イカロスの翼(三)
ふと、チョークで描かれた天使の目尻に灰色の染みが一点生じた。
マリアは思わず空を見上げる。そうすると、空から降ってきた雫は、今度は少女の頬に落ちた。少女は思わず身震いして、頬を拭う。もう春だというのに、雨粒はまるで雪のように冷たかった。
「降って来ちゃったよ」
後ろでヨセフが舌打ちする。
「マルタ、どっかで寄り道してんのかな」
ヨセフのぼやきをよそに、マリアは、指一節の更に半分くらいに縮んだチョークの欠片をポケットに仕舞うと、立ち上がってスカートの埃を払った。
「あたし、そろそろうちに戻って洗濯物取り込まないと」
話しながら、今しがた、チョークを突っ込んだ右のポケットから白い羽を新たに取り出し、小さな唇で温めるようにふっと息を吹きかけて、左のポケットに仕舞い直す。
「だから、ヨセフさんももう……姉さん!」
少女の叫びに、額の雨粒を拭っていた若者も振り返る。
少し離れた石畳の路地に、黒いベール姿の女が幽霊のように立っていた。
粒から線に転じた雨が、サーッと打ち付ける音が辺りに響く。湿った石の匂いが立ち上ってくる。
「マルタ」
ヨセフが呼び掛けるか掛けないうちに、マルタは手で口を押さえると、喪服の裾を翻させて走り出す。まるで、思わぬ誹りを受けた人が一刻も早くとその場を後にするように。
バタンと釘打つような音を立てて、今や姉妹二人だけのものになった家の扉が閉まった。
「姉さん!」
幼いマリアも弾かれたように我が家に駆け戻っていく。
すっかり暗くなった通りには、包みを抱えた若者だけが取り残された。
雨の軒打つ音だけが勢いを増してくる。
「ヨセフ」
背後でガラッとした声が上がると、ヨセフはギクリと背筋を伸ばした。
「こんなとこにいたのね」
ヨセフの表情などお構いなしに、声の主は歩み寄ってくる。
「出たっきり戻らないから、父ちゃんが心配してたわ」
十七歳のエルザは、むしろ自らが口うるさい母親の口調になって、雨除けに被っていた父親の着古した外套を広げてヨセフを入れる。
「親方が?」
ヨセフは叱られた子供のように目を落とした。
太り気味で大柄なエルザと一緒に雨除けを被ったものの、雨はヨセフのはみ出た肩や背中を音もなく濡らしていく。
「遅くなるかもしれないと、一応は言って出たんだけどな」
ヨセフが所在なげに胸の紙袋を抱き直すと、冷めかけた甘い匂いが古外套の下を流れた。
「それ、ヤンセンさんとこのワッフルじゃないの!」
エルザはオレンジのように丸く太った顔の中で、大きな茶色のドングリ眼を輝かせた。
「あたし、これ好きなの」
親方の娘はチラと流し目じみた表情を雇い人に送りつつ、暗に要求する口調になる。
「いいよ、もう全部あげるから」
ヨセフは相手を喜ばせるために贈るのではなく、むしろ自分が不要になったものを譲る体で包みを差し出した。
「あの子もかわいそうよね」
言葉とは裏腹にどこか小気味よげに笑うと、エルザは振り返った。
姉妹の古びた家の二階では、黒い喪服姿のマリアがあたふたと洗濯物を取り込んでいる。
干された衣類は一家族の洗濯物として決して数は多くはない。
しかし、少女の手にはやや高過ぎる場所に位置しているらしい。
物干し竿から洗濯物を取るというより、引き摺り下ろすと言う方が相応しい動作をしている。
と、竿の端に吊るされた、遠目にも継(つ)ぎ接(は)ぎの明らかな男物の上着が揺られて転がり落ちそうになった。
間一髪で上着を抱き留めると、少女はまるで上質な絹でも扱うように畳みながら、家内に姿を消した。
「あの子なら平気だよ」
ヨセフは振り向きもせずに言い捨てる。
「葬式の後も道端で落書きしてんだから、のんきなもんさ」
自嘲にも似た口調で呟きながら、若者は道端の石を蹴って進む。
「馬鹿ね、マルタのことよ」
エルザは今度は嘲るように、毛虫眉を吊り上げた。
ヨセフも思わず足を止める。
「両親に死なれてさ、小さい妹抱えてあのまま行かず後家だって、みーんな言ってるわ」
みーんな、の部分に力を込めて語ると、エルザはもう愉快さを隠しもせずに続けた。
「いっそ、姉妹で修道院にでも入っちゃえばいいのに」
そう言い放つと、エルザは手にした包みを開けて、ワッフルに噛り付く。
「俺もそう思うよ」
雨脚の強まる中、ヨセフは苦い声で答えると、足を速めた。
エルザは上機嫌でワッフルを頬張りながら、喋り続ける。
「ところで、角(かど)の空き家に新しく越してきた人がいるって、知ってる? ブリューゲルさんだって。お母さんと男の子一人しかいないらしいけど……」
誰もいなくなった路地では、打ち付ける雨の礫(つぶて)が白チョークで描かれた天使の姿をもう半ば以上、溶かしていた。
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