。そう、だけど。
「今はもっと、別の幸せが欲しくなってしまったんですもの」
そう言って、嫣然と女は微笑む。
「ヌード?」
「ええ。お願いしたいのは、わたくしの全裸像」
まだ、公式には発表されておりませんけど、わたくし、新しい映画での主演が内定しておりますの。大作ですわ。奔放で情熱的な恋多き女を演じます。とても官能的な、魔性の女。
前宣伝として、その映画の中で使うヒロインの裸婦像を、とある美術展に先行展示する企画が出ておりますの。話題性はありますわ。物語の中でも重要な役割を持つ絵画ですので、舞台美術の方風情に仕上げて欲しくはありませんでしょう。広報からこの話を伺った時、是非ともこちらで描いて頂こうと思いましたのよ、わたくし。
言いながら、女はスッと、ソファーの上で形の良い足を組み直す。タイトなデザインのスカートが少し捲れた。以前、ここを訪れた彼女は、もっと丈の長い落ち着いた色のスカートをはいていたが。
「貴方の才能はよく存じておりますし、それに何よりもここは幸福画廊ですものね。貴方に描いて頂けたら、映画の成功は約束されたのも同然でしょう」
勿論、代金はそちらの言い値でよろしいわ。わたくしの価値にも関わりますから、どうぞお好きなだけ吊り上げてやって頂戴。……どうせ、映画会社が支払いますしね。
クスクスと嗤う。
「……」
「ねぇ、いかが? これを機に、こちらの名前もさぞ高名になる事でしょう。映画とのタイアップですものね。それにわたくし、こう見えても、美術界にも著名な知人が大勢ございますの。貴方の役に立つ皆さんをご紹介出来ると思うんですけど」
うーむ。何かスゴイ話になってやがるな。結局。帰ることも出来ずに、成り行き上、小鳥と一緒に隣室の会話に聞き耳を立てていたダグラスは、低く呻る。小鳥も低く呟いた。
「……許せない」
「確かに許せんなぁ。あれだけの美女のヌードを素で拝めるなんて、羨ましすぎる。畜生、白野坊やめー」
「このバカ! ドスケベ! そういう話じゃないわよ、スカタン!」
小鳥が居間に飛び込んでいく。突然開いたドアに、白野が蒼い目を大きくして、彼女を見る。
「ダメですよ、白野様!」
「小鳥ちゃん?」
「だって、この人、白野様の絵を利用しようとしてる。幸福画廊の不思議をおもちゃにしてる。そんなの、そんなの絶対にダメ!」
「お嬢さん、わたくしは、白野さんとお話しをしておりますのよ」
「貴女、絶対間違ってる。白野様の絵は、貴女が思ってるような物じゃあないんだから! そりゃあ、お金も貰ってるけど。だけど、それだけで買える物じゃあないんだから!」
女が小鳥の顔を見た。挑戦的だが冷めた瞳だ。
「あら。だったら、こちらの絵は一体何で買えるのかしら? お金で買えない物なんて、元々存在しないもの。そうなのではありませんこと?」
前にわたくしがこの画廊を訪れた時、夫の愛を信じていた時。信じた愛は買えなかったわ。そんなもの、始めから無かったからよ。
「違う! それは貴女が……」
「小鳥ちゃん。もういいから、……下がってて」
白野が、場の雰囲気にそぐわない、とても穏やかな口調で、割って入った。ナタリーの方に向き直って、更に言う。
「描くよ」
「白野様!」
小鳥の言動を、目で制す。
「その代わり、二つ約束してくれる?」
「何かしら?」
「一つは、絵の公開時に幸福画廊の名を一切漏らさないこと。もう一つは、これで貴女からの依頼は最後にすると言うこと。……それで良い?」
女が形の良い眉をちょっと上げた。ほのかに侮蔑の色を滲ませる。
「結構ですわ。……貴方も欲のない方ね」
「それでは、どうぞよろしく」
デッサン描きを始める期日を取り決めて。女は、映画の台本を白野に渡すと、帰っていった。お読みになって絵のイメージを固めておいて下さると嬉しいわ、と言い置いて。
小鳥が、納得の行かない顔つきで、受け取った台本をパラパラと捲る白野に訊く。
「どうして、引き受けちゃったんですか?」
「小鳥ちゃん、あの人のファンだって言ってなかったっけ?」
どうやら、ヒロインの名はスカーレットと言うらしい。ナタリーの深紅のドレスの訳が分かった。結構安直な思いつきだ。
「前はそうでしたけど、でも」 今のナタリー・サンクレアなんか、大嫌い!
「……好き嫌いだけで判断していたら、この画廊は成り立たないよ」
冷めた口調だ。心が冷える。わたし、我が儘を言ってる? わたし、間違ったこと言ってる?
