第3話 その道の果て

■■プロローグ


『ジェームズ・E・アイヒマン狙撃される!

 15年という長期戒厳令の続くA国にて、同国屈指の天才画家として名高いジェームズ・E・アイヒマン氏(65歳)が〇日未明、自宅居間にて何者かに狙撃された。頭部、右肩等に3発の銃弾を受け、意識不明の危篤状態が続いている。


 平和・友愛などを謳った数々の作品で世界的な賞賛を浴びる同氏は、積極的に反政府活動に参加するなど、同国内外に置いて多くの著名人の支持と信望を集めていた。

 狙撃には現政権側の何らかの関与が囁かれているが、A国政府筋はこれを強く否定している。』



「…………って、こ~んな記事はどうでもイイの!」

 昼食を取る為に寄ったカフェで、小鳥は新聞のページをガサガサとめくった。弾みでフォークを落としてしまう。慌てて拾い上げたら、今度はテーブルの角に頭を思い切りぶつけてしまった。


 ゴンッと本人以外にとっては、かなりに小気味良い音がして、周囲の客がクスクスと笑い声を立てる。それをギロリと視線で一括してやって……。小鳥は求職案内の記事に目を落とす。

 目下失業中。これといった特技も技能もコネもナシ。そんな彼女に勤められそうな職種の記事は、当然ながら限られている。


「やっぱ、コレかなぁ~」

 <メイド募集>の記事に赤丸をつけ、コーヒーの残り一口を飲み干すと、小鳥はレシートを取って立ち上がった。さりげなく、痛む頭を擦りながら……。


■■1


「白野様、お荷物が重くはございませんか?」

 横を歩く朱里が訊ねる。白野が抱えた紙袋の中身はリンゴである。アップルパイの材料になる予定の品だった。散歩ついでの食材の買出し先で「今日のお茶菓子に如何です?」と聞いてみたら、普段全く食事に関心を示さない白野が「美味しそうだね」と応えたのだ。

 朱里は俄然はりきった。小麦粉やら香り付けに用いる洋酒やらなにやらかにやら。予定外の沢山の買物をして、ハタ、と気付いたら、肝心のリンゴを持つ手は既に塞がってしまっていた、という訳だ。


 線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛。そんな容姿だとは言え、白野は男で、この程度の荷物すら持てぬ、というほどにひ弱でもない。共に長く生活している朱里がそれを解からぬ筈もないのだが……。とにかくこの朱里という男には白野の世話を焼くことが、とことん骨の髄まで染み付いているらしかった。


 白野はチラリと長身の召使いを見上げた。薄く口が開かれたが、物言いたげな口唇が吐きだしたのは、小さな吐息だけだった。

 ため息をつきつつ、道の角を曲がる。もう館はすぐそこだった。


「おや?」

 朱里がずり落ちかけた買物袋を抱えなおす。

「お客様、でしょうか?」


 一人の女が門の中を懸命に覗き込んでいる様子が見えた。


 チャイムを幾ら鳴らしても、閉ざされた門の奥に見える屋敷はしん、と静まりかえっていた。


「ココでいいのよねぇ~。住所、ちゃんと合ってるもんねぇ~。もう! 誰も居ないのかしら?  ふっざけないでよねぇ~。わたしの就職がかかってんのよ、もうもうもう!」

 渡された住所のメモと、その同番地の門構え。その両方に視線を行ったり来たりさせながら、半分意地になってチャイムを鳴らし続けてみる。


「……貴女は当家のお客様ですか? それとも、チャイムを壊そうと企む悪者ですか?」

 掛けられた声に振り返ると、大きな紙袋を抱えた長身の男と少年が立っていた。小鳥は思わず赤くなる。大急ぎでチャイムから手を離した。

「あ、あの。このお屋敷の人……ですか?」

「左様でございますが、どういうご用件でしょう?」

 応じる男は肩の辺りで束ねた黒く長い髪の毛がカッコイイ、ワイルド系のハンサムだ。傍らの金髪の少年も女の子かと見紛うくらいの美少年で、小鳥は更に赤くなる頬を自覚した。


