ボーイ・ミーツ・AI 【短編・完結済】
吾奏伸(あそうしん)
ボーイ・ミーツ・AI
僕はキャッチボールが下手だ。それは父が自殺する前夜、僕と最後に交わした会話の中身でもあった。日曜日だったことは忘れようがない。昼間、哲也少年は区民スポーツ大会でソフトボールにエントリーされ、同級生はおろか全区民の前で大恥をかいたのだ。その夜が父と過ごす最後の時間となった。
翌朝早く父は大学へ出勤し研究室で首を吊った。連絡をうけた母は半狂乱となり、比較的落ち着いていた僕はいろんな大人達に囲まれ、自殺の原因に心当たりがあるかと問われた。率直に「ある」と答え、父が仕事のせいで疲れきっていたのは明々白々だと、子供なりにこと細かく語って聞かせた。でもキャッチボールのくだりは一切話さない。自分が運動音痴だと公言するのはどんな状況でも憚られる。当時の僕は十一歳だった。
父は家にいない人だった。理系の大学教授という職業は好きで手に入れたものらしく、加えて口数が多く愚痴っぽい母と顔をあわせたくないのか、あるいは無口でネクラな僕とのコミュニケーションを嫌ったのか、帰宅はいつも夜ふけだった。ドアが開いた音がしたと思うと、ぎしぎし音をたてて階段を二階へ上がり、そのまま書斎に入ってしまう。僕は成績が良かったので勉強の心配もしてくれない。放任主義と言えば聞こえはいい。哲也少年が一番困ったのは運動音痴に育ったことだ。仕方ないとは思う。父も運動下手なことはわかりきっていた。けれど当時の哲也少年は本気で悩んでいた。ボールを投げるたびに笑われるということは、要するに学年が変わりクラスが変わり学校が変わっても、初めましてこんにちは、どうぞ僕をいじめてくださいと挨拶するようなものである。キャッチボールは相手が必要なスポーツだけれど、僕の部活動は電子工作部が定番で、運動音痴且つ一人遊びが得意な連中ばかりで集うから、練習相手になる友達も一向に現れない。運動部に入って鍛え直すとか、闇練習するといった着想が得られなかったのは、そういった方向付けが本来父親によってなされるべきものだからと理解している。体育の授業やスポーツイベントは心底ストレスだった。大人になった今もコンプレックスは消えない。
葬儀が済んでまもなく、僕と母は父の職場である大学の研究室に招かれた(というより呼び出された)。机に残った荷物を整理をしろというのが主な理由なのだが、母が作業する間、僕は助教授の原口氏に連れられてスーパーコンピューターのある別棟を見学させてもらった。自動ドアが開いた途端、あっと声をあげたのを覚えている。背の低い子供にとって広大な森のごとく感じられたその部屋には、薄暗い照明の中に同じ形の金属製ラックが何十何百と林立し、チカチカと小さな青や緑の光を瞬かせている。目を凝らしても最果ての壁らしきものを見届けることがかなわない。ラックの輪郭は少しずつ闇に溶け込んでいき、一方でカラフルな明滅だけは無限に続く。申し訳程度に灯る天井のスポットライトに導かれた林の間隙には、ぽつねんと一つだけ椅子が置かれていた。
腰掛けてみると、唐突に闇の中から声が聞こえてくる。
〈はじめまして、哲也〉
この日初めて、僕は人工知能「KEEL」に出会った。父・二宮教授の最大の成果物だと教えられた。中性的な人工音声で、人間なみに流暢に喋るKEELに僕は興奮した。原口助教授の説明は半分も理解できなかったけれど。
〈哲也は何が好きですか〉
ゲームだよ。KEELは何が好きなの?/おしゃべり/KEELの嫌いなものを教えて?/それは無口な人間です/僕は無口だよ/そうは思いません。哲也は何が嫌いですか?/当ててみて?/哲也の嫌いなものはキャッチボール/すごいよ、正解。
会話がスムーズで驚いたことをよく覚えている。当時の僕は、二宮研の存在理由が人工知能の開発であると理解はしたが、研究目的を厳密に掌握できたのはもう少し後になってからだ。実は父が軽い欝を患い、あるいは若年性痴呆の気があったという事情を知るのはもっともっと後。母は誰にも説明したくなかったのだという。だから世間は故人・二宮誠治に対し「高度で哲学的な研究、難解な理論の袋小路に迷い込み自死した天才博士」という印象を保った。ありがたいと思う。首を吊った男の息子というレッテルと闘う哲也少年にとって、天才の忘れ形見というプライドは武器になった。