いつも白野様は優しいのに。奇麗な心で、奇麗な心の人達に、奇麗な絵を描いてあげるんだと、そう思っていたのに。
「客商売ってのは、まあ、そういうもんだよな」
良い客もいれば、悪い客だっている。この世の常だ。
「何よ、ダグラス刑事まで……」
鼻の奥がツンとした。じんわりと目頭が熱くなって、視界の中の白野の姿がぶわぁとぼやける。大好きな栗色の巻き毛が見えない。
「白野様があんな人の絵を描くなんて、幻滅です! そんなの幸福画廊じゃない!」
バタバタと駆け出していく。
「おい、待て、小鳥!」
ダグラスが、後を追って行ったが、本気で引き留めようとしたわけでもないらしかった。しばらくすると、玄関先からそのまま引き返してくる。
「あーあ、あいつも直情思考だよな」 頭を掻き掻き、ソファーにどっかりと座り込む。
「風邪ひかないといいけど、小鳥ちゃん」
大丈夫だろ、と応じた。一応傘は持たせたし、多少濡れたからって風邪をひきそうな気温じゃない。
「まあ、頭が冷えたら、戻って来るさ」
そうだね、と呟いた。外はずっと雨だ。どんよりとした重たい空。
「うーん、だが、即答しちまって良かったのか? 執事は反対するんじゃないか? ってか、泡吹いてぶっ倒れるんじゃねぇか?」
坊やがヌードを描くなんて聞いたら。……いかん、想像するだに、かなり笑える。笑ってはいけない雰囲気なのに。
「裸だろうが服を着てようが、絵は絵でしょ?」
その辺り、この少年にとっては、どうでもよい話らしい。思春期真っ盛りの若人がそんな事で良いのだろうか? もうちょっと、恥じらいだとか戸惑いだとか、いっそ弾けた嬉しさだのを大いに示して欲しいものだ。
やはり何処かしら、この坊やはズレている。温室育ちの弊害だ。執事に苦言する必要がある。もし、あいつが今度の絵の依頼に反対するようなら、情操教育の一環として、是非描かせてやれ、と言ってやろう。そんな事を思っていると、白野の方も、いつものクセで小首を右に傾げながら、ちょっと考えるそぶりをした。
「それに。朱里は、反対なんかしないと思うな。……うん、きっと」
■■5
ぼーっと道ばたに膝を抱えて踞っていた。切り揃えた前髪からポトンポトンと雫が垂れる。目線の先の水溜まりには、何処かの車が漏らしていったらしい薄い油膜が張っている。汚い茶色の水溜まりの中で、その部分にだけうっすらとした虹色が見える。虹は虹でも何だかやっぱり汚い、と思う。手に持った傘の先で、水溜まりをぐじゃぐじゃとかき回してやる。虹色が粉砕された。ザマーミロ。一台の車が道を行き過ぎていく。それが、数メートル先で急に停まった。ドアの開く音がした。
「小鳥さんじゃないですか?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。肩口で結わえた長い黒髪、トレードマークの黒いスーツを身につけた長身の男が、車から降りてくる所だった。朱里だ。帰って来たのだ。
ちょっと嬉しくなって、身を起こしかけ、朱里が帰り道に選ぶだろう道筋を、無意識に選んでわざわざ座り込んでいた自分の幼稚さ加減に、ふと気が付いた。つくづくと自分のことが嫌いになる。また、もう一度座り込む。
「どうして、傘を差さないんです? 濡れてますよ」
小鳥の上に降っていた雨が止んだ。朱里が自分の傘を差し掛けたのだ。小鳥のそれは、何故か閉じられたまま、膝の上に載っている。
「……って」
「え?」
聞き取れずに、問い返す。
「頭冷やしたら戻ってこいって。だから、冷やしてる所なの」
なかなか冷えそうにないから。だから。いっそ、こうやれば冷えるかと思った。
「……ほら、お立ちなさい」
腕を引かれる。
「そんな事を言いそうなのは、さしずめダグラス刑事でしょう。何があったのかは知りませんが、頭は充分冷えているように見えます」
「……」 ノロノロと立ち上がる。促されるまま、助手席に座った。扉を閉めると、前を回って、運転席に朱里が戻る。流石にタオルの用意はないな、と独り言を漏らしながら、ハンカチを渡してくれる。
ありがとう、と俯いたまま呟くと、空気が微笑ったように思った。そのまま車がスタートする。帰りはずっと無言だった。頭を冷やしてこい、と言ったダグラスも、黙って運転している朱里も、それぞれ優しいな、と思う。あの人の依頼を受けた白野の事も、頭が冷えた今はやっぱり優しいんだな、と思えてきた。でも別に、あんな人にまで優しくしなくったって、いいのにな……。
「ああ。それで、小鳥さんは天然シャワーを浴びていらしたんですか。全く何事かと思いましたよ。彼女を道ばたで見かけた時は」
今は、まともなシャワーを浴びて、服を着替えている頃だろう。
カー・エアコンの送風口を助手席に向けて調節する。しばらくこうしておけば良い。シートに出来た人型の染み対策を済ませてから車を降りた。ダグラスに持って貰っていた自分の傘を受け取ると、連れだって屋敷の方に歩き出す。
「早めに伯爵とのゲームから逃げ帰れて良かったです。暗くなってきたら、見分けられない所でした」
「うーん。そこまでマジに頭を冷やしとったのか、あいつは」
滝壺勤行でも思い浮かべたのだろうか? それにしたって、そりゃやりすぎだ。ホントに直情思考だなぁ。常識の範疇を超えている。ダグラスは頭を振り振り呻っている。屋敷に戻ると、朱里はてきぱきと、車内を拭くのに使ったタオルだのをランドリーボックスに放り込んだ。通りしなに冷蔵庫からミネラルウォーターの小瓶を取ると、それを飲み飲み戻ってくる。
