第5話 クロスゲーム

■■プロローグ


小鳥コトリちゃん……小鳥ちゃん」

 名前を呼ばれて、揺すられて。意識はゆっくり覚醒の水面へと浮上する。何だか少ぅし頭が痛む。額に伸ばそうとしてその存在を意識した指先が、現在触れている寝床のありえない感触を伝えてきた。ザラリ。この感触はコンクリ、剥き出し? ……へ、何で? どうしてわたし、そんな所で寝ているの?

「ぁ、ここは……」

「気が付いた?」

 重い瞼を開けてみる。心配そうに見詰めてくる少年の顔が、見て取れる。

白野シラノ様、わたしってば一体……?」

 小鳥の問いに、白野と呼ばれた少年は少し困ったように、軽く瞳を泳がせた。

「うん。それなんだけど」 小首がちょっとだけ右に傾ぐ。それに連れて彼の栗色の巻き毛も緩やかに揺れた。春のうららかな日差しのようにおっとりとした声が言う。

「僕ら、誘拐されちゃったみたいなんだ」

 頭の中でゆっくり何度も反復してみる。口調に合わぬひどく物騒な台詞のその意味は、小鳥の脳に届くまで、多少の時間を必要とした。


■■1


「少し右側に傾いています……おっと、行きすぎ……ああ、はい。結構」

「ねぇ、こっちの絵、もうちょっと明るい方が周りに映えない?」

 この館には珍しく、朝早くから快活な声が響いている。室内と言わず廊下と言わず、壁という壁に大小多数の絵画が飾られたこの不可思議な屋敷は幸福画廊と呼ばれていた。住人は三人だけ。絵に積もった埃を払ったり、新しいものと掛け替えたり。そんな作業の陣頭指揮を執って、てきぱきと働く執事の朱里シュリと、平行のずれてしまった額の位置を朱里の指示に従って直しているメイドの小鳥。そして。

「どうですか、白野様? えーっと、あ、それ。白野様の横にあるピンクの花の絵、そっちの方が合いません?」

 そんな、額に汗して働く二人の使用人の姿を、興味ありげともなさげともつかぬ様子でぼんやり眺めている、この館の主・白野である。問われて、小鳥が指し示す床と壁の二枚の絵を交互に見比べていたが、すぐににっこり微笑んで頷いた。OKのサイン。

 小鳥はほのかに熱くなる頬を意識した。線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛。まるで白馬の王子様といった雰囲気のこの年若い主は、穏やかで優しい雰囲気と相まって、彼女の敬愛の的なのである。

 着ているものが中国服というのも、ミステリアスで更に良い。細身の丈の長い白の中国服にズボン。その上に乗る天使の如き表情とのコントラスト。誰が何と言おうとすごくイイ。それに「着たきり雀」などと口の悪い事を言ったのは、とある阿呆刑事だったが、小鳥は容赦なく怒りの鉄拳をお見舞いしてやったものだ。美を解さぬ者、野獣死すべし。


「じゃあ、換えちゃいますね」

「ああ、私がやりましょう」

 小鳥には、踏み台の必要な高さの位置に掛けられた額縁を、長身の朱里が造作もなく外す。そこに白野が花の絵を抱えてやってきた。

「白野様、お手が汚れますよ」

「そうですよ、白野様。わたし達で出来ますから」

 二人の召使いの声が重なる。

「二人とも、最近、仲良いんだね」

 ちょっと拗ねたような主人の声に反応したのも、またもや二人同時であった。

「どこがです!?」

 黒い長い髪の毛を肩の辺りで縛っている朱里は、執事と言うには年若く、しかし、その職業に見合うだけの落ち着いた物腰と雰囲気を持っていた。すらりとした長身に相応しい精悍な顔立ちは、女性なら誰でも見惚れてしまいそうな程、丹精でハンサムだ。その上、料理、洗濯、裁縫、その他、家事の全般から、画廊に置ける雑務、処世術に至るまで、全てに置いて優秀・辣腕。なんでもこなす万能執事なのである。小鳥だって、それは認める。

 ええ、その通り。顔と能力は超一流よ。いつも来ているスーツと同じ、黒い羽さえ生やしてなけりゃね。

 朱里の背中にゃ、見えない悪魔の羽がある。この館で住み込みのメイドとして働き始めて早数ヶ月。これはもう、小鳥にとって、絶対の確信に変わりつつある認識なのだった。

「隙さえあれば、わたしを追い出して、路頭に迷わせようとしている陰険執事と、どうやったら仲良くなれるって言うんです?」

「そうですよ。出来うる限りの陰謀と策略を巡らせて小鳥さんを追い払おうと頑張っている私に対し、それはあまりなお言葉です」

 ほら、悪びれもせず全面肯定する辺り、黒い羽どころか尖った尻尾までありそうな……。


「ちょっと。幾ら何でも面と向かって、言って良いことと悪いことがあるんじゃない?」

「左様です。言って良いことと悪いことがございますよ、白野様」

「そっちじゃなくってー」

 クックック。

 白野が可笑しそうに笑い出す。笑いながら、未だ抱えたままの花の絵を、目線で示して男を促す。

「ああ、申し訳ありません。私としたことが」

 慌てて、朱里が受け取った。空いた壁にしっかりと掛ける。柔らかな暖色が、その空間に文字通りの花を添えた。

「……いいね」

「いいですね」

 主人の声に追従する二人の声がまた重なった。今度こそ白野が声を上げて笑い始める。この屋の主が声を立てて笑うのは、かなり珍しいことである。それを知る二人の召使いは、ちょっとフクザツな面持ちで互いに顔を見合わせた。何というか、毒気を抜かれる。

 何か、いつもこのパターンなのよねー。

 気質によく合った、明るく陽気な色の髪、と友人達に褒められた長めのボブを掻き上げながら、小鳥は心の中で苦笑いを浮かべる。摩訶不思議なり、幸福画廊。何のかんのと言いながら、小鳥はこの職場が大好きだったりするのだった。


■■2


 午後のお茶の時間だった。どんなに忙しい時にでも、だからこそお茶の時間にはゆったりとくつろぐ。これが朱里の方針である。今日も彼お手製の茶菓子が並ぶ。舌にとろけるカスタードパイ。

「小鳥さん、最後の一切れ如何です?」

「いいの?」

「どんどん食べて丸々と肥えて頂いた所で、お尻を一蹴り。そのまま転げ転げて門を飛び出し、はいさようなら、という事で」

「いらない!」

 電話が鳴り始める。朱里が立ち上がった。「失礼」 そう言って、応対のため別室に向かう。

「小鳥ちゃん、お食べよ」

「いえ、いいんです」

「もうちょっと太ってるくらいが可愛いと思うよ。若いんだから」

「白野様、それを白野様がおっしゃっても、ゼンゼン説得力ありません……」


 この後は、また大掃除の再開だ。午前中は結局三人で作業したので、思ったよりも随分仕事がはかどった。次は白野のアトリエを片す予定である。この部屋の絵の量がまた、とてつもなく半端じゃない。小鳥は心の中で腕まくりする。体を動かして働くことは、元来嫌いな質ではない。窓越しに見る空は、秋晴れのとても良い天気だ。朝干したお洗濯物、ぱりっと乾いているだろうなー。明日もきっと良いお天気だろうから、シーツとか一気に洗っちゃおうかなー。赤く色づき始めた庭の木々の中に、はためく真っ白なシーツ3枚。ちょっと美しいかもしれない。


「おや、結局食べなかったんですか?」

 電話を終えて戻ってきた男がそう言って笑った。

「折角、貴女のために心を込めて作ったのに」

「ふーんだ、嘘ばっかり」

「本当ですよ。この間シュークリームを焼いた時に、カスタードクリームが大好きだって言ってたでしょう?」

「……」

 朱里の背中にゃ、見えない悪魔の羽がある。その羽の存在に怯えつつも、この男を憎みきれないその訳は……この辺りにあるかも知れない。つくづくと、飴と鞭の使い分けに長けた狡猾執事だと思う。分かってて懐柔されてりゃ世話ないが。

「誰から?」

 小鳥を手伝って、皿やフォークを片づける朱里に白野が問うた。確かに問いかけたくなるくらい、ちょっと長めの電話であった。

「セント伯爵様からです。アイヒマン氏の遺作の件で追加情報を」

 A国天才画家ジェームズ・E・アイヒマン。以前、彼に代わって絵を完成させて欲しい、という依頼を受けて、白野は1枚の絵を描き上げた。何を隠そう、小鳥はその依頼をきっかけに、この画廊で働き始めることになったのだから、とてもよく覚えている。