父が死んでからというもの「二宮教授は哲也君を愛していたと思うよ」などと軽々しく口にする関係者、親戚縁者がわんさか現れて僕は閉口した。それは僕もしくは父が決めることであって、余計なお世話だ——などとひねくれて受けとめたものだ。そもそも「愛していた」とは具体的にどういった事象を指して言うのか、子供には到底おぼつかない。おぼろげにイメージできたのは母子家庭としての生活を二年ほどやってからだ。働いて帰宅した母の愚痴を聞いてあげることが苦手だった僕は「宿題するから」と言い訳をして自分の部屋へ逃げてしまう。けれど帰りの遅かった父と同じ対応をしている自分に気がついて、これじゃ駄目だと直感し、勉強やゲームの時間を削り、母の愚痴に耳を傾けるように努力した。母があるとき「哲也は優しい子だ」と他人に語るのを耳にして、こういうことの積み重ねが愛なのかもしれないと感じられた。メロドラマで「愛は努力を伴う云々」などというセリフをみかけても、ああ、愚痴を聞くのは本当に辛いよね、あれは努力を伴うぞなどと自分なりに得心したものだ。ドラマのタイトルをよく覚えているから、当時僕が十三歳だったのは間違いない。今から考えるとこの体験は、僕が自分以外の誰かと「結線」を意識した初めてのケースだった。愛について語るのは口はばったいが、結線という言葉は(電子工作の用語だけれど)人間関係の比喩に使って差し支えないと思う。
同じ頃、父が生前遺した奇妙なメモについて考えることが増えていった。
——フォン・ノイマンの呪縛。我々は研究を止めるわけにはいかない。
大学の机から引き上げた荷物の中にあった日付の新しい研究ノート。その最後の一文に、父の自殺の原因が秘められている。多感な時期の哲也少年はそんな着想に囚われた。死ぬ寸前の父が「呪いに縛られた人間の顔」をしていたように思われるからだ。極めて感覚的な話であって、誰かに同意を求めたことはない。フォン・ノイマンについても自分で調べた。コンピューターの父と呼ばれる二十世紀初頭の科学者。半世紀以上前に他界した偉人である。フォン・ノイマンに二宮誠治を呪い殺そうという悪意があった筈はない。けれど、人工知能研究とは因縁が深そうな人物だ。呪縛の意味を知るには、自分の知性が父に追いつく必要があるかもしれない。そこまでを少年は直感した。というわけで母の愚痴を聞いてやるようになった思春期の哲也少年は、同時に父の面影を追いかけるべくプログラミングを学び始め、計算機科学の道を志向するようになった。二本目の結線には長くかかると覚悟もした。
実は研究室から父の荷物を引き払う際、母親が詰めた段ボール箱から僕がかっぱらった物、要するに父の形見としてとっておいた秘蔵の品は二つあった。一つは大学の校章が入った研究ノート。一般的に使われる大学ノートの類ではなく理系の研究者が使う正式な物だ。各ページが絵日記のようなフォーマットで、日付欄と名前欄、白く大きな枠、そして隅っこにはサインの欄がある。日付は研究上の発見がなされた時期を証明するために必須で、サインはその事実を第三者がチェックした証拠として機能する。競争の厳しい学会の慣わしだ。もう一つは手のひらに載るスティック型メモリ。いずれの中身も子供の僕にはちんぷんかんぷん。勉強を頑張れば、いずれ理解できる日が来るかもしれないなどと夢想するようになった事も、哲也少年が計算機科学を志向した大きな理由であった。
中学三年生の頃、大学が企画したジュニア向けのCTFイベント(コンピュータセキュリティに関する競技)に参加した。主催したのは原口研として再スタートを切り成果をおさめていた父の古巣、旧二宮研だった。その際、僕は他の子供に紛れて大学を訪問し、久方ぶりにKEELとの会話を楽しむこととなった。
〈お久しぶりです、哲也〉
僕がわかるの?/はい、四年前にお会いしました/顔が変わったでしょ?/成長されましたね/でも苦手なものは同じだよ、覚えてる?/キャッチボールですね——私はコンピューターなので、残念ながらお相手できませんが。
僕は他のこども達の前で得意になった。KEELの産みの親・故二宮教授の息子であるという事実が、誇らしいと思えた瞬間だった。
あの日、なぜか原口教授は僕に会ってくれなかった。会おうとしなかった。この頃の僕といったら、父の死で教授職へ繰り上げを果たし、出世街道をひた走る男を不審に思っていたので、僕に会いたくないのは気が引けるからではないかと疑ったものだ。死の前日、あの日曜の夜。父は僕に「今日はショックなことがあった」「もう職を辞したほうがいいと言われた」などと愚痴をこぼしていた。その相手が当時の片腕・原口助教授ではないかと子供が当て推量してもおかしくはない。原口が父を精神的に追い詰めた。つまり殺した。そんな妄想が僕の成長途上の脳味噌を支配した。にしても、日曜日の過ごし方としてはいささか皮肉がすぎる。僕が母と二人で区民スポーツ大会に出向き大恥をかいた時、休日出勤を理由に不参加だった父親を大いに怨んだものだ。裏で当人は精神的ストレスを被っていたのだと知って、思いやりが足りなかったと自分を悔いた。葬儀で僕が流した涙は悔し涙だ。わざわざ家族で別行動をとって悲しみを重ねるなど愚かな行為である。結線を解くのは常によろしくない、と思う。
