第6話 イヴの子どもたち

■■プロローグ


 エデンの園の楽園で、神に造られしアダムとイヴは神の庇護と愛の元、何不自由なく幸せに暮しておりました。彼らは悩みを知りませんでした。苦しみを知りませんでした。でも、ある日、悪い蛇にそそのかされたイヴは禁断の赤い果実を食べてしまったのです。そして、アダムもまた……。

 神は大変お怒りになり、彼らは楽園から追放されてしまいました。それ以降、人間は自分の犯した『原罪』故の苦悩を背負う事になるのです。 ---旧約聖書より


■■1


 幸福画廊

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


 そんな不可思議な噂で巷を賑わせている、とある館のその食堂。室内は壁を飾る沢山の絵画と、食欲を誘う美味しそうな匂いで溢れていた。

「それで?」

「んあ?」

 ダグラスは、チキン・ソテーにかぶりつきながら、生返事をする。テーブルを挟んで正面に、むっつりとしたこの館の執事の顔がある。名を朱里シュリという。

 長い黒髪を肩の辺りで縛っている朱里は、執事と言うには年若く、しかしその職業に見合うだけの落ち着いた物腰と雰囲気を持っていた。すらりとした長身に相応しい精悍な顔立ちは、女性なら誰でも見惚れてしまいそうな程、丹精でハンサムだ。その顔面に、隠す気もない不機嫌の三文字を掲げて、青年はダグラスに言葉を繋げる。


「だから、どうして貴方はこうもちょくちょく、当家の食事時にやって来るのか、と訊いてるんです」

「そりゃ、お前。旨い飯にありつけるからに決まってっだろ」

 もしゃもしゃと鶏肉を咀嚼し、スープで飲み込んでから、ようやっとダグラスが答えた。執事という職業に相応しく、黒いスーツにきっちりとその長身を包んだ朱里とは対象に、伸びすぎの髪に無精髭。そして、トドメによれよれのネクタイ。見るからにむさ苦しい野暮な印象のダグラスは、それ故にどこか憎めない、好感の持てる男だった。


「もう今日だって、犯人は必ず犯行現場に戻って来るなんつー上の言葉に従って、聞き込みに歩き回った所為でヘトヘトよ。そんな一日の終わりにだ、明かりも点いてないアパートに帰って、たった一人でカップ麺を啜ってろって言うのか? あんたは鬼か?」

「貴方の抱える諸事情と私どもの食生活に、何の因果関係が?」

小鳥コトリちゃん、ドレッシング取って」

「はい、どうぞ。白野シラノ様」

「ありがと」

「冷てぇな。市民の安全を守るため、日夜働くお巡りさんに、それはナイんじゃねぇか?」

「それが貴方の仕事なら、当然のことです」

 キッパリとした口調でそう切り捨てて、朱里も自分の皿のソテーにナイフを入れる。最早これも、ある意味日常の一コマと化しつつある言い合いであった。食卓に着く誰もが気にした風もない。口では冷たいことを言いながら、結局はダグラスの分まで考えた献立を用意してしまう朱里を、誰もが知っているのだった。いや、少なくとも、朱里といっしょに台所に立つメイドの小鳥は知っている。

「ふふっ……」

 何だか少し微笑ましい。口を開けばイヤミばかりの陰険執事ではあるけれど、本当のところは結構良い人なのである。小鳥は階段下の物置に思いを馳せる。掃除用具置き場であるその中には、最近真新しいモップが一本買い足された。小鳥用のモップだ。どんなお世辞より褒め言葉より、ちょっと変だが宝石よりも、彼女には嬉しいプレゼントだった。小鳥をこの館からとっとと追い出したいなんて毎日のように毒舌してくる当の執事は、そ知らぬ振りを決め込んでいたが。

「小鳥さん、何を笑っているんです?」

「いいえ、何でも」

「大勢で食べるご飯って美味しいよね」

 この館の年若き主である白野がそう言った。線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛が、まるで白馬の王子様といった雰囲気の少年だ。若しくは育ちすぎた天使と言う所か。トレードマークの白いチャイナ服がよく似合う。青い瞳に微笑みかけられて、小鳥の胸は高鳴ってしまう。春霞のように穏やかで温かなこの少年の人柄は、この館に置ける一服の清涼剤とも言えるのだった。

「それに、賑やかで楽しいし」

「楽しいか? この一連の流れが楽しいか? 俺が冷血執事に虐められてるだけじゃあねぇか」

「うん。楽しい」

 穏やかながらも、そうきっぱり断言されて、ダグラスはすっかり脱力する。

「出される飯は旨いんだが、住んでる奴らはとことん喰えねー。……小鳥、お前こんな所で働いてると、その内人格歪んじまうぞ。気を付けろ」

「お生憎様。ここを出ても、わたしに行く当てなんかありませんから」

「よし、それならいっそ俺と暮らさないか? 結婚しよう!」

 ダグラスの突然の台詞に、小鳥は思わず咽せてしまう。

「ブッ! な、何を突然……」

「別に突然じゃないぞ。俺は家庭的な男なんだぜ。お買い得だぞー」

 少なくとも、そう言う台詞は、フォークに突き刺したままの肉片を振り回しながら、言うべきではないだろう。茶化されてるとしか思えない。

「もう、人のことからかって。あんたなんか帰れ!」

 白野がクスクス笑っている。

「万年欠食刑事、食事中に当家のメイドを口説かない。小鳥さん、口に物を含んだまましゃべらない。そして白野様。貴方はピーマンを残さない!」

 執事が、実に執事らしく、その場の全員に教育的指導を与えた。こういう時の朱里は、常にも増して迫力がある。叱られてしまった三人は、それぞれの首を竦めて、一様にコクコクと頷くのだった。

