VP3『天使の渇望 ―the thirsty angel―』
Project.森内
天使の渇望 ―the thirsty angel―
笑いたい時に笑ったことも無ければ、
泣きたい時に泣いたことも無かった。
それが私。
誰かに強要された訳じゃない。
自分から変えるつもりも無い。
それが私。
天使の渇望 ―the thirsty angel― 著:森内まさる
Pr.「死んだ魚の目のずっと奥の」
時刻は二十時を回った。マンハッタンの空はすっかり闇に覆われ、地上に光が灯る。それは暗黒街であるヘルズキッチン一帯も変わらない。
「ハタケヤマ氏より連絡。協力できる離反者の数はおよそ十五との事です」
運転席のアランにギリギリ届く微かな声で、レミィは告げた。それを受けて車載の通信機に手を伸ばすアラン。
「こちらG班。各車、準備は良いか――」
空は雲が覆い隠し、僅かな隙間に星々が瞬くだけだった。ただ月だけはその中で煌々と輝き、宵闇に紛れて屋敷を囲う車両を照らしていた。
「キングストン、そちらはどうだ」
同行している女流記者に、アランが聞いた。
「……ん、機材の状態は良好。いつでも始められるよ」
レミィには度し難い事だが、この女流記者が本作戦の要だという。
訝しんでいると、アランに車から降りるよう促された。どうやら屋敷内の状況は、かなり切迫しているらしい。
女流記者が重そうな機材を持ち上げ、屋敷に向けて発光させる。
「B班C班、間髪入れずに行くぞ。すぐ準備しろ」
アランが通信している間に、記者がもう一度光らせる。
「D班はワンテンポ遅れて突入。退路を確保。G班帰投まで死守しろ」
最後に、とアランがこちらを振り向く。
「G班の各員。今回も期待している。頼むぞ」
屋敷の中、二階の窓から光が返ってきた。合図だ。
G班の班員は一人も欠けることなく、光を認識した瞬間に駆け出していた。
アランが各班に指示を送る。正面玄関では撹乱のための戦闘が始まったことだろう。
「このままG班は突入する! 目標は二階東窓! 俺に続け!」
塀を足場に飛び上がり、ガラス窓を自らの身体で突き破るアラン。この程度の無茶はもはやG班では見慣れているので、全員無言かつ流れるような動作で後に続いた。
難なく侵入を果たした二階廊下にて、レミィに通信が入る。
「…………。班長、D班が敵の待ち伏せにあったようです。指示を頼むとの事」
よほどのことが無い限り、臨時の判断はそれぞれの班に任せてある。指示を仰ぐという事は、班長クラスがやられたという事だろう。
「そうか……レミィ、D班の援護を頼む。退路の確保は任せた」
決定は迅速に下され、レミィもまた素早く「了解」と呟き、その進路を変更する。
玄関での戦闘と一階裏口での待ち伏せ。敵はこの二つに戦力を割いたようで。なるほどG班の突入が上手く行くはずである。こちらが本命であるとも知らずに。
階段を駆け下り、裏口であろうと思われる通路に閃光弾を放る。中はわざわざ確認しない。きっとそこで合っているはずだから。
飛び込んで、銃を構える。困惑した表情のマフィアたち。それはそうだ。なぜか後ろから手榴弾が投げ込まれたと思ったら、突然視界を奪われ、目が見える頃には挟み撃ちの構図。その隙を逃さずに弾丸を放つ。
「撤退!」
そう叫んだのはマフィアではない。レミィがD班に告げたのだ。
「負傷者を運んで、一旦外まで戻ります!」
マフィアの間を、大胆にも縫うようにして通り抜け、D班と共に扉まで後退するレミィ。
「くっ、逃がすな! 撃て!」
だがしかし、マフィアたちの放った弾は虚しく扉を叩くだけだった。
さて裏庭に前線を再構築したわけだが、戻ってくるG班の退路の確保のためには、やはり先の通路を含めて制圧しないといけない。
「すまない副司令……私の不用意のせいで……G班の貴重な戦力を……」
腹部に被弾したD班の班長だ。幸い内臓は逸れているようだから、大事には至らないだろう。
「待ち伏せされていたのでは仕方ありません」
それ以外、特に気の利いた言葉は見つからなかった。
「お困りのようだなァ」
聞き覚えのある声――というか数時間前に聞いた声。
「とりあえず今動ける人間を集めた。いけるか?」
ざっと五名程度だろうか。月明かりに照らされた裏庭に、精悍な男たちが集合する。
「ハタケヤマですか?」
たしか警察署に転がり込んできた頃には大怪我していたのでは……。
疑問に思いながらもD班の班員に指示を出し、裏口の周りに配置させる。
「それでは彼らと共に援護してください」
おそらくもう時間が無い。アランは社長室に辿り着き、例の二人を救出した頃だろう。策を練ったり手段を選んだりしている暇はないのである。
「ちょ、ちょっと待ちな。嬢ちゃんが先頭で突入なのか?」
さすがにハタケヤマは待ったをかけるが。レミィは気にせずドアノブに触れる。
「私の事なら何も心配は要りませんので」
言うなり突入する。待ってましたと言わんばかりに引金を引くマフィアたち。二発はレミィに到達する前に床を穿ち、一発は左肩の横を掠めて行った。
「当たりませんよ」
姿勢を低くして額を狙った弾道を回避し、的確に反撃の弾を当てていく。
「くそっ! 来るなぁ!」
若いマフィアに距離を詰め、首筋に蹴りを入れる。その間にも銃弾は飛来するが、腕と胴の間、蹴り上げた脚の至近などを通るのみ。