「あら、あの絵がどうかしたの?」

「売りに出してみたのですよ。出来れば氏の祖国に返したいと思いまして」

 依頼を受けて描かれた絵は、当然、依頼主が引き取っていく。それが幸福画廊でも普通なのだが、この絵には、多少複雑な事情があった。絵の完成と同時に依頼人が永逝してしまったのだ。絵は画廊の元に残された。満足のいく出来映えであった、という証明に氏が絵の片隅に書き記していった、『J・E・アイヒマン』のサインと共に。

「うん、そうよね。ジムさんは祖国の人たちにこそ、あの絵を観て貰いたいって願っている筈だもの。それで絵はもう売れたの?」

「ええ。贋作ではないかとの疑いを掛けられたりもしましたが、結局、サインが決め手になって、真作との評価が下りました。セント伯爵のお力添えもあって、A国に戻ることになりそうです」

「良かった。……えーっと、もしかして安くで買い叩かれちゃった、とか」

 作戦成功、万々歳の電話連絡を受けた、という割には、長身の男の表情は冴えない。

「いえ、そういう事では。私の取り越し苦労だと思います。 ……さあ、さっさと作業を始めましょうか。白野様も、またお手伝い下さるのでしょう?」

 白野がちらりと朱里を見る。そのまま、こくりと頷いた。


■■3


 館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。濃い絵の具の臭いが鼻を突く。主・白野のアトリエである。大きく窓の取られた白い壁。そこから続くテラスには、暫定的に室内から運び出された絵が数点立てかけられている。

 窓の横。部屋の片隅に寄せられたイーゼルの上にも一つ、中くらいのカンバスがあった。

 何故か白い覆いがかけられているそれも、埃を払った方が良いよね、やっぱ。そう思って小鳥が手を伸ばす。

「それはそのままにしておいて」

 下描きのスケッチを整理していた白野が言った。

「え? でも……」

「まだ描きかけなんだ」 そう言って、にっこり微笑む。

 かなり、大きな絵をテラスに運び出そうとしていた朱里も、手を止めてこちらを見た。

「小鳥さん、こちらの方、手伝って下さい」

「はぁい」

 そう言えば、彼女がこのアトリエに入るのは、この館に雇い入れられた日、執事が手ずから案内してくれた、それから二度目なのだった。特に入室を禁じられた覚えもないのに、何故だろう。何となく近寄りがたい気分がするのは、『神聖な作業場』という印象が強いからなのだろうか。

 始めて入り口辺りに立って、この部屋を見回したあの日。どうだったかしら、隅っこに白い布の掛けられた絵なんてあったっけ? うーん、思い出せないなぁ……。

「小鳥さん、手がお留守になってますよ」

「あ、はいはい。ごめんなさーい」

 絵の具箱の整理、絵筆の手入れ、エトセトラ、エトセトラ。まだやることは幾らでもあった。胸に浮かんだ小さな疑問の欠片など、小鳥はすぐに忘れてしまった。


「おっと……」 と、大きく傾いだ額縁を朱里が支える。

「ああ、釘がダメになってますね」

 アトリエの壁の絵も、幾つか掛け換えることにした。前の物より少し号数の大きな物を飾ろうとして、朱里は作業の手を止める。

「小鳥さん、工具箱を持ってきて貰えますか?」

「物置にある緑色の奴ね」

 了解して、部屋を出て行く足音を見送って……。一旦、床に絵を下ろすと、男は手の甲で軽く額の汗を拭った。主人に向かって声を掛ける。

「しばらくここを離れませんか?」

「……」

「セント伯爵からも用心が肝要、と」

「取り越し苦労だって、さっきお前が言ったんだよ」

「ですが、やはり……」

「そうやって……今度は何処に閉じこめるの?」

 開け放された窓から、さぁっと一陣の風が吹き込んでくる。カーテンのはためく影が、つかの間の生を与えられた生き物のごとく、床に踊る。突然垂れ込めた沈黙が重い。

「そのような……」

「あったわよ。えーっと、そこに打つんだっけ?」

 小鳥が工具箱を持って戻ってきた。箱の中身をがちゃがちゃ混ぜくって、太めの釘と金づちを引っ張り出す。

「この大きいのでいいかしら? ……ん? どうかしたの、二人とも?」

 深く俯いた少年と、何より小鳥が戻った時に、一瞬強ばった男の肩が、何だか妙な具合だった。いや、強ばったと感じたのは、見間違いだったかもしれない。

「……いえ、それで結構ですよ。私がやりましょうか?」

 ほら、もういつもの通り、取り澄ました執事の顔の朱里が居る。

「ん、大丈夫。わたし、こういうの得意なの」

 そうなのよね。ここって、建物も住む人もみーんなして何となくさ、取っつきにくいって言うか近寄りがたいって言うか、取り澄ましている感じがする。別につんけんしてるとか高飛車だとか、そんなんじゃないけど、ふと気づくとそこに見えない「壁」が在るような……。

「それに、わたし、ものすごくやりたい気満々だし!」 だからさ、壁に穴。開けてみたくなるじゃない。せめて建物なりとでも。

「何ですか? それは」

「まあまあ、小鳥さんに任せなさいって」

 ルンルン顔で踏み台に登る。位置を定めて、大きく振りかぶって。

 ガン。

「ふぎゃぁぁっ!」

「……誰が自分の指を打ちなさいといいました」

 男二人の苦笑混じりのため息なんて、痛みと闘う小鳥には全く聞こえていなかった。


■■4


「すみません、白野様。わざわざ付き添って頂いて」

「いいんだよ、骨とか変にしてなくて良かったね」

 小鳥の左の人差し指にはぐるぐると包帯が巻かれている。病院からの帰りである。館に着いてからを想像すると、自然と足取りも重くなる。大きなため息が出た。

「あーあ、またイヤミ言われちゃうんだろうなー」

 隣を歩く少年の小首が傾いで、質問の意を示す。大人っぽいのか子供っぽいのか、判定に困る仕草である。そこがステキだと小鳥としては感じる訳だが。

「だって、不機嫌丸出しだったじゃないですか。まあ、わたしが全面的に悪いんですけど。結果的に、残りの作業、全部押しつけちゃったワケなんだし」

 街路樹からはらはらと舞い散る色づいた落ち葉が、石畳の道を赤や黄に染めて美しい。館でのことを思い出してみると、また一つため息がこぼれる。それに呼応したように、赤い葉が鼻先ではらり、と舞った。


「爪が割れてますね」 応急手当をしてくれながら、朱里が言う。

「大丈夫、です」 うう、消毒薬が染みる、染みるぅ。ジンジンする指をぷるぷるさせて、小鳥は懸命に耐えている。

「病院で診て貰った方がいいよ」

「あ、いえ。そんな病院に行くほどではないです」

「ダメだよ。骨折してたり、破傷風になったらどうするの。僕、いっしょに行くからね」

「いえ、白野様は館にいらして下さい。私が付き添いますから」

 少し慌てたように朱里が言う。それに対し、白野は大仰な様子で、作業が中断したままのアトリエをゆっくりと見回して見せる。そして、

「あのね、朱里」

 ゆっくりと、一語一語、噛んで含めるようにこう言った。

「この状況で僕一人がここに残って、何が進展するって言うの?」

「……」

 確かにそうだ。小鳥を基準とするならば、万能執事の作業能力は、力・能率・正確さ共に五割増し、いや、それ以上と言っても言いすぎではない。それに引き替え当主の方は……まあつまり、何事も「おっとり」が過ぎるのである。言うなれば。

「いや、しかし」

 尚も食い下がろうとする執事と主人の目線が交叉する。折れたのは、やはり朱里だった。がっくりと肩を落とす。

「……負けました」

「じゃあ、小鳥ちゃん、すぐに出ようか」

「はぁ」

「あ、白野様」

 勝ったことが嬉しいのか、何時になく性急な主人を呼び止める。

「お召し物が汚れています。新しい物を用意致しますから、お着替えになって行かれて下さい。小鳥さんもね」

 服を着替えて、外へ出る。

「お気を付けて。くれぐれも」 玄関まで見送った朱里がそう言った。


「小鳥ちゃんに怒ってたわけじゃないよ、朱里は」

 秋の石畳をゆっくりと歩く。ちょっと歩調が乱れるのは、赤い落ち葉の上ばかりを選んで歩こうとしているからだ。

 そんな白野に気づいて、小鳥の口元は自然と緩む。そう言えば、ここ最近、彼は全く外出していなかった。その所為だろうか? こんな子供じみたおちゃめをなさるのは。絵を描くのもいいけれど、やっぱり外に出て、新鮮な空気を吸ったり、季節毎に変わっていく景色を眺めたり。そんなことも必要なんだと思う。何と言ったって若いんだし。