 たわいない談笑と共に、食事が進む。

「この前喰った、何だっけ? あの、ピリ辛焼きめし」

「ナシゴレン?」

「そう、それそれ。それがまた喰いたい。スープもいっしょに所望するぞ」

「トム・ヤム・クンの事ですか? いいでしょう。辛さ五十倍で作って差し上げます」

「そんなの、食べられないわよ」

「ご心配なく。彼の分だけ特別製にしますから」

「ナシゴレンはピーマンが入ってるのがイヤだなぁ」

「その歳で好き嫌いなんか言ってるから、そんな生っ細いんだぞ。ほれ、俺の分も喰え」

「……」

 止める間もなく、自分の皿に移されてしまったピーマン数切れを、白野の青い瞳が、いとも哀しげに凝視した。次いで、隣に座る朱里の顔を上目遣いにじっと見る。

「はいはい、分かりましたよ。あーん」

 ため息と共に開けられた朱里の口の中に、緑色の野菜を放り込むと、その口元がもぐもぐと動く様子を、嬉しそうに眺める白野であった。

「お、お前。こら、朱里! てめぇ、白野を甘やかしすぎ!」

「一応、ご自分に出された分は、今日は召し上がりましたし……。と言うか、何で二人ともそこで赤くなるんです?」

 真面目にそう尋ねられて、ダグラスはがっくりと脱力する。

「……お前らの主従関係って、どっか妙だぞ。アヤシイぞ。かなり間違ってる気がするぞ。小鳥、黙ってないでお前もなんか言ってやれ」

「あ、え、なんか、眼福……」

「違うだろう、それも! ……あー、もういい」

「あれ?」

 ダグラス刑事の嘆きなど全く気にした風もなく、白野がふと、窓の外に耳をそばだてた。

「どうなさいました?」

「今何か、外で物音がしなかった?」

「野良猫でも居るんでしょう」

「ほっとけ、ほっとけ」

「あ、そうだ。猫って言えばねぇ、聞いてよ。今日ね……」

 小鳥が話し出す。昼間、買い物に出た帰りに見た老女の話だった。


■■2


「えーっと、買い忘れはなかったかな?」

 朱里の手書きのメモを確認しながらそんな独り言を言う。今夜はダグラス刑事が来ると言うので、帰りに多少の食材の買い出しを頼まれていた。リンゴとハーブとその他モロモロ。

「ニィィー」 足下に一匹の猫が寄ってきた。薄汚れて痩せこけているから、野良だろう。大きな目で小鳥を見上げ、つま先に顔を擦りつけて来る。

「おなかが空いてるのかな? ちょっと待ってね。何か食べられるもの……リンゴはダメだし、玉子……もムリか。えーっと、チーズ。チーズあげよう」

 がさごそと買い物袋の中を漁って、与える。白地に薄い茶色のブチの入ったその猫は、フンフンとチーズの匂いを嗅ぐと、目を細め、鼻の辺りにしわをいっぱい寄せて食べ始めた。時々、耳をピクッピクッと動かす様子が愛らしい。

「ふふ……、美味しい?」

「ちょっと、アンタ!」

 急に大きな声で怒鳴られて、小鳥は驚いて顔を上げる。猫も飛び上がるようにして、チーズを残したまま、走って逃げていった。

「あ……」

「人の家の前で野良猫にエサなんかやるんじゃないよ。追っ払っても追っ払っても寄って来て、ウチが迷惑するんだからね。全く、最近の若いもんときたら」

 見知らぬ老婦人が、箒を抱えて仁王立ちしている。

「他人様の迷惑って言うのをちっとも考えないんだからね。ほら、その残ったチーズ、どうする気? そのままにして行かれたら、腐ってハエが集っちゃうよ。人んちをゴミ溜めにする気かい?」

「ちゃ、ちゃんと片づけて帰るつもりでした!」

「は! どうだか。ほら、どいて」

 小鳥をどかすと、チーズを箒ではわいて、ちり取りに取る。チーズの塊は砂と埃まみれになった。何だか腹が立つ。そんなイヤミな事しなくたってイイじゃない。

「おなかを空かせてる野良猫にエサをやるのって、そんなに悪い事ですか? 可哀想って思っちゃいけないんですか?」

「なら、アンタがあの猫飼うのかい?」

「え? それは……」

「最後まで責任を持つ気もないクセに、薄っぺらな親切心なんて止めとくれ。所詮、ああ、捨て猫にエサをあげちゃう私って、なんて心の優しい女の子なの、ってな自己満足に浸りたいだけなんだろ?」