「当たらないって言ってるじゃないですか」
五発、六発……まるで見えているかのように、レミィは弾の軌道に合わせて回避する。そして回避の延長のように、自然と反撃へ転じる動き。
マフィアの放つ弾は、衣服をわずかに傷つける以外は、全くレミィに当たることは無かった。
「貴方たちの使っている銃。それらに装填された弾。貴方たちの配置。それぞれの体格。廊下の空間的特徴――最初に見た時で大体覚えました。そして、それら銃や弾が持つ諸元やクセの情報もまた、私は全部記憶しています。どこからどう来るか分かるんですから、気を付けていれば避けるのは簡単です」
廊下に立っている者は、ついに一人になった。援護射撃に徹していた部下たちがそろそろと入ってくる。
裏口の攻防戦終結と同時に、二階から救出された二人が下りてくるのが見えた。
「任務……完了」
この日、マンハッタンは大きく変わったのだ。
Act.1「漆黒の歌姫」
夢だと理解するのに、数秒と掛からなかった。すでに何度も同じ夢を見ているからだ。
自家用車の後部座席に座っていて、窓の外にはどこか懐かしい風景。だが一瞬にしてその景色は赤い炎と黒い煙に支配され、夢であるのに肌が焼かれるような灼熱感に襲われる。
その後は数式。数式、数式、数式。数式の羅列。宇宙のような空間に意識だけが投げ出され、周りを無数の数式が舞う。それは決して綺麗なものではない。終わりはいつも、自分がその数式に押し潰される。
「――――ッ!」
何度見ても慣れない悪夢から飛び起きると、部屋には微かに陽光が差し込んでいた。
「……はぁ……はぁ……ふぅ」
寝間着は汗でぐっしょりだ。幸い時間はあったので、今朝はシャワーを浴びてから出勤することにした。
ニューヨーク市警、レミーリア=エスクワイア捜査官。曲者揃いのマフィア対策本部の中で、「怪物」と畏れられるアラン=エヴァンス主任捜査官の右腕を務める。そして彼女もまた、曲者の一人でもある。
コートを羽織って家を出ると、街は例年にない賑わいを見せていた。何やら有名な歌手か何かが、マンハッタンでの公演を控えているらしい。というか今日がそうらしい。
そういった話題には全く興味がないため、今の今まで気が付かなかった。警察官としてはもうすこし市民に近付くべきなのかもしれない……などと考えていると、前方から見覚えのある無個性極まりない顔が近づいてきた。
「あ、レミィさんじゃないですか! お久しぶりです!」
雑誌社ヴァーミリオン・プレスの記者、アイザック=マクスウェル。
「病院以来? 珍しいところで会うわね」
そしてその先輩、ルッカ=キングストンだ。とても年上とは思えない身長と顔。
二人は件の有名な歌手――ミリアン=ギャンの取材へと向かうようだ。
「相当有名なんですね。そのミリアンという方」
言った瞬間、記者二人に「なんで知らないんだ」みたいな顔をされる。
「いやいやいやいや有名も何も『漆黒の歌姫』ですよ? アメリカ全土にその名を知らない者はいないって程ですよ!」
知らない者が現にいるのだが。ここに。
「例に漏れず僕もファンですけどね。ヴィオラも好きらしいので」
急に惚気だした。
「おらさっさと行くぞザック! 一番乗りしてやるんだから!」
ルッカに首根っこを掴まれ、そのまま劇場の方へと二人は消えていった。
「……にぎやか」
***
さて、署に出社したは良いが、上司であるアランの姿が見当たらない。仕方なくモーニングコーヒーを淹れている同僚のデリクに声を掛けた。
「どおわっ! あ、副長。お、おは、おはようございます!」
普段アラン以外の同僚とはほとんど言葉を交わさないため、たまに律儀に挨拶などをしてみるとこうだ。レミィに自覚は無い。
デリクはこぼしたコーヒーを拭きながら続ける。
「はぁ……びっくりさせないでくださいよ。おかげで目が覚めましたけど……」
そんなぼやきを聞き流しながら、ロッカーの中にコートを掛けて連絡掲示板に目をやる。アランの記述は無い。出勤札も、無い。
「班長ならまだ来てないですよ」
机の上に二杯のコーヒーカップを置いて、デリクは言った。
「ハイ、副長の分。砂糖は三杯でしたよね?」
礼を言って受け取る。馥郁たる香りが、レミィを少し落ち着かせた。
デリクによると、アランは出勤途中で民間からのタレコミを受けたらしく、緊急事案として現場へ向かったそうだ。
「マフィア関係でしょうか……」
「いや、捜査一課で受け持っている事案だと思います。班長は一課でも主任ですしね。ほんと憧れちゃうなぁ」
捜査一課の主任刑事にして、マフィア対策本部G班の班長を務めあげるアラン=エヴァンス捜査官。その実績を聞けば聞くほど、ほとんど人間をやめているようなものである。デリクのような若い捜査官が何人も目標にしては諦めている。
そのアランがいないのであれば仕方がない。溜まったデスクワークでも片付けようと椅子に深く腰掛ける。
電話はその時に鳴った。
《ハロー! ジャパニーズ・ピッツァのバイオレ――》
「すぐ行くのでお待ちください」
《バイオレット・マウンテ――》
「あ、いえ、もう大丈夫ですので」
《ジャパニーズ・ピッ――》
ガチャン。
今日一日の予定、変更。
「デリク、少し留守にします」
早速電話の主であるマフィアと情報交換に向かうレミィであった。
***
マンハッタン島。タイムズスクエア某所。