■■2


「この絵に……?」

 白野が当惑したように小さく問い返す。小鳥はそんな彼の前に淹れ立てのお茶を置いた。


 小さなアパルトマンの、小さな住まい。そこが小鳥のほやほやに新しい職場だった。

 求人広告の主は40代前後のジムと名乗る外国人で、それに臆する小鳥に向かい、流暢な言葉でこう言ったのだ。


「ここに書かれている住所に行って、【幸福画廊】の画家を連れて来なさい。それが採用の条件だ」と。



 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 そんな噂は小鳥も耳にした事があった。ただのおとぎ話だとそう思っていた小鳥に対し、男は確かに画廊は存在するのだと言った。雇用の給金や条件は彼女に有無を言わさぬ厚遇なもので……。小鳥は半信半疑のまま、画廊を捜すことになったのだ。



「…………」

 白野が無言で絵を凝視する。壁に立てかけられたその絵はかなり大きな油絵だった。

 暗い画面。黒い森。そして、画面手前から奥に向かって一筋の道が伸びている。

 道の先は……。先はなかった。何もない。その絵は未完成なのだった。


「そうだ。この絵の、この道の先。この道の果てに続くものを君に描き添えて貰いたい。この絵を完成させる事、それが私の依頼内容だ」

 ジムはそう頷いた。


 着いた先の古い館で【幸福画廊】の画家がこんな少年だと言われ、正直「もうダメだ~」と思った小鳥だったが、それでも一応事情を話して、少年を連れ帰って来てみると。

 意外にも。ジムは一目でこの少年を信じた。白野の両手を握り締め、「一度会ってみたかった」と喜んだ。


 小鳥はめでたくメイドとして採用される事になり、現在こうしてお茶を配っているのである。



「……何を描くの?」

 白野が絵を見つめたまま、ジムに訊ねる。


 暗い画面。黒い森。その中を曲がりくねって伸びる道。

 わたしならドラキュラ城とコウモリを描くな……油絵なんて描けないケド。ぱっと見で小鳥はそう思う。

 でも、ヘンな話。自分が雇われた経緯もヘンだし、画廊の話だって、やっぱりものすごく嘘っぽいと思う。何でもかんでもヘンすぎる。



「……失礼。なべをもう1つお借りしたいのですが」

 朱里が台所から顔を覗かせて小鳥を呼ぶ。部屋の中には甘い香りが漂っている。リンゴのコトコト煮える香りだった。

「……はいはい」

 この男もかなりヘンだ。幾ら主人の白野が食べたいと言ったからって、ヒトん家まで来てアップルパイなんか焼くか? 普通??