「僕を、外に出したくなかったんだ」

「え、どうして?」

 次の赤い落ち葉までは、ちょっと遠かった。勢いを付けてぴょん、と飛ぶ。

「最近、妙な噂が流れてて……っっ!」

 突然だった。

 背後からやって来た黒塗りの車が二台、二人の横で急停車する。間を置かずバラバラと降りてきた男達が、有無を言わさず、二人を車中に押し込めた。そのまま発車。その間数十秒。乱された落ち葉の中に半ば埋もれるように、小鳥が医院で処方された薬の袋だけが残されていた。


■■5


「……小鳥ちゃん?」 白野が困った声を出す。

 何処だか分からぬコンクリ剥き出しの床の上で、二人は向かい合っている。周りから感じる質量と湿気に、ここが地下室なんだと感じた。見回すと、壁の上方に換気用らしい小さな窓が一つある。その窓越しに細長い草の影が揺れているのが見て取れる。外はすっかり暗くなっているようだ。反対側の壁に金属製の扉が見える。天井には裸電球が一つ。


 僕ら、誘拐されちゃったみたいなんだ。頭の中で、告げられた言葉をゆっくり何度も反復して。意味を理解すると同時に黒塗りの車や、突然口を塞がれて男二人に車の中に押し込まれた、その顛末を断片的に思い出す。ああ、そうだ。あの時口を塞がれた布に何か薬が仕込まれていて、わたしは眠らされたんだ。

「だって、白野様。誘拐ってそんな小説みたいなコト……」

 誘拐。その言葉を声に出してみて、唐突に頭の中が異常なほどにクリアになった。急激に一切がはっきりと甦る。走馬燈のように駆け抜ける。ツーンと鼻を突く薬品臭と急速に薄れる意識。自分を拘束する男達の恐ろしいほど大きな影。それらの恐怖が怒濤のごとく一気に押し寄せてくる。小鳥の身体は瘧のように、カタカタと震えた。

 ふわっと。

 柔らかい絹の感触が、頬の辺りに触れた。温かい。

 白野が小鳥を抱きしめていた。あやすように頭を撫でる。

 自分よりもほんの少しだけ背が高いだけの少年だと思っていたのに、包み込む腕は想像よりもずっと大きい。

「……大丈夫?」

 のんびりとしたいつも通りの口調が、この状況下にそぐわな過ぎる。それをわたしは怒るべき? それとも喜ぶべきかしら? そっと目を閉じる。大きく息を吸い込んで、ほぅーっと深く吐き出してみる。そうだ、怯えたしてる時じゃない。そんな事は何時だって出来る。何もかも、全てが自分の力ではどうしようもないんだって、乗り越えられない壁なんだってそう気づいた時に。その時、好きなだけ泣いたり喚いたりすればいいんだ。私はまだ絶望を宣告された訳じゃない。

「……ラノ様」

 しまった。ちょっと涙声になっちゃった。小鳥は自分を叱咤する。

「どうしてこんなコトになっちゃっているんですかぁ?」

 顔を上げる。彼は理由を知っているはずだ。そんな妙な確信がある。

「多分、なんだけど」

 言いながら、少年の目が軽く宙を泳ぐ。言葉を選んでいるらしい。

「僕は『贋作画家』だと思われてる」

「は?」

「えっと、話すと長いんで面倒臭いんだけど、とにかくそんな『噂』があって、その所為で……」 そこで、ひょいっと首を傾げる。巻き毛がぽわんと波打った。

「誘拐されちゃった」

 いや、ここで悩殺スマイルを浮かべられたからって、どうしろと言うのだ? と言うか、話は全く見えないではないか。

「噂って何なんです? 一番重要な部分をはしょらないで下さいよ!」

「朱里が居れば、代わりに説明してくれるのになぁ」

「……白野様、わたし今、ものすごく泣きたい気分です」

 目の前に立ちはだかる壁。その前にとんだ伏兵が居た。そんな気分の小鳥であった。


■■6


「えーっと、つまり」

 口の重い白野から、ひきづり出した話の断片をまとめてみると、こうなる。

 A国屈指の天才画家として名高い、ジェームズ・E・アイヒマンの遺作の存在が明かにされた時、芸術関係者の誰もが一様に不信の声を上げた。突然何者かに銃撃され、意識不明のまま世界中に惜しまれつつ永逝した画家の遺作が、今頃になってA国とは遠く離れた小国で突然売りに出されたのだ。贋作だろうと当初全く画壇に相手にされなかった事は至極当然の事であった。しかし、美術品コレクターとして著名なセント伯爵が仲介人に立っていたこと。A国在住の弟子からの証言で、未完成ではあったがとても似た構図の絵がアイヒマン氏のアトリエに存在したこと。絵の隅に入れられたサインが確かに氏の直筆であるとほぼ証明されたことなどを受け、にわかに、真作か否かの論争が激しさを増すことになるのである。セント伯爵が本当の売り主の名を決して語ろうとしない所も、議論を盛り上げるのに一役買った。

 結局、真作を想定した値でA国自身が買い取り、国民に対して広く公開する。という事で、この論争は一応の決着を見る。それは彼の死の直後から噂されていた通り、反政府活動を支援していた氏を狙撃したのがA国政府関係者であったことが露呈した為、世論を意識した政府による苦肉の策であったとも言われている。

「でも、やっぱり贋作説を唱え続ける人たちも、一部には居たワケですね?」

「うん。氏のアトリエにあった筈の絵がどういう経緯でこの国に来たのか? 超常現象でも起きない限り、当時戒厳令下だった国からの作品の持ち出しはムリだって」

「……『超常現象』でしたケドねぇ」

 アレは確かにオカルトだった。アイヒマンは白野に自分の遺作の代行を依頼せんが為、何と『生き霊』となってはるばる海を渡って来たのである。彼のことは好きだったが、出来ればもう会いに来て欲しくはないと小鳥は思う。切実に。

 そして。贋作説を打ち立てる人たちの間で何時しかこんな噂が囁かれ始めるのだ。

 『凄腕の贋作師がこの国に居る』

 何せ、モノは世界中の有識者、いや、一国の政府すら煙に巻くほどの腕前を持つ贋作師である。噂には尾ひれ背びれまで付いて更に広まっていく。しかしまあ、この辺りまではさしたる実害はない、と言うか。実際、絵を売りに出した当事者である幸福画廊にとって、知ったことではなかったのである。事実、この件の全てを賄っていた朱里自身、ほくほく顔でいたらしい。その形勢がにわかに泡立つのは、その中に、こんな噂が加味された時からであった。

 『今、世間を騒がせている美術窃盗団。彼らが贋作画家を欲している』

 主人至上主義の朱里が、この噂にどれほど心を痛めたか、は想像に難くなかった。なるほど、最近白野様が外出を控えていらしたのにはそういう理由があったのか。一人納得する小鳥であった。


■■7


「お目覚めかな」

 突然声がして、身構える。閉ざされたドアに付けられた小さな窓のフタが開いて、男がこちらを覗き込んでいた。

「わたし達をどうする気よ?」

「威勢の良いお嬢さんだ」

 苦笑を浮かべつつ入ってきたのは、痩せた無精髭の男だった。歳は30代前半? いや、もう少し若いかも知れない。男が中から扉を閉めると、すぐに鍵を掛ける音が聞こえた。外にも仲間がいるらしい。多分見張り役だろう。

「先ず、手荒い手段で君たちをここに招いた非礼をお詫びするよ。自己紹介しておこうか。僕の名前はカバルという。以後お見知りおきを」

 そう言って、存外に人好きのする笑みを浮かべた。

「カバルでもバカルでもどっちでもいいわよ。わたし達を帰してよ」

「ヒドイこと言うなぁ、小鳥君」

「何でわたしの名前……」

「そりゃあ、知ってるさ。沢山調べさせて貰ったからね。幸福画廊の事は」

「不可思議の館、幸福画廊。僕も夢見がちだった頃は憧れを持って噂に耳を傾けたものさ。こんな風に巡り会うことになるなんて、とても残念だよ。特に、君が贋作画家だっただなんてね、がっかりもいいとこだ」

 白野の方をちろりと見る。皮肉っぽいその目つきが小鳥のはらわたを煮えさせた。

「白野様はそんなんじゃないわよ。大体あんたこそ美術窃盗団の一味のクセに。妙な言いがかり付けるんじゃないわよ、盗人猛々しいとはあんたみたいな奴を言うのよ!」

「本当に威勢がいいなぁ」 男が苦笑する。

「まあ、泣かれるより気楽でいいね。それに、こちらが窃盗団だって分かってるのも、話が早くて助かるよ。単刀直入に言おう。白野君、僕らのために一働きしてやっちゃあくれないか?」