相変わらずの喰えない表情で、その男はカウンター席に座っていた。
「なんですかジャパニーズ・ピッツァって。意味不明です」
挨拶代わりに悪態をつきながら、隣に座る。
「おっ、こんな美人に声を掛けてもらうとはありがてぇ。どうだいお嬢さん……まだ日は高ぇが、俺と一杯付き合わ――」
「勤務中なので遠慮します。さっさと必要な情報を吐き出してください」
得意の軽口も絶好調のようだ。無駄に時間を浪費する前にそれを封じる。
キョウイチ=ハタケヤマ。元ログローシノ一家幹部にして、現在はそれへの抵抗勢力「ヴィオラ派」の一員。
「はぁ……ジャパニーズ・ピッツァは結構イケると思ったんだがなァ……」
ヴィオラ派が離反したあの日の夜から、ハタケヤマとは何度か情報交換で会っている。彼は各方面とのパイプとしての役割を担っているようだ。
「――市警の開示できる情報は以上です。最近は小規模な抗争ばかりで、情報戦も何もないですね」
ハタケヤマの頼んだグレイグースの氷が半分溶ける頃、一通りの情報交換が終わり、今回も互いに大した成果は得られなかった。マンハッタンを覆っていた二大マフィアが瓦解してから、単純に派手な行動をとる犯罪集団しかおらず、何か大きな計画が動いているような気配は無いようだ。
だが、柄にもなく隣のハタケヤマは黙り込んでいた。
「ハタケヤマ? どうかしましたか?」
問いかけに対しハッと我に返ったような顔をしたが、それと同時にレミィの電話が鳴った。
《あ、副長。デリクです。アラン班長から連絡がありました。なんでもタイムズスクエアの劇場にいるみたいなんですが……》
どうにも歯切れが悪い。
《何か衝撃音がして、それで電話が切れちゃったんですよね。あの班長に限って心配はないと思いますけど……。近くにいるなら念のため、現場に向かってもらえますか?》
デリクは心配ないと言ったが、レミィは何となく胸騒ぎがした。
ハタケヤマへの説明もそこそこに店を飛び出すと、劇場は意外と近くにあった。かなりの人だかりが出来ている。警備員にでも身分を明かして中に入りたかったが、こう人が多くてはその警備員を見つける事すらかなわない。
ほとほと困り果てていると、視界の先に見知った金髪を認識した。
「そこで何をしてるんですか」
ルッカが苦笑い顔で振り向く。場所は劇場の非常口付近。刑事として見逃せない行為に発展しそうな状況だ。
「あ、いや、これは誤解なの! っていうかもうザックが中に入っててね? 許可は取ったっていうか現在進行形で――」
劇場の外にアランはいないようだった。そして中にザックがいるのなら、何かを知っているかもしれない。「何か」に巻き込まれている可能性もある。
「一緒に行きましょう。キングストン記者。今の件は不問にします」
「許してください何でも、って……え?」
呆気にとられたルッカを尻目に、警備員をなお探そうとすると、非常口が内側から勢い良く開いた。
「おっと、失礼」
中から出てきたのは三十代の男性。
ちょうど良い、とレミィが警察手帳を取り出そうとすると、男の表情はみるみる変わり、物凄い剣幕でレミィに迫ってきた。
「アナスタシア……? アナスタシアじゃないか!」
聞き覚えの無い名前で捲し立てられる。
「まさか会えるとは思わなかった! 私だ! ブレンバーだよ!」
男の目は血走り、レミィの腕を掴む手には尋常ではない力が込められている。
「やめてください。私、アナスタシアじゃありません。ブレンバーなんて人も知りません」
とりあえず男に勘違いだと気付いてもらいたかった。
それにしても異常だ。人違いだとしても何かがおかしい。
「あら! ちょっとみんな、あれってミリアン様のプロデューサーじゃない?」
「うわぁ、本物よ! こうなったら彼ルートでミリアン様に……!」
人だかりの一角がこちらに気付いたようだ。その声が聞こえると同時に、男は途端に口を噤み、逃げるようにその場を去って行った。
「……なんだったのかしらね、さっきの。さすがの私も写真撮るの忘れちゃった」
あわよくば記事にするつもりだったのか。この記者は。
「それにしてもミリアンのプロデューサーだったとはねー。それを逃がしちゃうとは私もまだまだ、か」
言いながら非常口に足を踏み入れるルッカ。ついて行こうとすると、曲がり角からザックが現れた。
「せ、先輩……大変です」
その顔には恐怖の表情が貼り付いている。
「あぁ……レミィさんも、良かった……。今、警察を呼ぼうと……思っていたところ……だったんです」
デリクから連絡を受けた時から感じている胸騒ぎが、一段と大きくなった気がした。
曲がり角の先、ザックが出てきた方向の、ただ一つだけ扉が開いている控室を覗き込む。高鳴る鼓動は変わらないが、感情のスイッチはすでに切っていた。冷徹に、目的合理的に、レミィの得意とするやり方で。
死体が一つ。女性だ。
ミリアン=ギャンが殺されていた。
「マクスウェル記者。あとで詳しくお話を聞きます。その前に一つ……」
先ほどから妙に気にかかっていることを問う。
「劇場の中でエヴァンス捜査官を見かけませんでしたか?」
するとザックは少し驚いたような顔をし、口を開いた。
「ええ、会いました。何か捜査中みたいでしたけど。そうか……」
何やら一人で納得し始めている。
「僕、アラン刑事に変なことを言われたんです。あれはきっとレミィさんへの伝言だったのかも」
伝言……!