「そんな。ただわたしは……」

「これ見よがしの偽善なんて、猫に取っても迷惑だよ。さあ、帰った帰った。二度と家の前でエサなんかやったら、承知しないからね。私ゃ、猫なんて大っ嫌いなんだ!」


「あー、何処にでも居るよな。そういう因業ババアってのは」

 デザートのリンゴのコンポートを食べながら、ダグラスが言う。そのカップに紅茶のお代わりを注ぎながら、朱里が訊いた。

「商店街からちょっと入った低い垣根の家と言うと……緑色の屋根の家ですか?」

「そう。あそこ」

「確かにあの辺りには昔から猫が多いな」

「もうしばらくはあの道通らないわ、わたし」

「……そうですね。それが賢明です」 朱里が微笑む。

「昼飯の干物でも盗られて、機嫌が悪かったんじゃないか、そのばーさん。まあ許してやれ」

 ダグラスが小鳥の肩をポンと叩く。

「うーん、そういう許すとか、許さないとかじゃなくってね。何となく悔しいじゃない? 可哀想って思うのは、偽善かなぁ」

「人それぞれ、考え方は違いますから」

「そうだけど……」

「たかが紅茶一杯の好みでさえ、ほら、色々です」

 テーブルを示す男に、笑ってしまう。白野がミルク・ティー。朱里はブランデー。小鳥がレモンで、ダグラスの分にはシナモンが入っている。成る程。確かに色々だ。

 結局は、そのイロイロに何処まで寛容になれるか。そういう事かも知れないな、と小鳥は思った。


■■3


 夜もだいぶ更けて来た。ダグラスが立ち上がる。

「さーて、そろそろ帰るとすっか。飯旨かったぜ。ごっそさん。今度はナシゴレン、な」

「はいはい」 朱里が応じた。そのまま全員でぞろぞろと玄関まで見送りに出る。

「車の運転、気を付けてね」

「お休みなさい」

「おー、またな」

 手を上げながら帰りかけたダグラスの足がふと止まった。

「ん? 何か玄関脇に置いてあるぜ。お届け物か?」

 その問いに、朱里が不信気に眉をひそめた。

「いえ、心当たりがありませんが……。何でしょうね?」

「バスケット? ……に、毛布が入ってるみたい」

「新種の爆弾だったりしてな」

 冗談を言いながら、ダグラスが近寄って中身を確かめる。中に入っていたのは……。

「お、おい、こりゃ赤ん坊じゃねぇか」

「ええっ!?」

 小鳥も驚いて、バスケットに屈み込む。確かに赤ちゃんが眠っている。自分の親指をおしゃぶり代わりに銜えてすやすやと寝息をたてている。

「捨て子?」

「しかし、どうしてここに?」

 ダグラスが走って行って、門の外を見回す。辺りに人影はない。

「クソ、こんなチビを置き去りにしやがって……」

「あ。さっき、白野様が聴いたっていう物音。その時かしら? この子が置いて行かれたの」 急に辺りが騒がしくなった所為か、子どもが目を覚まして、むずかり始めた。

「あ、赤ちゃんが泣いちゃったよ」

「とにかく、中に入りましょ。このままにはしておけないし」

 家に戻って、バスケットの中を確認する。抱いた赤ん坊が暴れるので、小鳥は悲鳴を上げた。

「あーん、泣かないで。じっとしてよー、落としちゃう」

「抱き方が悪いんだよ。だから暴れるんだ。かしてみな」

 タッチ交代して、ダグラスが子どもを抱き上げる。妙にサマになっていて、小鳥は感心してしまう。

「こりゃ、おしめだわ。換えの奴が入ってないか?」

「これ、ですか?」

「それとティッシュにゴミ入れ」

「これでいい?」

「ほいほいほい」

 手際よく、ダグラスが子どものおしめ換えをする。

「お前、男か。よーし、すぐに終わるからな。朱里、こいつ腹も空かしてるみてぇだから、なんか……」

「デザートの残りならまだありますが」

「阿呆! こんな乳児が、洋酒やハチミツ入りの菓子なんざ喰えるか」

「ほ乳瓶と粉ミルクなら入ってましたが」

「作れ」

「……どうやって?」

 右手にほ乳瓶、左手にミルク缶を持ったままで、当惑顔の朱里が問う。ダグラスが舌打ちした。

「執事。お前、いつもの異常な万能ぶりは何処にやっちまったんだよ?」

「白野様は、ほ乳瓶でミルクなんか召し上がりませんから」

「お前の世界の中心は白野坊やなのか? それ以外にねぇのかよ?」

「ありません」

「白野バカめ」

「本望ですね」

 二人の男が火花を散らす舌戦を繰り広げている。……と言うには、内容がとっても情けない気がしてしまうのは、わたしだけ? 小鳥は、目眩と脱力感を覚えた。

「あのぉ、赤ちゃん泣いてるし。多分この中でミルク作れるのは、ダグラス刑事だけだと思うんだけど」

「あー、分かった。俺が作る。お前らやり方見とけ。ついでだから覚えろ」

 ダグラス刑事主催『とっても優しい育児教室』の始まりであった。


■■4


「それにしても、どうしてこの館に捨てられてしまったんでしょうね、この子は」

「心当たりはないのか?」

「一向に」

 オムツを換えて貰って、ミルクもたっぷり飲んで、ご満悦の赤ん坊は、ソファーの上でキャッキャと無邪気な笑い声を立てている。白野が、自分の小指を赤ん坊に握らせて、あやす。

「どうするの、これから?」

「こういう場合は、書き置きとか手紙とか、そういう類いが必ず付いているものではないんですか? 付属品のミルクやおしめはあったのに。手抜きですよ。取扱説明書もないなんて」

「捨て子を通販商品みたく言うな、クソ執事」

「あ、手紙、入ってたよ。この子の服のポケットに」

 白野がヒラヒラと紙片を振って見せる。

「何で早くそれを言わねぇ!」

「だって、みんな、すごく忙しそうだったし」 にっこりと笑う。手を繋いでいる赤ん坊と同じくらい邪気のない微笑みである。無邪気というのは罪かも知れない……。と、小鳥は思う。

「見せて下さい」

 白い封書だった。中には便せんが一枚。

「何て書いてある? 寄こせ!」

 せっかちなダグラスが、朱里の手から紙片を横取りすると、内容を読み上げた。

「なになに? 『どうか、可愛がってやって下さい』」

「……それだけ?」

「それだけ、だ。決まり文句だ。意味ねーな」

「やっぱり手抜きですね」

「ねぇ。何だか変よね。わざわざ捨て場所にここが選ばれた理由って何なの? 普通は教会とか、病院とか、施設とか、そういう所をを選ぶわよねぇ」

「だな。一般の民家に捨てられたって話はほとんどねぇよな。あるとすれば、それは当然血の繋がった……」

 ピクリと小鳥の眉が上がる。ダグラスの手紙を持つ指が白く震え始める。そこに、気のない朱里の台詞が追い打ちを掛けた。

「……困った母親だ」

「ク~ソ~執~事~、てめぇ~~~」

「しゅ~り~さ~ん~~」

「……な、何です? 二人共、突然怖い顔をして」

 ダグラスと小鳥が詰め寄ってくる。その凄まじい迫力に気圧され、朱里が一歩後ずさった。彼が、主人以外の人間に押し負けるとは。非常に珍しい光景である。

「お前って奴ぁ、やっぱり、影で女を泣かせて居たんだな!」

「相手は誰? お母さんは何処? 白状しなさい!」

「ち、ちょっと待って下さい。貴方達、二人してどういう誤解をしてるんです」

「しらばっくれてもダメよ」

「てめぇ、今、母親を知ってやがる口ぶりだったじゃねぇか。語るに落ちるたぁこの事だぜ」

「冗談じゃない。それは言葉の文ってもので」

「この期に及んで往生際の悪い奴だ。ネタと証拠は上がってるんだ。さっさと自白した方が身の為だぞ」

「不名誉極まりない、事実無根の冤罪を押しつけないで下さい。第一、この手紙の何処にも、私の名前なんて書いてないじゃありませんか。そもそも、私がこの子の父親だと言う証拠が何処に……」