「断わる、って言ったら?」

「君みたいな利口な少年は、そんなこと言わないだろう?」

「僕は贋作師じゃないよ」

「うん。でも、だったらどうだって言うのかな?」

 カバルが扉をノックする。合図を待っていたように、扉が開いて、先ず椅子が一脚手渡された。続いて、イーゼル。絵の具箱。無地のカンバス。一つずつ受け取って中に入れながら、先を続ける。

「アイヒマンの絵を描いたのは君だろう? おぉっと、今更違いますなんて言うのはナシだよ。こっちの調べはついてるし、話が長ったらしくなるだけだからね」

 カバルがそう言って、にこりと笑う。イーゼルを手早く組み立て始める。

「氏の遺作としてA国に渡ることになったあの絵、結局その決め手は何だったか君たち聞いてるかい? サインとか、構図とか、さ。色々取りざたされたけど、結局の所『作品の内部から沸き立つような鬼気迫る迫力は、まさしく天才画伯の残した最期の作として相応しい』ってね、真作以上の真作として認められちゃっただけなんだよ。すごい話だよねぇ」

 絵の道具一式に、プラス、毛布が二組。

「要はそれと同じ。別に君が贋作画家だろうが、そうでなかろうが、その辺はどうでもいいのさ。本物と遜色ない程の偽絵を描く力量があれば、それで僕達の用は足りる」

 そうだろう? と、男が笑った。嫌な奴だ、と小鳥は思う。甘言を弄して周りを煙に巻くタイプ。胡散臭いことこの上ない。こいつ、キライ。大キライ。小鳥は胸の内で思いっきりアカンベーをしてやった。


 静かだった。時々、白野の使うスプーンがスープ皿と触れ合う小さな音が聞こえるだけだ。

「小鳥君も冷めない内にお食べ」

 二人分の軽食の盆が並んでいる。カバルが「ああ、すまない。忘れるところだった」などと言って、運ばせた物である。グゥキュルル~。おなかの虫が鳴いてる。聞きとがめたカバルが苦笑する。また鳴いた。小鳥も泣いてしまいたくなる。

「大丈夫だよ。毒なんか入ってないから。まあ、味の保証はしないけどね」

「小鳥ちゃん、食べて」

 白野が口を開いた。確かにハンガーストライキなんかやったって、通じる相手じゃないだろう。どちらかと言うと、白野を困らせるだけな気もする。小鳥は不承不承、自分用のトレイに手を伸ばす。

 美味しくなかった。この数ヶ月、朱里の作るグルメな食卓が当たり前になっていたのだから、無理もない。あーあ、お昼に食べ残したカスタードパイ。こんなことなら、意地を張らずに食べておけば良かったな……あれが今生の食べ納めだったらどうしよう? 哀しい気持ちでそう思う。

 朱里は今頃どうしているのだろう? きっと心配して、真っ青になって大切な主人プラスアルファを捜しているのに違いなかった。でも、幾ら朱里がウルトラ級の超万能執事とは言え、州警察ですらまだ逮捕することが出来ない、美術窃盗犯を単身捜し出して、自分たちを救い出してくれるなどとは、幾ら楽天主義の小鳥の想像力を持ってしても、流石に無理な話に思える。

 ふと、浅黒い男の顔が脳裏に浮かんだ。ダグラス、あの阿呆刑事。あんた一体何やってんのよ。税金泥棒のコンコンチキ。か弱い乙女と善良な美少年が、こんな窮地に立たされてるっていうのに、さっさと悪党どもを逮捕しなさいよ。そしてわたし達を助けてよ!

 いつの間にか、すごい勢いで、トレイに貪り付いていたらしい。一気に空になった皿と小鳥の顔を見比べながら、カバルが「お代わり欲しい?」と訊いてきた。思いっきり、スプーンを投げつけてやった。

 カチャーン、と壁に当たったスプーンが甲高い金属音を立てる。外から男が訊いてきた。

「おい、どうした?」

「いや、何でもない」 カバルがのんびりとスプーンを拾い上げる。

 二人のトレイを取り上げると、男はドアへと足を向ける。

「今夜は君たちもお疲れだろう。絵の制作には明日から取りかかって貰うとして、今日はもう休みなさい。この部屋、見かけは最低だけど、空調は効いてるから寒くないとは思うよ。でも、何かあったら、僕をお呼び」

 あ、そうそう。食事の量、増やすように言っとくよ

 最後に小鳥への嫌味を忘れずに。男が部屋を出て行く。ガチャリと重い錠が下りた。


■■8


 州警・美術窃盗グループ捜査本部。遅々として好転しない捜査状況に、捜査員の焦りも募る。そんな彼らを嘲笑うかのように、先月も新たな被害が出ていた。

「おい、この前のタレ込み、裏は取れたのか?」

「ダメさ、どれもこれもガセネタばかりだ」

「本部長、マスコミに叩かれて、胃炎起こしてるって?」

「あの人、神経細そうだからなぁ~」

 ぐおぉぉ~~~ ぐおぉぉ~~~

 両足を行儀悪く机の上に投げ出して、椅子の上で仮眠を取っていた男を、同僚の声が呼んだ。

「おーい、ダグラス。お客さんだぜ!」

「……ああ~~~ 客ぅ~?」

 頭の後ろで組んでいた腕をほどき、アイマスク代わりに顔の上に載せていた捜査資料をどかして、見る。

 肩口で結わえた長い黒髪、トレードマークの黒いスーツを身につけた長身の男がドアの前に立っていた。幸福画廊と言う、とんでもなく胡散臭い館の中でも特A級に胡散臭い男・執事の朱里だ。但し、菓子作りの腕は超一級。美術窃盗グループ事件の捜査の一環で知り合った。お互いがセント伯爵と知己の仲、ということもあってか、時折気まぐれに出向いた折りには、美味い茶菓子など振る舞ってくれる。メイドに言わせると、主人や自分だけでは食べきれない量の菓子を焼くので、甘党・大喰らいのダグラスは体のいい人間生ゴミ処理機として認識されてるんじゃないか、ってコトだが。まあ、美味いもんが喰えるのなら文句はない。ちなみに、作り手の当人はと言うと、これが大した辛党だそうだ。

「なんだ、誰かと思えば朱里じゃねぇか。とうとうデリバリーに来るほど、茶菓子の処分に困ったのか?」

 目を擦りつつ起きあがる。ふあぁ~ と一つ大あくびをした。

「そう言うことなら、任せとけ。あーっと、先ずは朝のコーヒーブレイクといくか。インスタントだが、あんたも飲むかい?」

 腰の辺りをボリボリ掻きながら、ドアへと向かう。とにかく、洗面所で顔を洗おう。

「……ん、どうしたんだ? あんた。今日はなーんか冴えないぜ?」

 いつも、一分の隙もなく身だしなみを整えている筈の男が、どうもおかしい。ネクタイもよれているし、スーツにも皺が目立つ。何よりも男の目に憔悴の影があった。こちらも思わず真顔になる。

「力を貸して頂きたいのです、ダグラス刑事」 朱里が口早にそう告げる。

「白野様と小鳥さんが誘拐されました」


「つまり何かぁ、お前らはそのアイヒマンって画家の怪しげなブツを売りに出したってんだな? そんでもって、その所為で、いざこざに巻き込まれた、と」

 これまでの経緯をかいつまんで聞いたダグラスは、思い切り頭を抱えたくなった。しかも、自分の育ての親とも言うべきセント伯爵までがこの件に深く関わっているという。頭痛がしてくる。何考えてんだ? あのじーさん。伯爵様の爵位が泣くぜ。

「お前らバカか? 何でそんなヤバイもんに首突っ込むんだ? 幸福画廊ってのはマジにサギなんじゃあねぇだろうな? 第一、何でそんな余所の国の天才画家の遺作とやらを持ってたんだ? 事と次第に寄っちゃあ先ず、てめぇからしょっぴくぞ」

「決して非合法な品ではありません。……まあ、多少非常識な成り行きで私どもの手元にあった品ではありますが。その点は信じて頂いて結構です」 朱里が言う。

 非常識な成り行きって何なんだ? ついつい突っ込みを入れたくなるが、今はぐっと我慢した。

「ま、人命救助が最優先だわな。二人が美術窃盗グループにさらわれたってのは、確実なのか?」

「伯爵から頂いた情報ですので、確かかと」

「マージーかー、畜生ー」

 バリバリと頭を掻きむしる。小鳥の威勢の良い啖呵と白野ののほほん顔が目に浮かぶ。出来ることなら今すぐにでも助けてやりたい。しかし捜査は難航していた。動こうにも動けない、というのが現状なのである。不甲斐ねぇ、と思う。何か突破口は無いのか? 二人に繋がる糸口は? 胸ポケットから煙草を取り出して火を付ける。紫煙が緩やかに立ち上り、天井辺りで渦を巻いた。