身を乗り出し、ザックに続きを促す。
「『天使』を追え――アラン刑事はそう言ってました」
Act.2「『天使』を追え」
レミーリア=エスクワイアの記憶の始まりは、たった五年前に過ぎない。
白い天井。白い壁。白いベッド……それが彼女の記憶の始まりだ。まだ名前すら無かった。
全身の包帯が半分ほど取れた頃から、若い刑事が頻繁に面会に来た。自分はひどい事故に遭ったのだという。彼女にそんな記憶は無かった。
刑事はよく彼女に話しかけたが、彼女は何も話さなかった。医師は精神的ショックによる一時的な失語症だと診断した。
面会が十回を超えた頃だろうか。刑事は事故の遺留品の一つを持ってきた。これしか残らなかった、と。
銀のプレート。かろうじて「レミエル」と読めた。天使の名前だ。名前が無いと不便だ、と刑事は言った。彼女は「レミーリア」と名付けられた。
彼女は彼女の記憶の中で、初めて言葉を口にした。「レミーリア」と繰り返した。刑事は彼女の手を取り、喜んだ。
一年経っても以前の記憶は戻らなかった。退院の時が近づいていた。
彼女は求めた。真っ白な記憶の中にある、たった一つの手掛かりを。あの刑事を求めた。
そして、さらに一年。彼女は「レミーリア=エスクワイア」と名乗り、警察入りを果たすことになる。
***
キョウイチ=ハタケヤマがログローシノ一家の麻薬チームリーダーに就いた頃には、すでに「天使」の取引はごく一部に限られていた。
正直に言って、彼の生来の気質はマフィアなどに到底向いているものではなかった。だが、組織のボスであるバルトロメオに拾われた恩もある。その仁義と才能で、彼は若くして幹部クラスにまで上り詰めた。
置かれている立場に違和感を覚えながらも、マフィアとしての自分に慣れつつある日々。だがしかし、新たな仕事である「天使」の管理は、彼に決定的な組織への反感を抱かせることとなった。
「天使」――「サースティエンジェル」と名付けられたその違法薬物は、中毒性や心身への影響のどれを取っても凶悪なものだった。バルトロメオがその昔、先代のボスを引き摺り下ろすために使ったモノの一つだという。
何にせよ、彼は「天使」の管理に積極的ではなく、結果的にチームの部下たちに仕事のほとんどを委任する形になっていた。
その後、彼の憂いの解消は意外と早くやってくることになる。部下が取引のために「天使」を運送中、交通事故を起こしたのだ。その責任を取る形で、彼はあっさりとリーダーの任を解かれた。
しばらくして、彼はバルトロメオの一人娘のお目付け役を任される。それが彼の転機となるのだが、それはまた別の話である。
***
マンハッタン島。マレーヒル郊外。
ミリアン=ギャン殺害事件の現場に、確かにアランは存在した。証人はザックだ。彼は劇場内でアランに会ったと言っている。
「『天使』を追え」
アランが残したメッセージらしい。その後、
「アランの旦那と連絡が付かなくなって、もう四日になるのか」
ハタケヤマがいつになく神妙な顔でグラスを傾ける。
この四日間、「天使」について市警のデータベースを徹底的に調べた。その結果浮上したのが、「サースティエンジェル」という名の違法薬物であった。
「そこまで調べて俺に会いに来たってことは――当然気付いてるんだな?」
ニヤリと口角を上げるハタケヤマ。いつもは絶対に晒すことのない、「マフィアの顔」が垣間見えた。
「ええ、元ログローシノ一家麻薬チームリーダー……当時、実際に『サースティエンジェル』を捌いていた貴方に」
「そのクスリが今回の事件に関係すると、マジに考えてるのか?」
ハタケヤマの切り返しは尤もだった。「天使」が本当に「サースティエンジェル」を指すのか定かではないし、そもそも「天使」自体ザックから又聞きした情報である。
しかし、今朝になって決定的な繋がりが判明した。
「ミリアン=ギャンの荷物から大量の『サースティエンジェル』が押収されました。司法解剖の結果、彼女の体内からも同様の薬物反応が検出されたようです」
市警に「天使」の記録があるのは三年以上前。それ以来、闇のルートでも姿を現さなくなった。
「ま、そこまでは辿り着けるよなァ……」
ハタケヤマは煙草に火を点け、レミィに当たらないように紫煙をくゆらせる。
「まだ正式な話ではありませんが、この事件についてハタケヤマ、貴方に協力してもらいたいと考えています」
レミィの依頼を聞いてしばらく黙っていたハタケヤマだったが、やがてゆっくりと語りだした。
「……俺の後任に就いた麻薬チームのリーダーがな、『天使』を使って荒稼ぎを狙ったんだ。それで警察やら何やらに睨まれちまって、それ以来流通しなくなった。それが三年前だ」
リーダーを解任された後、ヴィオラ派として抵抗するにあたって、ハタケヤマも独自に「天使」の動向を追っていたようだ。
「後任のリーダーは俺たちヴィオラ派の蜂起と同時に失踪しやがった。それと共に大量の『天使』の在庫は行方知らずだったんだが……」