「うわっ、サイッテー。見損なったわ」

 朱里の言葉に、小鳥はこれ見よがしに手で口を覆った。赤ん坊をソファーから抱き上げて、頬ずりする。

「おーヨチヨチ、可哀想に。非道いパパだね。小鳥お姉さんがぶっ飛ばしてあげるからね」

「男らしくないぞ。潔く責任を取りやがれ!」

「……勘弁して下さいよ」 朱里が頭を抱えて見せた。


「何が自分じゃない、だ。この家で、お前以外の一体誰が父親だって言うんだよ、え?」

「あ、そうだよね」

 唐突に、白野がポンと手を叩く。

「じゃあこの子、僕の子どもかも知れないんだ」

「!!!!!!!」

 あっけらかんと、ナニをのたまうのか? この少年は。

「し、し、し」

「白野様!」

「お前、身に覚えでもあるのか~~~っっ!」

「イッヤ~~~!!」

 ……と言うか、それは犯罪ではないのか? ヤバ過ぎるんではないか? いや、何処がヤバいんだ? 年齢的にはOKだ。やってやれないことじゃない。じゃあヤバくないのか? 合法なのか? ……いやいや、やっぱり間違っている。何か知らんが、何処かハゲシク間違っている。とにかく、微妙に生々しい。そんな思いがダグラスの脳裏を電光石火で駆けめぐった。

「そういう訳じゃないんだけど。でも、もしかしたら、ってコトもあるかもだし」

 にっこり笑う白野に、皆一様に毒気を抜かれる。ほぅ~っという安堵のため息は誰のものだっだか?

「ない、ない、ない。ある筈がない」

「悪い冗談ですよぉ、白野様~」

「勘弁して下さい……」

「でも、この子は朱里の子じゃないから。だったら、さっきみたいな推理で行くと、後はもう僕しか居ないかな、って思って」 赤ん坊のほっぺたをぷにぷにと突く。バラ色の頬は生まれたての弾力に満ちていて、とてもすべすべしている。

「……何だ? お前さんのその妙に自信に満ちた台詞は」

「だって、この子、朱里にちっとも似てないもの。目も鼻も口も全然違う」

「白野様、それはお母さん似ってだけの事じゃあ」

「遺伝の法則がある限り、やっぱり子どもには何処かしら二親の面影があるものだよ。この子と朱里は違いすぎる」

「ん~。画家の心眼って奴か」

 ダグラスが腕組みをして考え込む。白野の画家としての天才性や眼力に異論を挟む気など、出会ったばかりの頃ならばいざ知らず、今日となっては毛頭なかった。何しろこの幸福画廊の画家様々だ。

「……それじゃあ、こいつは誰の子だぁ?」

「……」

 皆が赤ん坊の顔を見詰める。子どもは大人達の困惑を余所に、穏やかな寝息をたて始めていた。


■■5


 とにかく、夜も更けた事だし、何事も厄介事は明日に回そう。そう健全(?)な結論に達して、本日はこれにてお開きという事に相成った。明日は明日の風が吹く。それまでの赤ん坊の世話は、果敢にも小鳥が自らかって出ている。