■■9


「さあ、お願いしたいのはこの絵だよ。腕によりを掛けて頑張って欲しいな、白野君」

 監禁された状態での不安な夜が明けて、翌朝。朝食が済むと、カバルが一枚の絵を持って現われた。

 白野が示された絵をしげしげと見る。アイヒマンの初期の頃の作品だ。とある資産家の所から盗まれた、という新聞記事を読んだ覚えがあるので分かる。

「こんな大きな絵、描くのには随分日数が要る」

「頑張ってくれれば、さっさと家に帰れるよ」

「ちゃんと帰してくれるのかな?」

「勿論さ」 カバルが笑った。

「何でこの絵の贋作が必要なの? まさか、この先もずっと私たちを監禁して、白野様に盗んだ絵全部の贋作を描かせようって言うんじゃないでしょうね?」

「まさか!」 カバルがまた笑った。

「幾ら僕でもそんな無茶を言う気はないよ。いや、実を言うとね、盗んだ絵にはもうそれぞれに買い手が決まっているんだが」

 この絵だけ二重予約二重予約(二重予約)しちゃってね。

 そう言って、照れ隠しの風で頭を掻いてみせる。

「例え裏家業とは言え。いや、裏家業だからこそ、こういう商売は何事も信用第一なんだよ。約束した商品を引き渡せないとあっては、今後の取引にも差し支える」

「贋作渡して、信用第一も何もないんじゃない?」

「そう! それだよ、小鳥君。問題はまさしくそこなんだ。だからこそ僕は白野君に白羽の矢を立てたってわけさ。贋作以上の贋作を描く事の出来る彼にね」

 我が意を得たり。そう言わんばかりの風情で男は何度も頷いてみせる。オーバーアクションな男だ。陽気と言うより狂気を感じて、小鳥は薄ら寒くなった。思わず一歩後ずさる。そんな小鳥には気づかぬらしく、男はそのまましゃべり続ける。

「僕らは君に最後の望みを託してるんだよ。なぁ、こう考えてみてくれないかな? 君は人を幸福にする絵を描くんだろう? 君が贋作を描いてくれれば僕はとても幸せになれる。勿論僕の仲間もだ。絵を買い取る人物だって大満足。その上、君らも晴れて自由の身になれるんだよ。どうだい、沢山の人が幸せ一杯になれるじゃないか」

 白野は、無関心な風情で服の飾りボタンを弄って遊んでいる。ふと、その指が止まった。ボタンを見詰める。

「君が描く絵として相応しい。そう思わないかい? 高名なる幸福画廊の白野君」

「き、詭弁も良いとこじゃない、ふざけないでよ!」

「そうかなぁ? どっちにしろ、絵が完成しないことには君たちは自由になれないんだよ。さっさと頑張って描くことだね」

 小鳥の憤慨さえ、男には何処吹く風だった。監禁した者とされる者。立場の違いは明確だ。男には絶対の自信があるのだろう。相手の生命与奪権を握っている絶対の強者だ、という自信が。


「いいよ、描くよ」

 ボタン遊びに飽きたのか、ようやく指を放して少年が言った。

「白野様ぁ」

「だって、他にしようがないし」

「物わかりが良いね、助かるよ。しかし、君は怯えないね。見た感じ繊細そうだから、心配していたんだよ。仕事も出来ないくらいにブルられちゃあ困るなぁってさ」

「慣れてるから」

「ん?」

「妙な依頼」

「はっは。そうか、そうかもな。何しろ幸福画廊だもんなぁ」

 カバルが愉快そうに同調する。白野がちろりとその様子を仰ぎ見ながらこう言った。

「但し、条件がある。絵を描くのには精神の集中が必要なんだ。夕べみたいに何度も覗き窓から見張りに覗かれてちゃ、描けないよ」

「ふむ……なるほど」 男が思案顔になる。ドアとカンバスを交互に見ながら考えている。

「僕、見かけ通り繊細なんだ」

 そこに、白野にこう付け足されて、男は一瞬きょとんとした。すぐに先程自分が彼の外見を揶揄したことを言っているんだと気づく。

「はっは。本当に場慣れしてるなぁ。分かった。どうせ逃げられやしないしね。それくらいは譲歩しよう」


「白野様ぁ、本当に絵、描くんですか? そりゃこの状況じゃ仕方がないけど、だけど……」

 カバルが出て行って、二人きりになった。カバルはそのまま上階に戻ったようだが、当然扉の向こうには見張りの男が残っているのに違いない。声をひそめて小鳥が言う。

 白野は無言のまま、天井の明かりを見つめた。絵を描くには暗すぎる光量だが、それに文句をつけるつもりなど毛頭無い。どころか、願ったり適ったりだと思う。多分……。

「手伝って」

 小鳥を呼んで、二人がかりでイーゼルとカンバスを部屋の中央に動かす。丁度ドアから真正面に当たる位置だ。ドアに付けられた窓の高さを確認する。もう少しだけイーゼルをドア側に寄せた。天井からかなり低い位置まで垂れ下がった裸電球が、イーゼルに置かれたカンバスを以前より明るく照らし出す。カンバスの大きさ故に、電球の照らし出す範囲はかなり狭まってしまったが、これも好都合であった。

「絵が描き上がったところで、本当にわたし達を解放してくれる保証なんて何処にもないんですよぉ……」

「うん、だからね」

 カバルは白野の腕を欲していた。少なくとも、贋作を仕上げるまでは彼らに危害を加えたりはしないだろう。だから大人しく言いなりになってる振りをして奴らを油断させておいて……。白野は、更に声を潜めた。小鳥の耳元でそっと告げる。

「逃げるチャンスを作っちゃおう」

「え、どうやって?」

 目を大きく見開く小鳥にもう一度、微笑みかけて、白野はイーゼルの前に椅子を運ぶ。座り心地を確かめて、大きく深呼吸を一つ。

「絵の具とパレット」 と、言った。


■■10


「私にも一本頂けますか?」

「何だ? アンタも吸うのか?」

「まあ、嗜む程度には」

 ダグラスがくしゃくしゃの箱を投げてよこす。それを器用に受け止めて、朱里も一本口に銜える。ライターの火が差し出された。先端を火口に寄せて深く吸い込む。ふぅーと、紫煙が立ち上った。二人の男がしばし黙したまま、ぷかぷかと煙をふかし続ける。刑事部屋を出て、フロアー端の喫茶コーナーに来ていた。飲み物の自販機と長椅子が一脚置かれている。目の前の壁にデカデカと「ゴミはきちんとゴミ箱に!」と書いてある。

「……ダグラス刑事」

「ああー?」

「実際の所、捜査状況はどうなのです?」

「折角頼ってきてくれたあんたにゃ申し訳ないがなぁ、にっちもさっちも。お手上げ状態なんだ。畜生め!」 短くなった煙草をもみ消して、即座に次のに火をつける。ああ、畜生。煙がヤケに目に染みやがる。

「部外者にはそう簡単に漏らせませんか?」

「何だって?」 隣り合わせに座った男を見る。視線が合った。

「私はね、州警察がそう愚鈍だとは思っていません。

 州警では、既に窃盗グループの目星を付けている筈です。しかも、主犯格の目星をね」

 ダグラスの方にあった灰入れを手で引き寄せる。

「ただ、おいそれとは手出しできない政財界の大物か、爵位を持つ重要人物。恐らくそんな所でしょう」

「……何でそう思う?」

「美術品は高額商品ですからね、当然買い手はそれ相応の資産家に限定されます。しかも、盗品と承知で買い取る人物など、更に少ない」

 軽く灰を払う。指先で二回。トントン。

「そんな希少な顧客リストを用意できる人物は、同じ穴のムジナ。それ以外に考えられない。違いますか?」

「……」

 事務の女の子だろう、制服を着た女性が二人、ジュースを買いに自販機に寄ってきた。黙礼して、男達の前を横切り、ちょっと悩んで、ココアの缶のボタンを押す。もう一人は乳酸飲料。それぞれの缶を手に元来た道を戻りながら、何事かひそひそと囁き合っている。