「これに懲りたら、彼女に滅多なことは言わないことですね。根が恐ろしく素直ですから、バカ正直に実行しますよ。何事も」
「なんつー性格だ。手強い」
「惚れた弱みでしょう。刑事の方がお慣れなさい」
「お前の方が、先に慣れとるじゃないか」
「慣れたくて慣れたわけではありません」
妙なモチを焼き上げないで下さいよ。そう言って、締めていたネクタイの結び目を緩める。そのまま片手を肩に載せて首を回す。コキっと鈍い音がした。
「しかし、貴方も、よくよくここに居はまっていますねぇ。州警はそんなにも暇な職場なんですか?」
いや、俺は帰ろうと思ったんだぜ。思ったんだが、小鳥の奴が。ごにょごにょごにょ。
別に呼び出しも無かったので、まあイイっちゃイイんだが。
「俺たち警察が暇だってコトは、世間がそれだけ平和だってコトだ。さあ、この喜びを分かち合おうではないか、友よ」
「貴方が分かち合いたいのは、夕食でしょう? ですが、今日の献立は小鳥さんが作るんですよ」
「え!?」
先程、彼女に作り方を教えてくれ、と頼まれてしまいました。勝手に見て覚えなさいと言って、これまで逃げていたのですが……しょうがないですね。軽く肩を竦めてみせる。残った水を飲み干した。
「さて。夕飯時にはまだ少し時間がありますし。私はあっちの方の『手強い性格』の人に、ちょっと話を聞いてきます」
天井斜め右側を指す。二階の南側。白野のアトリエの方角だ。
「へぇへぇ」
「全く、たった半日留守にした間に、館では何が起こっていたんですか? ナタリー・サンクレアは来たと言うし、紅茶の缶は空っぽだし、コップの頭数は足りなくなっているし」
「目聡いなー」
「そうでなければ、ここの執事は務まりません」
ごもっとも。
けだし名言だ、とダグラスは思った。
ほどなくして、朱里は小鳥を伴って、階段を降りてきた。エプロンを付けてキッチンに立つ。昼に大失敗したシチューパイの話をしている。
「……大方、パイの中身を見てみたくなって、焼く前に一度生地を剥がしたのでしょう。アレはきっちりと容器に貼り付けておかないと、中身が熱で膨張する時に溢れ出すんです」
流石は朱里だ。まるでその場を見ていたかのように推理する。
「ハイ、やりました。その通りデス」
ごめんなさい。そう謝る小鳥に苦笑する。こうも正直に謝られると、チクリと小言を言う気も失せる。
「いや、いかにも貴女のやりそうな事ですのに、注意しておかなかったのは、私の方も不手際でした。……まあ、何事も失敗しながら覚えるものですよ。お互いに覚悟を決めましょう」
コトコトと鍋が煮立ってくる。
「はい、そこで塩少々」
容器を取って、さじで掬っていると、朱里が止めた。
「それは、砂糖」
「入れ物が似すぎてるんだもの~」 小鳥が常日頃からの不満を口にする。
「確かに似ていますが、小鳥さんが慌てているから間違うんです。貴女の失敗の原因は、何時でも大抵それですよ」
ちょっと落ち着いて行動なさい。別に鍋は逃げませんから、のんびり構えて良いんです。
「お前がそういう教育方針だから、白野坊やはのんびりなのか?」
面白がって見物に来たダグラスが訊く。
「彼のは地です」
「僕がなに?」
とことこ白野までやって来た。ギャラリー多すぎである。どうしよう。
「はい、小鳥さん。見物人が多いからって、そこで一気に舞い上がらない」 鍋をひっくり返さないで下さいね、火傷どころじゃ済みませんよ。
転ばぬ先の杖の如き、執事の台詞であった。これを嫌味と取るか、親切と取るかは判断の難しいところである。慌てず騒がずパニクらず、男の指示通りに頑張ってみたら、何とか料理が形になった。見栄えも味もまずまずの出来映え。それに一番驚いているのが当の小鳥本人で、一人で目を丸くしていた。
■■6
「……やっぱりいらしたんですねぇ、刑事」
「好奇心を抑えきれず。ナタリー・サンクレア、来たんだろう?」
不承不承の感も露わに、出迎えに出て来たげんなり顔に対し、悪びれもせずダグラスが訊く。来るだろうとは思っていたが、やっぱり来た。確かに今日は、ナタリーとの約束の日だった。とは言え、今はもう夜も更けた時刻だ。昼には事件があって、抜け出せなかったらしい。流石に仕事を放り出してまで好奇心を優先する程、馬鹿な男ではないようだ。
「だからって、何もこんな時間にわざわざ……」
「まあまあ。で、来たのか?」
「ええ」
「で? で?」
勢い込んで訊いてくる。ものすごく楽しそうだ。いつも陽気な男だが、こんなに楽しげな様子は見たことがない。小鳥の耳を配慮しているのか、流石にそれでも一応、小声ではある。
「デッサンを終えて、とうにお帰りになりましたよ。また、後日来られます」
「見たのか、見たのか?」
ゴンゴンと肘で小突いてくる腕を、執事の手がはたき落とした。鬱陶しそうに睨め付ける。
「見ませんよ。私はアトリエにご案内しただけで、すぐに部屋を出ましたから」
それに、男が鼻を鳴らす。
「何だ、職務怠慢だぞ、執事」
「見てたら、職権乱用です」
いい加減にしておきなさい。小鳥さんに嫌われても、私は知りませんからね。
朱里が小声でそう言って、こっそりと廊下の方を目で示す。ゲッと思った。小鳥がダグラスに白々とした軽蔑の眼差しを送っている。しまった、奥の部屋に居るとばかり……。
「うーん、しかしお前、めっきり平常心なんだなぁ、つまらねぇ」
俺はもっとこう、違う執事を想像していたんだが。何だか肩すかしを食らった気分だ。こいつには慌てふためくとか、度を失うとか、そういう事がないのだろうか。白野坊やの情緒欠陥は、こいつの所為ではなかろうか。