「……何を描き足せば良いの?」 再度問い掛けた白野に、ジムが答えた。

「何でも」

 白野がジムを見つめる。その目に挑むように男はもう1度繰り返した。

「何でも、君がそこに<在る>と思うものだよ。この道の先にあるものだ」

「それが貴方の<望み>なの?」

「そうだ」

 白野の青い瞳が男を見つめる。吸い込まれそうに澄んだ美しい青だった。


「少し、考える時間が欲しいな……」

「分かった。よく考えてくれたまえ」 そう男が応じた。


■■3


「おかしな依頼ですね……」

 パイ生地を整えながら朱里が言葉を漏らした。

 どうやら、パイ製作に没頭しているような顔をしつつ、しっかりと隣室の話にも聞き耳を立てていたらしい。


「おっかしいワよ。すっごく変」

 成り行きで、その作業を手伝うハメになった小鳥がボヤいた。

「貴方達ってホントに【幸福画廊】なワケ? 貴方達が描いた絵を見ると、み~んな幸せ一杯になっちゃうワケ? あの子とあんたって何者なワケ?」


「私は白野様の執事ですよ。絵は描きません」

 朱里が答える。

「【幸福画廊】にはいつもこんな依頼が来るの? 何でもいいから描け、だなんて、あの子がおじゃる丸描いたらどうすんのかしら?」

「おじゃる丸?」

「某国営放送人気アニメ番組よ。知らない?」

「一向に。……すみません、バターを取って頂けますか?」

「はいはい。でも、ある意味こんな依頼ばっかりだったら楽だわよね~。おじゃる丸で幸せになれるかどうかは知らないけど」

 朱里が小さく吹きだした。

「白野様もその何とか丸はご存じないと思いますが。このような依頼も初めてのケースですし」

「あ、そうなの?」

「はい。とても珍しいご依頼です」


 隣室に続くドアを見つめる。

 静かだ。話し声も聴こえてこない。きっと白野はまだ考えているのだろう。依頼主のその心を。


「……それに、非常に<珍しい依頼人>でもあるようだ」

 溶いた卵黄をハケでパイ生地に塗りつける。オーブンの設定温度を確かめて、時間をセットする。

「手際がいいのね。もう出来ちゃった」

「趣味ですから」

 目を丸くする小鳥に向かい、朱里は笑ってそう答えた。


■■4


 結局、その日は泊りになった。白野は翌日になっても、まだ筆を取ることはなく、ただ考えつづけている。

 あてがわれた部屋の余り上質とは言えないベットに腰をおろして、白野はじっと絵を見つめたまま、まんじりともせぬ夜を過ごした。


「白野様、少しは何か召し上がらないと身体に悪うございますよ」

「…………」

「この依頼、私からお断り致しましょうか?」

 栗色の巻き毛が横に振られる。

「しかし、お休みも取らず、お食事も召し上がらずでは……」


「僕はあの人に応えたい」

 ふう……と朱里はため息をついた。こうと言い出したら、とことん頑固な主人なのだ。滅多にその感情も意思も言葉にすることすらないが、柔和な印象の外見からは想像もつかない程の強固な意志と、精神を秘めた少年。それが白野なのだった。そうでなければ、【幸福画廊】など存在出来る筈もない。


 哀しみも喜びも苦しみも怒りも、そして迷いさえも。全てを知ってこそ描かれる絵画。それが【幸福画廊】の絵なのであり、だからこそ人はそれを求めるのだから。


 朱里がもう一つ、ため息をつく。

 主人の気持ちは分かっているが、これでは白野の身体がもたない。それも確かなことだった。

「分かってる。少し休むよ。起きたら昨日食べ損ねたアップルパイを食べる」

「妥協案ですか。分かりました。温かいミルクといっしょにお持ち致しましょう」

 床につくと、大した間を置かずに静かな寝息が聴こえ始めた。



 暗い画面。黒い森。その中を曲がりくねって伸びる細い道すじ。

 朱里はベットのふちにそっと腰を落とすと、未完成の絵をじっと見詰めた。

 ざわざわとまるで生きているように蠢いてさえ見える暗黒の森。その1本1本の木々が全て、今にも道を覆い隠しそうな様子は、例え未完成とは言え、そこまでを描き出した者の傑出した才能を物語って余りあった。

 暗い漆黒の画面の中にぼうっと浮かび上がる道。うねる道すじは、そのまま作者の慟哭と苦悩の表れなのだろう。その苦難の道の果て。そこには虚無が広がっている。成そうと我武者羅に歩き通して、そうまでしても尚、成し得ない焦燥と苦渋。


 先はなかった。何もない。何もない未来にこの道は続いているのだった。


■■5



「ああ、君、白野君は?」

 居間に戻ると、ジムが感に堪えたように立ち上がって朱里に訊ねた。

「白野様はもうしばらくお休みになられます」

「彼は描いてくれるのか? <道>を見つけてくれるのか?」


 朱里が僅かに目を眇める。

「そんなに道が欲しければ、ご自分でお描き沿えになっては如何なのです?」

「な、なんのことだね?」


 小鳥は驚いて朱里の顔を見詰めた。昨日台所でパイを焼くのが趣味だと微笑った男とは、到底思えぬ冷めた口調が信じられない。


「貴方の指のそのペンだこ。身体に染み付いた絵の具の匂い。あの絵を描かれたのは貴方ご自身なのでしょう? 何故【幸福画廊】に頼むのです。幸せを描く事はどのようにでも、貴方にだって可能な筈です。貴方にはそれだけの力量がおありだ。貴方自身がそれをご存知の筈ですが」


「え? え? え??」

 小鳥にはワケが分からない。私の主人も画家だって言うの? どーゆーこと?