 どうせ、朱里の顔の造作についての話題だろう、とダグラスは思う。チラチラと何度も横目で伺っていたのだから、推理というのもおこがましい。当の本人は全く女の顔など眼中になかったらしく、チラとも見ずに煙草をもみ消してる最中だが。

「怖ぇ執事だな。つくづく」

「それは、どうも」

 煙草の箱とライターを椅子の上で滑らせてやると、受け取って、もう一本火を付ける。煙の粒子が、向かいにある窓から差し込む日の光をヤケに強調している。もう、昼か。

「……タイラー卿だよ。奴が裏で糸引いてるのは間違いねぇ。だが、踏み込むには確とした証拠が居るんだ。どうしても」

「連れ去られた二人が証人です」

「しかし、その肝心の二人は何処だ? 幾ら何でも屋敷内に監禁しているとは思えねぇぜ」

「卿の別荘、多分幾つもあるんでしょうが、その地図はありますか?」

「ああ? 別荘にも連れ込まねぇだろう。奴は用心深いぜ?」

「美術品の保管には最新の技術が不可欠です。温度や湿度、それらの完璧な管理が必要になる。とても一朝一夕の急ごしらえで備えられる設備ではありませんよ。安アパートをちょっと借りて……なんて訳には行かないはずです」

「美術品と二人が必ずしもいっしょに居るとは言えないだろう?」

「白野様は贋作を描かせるために拉致されたんですよ。模写は本物を見ながらするものでしょう」

「そ、そうか!」

 ダグラスが勢い込んで立ち上がる。ちょっと待ってろ! と言い残して、駆けていった。タイラー卿の調書の確認に行ったのだ。別荘の場所を調べるために。

 ふぅー。紫煙を吐き出して、そして瞑目。あと少し。もうあと一歩。目頭をつまんで軽く揉む。昨夜は一睡もしていない。タイの結び目を思い切り緩めてから、首を左右に動かしてみる。コキリ、と鈍い音が鳴った。


■■11


「進んでるかい?」

 昼食を運んできたカバルが小声で訊いた。きちんとノックしてくる辺り、白野が言った条件を遵守する気でいるようだ。早く絵を仕上げさせるなら、その方が得策と踏んだのだろう。小鳥がドアの前まで行って、半開きのドアの間からトレイを受け取る。口元に指を立てて『静かに!』と言うジェスチャーをしてみせる。

「何だ、ほとんど進んでないじゃないか」

 カバルは落胆を隠せないようだ。小さくごちる。

「そうそう簡単に行くもんじゃないよ。自由気ままに描いてるんじゃないんだから」

 絵筆を動かしながら、白野が返す。

「今、ノって来てるんだ。邪魔しないで」

「おっと、悪かった」 苦笑いを浮かべてみせる。

「ところで、何で毛布被って描いてるんだい? 寒いのか? 空調の温度を上げようか?」

 確かに、白野は頭から毛布をすっぽりと被ったまま、絵に向かっていた。妙と言えば妙である。

「貴方、絵のこと分かってないね。温度を上げたら絵が傷むよ」

「おお、そうだった。こりゃ一本取られたな」

「さっさと出てってよ。気が散ってしょうがない」

「分かった分かった」

 食器はそちらからノックしてくれれば下げに来る。言い残して、男がドアを閉める。鍵が掛けられ、階段を上る足音が遠ざかる。

 ふぇぇぇ~~~。

 極度の緊張からの解放。小鳥はトレイを抱えたまま、思わずへたり込みそうになる。ヤ、ヤバかった。昼食を運んで来る時間を予測して、早めに『入れ替わって』おいて良かった。それに、もしもカバルが部屋の奥まで入って来ていたとしたら……想像しただけでも足が震える。

「小鳥ちゃん、大丈夫?」

「だ、だ、だ、大丈夫、で……す」

 ゼンゼン大丈夫そうじゃない。ヘタに声を出さなくて良かったと思う。絶対怪しまれる所である。普通に落ち着いて会話をしていた白野を尊敬してしまう。カバルも前にそう言っていたが、確かに白野は場慣れしている。いや、単に「おっとり」の度合いが常人とは桁外れなだけかも知れないが。

「さて、食べようか」

 立ち上がって、軽く背伸びをする。ずっと腕を上げてたから肩が痛いや、と笑う。

「白野様、どうしてそんなに落ち着いてらっしゃるんですか?」

 ここから逃げ出すために彼が出したアイデアと言い、黙々と周到にその準備を進める姿と言い、小鳥が見知っていた主人とは、何かが違う。かなり違う。

「小鳥ちゃんこそ、落ち着いてる」

「わたしなんか」

「指の怪我だって、薬もなしで痛いだろうに、何も言わないし」

「それどころじゃないですもん」

 苦笑する。そう言えば、ここに閉じこめられてから、白野様は必要以上によく話される。それはわたしの事を心配して下さっているからなのかな? だとしたら、わたし、とても嬉しい。

「昔、命の危険があるような国に住んだことがあるんです、わたし」

 そんな告白に、少年の眉がちょっと上がる。

「戦場カメラマンだった父に連れられて、あちこち回って、爆撃の中をくぐり抜けたり……すっごく怖かった」

 大音響。崩れ落ちる建物。閃光は白く目を焼き、どす黒い煙は肺の中を蹂躙する。燃え上がる炎と、飛び散る血潮。小さな小鳥の目の前で世界はその時、朱に染まった。

「その時、誰かが叫んだの。『まだ神さまに絶望を宣告されていない奴は走れ!』って」

 わたしは走った。走って、走って、走り抜けて。そうしてわたしは生き残った。

「希望って、捨てたくないんです」

「……うん」

 そう言えば、今度の事件の発端になったジムさんの遺作。あれに白野様が描き添えたのも希望だった、と思い出す。考えてみれば不思議な気がする。あの絵の依頼をきっかけに幸福画廊に雇われて、泣いたり笑ったりケンカをしたり……。よく目を凝らさなければ、すぐに見失ってしまうけれど、希望の欠片はきっとわたし達の周りに、そこかしこにあるのだろう。いつもきっと、すぐ傍に。

「白野様、絶対逃げましょうね。頑張って絵、仕上げて下さい!」

「うん」

「そんでもって、ダグラス刑事に通報して、窃盗団なんか一網打尽です。お屋敷に帰って、朱里さんに美味しい自家製ケーキを山ほど焼いて貰って食べまくりましょう!」

 その為には、先ず体力の温存こそ最重要項目である。二人は昼食を食べ始めた。相変わらず、最低に不味かった。


■■12


 一方、州警に居る朱里とダグラスは、と言うと。こちらは大判の地図を前に、何やら話し込んでいる。

「……要はクロスワードパズルのようなものです。少ないヒントの中から、根気強く一つ一つ当てはまる言葉をはめ込んでいく。そのうちに次第に全貌が見えてくる。最後に導き出されるのが答え、です」

 赤い丸で印を付けたところが、タイラー卿の持つ別荘地だ。

「都心から遠くもなく近すぎもしない場所。それが第一の条件だな。これまでの窃盗団の犯行は全て都心で起きている」 それでも、大小合わせて5箇所もある。

「湿度や温度を管理するには、当然ながら電気制御が必要になります。しかも、不慮の停電などでその設備が用をなさなくなっては元も子もない。自家発電施設が完備されていないのは……」

「言われて調べた。この二箇所だ」

 丸の上に朱里の手で二つのバツ印が書き込まれる。

「潮風は美術品を傷めます。海の傍でもないでしょう」

 また一つ、バツ印が書き込まれる。

「この二つの別荘のどちらか、か」

 ダグラスが今にも飛び出して行きそうな顔をする。朱里が残った内の片方を示して、更に言う。

「地図をよく見て下さい。この別荘は幹線道路から外れてかなり奥まった場所にある。舗装もされていないでこぼこ道を長く走ることになりますね、ここに行くには」

「だから何だ?」

「折角盗んだ品を運ぶ道中、ずっと振動を与え続けるんですか? その所為で彫像の指が欠け落ちたり、絵の具が剥離してしまったらどうします? 私なら大切な美術品をそんな危険に晒したりはしませんよ、絶対に」