「裸婦と言うのは、古今東西、絵画には多く用いられてきたモチーフですから。そう驚くほどの話でもないでしょう。……確かにこの画廊に持ち込まれる依頼としては、かなり特異な気はしますが」
主にしろ、この執事にしろ、どうでも良さそうな顔をする。寧ろ何がそこまで気に掛かる? とでも言いたげだ。画家が女の裸を描く。確かにそう言われれば至極当たり前である。取り立てて騒ぐ話ではないかも知れない。ただ、その画家があの白野だと言うから話が変わる。決して彼が若すぎるから、と言うだけの問題でもない。
「で、坊やは?」
「まだ、アトリエで習作を」
「ふーん、熱心じゃないか」
「……そう言う言い方は止めてよね」
小鳥がムッとした声を出す。朱里がため息混じりに窘めた。
「小鳥さんも、そうヌード、ヌードと尖って考えるのはおよしなさい」
白野様が困っていらっしゃいましたよ。今日一日、貴女がむっつり顔だから。
「……だって」 何かが割り切れない。
「あれは彼の仕事です」
「……」 それは確かにそうだけど、そうなんだけど~~~。でも、だけど。なんか、許せない。やっぱ、徹底的に許せない。理性で割り切れる問題ではないのだ。これは感情論である。白野がナタリーの二度目の依頼を引き受けた事は一応納得したつもりだが、これはまた別の次元の問題だ。
「白野様が、無理矢理女性を裸に剥いて絵を描かれている、と言うなら問題ですが、依頼人の希望でしょう? 無問題だと思いますが」
朱里の台詞に、ダグラスと小鳥の目が点になる。
「……お前、サラリとした口調で、どぎついコトを言いやがるなぁ」 今、俺の想像力のヒューズは地の果てまで吹っ飛んだぞ。言われて、朱里も目線を上に上げて、しばし考える顔になる。
「……ああ、確かに。ビジュアルで浮かべるのは、ひどく難しいですね。……どうしてでしょう?」
んなモン、思い浮かべる努力をするな! と、ダグラスが喚いた。
「ん? チェス盤が出てるな。やってたのか?」
棚に置いてある白と黒の駒を見つけて、ダグラスが聞いた。
「白野様が、伯爵邸での一戦を再現してくれ、と仰って」
「ああ、爺さんが憤慨してたな。そう言えば」
あんまり、あの人の血圧を上げてくれるなよ、と睨む。
「やるか。爺さんの雪辱戦だ」
そう言って立ち上がり、何故かキッチンの方に消える。勝手知ったる他人の家、とばかりに、酒の瓶とグラスを抱えて戻ってきた。朱里がチェス盤を用意する。
「トータルで負けたのは、私の方なんですが」
「爺さんに勝っていいのは、俺だけなんだよ」
ダグラスのチェスの腕前は、州警でも七不思議の一つに数えられている程らしい。但し、アルコールが入らないとやる気が出ないと言う困った性癖の為、公式の大会等にはほとんど参加したことがない。最後には酔いつぶれて盤の途中で寝てしまうので、誰とやろうが、毎度一つは試合放棄の黒星が付く。
二人が駒を並べ始める。小鳥が気を利かせて、氷とアーモンドを取ってきた。何時の間にやらこの館では、酒のツマミはアーモンド、というのが定番になってしまっていた。誰が決めたのかは知らないが。
「じゃあ、わたし、先に休みます」
「小鳥にも教えてやろうか」
プルプルと首を振る。駒の動かし方すら覚えられない自信がある。時々、男達がやっているのを見ているが、複雑怪奇、摩訶不思議の世界であった。駒のデザインは、王冠だの馬だの塔だのあって、とても可愛いと思うのだが。
小鳥とほぼ入れ違いに、白野が部屋に入ってきた。普段以上にぼぅっとした様子で、ぽそりと朱里の隣に座る。
「おう、坊や。お疲れだな」
「……さっき、小鳥ちゃんとすれ違ったんだけど、何か急いで逃げてった」
言いながら、小さなため息をつく。チェス盤を挟んで座っている男二人が、顔を見合わせて可笑しげに笑った。
「あー、つまり、そりゃアレだ。白馬に乗った王子様が走り去ったとか、天使が飛んで逃げてったとか。今の小鳥はそういう心境なんだろうよ」
白の駒を進めて、ダグラスがグビッグビっと酒を飲む。朱里もグラスを傾けつつ、その駒を黒でとった。
「僕、そういうのじゃないし……」
「乙女の幻想、って奴だ。まあ許してやれ」
大方、二、三日もすればケロッとしている事だろう。乙女心は逞しいので。
「……くたびれた」
ソファーの上に足を上げると、横向きに朱里の肩を背もたれにして寄り掛かる。ふぅーっと今度は大きなため息をついた。その頭に手が載せられる。
「何か、お飲みになりますか?」
「んー、それがいい」
少年が示したのは、朱里の酒のグラスだった。ダグラスが面白がって飲ませるもので、今ではすっかり味をしめてしまっている。朱里も最近では諦めたらしく、黙って自分の杯を差し出した。それを両手で抱えてチビチビと啜る。
「ちょっとよろしいですか? もう一つグラスを取ってきます」
寄り掛かられていては立ち上がれない。それに即答が返る。
「ダメ」
「……」
栗色巻き毛の後ろ頭を見つめたまま、立ち上がるに立ち上がれない朱里の代わりに、ダグラスが無言で立ち上がった。そしてグラスを取ってくる。もう、それなりに長い付き合いなのだ。このくらいの主従痴話なぞ屁でもない。
ポーンの数がかなり減った。ルークとルークがせめぎ合っている。そこに白のナイトが割って入る。黒のビショップが捨て駒にされた。お前、ホントに坊主に愛情ないなー、とダグラスが大笑いする。
「で、坊や。どうだったんだ?」
「……何が?」
「ナタリー・サンクレアの感想」
そうだなぁ、と小首を傾げる。少し眠たげな、緩慢な口調だ。
「眩しかったよ」
「うん。画家らしい、詩的な美の表現だな」