なるほど。その大量の在庫分が、ミリアンの荷物から発見されたと言う訳か。
ハタケヤマは一度煙草を灰皿に置き、レミィへ向き直った。
「『天使』の行方が判明して、その持ち主であるミリアン=ギャンは死んだ。俺の『天使』に対する調査は終わった。お前たちに協力する利点は何も無ぇんだ。レミィ、悪いが今日はもう帰りな」
一息に言って、また煙草を手に取る。酸素を吸って二酸化炭素を吐く代わりに、煙を吸って言葉を吐いて生きているようだった。
そんなハタケヤマを見ながら、顔色一つ変えずにレミィは告げる。
「終わってませんよ。貴方の調査」
レミィは背負ってきたリュックから分厚いファイルの束を取り出し、半ば叩きつけるように店のカウンターに置いた。
「市警の保有するミリアン=ギャン殺害事件の関係者と、『天使』関係者の全情報です。私は全て記憶してますが、言っても信じてもらえないと思ったので、コピーを持ってきました」
相変わらず表情一つ変えずにしれっと言ってのける。
突然の行動にやや押され気味だったハタケヤマだが、すぐに真面目な顔に戻る。
「俺の調査が終わってない、だと?」
その問いに答えるため、レミィはファイルを開く。
「貴方の言い分では、『天使』を巡る事件は決着したと見受けられます。ですが、現にその調査に赴いたエヴァンス捜査官が未だに行方不明です」
ファイルのページを次々とめくるレミィ。
「ミリアン=ギャン殺害事件の犯人も、まだ捕まってません。その中でも最たる容疑者――事件当日に劇場から失踪を遂げた、彼女のプロデューサー、ジャクソン=ベケット」
ここでページをめくる手を止め、別のファイルを開く。
「失踪を遂げたと言えばもう一人、貴方の後任である麻薬チームのリーダー。名前を……」
すでにハタケヤマの額には冷や汗が滲んでいた。
レミィは目当てのページを開き、その名を口にする。
「ブレンバー」
「……マジ……かよ」
ハタケヤマは実にゆっくりとした動作で、煙草の火を揉み消した。
「この二人は同一人物ですね」
レミィ自身もすっかり忘れていた。あの日劇場の非常口前でプロデューサーに妙に絡まれた時、プロデューサーは自分自身の事を確かに「ブレンバー」と呼んでいた。市警の資料室で『天使』の関係者を一人ひとり記憶していた時も、すぐには気付かなかった。
「この男が全てを握っているのは確かです。まだ目的が見えてきませんが……」
すると突然、レミィの電話が鳴った。
《副長! アラン班長が見つかりました!》
例によって同僚のデリクからだった。
ついにアランが見つかった。吉報だ。
《ハドソン川の河口辺りで、満身創痍で発見されたらしいです!》
状況は穏やかではないようだ。
とにかく電話を置いて、店を出ようとファイルたちを仕舞い込む。
「待て! また鳴ってるぞ!」
ハタケヤマが電話を取ってよこす。今度はデリクからではなかった。明らかに不自然な音声……変声機だ。
《レミーリア=エスクワイア君だね。ブレンバーだ。君を待っている――》
Act.3「心の渇望」
その日、アナスタシアは非常に寝覚めが悪かった。
休日だったので二度寝しても良かったが、一階から物音が聞こえる。リビングに入ると何やら父が慌ただしくしていた。
「む、おはようアーニャ。お前も早く荷物をまとめて車に乗りなさい。詳しい説明は車でするから」
父は外出の準備をしているようだった。言われるままに、アナスタシアは自分の荷物をまとめ始めた。
「私は中和剤を作ると聞かされていたんだ……!」
時折、父の独り言が聞こえてくる。声の感じから、かなり切羽詰まっているようだ。
さすがに父が今までの研究書類を暖炉で燃やし始めた頃には、アナスタシアも異常性に気が付いた。
「とにかく一刻も早くここを離れなくてはならない……! アーニャ、私の研究室で見たことは忘れるんだ。いいね?」
脳裏に巨大な黒板に書かれた数式が浮かび上がった。忘れろとは無理な話だ。アナスタシアが一度憶えてしまったことは、本人の意思でも忘れることは出来ない。
「よし! 出発しよう!」
父と母に続いてアナスタシアも車に乗り込み、家を後にする。三人ともしばらく黙っていたが、父は「マンハッタンを出たら詳しく話そう」とだけ言った。
だがしかし、アナスタシアたちを乗せた車がマンハッタンの外に出ることは、ついに無かった。
***
「ようこそ、レミーリア君。そして、久しぶりですねぇ、ハタケヤマさん」
三十三番街のマンホールから降り、しばらく進んだ先に、その大空洞はあった。
コンクリート造りの巨大な空間の真ん中には、白衣姿の三十代の男。
「貴方が……ブレンバー」
ブレンバーは恭しく一礼し、肯定の意を表した。
「とっくにログローシノに消されていたと思ったがな……」
文字通り地下に潜っていたとは思わなかった、と皮肉交じりに笑うハタケヤマ。が、その顔は一瞬で険しいものへと変わる。