「……と、言うことは」

 朱里は、大きく丸を書き込む。

「白野様達は、この別荘に捕らえられている、と言うことですね」

 パズルは完成した。正しい答えがここにある。ダグラスが地図を鷲づかみにして、立ち上がった。

「よし、分かった。本部長に掛け合って、すぐに令状を取る。精鋭部隊で乗り込むぞ。窃盗団を一網打尽にしてくれる!」

「お願いします。なるべく急いで」

「分かってる!」

 駆け出していく刑事を見送って。朱里は大きく息を吐く。表に出してはいけない笑いがこみ上げてきて、不覚にも「クスッ」と漏らしてしまう。

 あと少し。もうあとほんの……。

 ダグラスが椅子の上に置き忘れていった煙草に気づいて、折角なので、もう一本有り難く失敬することにする。

「白野様……」

 普段の彼らしからぬ、真摯なつぶやきが、煙と一緒にこぼれ落ちた。


■■13


 剥き出しのコンクリに開けられた小さな天窓から仰ぎ見える外は、またすっかり暗くなってしまっていた。もう丸一昼夜、こんな狭い空間に閉じこめられていることになる。

 小鳥は白野に指示された通り毛布を頭からすっぽり被った格好で、イーゼルの前の椅子に腰掛けていた。ドアの外に居るはずの監視者が、いきなりドアに付いた窓のフタを開けて、こちらを伺ったとしても、こうしていればちょっと見には、白野が絵を描いているように見えるはずである。勿論、彼女の手には絵筆。それなりに見えるように、カンバス上で動かす動作も忘れない。

 もしも、ドアを開けられたとしても。これは痛快な事に、外からしっかりと掛けられている鍵が監視者側の仇となる。鍵を差し込む音や回す音はすぐにそれと分かるので、即座にカンバスの裏側にいる白野と入れ替わってしまえばそれでいい。

 先程、夕食を運んできたカバルも、そのようにしてやり過ごした。夕闇と光量の低い裸電球も、囚われの身の二人を哀れんでか、完成しつつある白野の『アレ』をカバルの目から隠し通すことに力を貸してくれていた。その大きさで背後を隠すカンバスの存在と、夕闇と、薄暗い電球。その全てに感謝する。

 後少し。ほんの少し。もうじき、アレは完成する。後少し。ほんの……。

 ひどく疲れていたのに違いない。小鳥は何時しかうとうとと、眠りの中に落ちていく。


「きゃぁぁぁぁ~~~、誰か、誰かぁぁ~~~!!」

 突然、響き渡った女の絶叫に、ドアの外で見張りをしていた男が慌てて立ち上がる。

「何だ、一体?」

 覗き窓を開けると、窓一杯に女の泣き濡れた両眼が映った。バン、バン、バン! 同時に、ドアが大きな音と共に振動する。小鳥が狂ったように内部から叩き続けているのだ。何度も何度も。

「カバル、カバルは何処? 白野様が、白野様が!」

 バン、バン、バン! 力は強くなるばかりだ。

「どうした?」 降りてくる男の足音が聞こえてくる。カバルだ。

「白野様が、白野様が……ああ……」

 小鳥は狂乱の声を上げる。髪を振り乱して、必死にドアを叩き続ける。

「一体、あのガキがどうしたんだ? おい、早くドアの鍵を……この馬鹿女! ドアを叩くのを止めろ! ガタガタされちゃあ鍵穴に鍵が刺さらねぇ!」

 見張りに代わって、カバル本人が覗き込んで来た。縋り付くような目で、小鳥がカバルを見た。瞳の中に絶望と狂気がある。

「わ、わたし、つい眠ってしまったの。それで起きたら、起きたら……」

 覗き窓から、薄暗い室内が見て取れる。信じ難い光景がカバルの目に飛び込んで来た。

 天井からだらりと垂れ下がった細長い物体。緩やかに左右に揺れているようだ。それは白いチャイナ服を着て、頭には巻き毛が生えていた。ぼぅっとそこだけ青白い光を放つかのように美しい俯いた横顔。哀しげな、寂しげな、何かを恨んでいるような……。

 白野が、首を吊っている!

「ば、ばかな!」

 男の声が掠れる。やっと開いた扉から、驚愕のままに室内に飛び込む。その時男の横合いから、突如影が躍り出た。

「うぅ……!」 カバルの喉から、押し殺した声が漏れる。

「ボス!? ギャッ……!」 背後に立つ見張りの頭を一撃したのは、小鳥が隠し持っていた板きれだ。正しくは分解したイーゼルの足、とも言うが。見張りがどぅっと昏倒する。それを後ろ目に眺めて、カバルは低く呻った。


「……やってくれるね」

 背後から男を羽交い締めにしているのは、たった今死んだと思った白野であった。左腕で彼の首を捕らえ、右手には逆手に構えた絵筆を握りしめている。そして、その尖った柄の先端は今、カバルの右耳の奥に吸い込まれていた。

「動かないで」 白野が言う。

「僕がほんの少し力を込めれば、筆は鼓膜を突き破って脳まで届く。……脅しじゃないよ。こっちも命がけだから」

 細い絵筆の一本でも、使いようによっては人すら殺せる武器になる。少年はそれを実践で証明していた。

「そうらしい」 ゆっくりと両腕を上げて、男が降参のポーズを取ってみせる。

「すっかり騙されてしまったよ。まさか、絵にこんな使い道があったとはね。……君はまさしく天才だ」

 告げる口が皮肉っぽく歪む。男は目の前の壁を見詰める。ドアの真正面に位置するそこには、先程覗き窓から見えたとおりの白野の死体が今もぶら下がっている。

 そう。

 それは、コンクリの壁に白野が描いた絵であった。毛布を被せた小鳥を自分の身代わりに、カンバスの前に座らせて。自分は、その影でずっと壁に向かって絵を描き続けていたのである。あろうことか、自分の死体を。ちょっと見には本物と見まごうばかりに写実的に。薄明かりの中では揺れているとすら錯覚するほどの真摯なまでのリアルさで。

「こんな真似をして本当に逃げ切れると思ってるのかい? 階上にはまだ沢山の僕の部下が居るんだが」

「もちろんよ」

 白野の代わりに、小鳥が答える。「わたし、希望は捨てない主義なの」

 少年が淡く微笑んだ。


■■14


 人質に取ったカバルを先頭に、階段を上っていく。

「ボ、ボス!」

「騒ぐな」 事態を悟り、色めき立つ部下達を、カバルが制する。

「てめぇら、ボスにふざけた真似しやがって、生きて帰れると思うなよ」

「どうせ、最初から生きて帰す気なんかなかったクセに。そうなんでしょ?」

 筆の柄を突きつけたまま、白野が訊く。カバルが低く笑った。

「まぁな」

「あきれた、この人非人!」 すぐ後ろをついて行く小鳥が思わず声を荒げる。

「非道いなぁ、小鳥君。幾ら悪人の僕だって、面と向かって言われると傷つくことだってあるんだよ」

 不意に。 カバルが動いた。後ろの白野目掛けて、思いっきり頭突きして来たのだ。寸での所でかわしたものの、虚をつかれた白野の拘束が緩む。男がその隙を逃す筈はなかった。

「形勢、またまた逆転だ」

 部下の手から、銃を受け取りながらカバルが言う。男達が野卑た薄笑いを浮かべて、二人を見た。

「さて、それはどうでしょう?」

 いきなり、背後から掛けられた声に、男が振り向く暇はなかった。

 肩先で束ねられた長い髪が踊る。黒い長身から繰り出された手刀が、カバルの首筋に吸い込まれる。男が床に昏倒するより早く、更に二人の手下が、一人はアッパー、もう一人は鳩尾に蹴りを喰らって壁際まで吹っ飛んで行った。

「動くな! 警察だ!!」

 逆転、逆転、大逆転。

 窓ガラスを割って突入して来たのは、州警のダグラス刑事、その人だった。他の警官達も一気に突入してくる。まさに一網打尽の捕り物劇であった。一斉に銃口を向けられ、窃盗グループは次々に銃を捨てて投降する。

 ……もう、何がなんだかワケ分かんないっっ!