 一旦アパートに戻ると言うダグラスを朱里が一人見送りに出る。月はもう西の空に傾いて、遠くから聞こえる幹線道路を走る車の音さえ、ひどくまばらだ。

「今日は本当に助かりました。貴方にベビーシッターの才能があるとは、ついぞ存じませんで」

「俺は孤児院育ちだからな。血の繋がらない弟や妹たちがわんさと居たのさ」

「ああ、なるほど。そう言えば伺ったことがありますね」

 車止めまで並んで歩いて、キーを使ってドアを開くと、ダグラスはボックスから煙草の箱を取り出した。足は外に出したままシートに浅く腰を下ろす。

「まあ、一本どうだ? いや、屋敷では吸わないんだったか」

「庭なら、まあ良いでしょう」

 シュボッ、という音と共に、一瞬男達の顔が炎に照らし出される。ダグラスの車に背もたれて、朱里がふぅーっと紫煙を吐く。

「……ところでな、執事」

「はい」

「あのガキがお前の子じゃないって言うのは、まあ良しとしてだ。それは置いといて訊きてぇんだが」

「何です?」

「お前みたいな色男をだ、女がほっとくワケがない。言い寄られた事はないのか? 据え膳喰ったりしねぇのか? てめぇは聖人君子か? 清く正しく美しいのか?」

 男同士のオフレコだ。さあ、キリキリ白状しやがれ。言われて、朱里が苦笑する。

「……まあ、『ない』とは申しませんが」

「ほれみろ」

 天を向いて、高く煙を吹き上げる。星が綺麗だ。

「少なくとも、今回の件は濡れ衣ですよ。誓います。小鳥さんの事もね、ご心配には及びません」

 ブホッ。深く吸い込んだ紫煙を味わう暇もなく、一気に吹き出す。ダグラスは思い切り咳き込んだ。

「な、なんでいきなり、小鳥の名前が出てくるんだよ!?」

 煙に咽せながら、ダグラスが言う。夜目にも幾分、その頬が赤い。

「おや? お訊きになりたかったのは、その事じゃあなかったんですか。これは失礼。私はてっきり」

 朱里が横目にダグラスを見る。男二人の目が合った。

「……俺より年下のクセしやがって、そういう臈長けた所がイヤミなんだよ」

「すみませんね」

「まあ、あんたもイロイロとあるんだろうが」

 それには答えず、クスリと笑う。身体をちょっと起こして、ダグラスの持つ携帯灰皿に灰を落とす。

「今日のお礼に、一つだけアドバイスを。冗談めかしていては何時まで経っても通じませんよ。彼女はどうもそういう機微に鈍い女性のようですから」

「あいつは、お前らの事が好きだろう」

「貴方の事が好きなんですよ。……そのうち、彼女にも分かります」

 ふと、目を上げると、館の二階の一室に、まだ小さな明かりが灯っている。カーテンの間から小柄な人影がこちらを見下ろしていた。あれは、白野の部屋だ。

「なぁ、尋ねついでにもう一ついいか?」

「いいえ。訊かれちゃ困ります」

 冗談めかして、逃げる男に食い付いた。多分、今を逃したらもう二度と訊けそうにない。

「お前さんと白野坊やの、絆の深さは何なんだ? 普通じゃねぇぞ。……マジでヤバいと思う。これは刑事の勘だがな、ありゃ、お前……」

 朱里が静かにダグラスを見た。その黒い瞳の奥底に広がる闇の深さに気圧されて。口を閉じる。

「……俺は小鳥が心配なんだ」

 小さく謝罪の言葉を口にする男に、分かってますよ、と低く笑う。

「本音を言えば、小鳥さんにはこの屋敷を一日も早く出て頂きたいのです。今更、どう足掻いても、私達は変われませんから」

「あいつは、お前らの事が好きだぞ」

「だから困るんですよ。彼女が屋敷に来てからというもの、白野様は……よく笑う」

 短くなってしまった煙草の火をもみ消して。朱里は自分の顔を両手の平でパンッと叩くと、上体を起こす。屋敷に向かって歩き出す。

「おしゃべりが過ぎましたね。流石は刑事さんだ。誘導尋問が上手い」

「お前、さっさと嫁さんでも貰え。そして、ガキでもこさえて、ほのぼのしろ!」

 朱里の背中に声を掛ける。

「それは無理です。子どもの世話はシンドい。今日のことで痛感しました」

「慣れればどうって事もねぇだろう。元が小器用なんだし」

「いえ。何と言いますか……。ガキは一人で充分です」

「はっ。そりゃあ、てめぇがあんまり猫っ可愛がりにし過ぎるからだ」

「もう、染みついてるんですよ。抜けやしない」

「白野バカめ」

「何とでも」

 ヒラヒラと片手を振るのを別れの挨拶に、朱里は振り返りもせず歩いていく。

 気が付けば、二階の明かりは既に落ちていて、屋敷には夜の静寂が立ち込めている。ダグラスは一つ深いため息をつくと、車のエンジンをスタートさせた。

 ……時折、一方が一方の背中をじっと見詰めているんだ。スゲェ目をして。あれは憎悪の目だ。あの二人の間には、何か底の見えない闇がある。

 ダグラスはそれが何なのか知りたいと思った。そして、知りたくないと思った。叶うものならこのまま、ただ。時が流れていけばいいと思った。


■■6


「いないいない、ばー」

「あぶぶぶぶー」

 赤ん坊は、キャッキャとご機嫌だ。おもちゃのガラガラを拙い手つきで振って遊ぶ。あれから、三日が経っていた。

「画廊でしばらく預かるよ。この子のお母さんが引き取りに来るまで」

 子どもを然るべき施設に移すべきか否か。その問題に、白野は当然のようにそう言った。

「来るのか?」

「うん、来る」

 ダグラスの問いに答える少年の言葉は確信に満ちている。誰もそれに異議を唱える者は居なかった。幸福画廊の不可思議はこの少年の不思議であった。

「小鳥ちゃんにすっかり懐いちゃったね」

 子どもの笑顔をスケッチブックに描き写しながら、白野が言う。速いペンタッチで一枚。そしてまた一枚。くるくると目まぐるしく変化する幼子の一瞬一瞬の表情が、白い画用紙の中に描き留められる。

「オムツ換えも上手になったし」

「だって、あのダグラス刑事に劣るのって、女としてのプライドが傷ついちゃうじゃないですか」

「きっと、小鳥ちゃんは良いお母さんになれる」

「どうかしら、わたしっておっちょこちょいだから。……でも」

 白野がペンを止めて、小鳥を見た。

「……なれるなら、この子のお母さんになりたいな」

「……」

 今、手に抱いている小さな存在は、もうじき、然るべき居場所へ戻っていく。それがこの子の幸せなんだ。解っているのに、何故だか切ない。館の扉が早くノックされる事を祈りながら、同じ頭でずっと誰も来ないことを願っている。

「ふふ、ずっと抱っこしてたら何だか情が移っちゃて」

 白野が再び、紙の上にペンを滑らせ始める。掛ける言葉は見つからなかった。

「……こういうのも、良い人ぶってるとか、偽善だとかって、言われちゃうのかな?」

 小鳥が小さく一人ごちる。

「この前の、猫嫌いのお婆さんの話ですけど。わたしね、以前にも偽善者って言われたことがあるんです。子どもの頃、内戦の起こっている国に居たことがあるって、前にお話ししましたよね?」

「うん」

「戦場カメラマンだった父に連れられて、あちこち回っている時に、一つの難民キャンプを訪ねる機会があったんです」


 そこは、非道い有様だった。地雷や爆撃で傷ついた大人や、重い病に喘ぐ老人、餓えに苦しむ子ども達。そこで目に映る全ての物はこの世の苦しみに満ちていた。小鳥はキャンプの奥まで入っていくことが出来なかった。皆、虚ろな目をしていた。生きていない人のようだった。不意に。後ろから、服が引かれた。

「?」

 振り返ると、自分とさほど歳の変わらない少女が、小鳥のシャツの裾を遠慮がちに握っている。汚れてボロボロのシャツの間から覗く手足が、切ないほどに細い。痩せている所為でとても大きく見える瞳の中に、少し強ばった顔の小鳥が映っていた。

「こ、こんにちは」

「……」

 無理に笑顔を作って挨拶をする。

「わたし、小鳥っていうの。あなたの名前は?」

「……」

 うろんな目をした少女は答えない。半開きの口元には、小さなハエがとまっていた。

「あ、あのね……」

「……ャ」

 小さな震えがちの声が言った。

「え?」

「アイシャ」

「アイシャちゃん、か」

 答えてくれた事にほっとするが、その後の会話が見つからない。家族の話は絶対ダメ。こんな国で、この子のお父さんやお母さんが生きている保証なんて何処にもない。テレビの話だってダメだ。大体、この子は一度でもテレビを見たことがあるのかどうか。

「あ、あのね。……そうだ。これ、あげる」

 小鳥は、ポケットの中を探った。小さな塊を取り出して、女の子の手に乗せる。

「?」

 不審そうにアイシャが手の中の物を見た。白くて丸い固いもの。

「飴玉だよ。ミルクキャンデー。他のは全部食べちゃったんだけど、一個残ってて良かった。あ、私はね、車に戻ったらまだ沢山持ってるから。遠慮しないで食べて食べて」

 アイシャが恐る恐るみたいにして、飴玉を口に含む。舐めて、途端に大きく目を見開いた。泥だらけの両の手でそっと自分の口元を押さえる。その手が微かに震えている。

「美味しい?」

 無言で頷く。何度も頷く。そのまま、地面にぺったりと座り込んで甘い味を噛みしめるようにじっとしている。閉じられた瞳から涙が滲んでいた。

「アイシャ」

 修道服を着たシスターが歩いてくる。国際協力ボランティアの女性だろう。地面に座り込んだままのアイシャを抱き起こす。

「ここを訪問される人たちから、食べ物を頂いてはいけないと言ってありましたね」

「……」

「あちらにお行きなさい」

 アイシャが小鳥を見た。じぃっと小鳥を凝視してから、ノロノロと歩み去っていく。少し足を引きずっていた。

「お嬢さん、困ります。あんな事はしないで下さい」

 遠ざかる少女の細い影を目で追いながらシスターが言う。

「此処にいる方々は皆、とても食べ物に不自由しています。私たちと違って飴なんて見たこともない人達なんです。アイシャのこれからの人生に、甘いお菓子を食べられる機会は二度と来ないかも知れません。どれほど食べたいと願っても叶わないのですよ。それなのに、美味しい物を知ってしまうなんて、とても不幸な事だとは思いませんか?」