「今さら『サースティエンジェル』で何をするつもりだ!」
そんなハタケヤマとは対照的に、笑みを見せながら首を横に振るブレンバー。
「ふふ、『天使』は全て、ニューヨーク市警に、押収されてしまった。さすがの私でも、そうなっては、奪還できない」
「貴方にとって『天使』はもはや用済みだった。だから処分したんですね、ミリアン=ギャンと共に」
レミィが後を続けた。
「貴方には色々と説明してもらいます。ですがまずは……」
懐から警察手帳を取り出し、ブレンバーへ突き出す。
「プロデューサー、ジャクソン=ベケット。ミリアン=ギャン殺害事件について、署まで御同行願います」
容疑は固まっていないので逮捕は出来ない。そのため任意同行という形を取らざるを得ないが、拒否されたらされたで無理矢理公務執行妨害の現行犯として逮捕するなどいくらでもやり方はある。
「やれやれ。レミーリア君は、記憶力は評判らしいけど、捜査官としては、まだまだみたいだねぇ」
コンクリートの地下道に足音を響かせながら、ブレンバーはゆっくりとレミィたちに近付く。
「妙なマネはするんじゃねぇ!」
銃を向けるハタケヤマ。しかし、ブレンバーは構いはしなかった。
「なぜ、私が自分から、姿を現したのか。なぜ、アラン刑事を、今になって、解放したのか。なぜ、『天使』は、用済みなのか……」
レミィの眼前にまで迫り、その瞳を覗き込む。
「理由が、分かってないようだね。アナスタシア」
アナスタシア――あの日はただの人違いだと思った名前。だけど今は、察するに充分。それが恐らく、レミィの本当の名前。
脳内で自らの過去へのロジックが繋がった瞬間、レミィは無意識に警察手帳を落としていた。
「……?」
同時に視界が白濁する。
ハタケヤマを見ると、何かに合点がいったような顔をしていた。
「そう、か……エスクワイア……やけに珍しい苗字だから、偽名だとは思っていたが……生き残った少女か」
つまり、知っていた。ハタケヤマは知っていた。レミィが記憶を失った事故を。それはなぜか。他でもない。レミィが遭った事故と、ハタケヤマの部下が起こした事故が同じ事故だからだ。
「……あ……」
また一つ、記憶が過去へと繋がり、今度は平静を保てないほどの頭痛がレミィを襲う。
「始まったな……アナスタシアへの、回帰が。しばらくは、辛いだろう。絶対記憶能力によって、溜めこんだ無数の記憶が、雪崩のように、蘇るのだからな」
次第にレミィは立っていられなくなり、コンクリートの床に膝をつく。
「おい! どうしたんだレミィ! ブレンバー! レミィを使ってなにを……ッ!」
ブレンバーの合図で、大空洞の奥から銃を持った人間が溢れてくる。あっという間に大空洞全体を包囲してしまった。
「こいつら……『天使』の中毒者か……?」
クスリ欲しさにブレンバーに従う、どこの国の正規軍よりも忠実な軍隊だ。
「銃を捨てて下がれ、ハタケヤマ」
ハタケヤマが渋々ながら指示に従うと、ブレンバーはもう一度レミィに向き直った。
「では、改めて……久しぶりだな、アナスタシア。私だ、ブレンバーだよ」
「ブ……ブレンバー……ブレンバーおじさん……うッ!」
頭痛はさらに酷くなり、呼吸が乱れる。レミィはほとんど床にうずくまっている状態だ。
「今こそ全ての、全ての真実を、開示しよう。そして、君の記憶を以て、『天使』は進む、その先へ!」
「『天使』のその先、だと……? ブレンバー、お前は……!」
白衣のブレンバーはその瞳に宿した狂気をさらに輝かせ、愉悦に身を捩じらせる。
「もはや、『天使』ではない……より純度の高い、天使の心臓のみを、取り出した結晶――『サースティハーツ』は完成する!」
ブレンバーの盛り上がりに合わせて、『天使』中毒者たちが一斉に咆哮を上げる。
「最初の真実は、そうだな……。アナスタシア。君の家族は、私が殺した。事故に、見せかけてな」
「――ッ――!」
姿勢は相変わらずうずくまったままだが、身体が一瞬強張ったようだった。
「私は『天使』に魅せられた。『天使』のポテンシャルに気付いたのは、私だけだった。進化させるためには、『天使』の多くを、知る必要があった。私は旧友の、調剤師を頼った。それが、君の父親だ。最初は『天使』の中和剤を、作るためと伝えた。だが、成分解析が、終了した瞬間に、奴は嘘だと、気付いたらしい。研究結果を破棄して、マンハッタンから、逃亡しようとしていたよ」
「もうやめろ! それがお前の目的となんの関係があんだよ!」
見かねたハタケヤマが叫ぶが、無数の銃口の前ではそれが精一杯だ。
「まだ、分からないのか。重要なのは、アナスタシアが、アナスタシアとしての記憶を、完全に取り戻すことだ」
ブレンバーは身をかがめ、レミィの頭を指でコツコツと叩く。
「絶対記憶能力だ。アナスタシアは、見ている筈なのだ。完成した、『天使』の成分解析表を。そう――『