「<幸せ>だって?……」

 差された指。確かにそこには節くれだったタコがあった。永く描き続けて来た者だけが持つ指で、ジムは自分の頬を撫でた。

「君は何も分かっちゃいない。あの絵にはこの世の闇の全てがある。欲望や裏切りや嫉妬。争い、死、涙、怒り、そして支配!」

 ジムは顔を擦り続ける。その目に、あの絵と同じ虚無がある。


「君には分かるまい! 正しさの質さえも歪められてしまう場所の中で戦い続ける苦しみなど。戦いの果てに待ち受けていた絶望という名の痛手など。

<幸せ>だって? 私が求めているのはそんな半端なものじゃない。確かなものだよ。正しいものだ。【幸福画廊】の絵は<真実>を見せるのだと聞いた。私は自分の選んだ道が何だったのかを知りたいだけだ!」


「絵は僕が完成させるよ」

 激したその場の空気を諌めるように、澄んだ静かな声音が告げた。


「白野様」

 朱里が主人の傍らに寄る。バツの悪そうな表情が浮かんだ。

「すみません。お起こししてしまいましたね」


「本当に? 真実を私にくれるのか?」

「【幸福画廊】は決して嘘をつきません」 挑戦的に朱里が応じる。

「ああ……そうじゃない。疑っている訳ではないんだ。真実は本当に在るのか? と訊ねているのだ」

「まだ……僕にも見えて来ない。でも、必ず見つけるよ」

「私には、もうそれ程多くの時間がないが……」

「分かってる。<知って>るから」


 白野の声は瞳と同じく、青く青く澄んでいた。ジムはそんな白野の瞳を見詰める。

「そう、か。それでは信じて待とう」

 男は、ひどく疲れたらしく、ソファーに深く座り込んだ。頭を両手で抱えたまま、じっと黙して動かない。



 朱里が目線で小鳥を呼んだ。

「彼に何か温かいものを……。きっと凍えていらっしゃいます。私もつい出すぎた事を申し上げてしまいました。謝っておいて頂けますか?」

 小声でそう告げる。彼自身は自分の主人の肩を抱くようにして、部屋へと戻って行ってしまった。

「あのぉ……。コレ……」

 言われた通りにお茶を注ぎ、男の元に運んで行く。

「ああ……」

 顔を上げた男に驚いてしまった。


「ち、ちょっと。真っ青じゃないの! どっか具合でも悪いんじゃないの?」

「大丈夫だ。心配ない」

「ゼンゼン大丈夫そうじゃないよ~。折角雇ってもらったのに、すぐに入院とかされちゃあ、私また無職になっちゃう~」

 バタバタと駆け出して行き、すぐに毛布を抱えて戻ってくる。

「とにかく、横になった方がいいわ。ひゃあ! ジムさん……じゃない。ご主人様、なんでこんなに手が冷たいの? 氷みたいに冷えてるじゃない」


「……君は面白い娘だね」

「へ?」

「私の願いに応えて、彼らを呼んで来てくれたのは、君だけだったよ。ありがとう」

「えっと、それは……私もおかしな事になってるなーとは思ったけど、やっぱ、お金の為って言うか、え~と、そのぉ~」

「少しガサツさが目立つし、おっちょこちょいな気もするが、優しい良い娘だ。……君のような娘が一人欲しかったな。いや。あの場所に居れば君もやはり変わるだろうか?」


「へ? よく分かんないんだけど。でも、わたしは何所に行ってもわたしなんだと思うけどなぁ~」

 小鳥はジムが声を立てて笑うのを初めて耳にした。


 この人と出会って、まだたったの2日目だけど。

 ジムはもう長く笑うことを忘れていたんだろう、と思う。女の勘って奴だ。

 メイドって仕事も悪くないかも知れない。結構わたしに向いているんだったりして……。あれこれとジムの世話の焼きながら、小鳥はそう考えた。


 あの朱里という男。彼もこんな事が好きなのかも知れない。誰かに喜ばれる楽しさが。


「朱里、あの人の望みは何だと思う?」

「彼の言葉通りでしょう。彼は恐らく答えが欲しいのです。見失ってしまった<道しるべ>を貴方様に求めている……。画家として同等の力量を備えた貴方に」