「……」

「貴女は良いことをした、と思っているかも知れませんが、手に入る筈もない幸せを無理矢理教えてしまうのは残酷です。それは偽善です。神様がお許しにならない、最も重い罪ですよ」


■■7


 そろそろ眠くなって来たのか、赤ん坊がむずかり始める。抱き直して、その背中をぽん、ぽん、と叩きながら、小鳥は話し続ける。

「あの時、シスターの仰った事も分かるんです。人間って知ってしまうから、欲しくなっちゃうんですよね。食べ物でも兵器でも他人の持ち物でさえも。無ければ無いで、これまでちゃんと生きて来れた筈なのに、知ってしまうとものすごく欲しくなる。人間って強欲な生き物ですものね」

 うとうとと眠りの国に落ちていく坊やの安らかな顔が愛らしい。そっと起こさないように、ソファーに下ろした。子どもが自分の服の端を握りしめたまま眠っていることに気づいて、小鳥は淡く微笑む。そっと指を外して、タオルケットを掛けてやった。

「でも、わたし。自分のした事が悪い事だったとは、どうしても思えないんです。だって、とっても美味しそうに食べてくれてたんだもの。たった一度きりの幸せでも、例えその所為でその後不幸になるとしても。何も知らずに生きていくよりは、知っている方がステキなんじゃないかって。

「……白野様、こんな風に考えてしまうわたしって、やっぱり何も分かっていない偽善者ですか?」

「……偽善という言葉は、罪の言葉なのかな?」

 ペンとスケッチブックを置いて、白野が言う。

「え?」

「例え何と呼ばれようと、それだって善意なんだと僕は思うよ」

「白野様……」 胸がじわっと熱くなった。

 そうなんだ。わたし、生きていることは知ることなんだと思う。何一つ知らされないのなら、それは死んでいるのと同じこと。沢山知ると言うことは、それだけ一生懸命生きてるってこと。人は全て、知るために生まれてきたのだから。知らない方が幸せなことも確かにこの世の中にはあるだろうけど、知らずに笑っているよりも、知って泣ける方がいい。

「何やら難しい話をされているんですね。それは、イヴの囓った林檎の物語ですか?」

 朱里が午後のお茶の用意を載せた盆を抱えて、入ってきた。今日のお菓子はタルトらしい。いつもの万能執事ぶりは何処へやら。朱里は子どもの世話の一切を小鳥に任せたきりで、自分はほとんど別室に居て、育児に関わる全てから、逃げの一手を打っている。

 白野が相づちを打った。「そうだね。これはあの物語に似てる」

 『エデンの園の楽園で、神に造られしアダムとイヴは神の庇護と愛の元、何不自由なく幸せに暮しておりました。彼らは悩みを知りませんでした。苦しみを知りませんでした。

 でもある日、悪い蛇にそそのかされたイヴは禁断の赤い知恵の実を食べてしまったのです。そして、アダムもまた……。神は大変お怒りになり、彼らは楽園から追放されてしまいました。それ以降、人間は自分の犯した『原罪』故の苦悩を背負う事になるのです』

「あ、ホントだわ。旧約聖書の話にそっくり」

「つまり、この問題は、有史以前から人間を悩ませてきた難問だと言うことですね」

 朱里がそう結論づける。

「やだ。じゃあ、わたしってば蛇なの?」

「小鳥さんはイヴでしょう。神に禁じられた禁断の果実を丸囓りするだけの度胸と胆力のある女性の代表ですよ」

「……何かその言い方に悪意を感じるわね」

「おや、心外ですね。これでも素直に賛美しているんですよ。私はそんな度胸のなかったアダム側の男ですから」

「でも、アダムだって最後には、禁断の実を食べるでしょ?」

「アダムはただ、楽園に一人取り残される孤独に耐えられなかっただけかも知れません。それでなければ、全知全能の神が怖かったのですよ。だから、わざと実を食べて、神の

御前から逃げ出したんです」

 クスクスと小鳥が笑う。

「すっごく新しい解釈よね。論文を書いて学会に提出したら、物議を巻き起こすかも」

「それほどの新説でもないと思いますよ。男は女性に適わない。ただそれだけの真理です」

 朱里が肩を竦めてみせる。


「さて、そろそろダグラス刑事が来る時間ですが。白野様、準備はもう出来ましたか?」

「うん。これだけあれば足りるんじゃないかな」

 トントン、とテーブルの隅で画用紙を揃える。

「それじゃあ、そろそろ出掛けましょうか?」

 立ち上がる二人に、小鳥が慌てて訊ねた。

「え、行くって何処へ?」

「この子のお母さんを見つけに、ね」

 その台詞に驚いてしまう。

「居場所が分かったの?」

「ううん。分からないよ。だからね」

 白野が眠っている赤ん坊のほっぺたをツンと突いた。

「今から、この子にお母さんを呼んで貰うんだよ」

 小鳥ちゃんはこの子とお留守番していてね。

 そう言い残して、朱里と白野が出て行く。窓から覗くと、門の辺りで、丁度やって来たダグラスと合流している。男三人で二言三言会話を交わすと、三者三様に出掛けて行った。

「……何やる気なんだろ?」

 まあ、彼らのやる事だ。きっと本当に、この子のお母さんを連れて来てしまうんだろうけど。幸福画廊の魔法は、いつだって目に鮮やかだ。

「早く、お母さんが来るといいね」

 小鳥は赤ん坊の頭をそっと撫でる。ふわふわした羽毛みたいな髪の毛が、指に心地よい。

「早く、お母さんが撫でてくれるといいね」 そっと、赤ん坊の頭を撫でる。


■■8


 ああ、またここまで来てしまった……。

 気が付けば、あのお屋敷が近かった。他にどうする術もなくて、断腸の思いで手放すことを決心したはずなのに、ついふらふらと足がこちらに向いてしまう。

 今更だわ。未練だわ。私は坊やを捨てたのに。女は自嘲気味の哀しげな笑みを浮かべて、元来た道を戻ろうとした。

「……?」 そこにふと、恋しい坊やの幻を見たような気がして、立ち止まる。おずおずともう一度振り返ると、道沿いに続く塀に一枚の絵が無造作に貼り付けられているのを見つけた。近寄ってみる。