単に記憶力が良いという事ではない。一度見聞きしたことは瞬時に記憶し、永遠にそれを保持し続ける。それが絶対記憶能力。
「くそっ! レミィ! 戻ってこい!」
「ふふ、そろそろ君には、退場してもらおう、ハタケヤマ」
レミィの呼吸はいつのまにか穏やかになっていた。
「身体への苦痛は、消えたか。脳はまだ、混乱しているだろうがな。ちょうど良い」
先ほどブレンバーがハタケヤマに捨てさせた銃を、レミィの手に握らせる。
「君の両親が、亡くなったのは、ログローシノの麻薬運送車と、事故に遭ったからだ。その時の、麻薬チームのリーダーは、君も知っているね。そこにいる、ハタケヤマという、男だ。あの男がもっと、しっかりしていれば、君の両親は亡くならず、君も記憶を、失うことが無かった。そうだね?」
全てを仕組んだ自分の事は棚に上げ、混乱しているレミィの耳元で暗示のように囁くブレンバー。
「報いを、受けさせよう。簡単だ。君がいつもやるように、相手を狙って、引金を引けば、良い」
ブレンバーがレミィから離れると、まるで糸に引かれたように、彼女はスッと立ち上がった。案の定、銃口をハタケヤマに向けて。
「レミィ……くっ……!」
引金に指が掛かるのが見えた瞬間、ハタケヤマは前に走り出した。右肩を貫く痛みを堪え、二発目を撃とうとするレミィに飛び掛かる。
「馬鹿野郎! てめぇの身体ぐらい、てめぇ自身で支配しやがれ! 何が昔の記憶だ! 今この瞬間、てめぇの心が叫んでる声を、もっと素直に聞きやがれ!」
右肩を撃たれているのも忘れ、右手で思いっきりレミィの頬を張る。レミィに抵抗の意思は見えず、頭痛に襲われている様子も無かった。
「まったく、大したタフさだ。だが、邪魔はしないで、もらおう」
ブレンバーが懐から、自身の銃を取り出す。
「さよならだ。リーダー」
銃声。だがそれは、ブレンバーの物ではない。むしろブレンバーの銃が、撃ち落とされた。
「なんだと!」
「部下が世話になったな。ニューヨーク市警対『天使』臨時特務捜査班班長アラン=エヴァンス、推して参る! 総員突入、確保!」
***
大空洞に流れ込む警官隊。
迎え撃とうとする中毒者たち。だが、次々とその銃は撃ち落されていく。
「さすがの腕だな、デリク!」
レミィの同僚、デリク=ターナー。原隊のマフィア対策本部では、実は最高レベルの射撃の腕を持つ。
「班長にそう言っていただけるとは……感無量です!」
デリクはブレンバーが拾おうとした銃を、さらに遠くへ撃ち飛ばす。
「何故だ……アラン=エヴァンス……あれだけの重傷を、負わせたはずなのに!」
ブレンバーは「怪物」の脅威の生命力を侮っていたことを嘆いた。
が、しかし、中毒者と警官隊の人数比は、中毒者が勝っていた。ただでさえ禁断症状により狂暴化している。次第に警官隊が押されていった。
「やはり俺が……!」
アランが一歩踏み出そうとするのを、デリクが抑える。
「だ、駄目ですよ! 普通なら今頃病院のベッドで絶対安静なんですから!」
「だが!」
目の前で仲間が劣勢になっているのを見ているだけというのは、アランには耐えがたいことだ。
「遅くなりました! 各員、警察の方々の援護を!」
大空洞に響き渡る凛とした声に、全員が振り返る。たなびくスミレ色の髪、気品と力強さを兼ね備えた瞳。しかしそのシルエットは華奢な少女。
ログローシノ一家ヴィオラ派頭領――ヴィオラ=ログローシノの姿がそこにあった。
***
「始まりましたね」
現場の状況を逐一メモしながら、ザックが呟く。
「どんどん書いて、じゃんじゃん撮らなきゃ!」
ほぼ絶え間なくフラッシュを焚いているルッカがそれに応えた。
「この位置からだと……ヴィオラが見えない……」
「仕事に私情を挟むんじゃない!」
ある意味ルッカが一番仕事に私情を挟みまくっているのだが、言ったところでどうにもならないので、ザックは黙って仕事に集中することにした。
***
ヴィオラ派の加勢により巻き返した警官隊は、ほぼ一方的に中毒者たちを制圧していった。
「すまみせんね、お嬢。助かりました」
ヴィオラに右肩の応急処置を受けたハタケヤマ。
「あなたから急に連絡があったからびっくりしたけど、なんとか間に合ったみたいね。本当に良かった」
そこにアランも合流する。
「本来であればヴィオラ派も全員逮捕と行きたいところだが、今回は協力に感謝する。以上だ」
そう言ってすぐに踵を返してしまう。
「うちの班長、不器用なんですよ」
デリクはそう言ってニヤリと笑ってから、アランに付いて行こうとして、振り返る。
「そういえば、レミィ副長はどこです?」
その場にいた全員に鳥肌が立ち、辺りを見渡す。
レミィどころか、ブレンバーの姿も見えなかった。
***
大空洞をさらに奥に進んだ、小部屋の一つ。ブレンバーの研究室だ。
放心状態のレミィを息も絶え絶えに運び込んだブレンバーは、そのまま調合機材を忙しなく動かす。