 白野は大仰に眉をしかめて渋面を作って見せた。

「いつもと勝手が違いすぎる。<僕の心>を描けだなんて!」


「本当に。しかし、これも【幸福画廊】に寄せられた心の1つではあります。……答えは、もう見つかりましたか?」

 こくり、と頷く白野がアップルパイを頬張る。

「私も今度の絵は、とても楽しみにしております」

 朱里がミルクのお代わりを注ぎながら、そう微笑んだ。


■■6


 絵が完成したのは、それから更に二日後だった。


 憔悴しきった白野の青白い顔は、この絵の完成に彼がどれだけの心血を注いだのかを、ありありと感じさせて……。小鳥は画家というものの魂の真髄を、そこに見せ付けられる思いがした。


 絵は二人の画家の競作とはとても思えぬ出来栄えだった。筆の運びや色彩の調和。それらが流れるようにダイナミックに一つの世界を構築している。


 暗い画面。黒い森。その中を曲がりくねって伸びる細い道すじ。

 ざわざわとまるで生きているように蠢<いてさえ見える暗黒の森。その1本1本の木が全て、今にも道を覆い隠しそうな様。小鳥はそれを通してジムの心を見ることが出来た。

 彼の周囲に渦巻く欲望や裏切りや嫉妬。争い、死、涙、怒り、そして支配!


 暗い漆黒の画面の中にぼうっと浮かび上がる道。うねる道すじは、そのまま彼の生き様であり、慟哭と苦悩の歴史だった。彼はその苦難の道を何を目指して歩むのだろう?



 その道の果て。

 二日前までは虚無だったその場所に、今、白野の描き足した彼の心のたけがあった。


 描かれているものは1つのアーチ状の窓だった。

 窓は大きく左右に開かれ、道はその中へ……そこから広がる青い空へと高く高く上っていく。光の中へと道はどこまでも高く、永久に続いていた。


「僕は……この道の先に続くものは<希望>だと思う。それが僕の出した答えだよ。」

 白野がジムを見詰めた。描かれた空と同じ、青い瞳で。


「私が死んでもこの道は続くと思うかね? まだ暗黒の時代は続く。私は道半ばで息絶える。それでも……この窓は閉ざされないと思うかね?」

「例え、貴方が倒れようと、後続を継ぐものが必ず現れるでしょう。貴方の意思は決して途切れる事はない。貴方が歩んできた道を行き、そしてその先を目指す者が、いつの日かこの森を越えて行く。……私もそう信じます」 朱里が応じた。


「君は……君はどう思う?」

 ジムに聞かれて小鳥は目をしばたいた。ポロリと瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「わたし、難しいことは分かんないけど、この絵好き。こんなキレイ空が見れるのなら、この怖そうな森の中、歩いて行っても構わないよ……」

「そうか。……そうか」



「如何です? 貴方のご依頼に沿えましたか? 貴方が求めているものはこれとは……違いますか?」

「ああ……そうかも知れん。私はそれが知りたかった。道の先に続くものが。絶望で霞んで、私にはもう何も見えなかったのだよ。全てが無に帰した気がしたのだ。もう何も出来ない……。この私にはそれが何より辛かった!」


 白野がにっこりと微笑んだ。

「これはやっぱり貴方の絵だよ。良ければサインを入れて、きちんと完成させてやって」

「ああ……そうだったな」


 ジムが細い絵筆を取った。

 腕が動く。『J・E……』



「本当に、ありがと……う……」

 そう言ったジムの輪郭がゆらり、とぼやけた。そのままゆっくりと彼の微笑が薄れていく。

 絵筆がことりと床に落ちた。誰も居ない床の上に。

「きやぁぁぁぁ~~~~~~!!!!」

 信じられない光景。小鳥はそのまま、気を失った。


■■7


「大丈夫ですか?」

 目を開けると、そこには髪の長い丹精な男の顔があった。


 ココはどこ? わたしってばダレ?

