小風景の画家―少年ブリューゲルと名もなき人々
吾妻栄子
イカロスの翼(一)
「それ、イカロス?」
石造りの道路に描かれた絵を見下ろすと、少年は大きな緑色の目を見張った。
「父さんよ」
喪服も着ずにどこから来た子だろう?
十歳のマリアはそう訝りつつ、目にかかる亜麻(あま)色の前髪を煩わしげに払った。
そして、黒服の袖が汚れるのも構わずチョークで、路地の絵に雲を描き加えていく。
「天使になってお空を飛んでるの」
「その羽じゃ、お日様に溶けそうじゃないか」
少年は林檎の様に赤い唇をわずかに尖らせる。
「うるさい」
マリアは亜麻色の繊(ほそ)い前髪の下から、この北国の春空の色に似た薄い青の目できっと相手を睨みつける。
しかし、少年は意に介する様子も無く、すぐ隣に屈んできた。
「本物の羽ってこんな感じだよ」
少年は左のポケットから掌ほどの大きさの白い羽を取り出す。雪の様に白い羽の奥で、エメラルドに似た、円らな目がちかりと瞬いた。
「僕ならこう描くな」
言いながら、少年は右のポケットからチョークを取り出して、絵の中の父親の背に描き加える。
「ちょっと、勝手に描かないでよ」
マリアも小さな口を尖らせた。こちらは林檎の実というより、むしろ花びらに近い、淡い桃色の唇である。
「だってこの人は天使なんだろ」
少年は右手のチョークを動かす一方で、左手に持った羽を裏返したり、また表に返したりして検分しつつ、まじめな顔で説く。
「溶けて落っこちそうな羽にしちゃいけないよ」
少年は今度は羽の向きを横にして見直すと、カッカッとチョークの音を辺りに響かせた。
「落っこちそうって……」
マリアは言い掛けたまま口ごもった。こいつは何てことを言い出すんだ。
「マリア、何をしているの」
古びた黒のベールを揺らしながら、姉娘のマルタが家の戸口に姿を現した。
母さんの服を着ると姉さんは何だかおばさんみたい。
煤けた家の玄関から、生地のくたびれた喪服を纏って歩み寄る姉から、マリアは知らず知らず目を逸らしていた。
「お客様がまだいらっしゃるんだから、ご挨拶なさい」
家内を示して妹に告げながら、十七歳のマルタは少年の姿を認めて怪訝な顔をする。
「あなた、ご近所の方?」
ベール越しに問い掛ける薄青の瞳は、氷じみてよそよそしい。
「はい」
少年は慌てて白い羽をポケットにしまうと腰を上げた。
立ち上がると、まだあどけない顔に反して背は高い。
マリアはどきりとする。
もしかして、この子、あたしより、年上なのかな?
ずっと自分と同い年くらいに思っていたが、立ち姿を改めて見直すと、少年は十二、三歳に見える。
「三軒向こうに越してきました、ぺーテル・ブリューゲルです」
マリアの思いをよそに、少年は帽子を取ってマルタに会釈した。
そうすると、無造作に伸びた明るい栗色の髪がふわっと広がる。
この子、父さんと同じ「ペーテル」なんだ。
マリアはまたどきりとする。
まあ、よくいる名前だけど、それはさておき、この子も父さんと同じく絵を描くみたいだ。
「新しくいらした方ですか、それは、どうも」
軽く頭を下げながら、マルタはベールの下から、少年の継ぎの当たった袖やズボンの膝、靴の破れ目に目を注ぐ。
「今日は、うちはお葬式なので、日を改めてお宅にご挨拶に伺いますね」
きっと、この子とも遊んじゃいけない、と後で言われるんだろうな。ベールの下でうっすら微笑む姉の顔からマリアは察した。
姉さんは身なりの汚い子や何となく悪そうな子を見ると、わざと大人に話すような丁寧な態度を取るのだ。そんな風にされると、大抵の子は却って居心地が悪くなってそそくさと立ち去ってしまう。その後で、姉さんは勝ち誇った様にあたしに言い聞かせるのだ。
――ああいう育ちの悪い子とは付き合わない方がいいわ。
うちだって貧乏だし、母さんも生きていて家族四人で暮らしていた頃は、姉さんもそんな意地悪はしなかったのに。
「お葬式だったの?」
ぺーテルと名乗る少年は円らな緑の目を更に大きくして、マリアに尋ねる。
「父さんが死んだの」
だから天使になった絵を描いていたのよ。マリアはそう明かしてやりたかったが、急に胸が塞がる感触が襲ってきて、それ以上言葉が出なかった。
「ごめんね」
少年はまるで握手でも求めるようにポケットから先ほどの白い羽を取り出すと、マリアに向かって差し出した。