「ふっ……馬鹿どもめ……ついに聞き出したぞ……サースティハーツの……設計図を……!」
複数の足音が小部屋に迫り、勢いよく扉が開け放たれる。
「抵抗はするな、ブレンバー!」
瞬時にブレンバーはフラスコを割り、その破片をレミィの首元に添えた。
「それ以上、近付くんじゃない!」
ブレンバーのもう一方の手には、無色透明の液体が入った試験管が握られていた。
「まさか……すでに完成したってのかよ……」
それを自らの口元へと近づける。
「私自身が飲むことは、予定していなかったが……。ここで終わるなら、せめて……せめて私が……!」
「やめろ! 『天使』系を原液のままで飲むことは命に――」
アランの制止も届かず、「サースティハーツ」の原液を一気に咽喉へと流し込むブレンバー。
「……? なんだ……ッ……これは」
急にブレンバーがむせ出す。アランの知る症状ではない。
「やっぱり、気付かなかったんですね。私が言ったのはただの食塩の化学式です」
そう言うなりレミィは立ち上がると、フラスコの破片を払いのけ、流れるような動作でブレンバーを拘束した。
「……任務……完了……」
Ep.「死んだ魚の目を笑う奴に」
「ひ、久しぶり。ヴィオラ」
実に九ヶ月ぶりだろうか。再会したヴィオラは前より少し髪が伸びて、大人っぽくなっていた。
「ザック!」
ヴィオラはこちらに気付くと、いきなり抱きついてきた。見た目以上に中身の積極性が向上している。
気を遣ってか、周りのマフィアたちが散っていく。
「会いたかった……! ザックの手紙と記事を読むたびに、ザックのことを思い出しちゃって……!」
「ヴィオラ……。君は、すごく強くなったね。この街を充分守れるくらいに。強くなったよ」
小さく頷いて、ヴィオラは名残惜しそうに身体を離す。
「もう行くの?」
「ええ、次また会えるのがいつになるか分からないけど……」
だがヴィオラは、さよならは言わない。それはザックも同じだ。
「また、いつか。いつかきっと会える」
ヴィオラは潤んだ瞳で応えた。
「そう……いつかきっと……」
一瞬だった。ヴィオラはまるで奪うように、唇に触れる程度のキスをして、ザックが理解する頃には駆け出していた。
「次はザックからだからね!」
耳まで真っ赤になるのが、自分でも分かった。
***
「ばっかやろーアランおまえー!」
視界の下の方で金髪が揺れる。
「また心配させるようなことしやがってー」
もちろんその声は籠っている。
「……なぁルッカ。いい加減にその泣き方どうにか――」
無言のボディアッパーをもらった。怪我に響く。
***
「いいのかよ。アランの旦那んトコに行かなくて」
本件最大の功労者は、祝勝に沸く大空洞の隅の方にいた。
「分かってますから。この状況でふさわしい人が誰なのかぐらい」
相も変わらず、表情は凍りついたままだ。
「私の班長に対する気持ちは、憧れみたいなものですし」
なんだか少しイジケているようにも聞こえるが。
「なんですかハタケヤマ。人の顔を見てニヤつかないでください」
「前から思ってたんだけどよォ。お前は俺より七つも年下だろ? 呼び捨てはどうかと思ってな……」
「警察がマフィアにさん付けですか……爆笑モノですね」
無論、この時も顔はまったく笑っていない。
「じゃあ俺もレミィじゃなくて、アナスタシアさんって呼ぶぜ」
「それギャグだとしても笑えないです」
ちょっとした悪戯心で地雷を踏んでしまった。小学生か。
「それに、そっちが言ったことじゃないですか『今この瞬間の心の声を聞け』って。だから私はアナスタシアではなく、レミィを選んだんです」
「え、なに、自由自在に切り替えられるモンなの?」
照れくさくなって、またおどけてしまう。
「いやそういう意味じゃないんですけど……」
大空洞の人気は少なくなってきた。中毒者たちの護送が始まったようだ。
「まぁ呼び方については善処しますよ。キョウイチとか」
「それさらに敬意が減ってるだろうが」
レミィが歩き出す。
「ほら、私たちも帰りますよ。キョウイチ!」
彼女が振り返った時、見たことのない笑顔がそこにあった。
「え」
確認しようと目を凝らすが、すでにいつもの氷のような鉄面皮に戻っていた。
「遅いですよ、キョウイチ」
「いややっぱそれなんか違和感ある」
***
笑いたい時に笑ったことも無ければ、
泣きたい時に泣いたことも無かった。
それはこの先も変わらない。
それが私。
でもたまには、素直になってみるのも良いかもしれない。
それも私。
きっと私。
「レミーリア=エスクワイア」という、一人の私。
Fin.
VP3『天使の渇望 ―the thirsty angel―』 Project.森内 @masaru_moriuchi
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