「坊や……!」

 一時も忘れたことのない、坊やの顔だった。拭おうとしても拭えない、瞼に焼き付いた我が子の顔。見間違いかと思う。でも、見間違える筈もない。ほら、この目、この鼻、この口元。坊やだわ。坊や。私の坊や……!

 塀から紙を剥がし取って、じっと見詰める。どうして、この子の絵がこんな所に貼られているのだろう? 不思議な思いに駆られながら、坊やがそこに居るはずのお屋敷のある方角を見る。あっ、と小さく声が漏れた。道の少し先の塀にも白い何かが貼られていた。夢遊病にかかったように、女はそこに吸い寄せられていく。やはりそこにも、紛れもない我が子の絵が貼られていた。最初の一枚は午後の温かい日差しの中で微睡むような表情だったが、今度の絵ではほ乳瓶を銜えている。とても美味しそうに一生懸命ミルクを飲んでいる。頬を心持ちすぼめるようにする表情は、いつも私がこの手で飲ませてあげていた時と同じ。私の胸に抱きしめていた時と同じ……。女は急いで絵を剥がす。何かに突き動かされるようにキョロキョロと周囲を見回す。また一つ見つけた。小走りに走る。今度は先の電柱だ。にっこりと笑っている顔があった。この片えくぼは私とお揃い。キャッキャと遊ぶ顔があった。お気に入りのガラガラを握っている。眠っている顔があった。右手の親指を吸いながら眠るのがいつもの坊やの癖。長い睫毛があの人譲り。みんな、知っているわ。この顔もあの顔も、みんなみんな私の大切な……。

 女は走る。我が子の面影を求めて母が走る。拗ねている顔。怒っている顔。何かにビックリしている顔。坊や、坊や、坊や、坊や! 見覚えのある門の前で。女は足を縺れさせて、転んでしまった。抱えていた絵が辺りに散らばる。それを必死でかき集めて、道ばたに座り込んだまま、女は絵の中の我が子を夢中で抱きしめる。

「ハア、ハア、ハア、ハア……」

 息が切れる。一体どの位走ったのか。

 女はゆっくりと顔を上げた。その瞳から今まで耐えていたはずの涙が零れ落ちる。嗚咽が漏れた。屋敷の門に貼りつけられた最後の一枚。坊やの顔が、泣いていた。


「……来たようですね」 朱里が、窓越しに外を見ながら呟いた。

 赤ん坊を抱いていた小鳥が、一瞬びくっと身を竦める。この子は、わたしの事なんて、すぐに忘れてしまうだろうな。自分が親に捨てられたことも、知らずに大きくなるんだろうな。坊やの無邪気な笑顔が無性に哀しかった。隣に座る白野に子どもを渡す。

「ごめんなさい。わたし部屋に行ってます。お母さん見たら殴っちゃうかもしれないから。ごめんなさい!」

 パタパタと部屋を走り出ていく。白野は静かに目を伏せる。ソファーから立ち上がったダグラスが、ほぅーっと大きな息を吐く。コキコキッと首を鳴らした。

「……んじゃ、ちょっくら連行してくるわ」

「私も行きましょうか?」

「大丈夫だろ? 凶悪犯でもあるまいに。……ただの母親さ」


「いやー、半信半疑だったが、白野坊やの言うとおり、ちゃんと母親が来て、良かった良かった」 母親と子どもを駅まで送った帰り道。ダグラスが晴れ晴れとした顔で言う。別れ際。彼は母親に一枚のメモを渡していた。彼の恩人であるセント伯爵の運営する慈善施設の住所と電話番号。困ったことがあったら、ここに行くように、と言い添えて。

「来ますよ。他ならぬ幸福画廊の主がそう言うんですから」

「しかし、よくもまあ、あんな手を思いつくもんだ」

「だって犯人は必ず犯行現場に戻って来るのが常道なんでしょ? ダグラス刑事」

 ふふっと白野が笑う。

 『……ここは人が幸福になれる場所だって口づてに聴いて。それに立派なお屋敷だったし。あの日、このお館の窓から私、そっと見たんです。楽しそうな笑い声と温かで美味しそうなご馳走の香りがして……ここだったら、きっと坊やを幸せにしてくれるって思って』

 子どもの置き場所に幸福画廊を選んだ理由を、女はそんな風に話していた。

「なぁ、お前ら一体何者なんだよ?」 オフレコで教えろ。そう問う男に、朱里は少し考えるそぶりをする。そして、こう返した。

「……さて? 何なんでしょうね。私にも実はよく分からない」

 朱里は、脇に伸びる道を見る。この先に小鳥が言っていた緑の屋根に低い垣根。猫を忌み嫌う老女の住む家がある。朱里は知っていた。以前の老女は近所でも評判の猫好きだった事を。そして老女の孫娘が猫を追いかけて道に飛び出し、車に跳ねられて死んでしまった事を。老女がその事で自分を非道く責めた事を。あの老女は今日もきっと、猫を追い散らしているのだろう。多分生涯、猫を嫌って生きるのだろう。

 朱里は、その事を小鳥に告げる気はなかった。知らせて、それでどうなると言うのか。元より猫に罪がある訳ではない。猫にエサをやる行為に罪がある訳でもない。ただ、知っているか知らないかで全く同じ物でもそこから見える事は大きく違ってくる、というそれだけの話だ。あの老女の孫娘が生き返ってくる訳でもない。運命は決して変えられない。