「…………!!!!」

 ガバッと飛び起きた小鳥の頭と衝突する寸前で、朱里はすっと身体を引いた。この男、料理の手際のみならず、身のこなしまで切れがある。

「どうか、落ち着いて下さい。さあ、冷たい水ですよ」

 それを一気に飲み干して、小鳥はやっと声を出せた。


「あ、あ、あ……。アレは何? ねぇ、ジムさんはどーしたの? 一体全体ナニがどうしてどうなったの?」

「ジム氏は逝ってしまわれました」

「……あ?」

「気付いておられるのだと思っていましたが。貴女が暇つぶしにめくっておられた新聞に、彼の記事がありましたので」

「……何のコトよ?」

「A国の天才画家・ジェームズ・E・アイヒマン氏の事です。一面に、彼の狙撃事件の記事が掲載されていたでしょう? 写真も載っていたではありませんか」 そう言いながら件の新聞を手渡した。


 カフェで読んだ覚えのある記事だった。確かに写真もあった……と思う。ひげの長い、意思の強そうな老人の横顔が。

 髭を取って……シワを省いて……もうあと十数年分若返らせたら……

「ジ、ジ、ジムさんっっ!!!」



 ”本当に、ありがと……う……”

 その言葉を最期に、彼は3人の目の前ですっと消えて行ったのだ。煙のように……。


「じゃあ、アレって……。ジムさんはジェームズ・E・アイヒマンのユーレイ……」

「先ほど、ラジオで氏の死を知らせるニュースを聞きました。……してみると、この4日間の彼は幽霊ではありません。正しくは『生霊』とでも呼ぶのですかね?」

 朱里が涼しい顔をして、小鳥の認識の誤りを訂正する。

「なんで遠い国の画家のユーレイが、こんな所に出てくんのよ!? 一体ナニがどーなってんのよ?」

「いや。ですから。彼は幽霊ではありませんよ。今出ていらっしゃればそうお呼びする事も出来ますが」

「いい~! 出て来なくていい~~!! 来ちゃイヤ~。来~な~い~で~!!!」


 毛布を頭まですっぽりと被り丸くなって震える小鳥に、朱里は知らず、ため息をつく。

「もう、ジム氏は来ないでしょう。彼は答えを見つけました。あの絵の中に」


 暗い画面。黒い森。その中を曲がりくねって伸びる細い道すじ。

 その道の果てに窓がある。道は光へと続いている。


 その絵を枕元に、反対側のベットでは、小鳥の騒ぎ声さえ知らぬげに、白野が安らかな寝息を立てて眠っていた。


■■エピローグ


「とにかくですね。貴女が大丈夫なようでしたら、私と白野様は館に戻らせて頂きます。もう、依頼は果たしましたし、ここに用はございませんので」

 そう言うと、朱里は白野の体を包んだ毛布ごと軽がると抱き上げた。膂力があるのか、運ばれる少年が見た目以上に軽いのか? は小鳥に分かる由もない。


「ち、ちょっと待ってよ。あんた達、じゃあ知っててここで絵を描いてたの? ジムさんがユーレイだって分かってて、ここに4日間も居たって言うの?」

「私も風変わりな依頼人だとは思いましたのですが、白野様がお引き受けになりましたから」

「……あまつさえ、アップルパイまでこしらえて」

「白野様が召し上がりたいと申しておられましたので」

「白野様、白野様って、あんたは一体ナンなのよ?」

「私は【幸福画廊】の執事。我が主の忠実なる召使でございます」


 小鳥はがっくりと脱力するのを感じた。

 ある意味、オバケよりも、こいつらの方が特殊な存在かも知れない……。



「……あ! そういえば、【幸福画廊】の依頼料って、ものすご~く高額なんじゃなかったっけ? ユーレイさんだったから、今回はロハなの? 特例処置?」

「いえ。料金は確かに頂いておりますよ」

 朱里はそう言いながら、前もって梱包しておいた絵を肩に下げた。