「ギラギラしてるよ。あの人は」 本当に、すごく疲れる。人それぞれに、幸せや想いの形は違うだなんて、とても当たり前の事なのだけど。
サーッと雨の音が、夜の静寂を縫って響いてくる。
「……ああ、また降り出しましたね」
一様に、顔を上げて窓の向こうを見遣る。白野が小さく呟いた。
「雨が降る日は天気が悪い。けして晴れではないそうだ……」
なんじゃ、そりゃ? と訊くダグラスに、朱里が答える。
「古い詩……ナンセンス用語ですかね? 当たり前だという意味です」
「へぇー」
要のルークが遂にとられた。諦めよく黒がさっさと投了する。
「もう一戦な」
「はいはい……」
静かな雨音の調べの中。時折動かされる駒の音が、メロディの主旋律めいて小さく響く。カツン、コツン。今度の中盤戦は、何時しかクイーンとクイーン、女同士の対決になった。そこに馳せ参じるのは白のナイト。それをルークが待ち受ける。
「……白野様、おやすみになられるのでしたら、上へおいでなさい」
「……」
吐息だけの返事が返る。
「寝ちまったか。今日はこの盤で終わりだな」
「それなら、勝たせて頂かなくては」
「お、珍しく勝負っ気を出してきたな。だが、そうはいかんぞ。返り討ちだ」
「……」 朱里が静かに笑って、駒を動かす。
■■7
館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。
多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。濃い絵の具の臭いが鼻を突く。館の二階の南側。そこは白野のアトリエである。
床にデッサン画が散らばっている。それを一枚一枚、丁寧な手つきで拾い上げては重ねていく。しなやかな腕、目元のアップ、好戦的に微笑む口唇。そして、それらに混ざり合う、女性特有の丸みを帯びた美の曲線たち。
全てを拾い集めると、朱里はそれをテーブルに置いた。ペーパーウエイトをその上に載せる。それから、窓に歩み寄ると、雨だというのに開かれたままの、ガラス窓を閉めようとした。
「閉めないで。香水の匂いがシツコイんだ」
言われて、戸に掛けた手を止めた。苦笑を浮かべる。あれから何度もこの部屋に足を運んで来た、ナタリーの甘く媚びた脂粉の匂いも僅かばかりは感じるが。それよりは長年この部屋に染み込んでいる絵の具のそれの方が、朱里に言わせれば遙かに強い。部屋の方に向き直ると、壁にその背を凭せ掛けた。彼の主は部屋の中央で、大きなカンバスと向かい合っている。
完成したナタリーの裸婦像は、彼女の内面を示すように、挑戦的な野心に満ちた瞳でこちらを見据え、それが白い肉体の艶めかしさと相まって、奇妙な迫力を見る者に与える。映画のクランク・インに間に合うよう、今日これから彼女自身が受け取りに来ることになっていた。
「そんなにあの方がお嫌いなら、こんな依頼などお断わりになればよろしかったのに」
「……」
「あの方は幸福画廊の絵など、信じてはおられません。逆に、だからこそ、何度でもこの館を訪れるのでしょうが……」
幸福画廊の不思議とは、それを信じる事でのみ成り立つ。例え、白野が何枚の絵を描こうと、ナタリー本人に信じる心がない限り、全ては徒労に過ぎないだろう。彼女はたった一枚の絵で、幸福になどなれないのだ。そういう女性だ。永遠に。
「私があの日、館におりましたなら、即座に追い返してやりましたのに。本当に、とても残念です」 そう言って、大仰に芝居がかった仕草で肩を竦めて嘆いてみせる。
白野の蒼い瞳が、そんな男を見つめて訊いた。
「でも、朱里は、それで良かったの?」
その問いに。男の片眉が上がった。訝しげに尋ねる。
「……どういう意味です?」
「だって。朱里は、ナタリー・サンクレアの事、好きでしょう?」
「……」
かなり、長い沈黙があった。
「……はぁぁ?」
アトリエに、頓狂な声が響き渡った。朱里がこんな声を上げるのは、およそ滅多にない事だ。寄り掛かっていた壁からガバッと身を起こし。そしてそのまま呆けた顔で固まってしまう。明晰な頭脳を駆使して、今の主の言葉を分析・解読しようと懸命らしい。が。やがて、それを諦めた。
「……すみません。仰る意味が、全く分からないのですが」
「え? だって、朱里はあの人の絵を隠したから」
「あ……ああ、一度目の依頼だった肖像の下書きの事ですか?」
確かに隠した。それによって、朱里は一つの事実をねじ曲げた。彼女の亡夫には彼女への愛など無かったのだと、でまかせの真実を握らせた。それで白野を怒らせてしまったので、よく覚えている。
「確かにやりましたが。……でも、何故それが、さっきのような結論に繋がるんです?」
「だって、朱里が依頼人の為に何かをするのって、とても珍しかったから」
わざわざ作為を働かせてまで、彼女にとって都合の良い真実を与えてやって。あの人の心の負担を軽くしてやって。だから、朱里はあの人が好きなんだな、と思ったのだ。僕はあの人が苦手だけれど、確かにとても奇麗な人だし。蓼食う虫は好き好きだし、痘痕だって靨だし。それに何と言っても、朱里の嗜好はいつでもかなり屈折している。
「あれって、あの人が好きだから、やったんじゃないの?」 キョトン、とした顔をする。
「……」
「……違う、の?」
「……」
しばし、二人が見つめ合う。
「……クッ」
不意に、男が吹き出した。
「クックック……アーッハッハ」
長身を折り、腹を抱えて笑い続ける。果ては壁までドカドカ叩く。笑いの発作を押さえきれない。
「……な、何事なの?」