 『人は全て、知るために生まれてきたのだから。知らない方が幸せなことも確かにこの世の中にはあるだろうけど、知らずに笑っているよりも、知って泣ける方がいい』

 小鳥は、そう言っていた。確かに理想を言えばそうなのだろうが。この世には知らなくても良いことが多すぎる。だとしたら。

「……知るだけ、損ですよ」 一人、小さく呟く。


「おい、執事。何トロトロ歩いてるんだ。さっさと帰ろうぜ。小鳥の事も心配だ」

 ダグラスがさっさと行ってしまう。それまでダグラスと肩を並べて歩いていた白野は、歩調の遅れた朱里を立ち止まって待っていた。

「ねぇ、朱里」

「はい?」

「ダグラス刑事って良い人だね」

「そうですね」

「それでもって、小鳥ちゃんが好きなんだよね」

「はい」

「じゃあ。やっぱりもう、うちに小鳥ちゃんは置いておけないね」

「……」

 小さな蝶がひらひらと飛んで、少年の肩口に止まった。すぐにまたひらひらと飛び去って行ってしまう。

「……寂しくなるな」

「私がおりますよ」

「うん」

 夕陽が二人の影を長く道に伸ばす。やがて、その影も見えなくなった。


■■エピローグ


「今がチャンスですよ、今しかありません!」

 そう言いつのる黒服の男に、ダグラスはたじたじとなる。

「な、何だよ、藪から棒に」

「小鳥さんを口説くなら、今が絶好のチャンスだと申し上げているんです。女性は寂しさに気弱になっている時に口説くに限ります。甘い優しい言葉を掛けてあげればイチコロです」

 屋敷の居間。その室内。そこには現在三人の男が居る。微妙に腰の引けた様子の刑事と、それにのし掛からんばかりに詰め寄る執事。そして、この館の主白野である。こちらは一人ソファーにくつろいで、事の成り行きを面白そうに見守っている。

 ちなみに、先刻から会話に登場する小鳥はというと、二階の私室に閉じ篭もったきりだ。

「……お前、畜生並にマジで性格が悪い奴だなー」

「失敬な。私だって心を鬼にして言ってるんです。言葉足らずの男と、超鈍感な女の子がくっつくチャンスなんて、これを逃してありますか」

「だ、だからってなぁ」 何時まで経っても煮え切らない男に、朱里が最後通牒を渡した。

「往生際が悪いですよ。観念なさい。男ならここらできっちり決めて来なさい!」

 何だか何処かで聞き覚えのある台詞である。こいつもしかして赤ん坊の父親にされかけた事、スゲェ根に持ってやがるんじゃあ……。そう黒い疑惑が浮かんで来なくもなかったが、朱里の言うことにも一理はあった。まぁ確かに、このままでは俺の恋心はずっと平行線のままだ。その上、強敵のライバル二人はお姫様と一つ屋根の下で暮らしてると来てる。どう考えても俺が一番分が悪い。この際、正攻法などと綺麗事を言っている場合ではないのかもしれない。敵に塩を送られるどころか、塩を蒔かれている気もするが、応援してくれることに変わりはあるまい。

「……おっし。やってやろうじゃないか」

「やっていらっしゃい」

「やれーやれー」

 何処かズレてる歓呼の声(?)に送られて、ダグラスは、階段を上がっていった。


「大丈夫かな?」

 言葉ほど心配してもなさそうに、白野がつぶやく。ふわぁーと大きなあくびをした。

「さて?」 朱里はというと、あれだけダグラスを焚きつけたにも関わらず、こちらも階上の動向に大した興味はないようだ。読みかけの本のページを開いて、目で活字を追い始める。白野は手慰みにガラガラを振って遊び始めた。赤ん坊が忘れていったものだ。今頃どうしているだろう。母親の胸の中にしっかり抱かれて寝ているだろうか?

 ドスン。バタン。やにわに。二階が騒がしくなった。主従は、揃って天井を見上げる。振動で小さな埃が落ちてくる。そろそろシャンデリアの埃を払う必要があるな。朱里は頭の中でメモを取る。

「……クッション、投げてるね」

「……そうですね」

 ドタドタドタドタ。

「出てけ~!」

 バッターンと大きな地響きを立てて閉じられるドアの音。

「うわっ、おい、小鳥、小鳥っ!?」そして、情けない男の声。

「……」 階下の二人は、申し合わせていたかのように、互いの顔を見合わせた。少年が天井を指さして問う。

「前途多難?」

「知りませんよ」

 苦笑する。少しほっとした気がしてしまうのは、多分この主も同じだろう。全く上手く行かない。困ったものだ、何事も。

「もう、僕、上に上がっても良いのかなぁ?」

「いいんじゃないんですか?」

「じゃあ僕、寝る」

「ホット・ミルクをお持ち致しましょうか?」

「ん、いい。すごく眠いから。おやすみ、朱里」

「お休みなさい」

 白野はまた一つ、大きなあくびをしながら、部屋を出て行った。


「ダメですねぇ」

 とぼとぼと階段を降りてきた傷心の男に、朱里は痛恨の一撃を与える。非情だ。情け容赦もない。

「全く、何と告白したのやら……」

「……うるせぇ」

 何とも情けない表情を浮かべた男は返す言葉にも精彩がない。「はぁぁ~」と深いため息をつく。

「一杯飲みにでも行きますか?」

「あん? 白野坊やのお守りはいいのか?」

「あれだけの枚数の絵をお描きになったんです。今夜はくたびれて熟睡ですよ」

「お前、俺が小鳥に言った台詞を聞き出して、嘲笑う腹づもりなんだろう。……絶っ対に言わねぇぞ」 傷心故か、疑心暗鬼に駆られる男に、笑い混じりにこう言った。

「聞きませんよ、私はね」

 そこで、ちょっと言葉を切る。何処か噛みしめるように言葉を繋ぐ。

「この世には、知らない方が良いことも沢山あると思ってますから」

 知らないことは災いだ。知り過ぎることも災いだ。多分エデンの園に住む蛇は林檎の木の枝に巻き付きながら、そんな事を叫ぶのだろう。

「フン……。で、どっちの奢りだ?」

「失恋記念日を私に祝って欲しいんですか?」

「まだ、諦めてねぇぞ! 俺は!」

 朱里が笑った。

「それでは、折半で」

 各々に上着を取ると、男二人が連れ立って、ドアを出て行く。

 テーブルの上には、天井から散った多少の埃と、そしてガラガラが一つ。



幸福画廊

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩はたいても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。


幸福画廊

 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。

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