「この絵にはアイヒマン氏直筆の署名がございます。天才画家の遺作です。出所の不審さを抜きに致しましても、法外な値が付くのではないか、と」

 すまし顔で微笑む目元がカッコ良すぎる。

 ……信じられない。なんて抜け目のない男!


「ち、ちょっと待ちなさいよ! わたしは? わたしのお給金は? ……え? ジムさんが死んじゃったってことは、わたしはまた失業者に逆戻りってコトになるワケ? わたしは一体どーすればイイわけぇ~?」

「何分、相手が相手でございますから、貴女の場合、特例処置でロハなのでは?」


 涼しい顔でそう言って、朱里はアパルトマンのドアを開けた。眩しい陽射しが差し込んでくる。

「それでは、さようなら。小鳥さん」

「……サヨナラ」

 毛布の中から、白野が手だけを伸ばしてひらひら振った。

 そんな腕の中の主を見下ろす朱里の笑顔が陽射しに溶け込む。


 【幸福画廊】の絵画より、ずっと幸せそうな絵だ、と小鳥は思った。


■■おまけ


「待って! 待ちなさいよ!! 止まれったら~!!!」

「……何なんですか? 一体」

 間を置かず、追いすがってくる小鳥の姿に、朱里は仕方なく、足を止めた。


「わたしを雇ってください!!」

 必死である。声も自然とデカくなる。


「……突然、何を言ってるんです? 貴女は?」

 朱里が不快げに眉をひそめる。かなり長身なこの男の、高いところから見下ろしてくる視線は予想以上に威圧的なものだ。しかし、小鳥にも簡単に怯むわけにはいかない事情ってもんがある。

「わたし、【幸福画廊】のファンになったの。お宅で働きたいんです。何でもします。皿洗いでも、洗濯でも、トイレ掃除でも」

 お願いします。どうかわたしを雇って下さい!

 一気に言い切って、頭を下げる。必要なら土下座でも、3回まわって「ワン」でも、ひざまずいて足をお嘗め! でも何でもやる。そのつもりだった。そう、世は就職難なのである。うら若き乙女の身で無職無住は悲しすぎる。


「貴女、一体……」

 朱里がそう言いかけた時。

「いいよ」

 澄んだ声が応えた。

「白野様!?」

 慌てて朱里が未だ腕の中の主人を見る。もこもこと今度は毛布から顔だけを覗かせた。

「朱里一人ではあの館の管理は大変だろうと思っていたんだ。いいよ。メイドとしてでもいいなら雇うよ」

 それでこの件はすんだ、とでも言うように、そのまま、また毛布の中へと潜り込む。気分はハムスターだった。



「……」

 コトの展開が飲み込めなくて、小鳥はぽか~んと口を空けて呆けていた。必要なら何でもやる! と思いつつ、ダメだろうナ~とは思っていたのだ。彼女にもイチオウの常識くらいはあるらしい。

 朱里の方は……と言うと、何やらブツブツと口の中でつぶやいている。


「ほら、さっさと帰ろうよ、二人とも。あ。小鳥ちゃん、朱里の荷物、持ってやって。絵の角が当たって僕痛い……」

 朱里が大きなため息をつく。呆れたように首を振り振り歩き始める。

 小鳥も慌てて付いていく。朱里から絵を預かるその顔は、まだ呆けたままだった。



 明るい陽射しの照りつける細い道すじ。足の速い朱里に遅れまいと急ぎながら。

 今、わたしってば<希望>に向かって歩いてんのかなぁ~?


 ……などと小鳥はぼんやり思うのだった。




 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 【幸福画廊】


 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。

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