この館には珍しすぎる大騒動の物音に、つられて小鳥がやってきた。
ドアを開けて、目の当たりにした光景に、しばしあんぐりと立ちすくむ。
いつも落ち着き払っていて、冷静で、薄笑いは浮かべていても、笑い声など滅多に立てる事のない、あの陰険執事がバカ笑いしている。その上、白野の顔は何故だか真っ赤だ。ふて腐れたような、困ったような、情けないような。何とも形容しがたい表情を浮かべて、笑う執事を上目遣いに睨んでいる。
「クックッ……いや、何でもないんです、小鳥さん」
まだ、笑いを含んだままの声で言う。
「そろそろ、サンクレアさんが絵を取りにいらっしゃる時間でしょう。すみませんが、お茶の用意をしておいて頂けませんか?」
「いいけど……一体どうしたのよ?」
何をそんなに笑ってるの? と尋ねる小鳥に、目尻に滲んだ涙を指で擦りながら、口を開く。
「ああ、つまり……」
言葉を濁す。白野が、言わないでよ、と目で訴えているのが解る。それがまた、更なる可笑しさを誘う。もう一度吹き出してしまいそうになるのを懸命に押さえながら答えた。
「白野様が、とても面白いジョークを披露して下さったんです」
「……まさか、そんな事をお考えだったとは、思いもよりませんでした」
どんなジョーク? と訊く小鳥を無難な話で納得させて追いやって。アトリエの扉をしっかり閉めると、朱里が言った。今度はドアにその身を預ける。長い足を軽く組む。
「私は、また今回もいつもの気まぐれを起こされたものだとばかり」
「だって、朱里は話を聞いても止めなかったし」 だから、ああ、やっぱりな、って。
「止めるも何も。白野様のお決めになる事に、私が反対したことがありますか?」
まるで、白野の真似をするように、首を少し傾けて笑う。
「私が好きな人だと。そう思われたから、あんな依頼を受けたんですか?」
失敗を見咎められた小さな子どものように、しゅんとする。こくりと頷いた少年に「ああ、全く……」と、ため息をつく。
ぼんやり過ぎだとか、どこか抜けているだとか。周囲からは結構なことを言われているが。人の心の機微にだけは恐ろしく聡いこの少年が、どうしてそんな勘違いをしてしまったものかが分からない。コトが恋愛問題だからだろうか? ダグラス刑事の言うように、情緒欠陥でもあるのだろうか? 多少不安になってくる。育児入門書でも読んで然るべきか。いや、思春期心理の文献か。
外は今日もしとしとと雨粒が落ちていて、日中だと言うのにアトリエの中は薄暗い。そう言えば、こんな日には小さかった白野といっしょに、よく散歩に出たりした。二人して雨の日は嫌いではなかった。しっとりと湿り気を含んだぬるい空気は、肌に馴染んで心地よかった。傘を回しながら歩く癖のある少年の所為で、いつも服を濡らされるハメにはなっていたが。
「私があんな女性が好みかどうかなんて、少し考えればお分かりでしょうに」
この幸福画廊の絵を信じられない、ただ利用しようとするだけの人を、私が好きになる筈がないでしょう。
自分で言うのも、なんですが。
「私はね、白野様至上主義の執事なんですよ。本当に」
二人で揃って、絵の前に立つ。
ふむ、と、男が手を顎に置く。
「つまり。言うなれば、これは私のために描かれた絵、という事になる訳ですねぇ」
そう思って見れば、また絵に持つ感慨も変わってくる。しげしげと眺める男に女が嫣然と微笑んでいる。
「描かなきゃ良かった」
むっつりと拗ねた口調に、また吹き出しそうになる。
「まあ、そう仰らず」
今更ですし、と男が言う。
「有り難うございます。とても素晴らしい絵です。ナタリー・サンクレア云々は抜きにして、……ヌードは嫌いじゃありません」
臆面もなく言い切る男に、白野がプッと吹き出した。
「小鳥ちゃんが幻滅だ、って叫ぶと思うな」
「白野様は天使じゃないし、私だって聖人君子じゃありませんよ。乙女の幻想とやらは、空想世界の中でだけ楽しんで頂きたいものです。……ダグラス刑事の為にもね」
刑事なんて、見た目まんまの俗世にまみれた男ですから。恋愛成就への道は遠く険しく厳しいですねぇ。この場に居ないのを良いことに、さんざ男をこき下ろす。
「ダグラス刑事、良い人なのに、どうして小鳥ちゃんと上手く行かないのかなぁ。小鳥ちゃんって、もしかして、ものすごーくメンクイなの?」
白野もそれに追従した。かなり失礼千万な物言いだが、本人がそれに気づいている様子は、勿論ない。
「だけど……」と白野が、ふと考え込む顔になる。やっぱり今一つ納得が行かない、という風で、言う。
「僕、本当に、朱里はあの人を好きなんだと思ったのにな。あの人のこと、憧れてる目で見てたから」
「……」
ふっ、と息を止めた。それから首を巡らせて、横に立つ少年をまじまじと見る。少年もまた蒼い瞳で見上げてくる。水晶玉のような澄んだ瞳。全てを見透かす深い蒼。
「それは、間違っていないよね?」
「全く、貴方様は……」
何を何処まで見据えているのか。大人なのやら子どもなのやら。困ったものだ。計り知れない。
「間違えてないよね、僕?」
「……はい」
朱里が、観念したらしく肯定する。
「憧れと好きとは違うの? 朱里は本当にあの人のことが好きじゃないの?」
「違います」
まあ、私の場合では。
「じゃあ、どうして、あの人の絵を隠したのさ?」
珍しく執拗に、クイクイと袖を引っ張って訊いてくる少年に、男が困った顔をする。しばらく視線を泳がせて何やら逡巡していたが、「ねぇねぇ」と、詰め寄ってくる蒼い瞳に、とうとう根負けしたらしく、半顔を手で押さえると、弱り果てた声でこう言った。