「これ上げるから、続きは君が描いて」
真っ直ぐな緑色の目に気圧されて、マリアは受け取る。
この子は少なくとも「悪い子」じゃない。
「それじゃ、失礼します」
言うが早いか、少年は帽子を目深に被り直して走り去る。
駆けていく焦げ茶色のチョッキの背で、剥がれかけた継ぎがヒラヒラ揺れていた。
「変な子ね」
マルタは少年の背が角の向こうに消えるのを見計らって息を吐く。
「変な子だよね」
マリアは少年の姿が見えなくなっても、道の角から目が離せない。
「また、そんな落書きをして」
マルタが急に呆れた声を出した。
あ、まずい。
後ずさりするマリアの腕をマルタが素早く捕らえた。
「見なさい、袖が汚れてるじゃないの!」
「これくらい水ですぐ落ちるってば」
逃げようともがくマリアの肩をマルタは容赦なく掴む。
「この喪服だって夕べ私が繕い直してやったばっかりだっていうのにあんたって子は……」
「マルタ!」
今度は姉妹の背後から唐突に声が飛ぶ。
少し離れた場所に、黒の僧衣を纏った、肩の広い、長身の男が立っていた。
「神父様」
マリアの手首を掴むマルタの力がはたと緩む。
ちょうどいいところに来てくれた。
歩み寄ってくる男の姿に、マリアは内心ほっとする。
「お父さんのことは、残念だった」
僧衣の男は、蒼ざめた顔に沈痛な表情を浮かべて告げる。
「君たちの今後のことで話し合いたいから、ちょっと教会に来なさい」
男の年の頃はまだ三十になるやならずだが、切れ長な灰色の瞳や色味のない小さな唇は端正というより、謹厳と形容するに相応しい。
「分かりました」
マルタは従順に答えると、マリアの手をあっさり離した。
「神父様とお話してくるから、帰るまでに洗濯物を取り込んでおくのよ」
マルタは急激に翳ってきた空を一瞬不安げに見上げると、また平生の顔つきに戻って妹に言いつける。
「分かった」
マリアも大人しく頷く。
家の戸口から、中に残っていた弔問客がぞろぞろと群れを成して出てきた。
「ご愁傷様」
「お気を落とさずにね」
喪服に身を包んだ大人たちの声が俯くマリアの脇を通り過ぎていく。
それを潮に、姉娘と神父もマリアを残して歩き出した。
「お母さんが一昨年(おととし)亡くなったばかりなのに、お父さんまで、ね」
「母はともかく、父はもともと長生きできない人だったんですわ」
神父の言い掛けにマルタは哀しみよりも諦めを滲ませた溜息を吐いた。
「熱に魘(うな)されても、筆だけは手放しませんでした」
言葉の終わりに行くに従って、まるで恥でも打明けるかの様に、十七歳の娘は声を潜める。
「君たちの暮らしを思いやってのことだろう」
神父の低い声が穏やかに反駁する。
「マルタ、お父さんは、純粋な人だったんだよ」
「売れもしない絵ばかり、死ぬまで描いていました」
――人前で父さんを馬鹿にするな!
神父と連れ立って去っていく姉の背にマリアは内心叫ぶ。
それぞれに黒い服を纏った姉と神父の二人の姿が視野の中で小さくなっていく。
午後も半ば過ぎて、近所の家々ではそろそろ夕飯の支度に取り掛かっているらしく、スープやミルクを煮込む、ほんわかした匂いが流れてきた。
マリアの薄青の目から、透き通った雫が零れ落ちる。
――このくらいで、泣くもんか。
手の甲で目を拭おうとして、ふと瞼(まぶた)に柔らかな感触を覚えて、マリアは我に返る。
握り締めた拳の先で、真っ白な羽がそよ風に吹かれてふわふわ揺れていた。
ペーテルにもらった羽、危うく握り潰すところだった。
手にした羽はピンと張った芯以外は酷く柔らかで、さっきまでぺーテルが握っていた体温の名残なのか、それとも今、自分が握り締めた為なのか、微かに温まっていた。
マリアは、羽を手にしたまま、地面に落書きした、描きかけの翼を広げて微笑む天使の絵を見下ろした。
確かにぺーテルの評した通り、自分の描いた天使の翼はどこか蝋じみて硬そうに映る。
これに対し、ぺーテルの描き加えた部分は本当にしなやかで、今、そよいでいる風にふわりと乗って飛んでいきそうに見えた。
「負けるもんか」
少女は羽を片手に屈み込むと、また路面の絵に熱中し始めた。
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