 まるで親の形見のごとく後生大事に握りしめていたイーゼルの足が、小鳥の手の中から滑り落ちる。ゴトンと重い音がした。いや、床にぶつかった音は、わたし自身かも知れない……。意識を手放す一瞬、頬に触れたコンクリの固さにそう、思う。

「朱里。小鳥ちゃん、倒れちゃったよ」

「おやおや、せめて帰りの車の中まで頑張ってくれれば良かったのに」

「わー! 小鳥ー、大丈夫かー?」

 ダグラスが泡喰って駆け寄ってきた。揺すったり頬をはたいたりしている。

「うわー、指から血が出てるー、小鳥ー、死ぬなー! しっかりしろー!!」

 横で叫び続けるダグラスは放っておいて。

「ご無事でよろしゅうございました」

 そう言って、朱里は自分の上着を脱いで、大事な主人の肩に着せ掛ける。秋の夜更けである。窓ガラスという窓ガラスが割られてしまったこの部屋は、結構冷える。

「もっと早く来るかと思ってたよ」

 ぶかぶかの上着をひっかけた白野が長身の執事を見上げて、そう返した。朱里が肩をひょいっと竦める。

「白野様、私も所詮、人間ですよ……」

 ファンファンファン。 サイレンの音が鳴り響く。盗まれた美術品は、全て別荘内から押収された。手錠を嵌められ、窃盗団一味が警官に連行されていく。意識を取り戻したカバルの姿もそこにあった。白野に気づいて、にやりと笑う。

「幸福なんて、所詮僕には縁の薄い代物だったらしいね。手を出したのが間違いの元だ」

 すれ違いざま、そうつぶやく。

「貴方がこんなやり方でなく、きちんと幸福画廊に依頼してくれていたのなら」

 男の足が止まった。

「僕はきっと描いたのに」 朱里がそっと、白野の肩に手を置いた。

「……贋作でもか?」

「うん」

「……」

 カバルは決して振り向かなかった。警官に促されてそのまま歩き去って行ってしまう。はらりと、紅い落ち葉が一枚、天から降ってくる。また一枚。そしてまた一枚。

「さあ、私たちも行きましょうか、白野様」

 二人は用意された救急車に乗り込む。別にこれといった外傷も何もナイのだが、警察がわざわざ呼んでおいてくれたものだ。無下にも出来まい。第一、中では小鳥が待っている筈であった。彼女を置き去りにする訳にも行かない。いや、ダグラス刑事が何とでも致してくれるだろうとは思うが。

 長かったようで、終わってみればほんの一日と半の誘拐事件の幕は下ろされた。黒幕とも、真の主犯とも目されたタイラー卿にも一足遅れて逮捕令状が下りる。世間を騒がせ続けた美術窃盗事件は、一件落着したのである。


■■エピローグ1


 後日。セント伯爵邸。

 午後のお茶に招かれて、幸福画廊のメンツ、プラス、ダグラス刑事が、庭の一角に設けられた東屋に顔を揃えていた。伯爵が事件の顛末を根ほり葉ほり尋ねては、面白そうに、フォッフォッと笑う。この邸宅から奪われていた美術品も、全て無傷で戻ってきた。勿論伯爵が一番大切だとダグラスに語っていた幸福画廊の一枚も。

「……それにつけても、白野クンも小鳥チャンも無事で何よりじゃったのぅ。おぬしらが誘拐されちまったと聞かされた時には、わしゃ、肝っ玉が縮んだぞい」

「ご心配、ありがとうございます」

 小鳥が丁寧に頭を下げる。彼女の指には未だ包帯が巻かれたままだ。誘拐された地下室で、白野と組んで迫真の演技を演じた時にドアを叩きすぎた所為らしい。芋虫みたいな太さに腫れあがって、ずきずき痛んで閉口した。それでも、もう二、三日もすれば、包帯も取ってしまえるだろう。

「いや、俺も心臓が冷えた」 茶を啜りながら、ダグラスが言う。

「それにしたって、朱里の推理はまったく大したもんだったぜ。アレがなかったら令状下りてないもんな。二人の命もヤバかった。つくづくとすげぇ奴だよなぁ」

「あの人、こと白野様に関しては超人的すぎちゃう人だから……」

 白野を除いたその場のメンバー全員が「うんうんうん」と深く頷く。

「ところで、その執事はどうしたね? いつもご主人にベッタリの金魚のフンだと思うとったが」

 朱里はこの場に来ていない。確かに伯爵の言うとおり、彼が主人の傍から離れることは非常に珍しい事だった。誘拐事件の後の数日間などは特に凄まじく、「トイレの中までごいっしょに」と今にも言い出しそうで怖かった。つくづく白野様も受難な方だ、と小鳥は思う。

「朱里なら、僕らが閉じこめられてた地下室に行ったよ」

「なっにー。マジで行ったのか? あいつ……」

 白野の答えに、ダグラスが目を丸くする。一人その理由を知らない伯爵が、野次馬根性丸出しにして、なんじゃなんじゃ? と聞いてくる。

「ほら、例のアレですよ、アレ」

「あぁ?」

「白野様の例の絵。アレを消しに行ったんです」

 言葉足らずなダグラスの台詞を小鳥が補う。

「ほうほうほう♪」

 会得がいったらしく、伯爵がにーんまりと底意地の悪い笑みを浮かべた。

 そう。朱里は地下室の壁面に描かれた件の白野・首吊り死体絵図を見るなり、

「縁起でもない! 即座に消します! 今すぐ消します! 幾ら白野様がお描きになった物でもこれは許せません。これだけは断じて許せません!!」 恐ろしい程に逆上した。爆弾でも投げ込んで、今すぐ別荘丸ごとでも消滅させかねない形相の執事を体を張って止めたのは、言わずと知れたダグラスである。

「待て、気持ちは分かるが、拝むから待て! 州警の現場検証が終わってからにしてくれ~~~!」

 そして、今日。やっと州警本部から、別荘への立ち入り許可が下りたのである。朱里は、洗浄剤一式を抱えて、勇んで早朝から出かけて行った。……健気である。

「だけどよ、あいつの言い分も分かるぜ。あの絵、最初に見た時には、俺も寒気がしたもんなぁ」

 小鳥から、事の顛末を聞かされていたにも関わらず、である。うっかり何も知らずに地下室に下りた捜査員などは、全員が悲鳴を上げて仰け反るハメとあいなった。そのくらいリアルな絵なのである。

「あんた、幾ら逃げ出す為とは言え、よくも自分の死体なんてモン、すらすら描けたもんだよなぁ」 しげしげと白野の天使の如き顔を見詰めてゴチる。

 クッキーの皿に手を伸ばしながら、白野は

「ふふっ」 と、笑って見せた。


■■エピローグ2


 さて。こちらは件の別荘の地下に赴いた朱里である。

 いま一度、おぞましき絵を眺めて、大きな大きなため息をつく。ついで、きょろきょろと周囲を見回して、コンクリ剥き出しの床の隅に、今日、ここへ来た目的のもう一つを見つけ出して、拾い上げる。

「ああ、こんな所に……」

 それは白野の服のボタンだった。乱闘の際にでもはじけ飛んだに違いない。

 ボタンの上下に力を込めて、強くこねる。飾り部分が外れて中から何やら機械めいた部品が見て取れた。本来のボタンに入っていそうな代物では有り得ない。これが誰かに、特に白野に発見されるのは全くもって不味かった。中に仕掛けられているのは発信器。仕掛けたのは勿論、朱里。この人である。

 誘拐事件の起きたあの日。朱里は白野の危険を懸念して、こっそりと発信器付きの服を主人に身につけさせたのである。何のことはない。州警にて披露したパズルゲームの種明かしはコレだった。発信器の後を追って、即日この場所を突き止めたまでは良かったものの、多勢に無勢では如何に朱里の腕が立つからと言って流石に無謀この上ない。第一、救出するべき白野本人にも、この発信器の存在がバレてしまっては困るのだ。

 そこで、彼は一計を案じる。既に居場所が分かっているのだから、推理は無用だ。ただ単に推理めかした、いかにもなこじつけをダグラス刑事に信用させれば、それで良かった。思惑通り、ダグラス刑事を焚きつけて、大切な主人とプラスアルファを無事救出。それでめでたく大団円。そう思ったのも束の間、白野の服のボタンが取れていることに気づいた朱里は、内心かなりに気が気ではなかった。憂いの元はつみ取るべし。さて、その一つは無事解消された。残る一つは……。朱里は覚悟を決めて、作業に掛かった。


 等身大の壁画をキレイに消し去るのは、流石に並大抵のことではない。額の汗を拭いながら、朱里は力を込めて、忌まわしき絵を無きものにせんと奮闘中だ。

「ん?」

 上の方から作業を始め、ちょうど中盤、腰の位置辺りに取りかかった時である。朱里は、絵の隅に小さく書き込まれた文字に気づいた。一読する。

『2度目はナシ!』 そう読める。

 クックック……。笑い出す。長身の体躯を折って、大声で笑う。白野はこの発信器の存在になど、とっくに気づいていたのだ。つまり、この首吊り絵は白野から朱里への意趣返しと言うことになるのだろうか?

 やってくれる。

 まだ笑いながら、壁に背を預けて寄りかかる。軽く足を組むと、胸ポケットから煙草を取り出した。火を付ける。

「全く、敵いませんよ、貴方様には……」

 紫煙が緩やかに立ち上る。まだ消し切れていない絵の横で一人。長身の男は、のんびり煙草をふかしている。


幸福画廊

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩はたいても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


幸福画廊

 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。



 J.E.アイヒマンの遺作は、彼の万感の想いを載せて海を渡り祖国へと還った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る