「白野様。先程笑ってしまったことは、とても反省していますから……」
だから、あんまり虐めないでやって下さい。巧いごまかし文句を、ずっと考えているんですが……どうにも浮かんで来ないんです。
少年が可笑しそうに、こちらも声を立てて笑った。
■■8
「素晴らしい出来映えですわ。こちらにお願いした甲斐がありました」
ナタリーが、ほぅーっとその絵に感嘆の吐息を漏らす。いや、自らの美に向けた満足の吐息だろうか。彼女は今日も深紅のドレスに身を包んでいる。薄暗いセピア色のアトリエの中で、彼女の存在だけが際だっていて、奇妙にチグハグで浮いて見える。
「これでもう、こちらとのご縁が切れるだなんて、とても残念過ぎますわ」
暗に、次の依頼をねだるような声で言う。香水の香りが粘りを含んで声に纏わる。
白野は窓際にイーゼルを運んで、もう次の絵を描き始めていた。雨に煙る風景がカンバスの中におぼろに浮かぶ。
「貴女には、僕の絵なんて、ちっとも必要じゃないと思うけど」
「わたくしは、幸福になりたいわ」 もっと、もっと……、と謳うような声で言う。
「僕の絵は、貴女を幸せに出来ない。絶対に」
まあ、随分とナンセンスな事を仰るのね。こちらは幸福画廊でしょうに。女がさも可笑しげに嗤った。
「でも……当たり前のことですわね。絵の中に総てを求めるほど、私の人生はそんなちっぽけなものではありませんもの」
「……」
本当に。幸せと言っても人それぞれで、いつも僕は戸惑ってしまう。何が本当に大切なのか、すぐに見えなくなってしまう。この人はギラギラしてる。眩しすぎて僕には見えない。
「……ねぇ、貴女、雨は好き?」
「嫌いですわ。ジメジメしていて、陰気臭くて」
『雨が降る日は天気が悪い。けして晴れではないそうだ』
雨の日に雨が降るのは当たり前のことで、ジメジメだって、陰気くさいのだって当然で。当たり前のことだけど。……そう言ってしまうのは、何処か寂しい。
「僕は、雨の日が、晴れじゃないから好きなんだけど……」
小さく呟いたその言葉は、多分、彼女には聞こえなかったろう。まあいいや、と白野は思う。人はそれぞれ。生き方も考え方もどれ一つとして同じではなく、それ故にこの世はぐるぐると巡っていくのだそうだから。
「……それでは、そろそろ梱包致しましょうか」
端に控えていた男が、そう言って、ナタリーの絵に手を掛ける。
雨が降る降る。雨が降る。
雨が降る日は天気が悪い。けして晴れではないそうだ。
雨が降る日は天気が悪い。悪いはずだよ。雨が降る……。
もうずっと前、そう朱里が教えてくれた。この一節のナンセンスな詩と共に。
「少々、時間が掛かります。階下でお待ちになりますか?」
丁寧な手つきで絵の梱包作業を始めた男に、ナタリーが答える。
「こちらには、本当に沢山の絵が飾られておりますのね。廊下にもステキな絵が沢山。……折角ですから、少し館の中を拝見させて頂いてもよろしいかしら?」
「どうぞ、ご自由に。ご案内は出来ませんが」
「ありがとう。……どうぞ、お構いなく」 女が優雅な足取りでアトリエを出て行く。
そっと、その部屋に忍び込むと、ナタリーはカーテンの下ろされた薄暗い室内を、足音を忍ばせて歩いた。幾つもの棚が並んだこの館の資料部屋。以前、ナタリーはメイドに案内されてこの部屋に入ったことがあった。その時に開かれていた引き出しの位置はまだ覚えている。右から二番目、そして上から三番目。そっと棚を引くと、そこには丁寧にファイリングされた沢山の画紙の束が納められている。
「……」
少し湿ったカビくさい臭いのする紙の束に、女は顔をしかめながら一枚一枚捲っていく。早く早くと気ばかりが急く。ふとその指先が止まった。これだ、この絵だ。
不意に、声が女に問いかけた。
「お探しの物は見つかりましたか?」
ビクリ、と女の肩が大きく震える。振り返ると、何時の間にそこに来ていたのか、長身の執事がドアにその身を凭せ掛けている。
「ずっと、この部屋に入る機会を窺っていらっしゃったのでしょう。なかなかそのチャンスに恵まれず、さぞヤキモキなさった事でしょうね」 お察し致します、と薄く微笑む。
何しろ、彼女が絵のモデルになっている間中、アトリエ前の廊下では、小鳥がうーうー呻りながら、動物園のクマさながらに行ったり来たりを繰り返していたのだ。どうしようもなかった。彼女は今日の、この最後のチャンスに飛びついた。
メイドの躾がなっていなくて、本当に申し訳ありません。そう形ばかりの詫びを入れてくる男の顔を、女の瞳が睨め付ける。
壁際から身を起こすと、朱里は女に近づいて行った。赤く塗られた指先から、そっと絵を抜き取る。その中には、一人の女性の横顔が描かれている。ナタリーよりも短い髪。彼女によく似た、それでも別の女の顔。それは彼女の妹の肖像。彼女の夫が愛した女。一度目の依頼の折りの下書きだ。
「そんなにも一番が良いですか? 人に負けるということは、それ程、貴女のプライドを傷つけますか?」
女が憎々しげに口を開く。
「ええ、そうよ。あの時は動揺してしまって、この絵をそのままに帰ってしまったけど、その後死ぬほど後悔したわ。この絵を破り捨てて来なかったことをね!」
夫が私よりも妹を選んだなんて、この私が負けただなんて、そんな事は認めない。だからそんな物無かったことにしてやるの。
「さあ、その絵を渡して頂戴!」
男がどことなく、面白そうな口調で語り始める。
「……白野様に言わせると、私は貴女のことが好きなんだそうですよ」
その言葉に、女の形の良い眉が上がる。朱里が肩を竦めてみせる。
「あながち、間違いとも言い切れません。私は貴女に憧れていましたから」
「……まあ、それは光栄ですこと」
一瞬。女は驚いた表情を浮かべたが、すぐに訳知り顔に微笑んだ。そう、わたくしを愛さない男など居ない。当然よ。
朱里はそんな女を見る。
見たくない物には目を塞ぎ、気に染まぬ事には覆いを掛け、自分の都合の良いように、その真実をねじ曲げる。自分の才能と美貌を武器に、ただひたすら高みを目指そうとするこの女。自分だけを愛する女。自分だけしか愛せない女。なんと対照的なことか。私とは。
野心を持つ人は皆、闇雲なまでに貪欲で。その姿は浅ましければ浅ましいほど、いっそ、ひたむきで美しいと思えてくるから、不思議なものだ。人とは自分の持たない物に憧れるものだと言うから。人は自分と正反対の物に惹かれてしまうものだから。
そう。私はあの時、ただ……少しばかり、意地悪をしてやりたくなっただけなのだ。あまりにも彼女が……多分、妬ましかったので。だから、あの時、絵を隠した。
黙ってしまった男に、女は媚びるような目で笑いかける。そっと男に寄り添ってくる。
「憧れだなんて、随分と可愛らしいことをおっしゃるのね」
「それはどうも」
「ふふ、嬉しいわ。……貴方もとってもハンサムよ」
女が両腕を回して抱きついてくる。甘い脂粉の香りがした。紅い口唇が近づいてくる。官能的なその形。
「……しかし」
スッと、女の腕から逃れて、男が言う。
「残念ながら、憧れと好きとは違います」
私は彼女のようにはなれない。……なりたいとも思わない。多くをなど望まない。私には……ただ、現在(いま)だけがあればいい。
手にした絵を見る。少し埃が付いていた。それをフッと息で飛ばす。
「この下書きの絵に代価を支払うことも、貴女のプライドをさぞ傷つけてしまうのでしょうが。こちらも商売ですからね。どうしてもと仰るなら、買い取って頂きます」
第一、持ち逃げは窃盗ですよ。そちらの方が、ずっと貴女の誇りを傷つけませんか?
「……」
茶化された、と思ったのか、女が怒りを露わにして、男の顔を睨み付ける。
なるほど、白野様のおっしゃる通りだ。ギラギラしている。炎のようだ。……やはり、少し憧れる。彼女の映画はきっと成功するだろう。何しろ、彼女が演じる役柄は『スカーレット』なのだから。
梱包されたカンバスを、男が抱え上げる。
ナタリーはもう階下で、この絵が車に積まれるのを待っている。さっさと運んで、お帰り願おう。白野様の台詞ではないが、彼女の相手は確かに疲れる。
「朱里」
窓際で絵筆を動かしている少年が、その手を止めて、部屋を出ようとする執事を呼び止めた。振り返った男に、自分の顎の辺りを指で示して「ココ」と言う。
「口紅、付いてる」
「おっと」
一旦絵を下ろして、自分の顔を拭った。ハンカチに毒々しい赤が移る。心底嫌そうにそれを見る。このハンカチは捨ててしまおう。
「……ホントにあの人のこと、好きじゃないの?」
「違います」 きっぱりと否定する。
白野が小首を右に傾げる。それがゆっくりと左に振られた。
「難しいんだね」
「難しいんです」
ダスト・ボックスに丸めたハンカチを放り投げて。もう一度、絵を抱え直した。
また、絵筆を動かし始めた白野が、小さく詩を口ずさむ。
「雨が降る降る。雨が降る。雨が降る日は天気が悪い。けして晴れではないそうだ……」
「悪かろうと良かろうと、それでも天気は天気ですよ」
男が、出て行きしなに、そう言った。
■■エピローグ
お客様の見送りに出た。白野はアトリエから出ては来なかったが、召使い達はそうも行かない。朱里と小鳥は並んで玄関口に立っている。黙したまま一礼する。
「……ねぇ、あの車に、思いっきりアッカンベーって、してもいい?」
小鳥が、走り出したナタリーの真っ赤なスポーツカーを見ながら言う。その後、出来れば、クソタレ、バカタレ、二度と来るな、ファック・ユー! とかも叫びたい。
「お止めなさい。当画廊の品位を疑われます。第一、女の子がそんな言葉を使ってはいけません」
朱里がしたり顔で戒める。小鳥が不満げに口を尖らせた。うーうーと低く呻る。
「そんなに、彼女が嫌いなんですか?」
「大っっっっ嫌い!」
その即答ぶりに、朱里が笑った。乙女の幻想とは、かくも強く意固地なものか。
「……分かりました」
「やっていいの?」
「どうせなら、塩を撒いておやりなさい。いっそ、盛大にね」 この画廊に訪れるお客様への対応としては、著しく私の信条に反しますが。今回だけは特例として許可します。
「やったー、了解!」
我が意を得たり! とばかりにダーっと一気にキッチンまで走り棚の容器をひっ掴む。そのままドダダダーッと、とって返した。執事の許可が出た以上、小鳥に怖い物はない。撒くぞ、撒くぞ、撒きまくっちゃうぞー。
容器のフタを開け、いざ盛大に撒いてやろうとしたその手を、何故か朱里の手が止めた。とても嫌~~~な既視感が小鳥の胸を過ぎっていく。やっぱり言われた。
「それは、砂糖」
幸福画廊
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩はたいても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
幸福画廊
そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。
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