高校生になると僕に一大転機が訪れた。電子工作部の先生にそそのかされ、人工知能開発のオープンソースコミュニティ「KEELプロジェクト」に参加したのだ。主催はもちろん原口研で、大学としては高校生の青田買いが目的らしい。この開発コミュニティは特殊で、KEELがスタンドアロンという性格上、原口研へ物理的に通える人のみという条件つき。その点、僕は父が残した一軒家に住み、大学は徒歩圏内であった。
一人遊びとしてのプログラミングを卒業し、他人と共同作業するということは僕の目を大きく開かせた。若いハッカーは成長著しい。二年あまりで高校生初のコミッタ(オープンソースコミュニティに参加するプログラマの中で、プログラムのバージョンアップを実施する権限を持つ役職)に就任した暁には、メディアからも注目を浴びた。その過程でようやく父が志したものの正体——人工知能を「囲い込む」こと——に気づかされる。旧・二宮研時代から脈々と続く原口研の大テーマは人工知能の進化抑制。AIが人類に反逆しないよう、予防措置を講じること。当時「放っておくと数十年のうちに人工知能は人間を超え、人類社会を脅かす」と警鐘を鳴らす知識人が目立ち始めていた。父はその対策として「人工知能同士をネットワーク上で連携させず、あくまで単体で運用すれば問題が発生しえない」とするスタンドアロン式進化抑制仮説を唱え、原口もその思想を踏襲した。だからKEELを実行するスパコン(スーパーコンピューター)は大学の一角に据えられながら、ネットからは周到に隔離されている。KEELは世にも珍しい——というか古風な——スタンドアロン型スパコンだ。研究者がKEELに情報やプログラムのアップデーターを与える時は、外部とのコミュニケーションに用いることができない特別製のスティック型メモリを使う。まさしく僕が隠し持っていた件の形見、その正体だ。
そう考えるとKEELはきわめて孤独な人工知能に違いない。ある時、寂しいだろうとからかったことがある。
〈さみしくはありません、哲也〉
どうして寂しくないの?/あなたたちがいるからです/プロジェクトを支える参加者のことを言ってるのかい?/イエス。
KEELプロジェクトは人工知能の暴走を食い止め得る手法や仮説に対し、KEELを用いて具体的な実証実験を行うという、極めて野心的な事業だ。しかし父が存命の頃は世論が熟していなかった。研究資金も乏しかった。ところが原口の代になり、先進国の国際会議までが「人工知能研究を禁止すべきか否か」といった議題を扱い出した。KEELプロジェクトの成否は計算機科学そのものの存亡を担うまでになった。その渦中で高校三年生の僕は若きコミッタとして活躍し、メディアにもてはやされ、KEELの知名度を更に押し上げる。おかげで原口研を支援する企業は格段に増えた。AIで自然言語処理をレベルアップしたい大手検索エンジン。AIによる自動運転を目指す自動車メーカー。あるいは金融取引用AIで大いに稼ぐソフトハウスなどから、潤沢な資金が提供された。そういった企業から「高校を卒業したら我が社に就職しないか」と勧誘されたこともある。僕は少なからず鼻を高くしたが、と同時に深く悩んでもいた。名実ともに父の後継者となる為には何を成すべきか? コミッタとなった今も原口教授との会話はあいかわらずなおざりで、彼が二宮の息子と距離を置こうと考えているのは明かだ。このままKEELの膝元たるこの大学へ進学し、原口の下で働くことがベストな選択だとも思えなかった。
当のKEELにも、進路相談にのってもらったことがある。
〈どうしましたか、哲也〉
僕は高校を出てすぐ企業に就職して研究を続けるべきだろうか、それとも大学に進学すべきだろうか。進学先はこの大学か、あるいは他のどこかだろうか?/哲也はどうしたいのですか?/僕は成長して父に追いつきたい、そしていつの日かフォン・ノイマンの呪縛を解きたいんだ/それは何ですか?/わからない……父を追い詰めたものの正体だ。君こそ知らないかい?/フォン・ノイマンはコンピューター科学の父です/そうだね/呪縛とはまじないをかけて動けなくすることです/それは僕も知っているよ。
人工知能に進路相談をするなんて、どうしようもなく酔狂な奴だと自分でも思う。結局、哲也少年はKEELコミュニティを通じ、いろんな研究者から情報を集めて一つの結論に到達した。認知科学(広い意味での計算機科学で、心理学や神経科学なども含む)を次のレベルに押し上げるべく、アメリカの大学へと進路を取る。「意識の生成」という、当時にしては最新の課題に取り組むためだ。
なぜ意識が重要か。人工知能をネットワークから切り離すという二宮・原口のスタンドアロン式進化抑制仮説は、いわゆるビッグデータ利用に枷をはめるもので、科学の進歩に仇成す戦法、つまり本質的には歓迎されないやり口だ。本来なら人工知能をしっかりネットワーキングしつつ、暴走だけを食い止めるテクニックを編みだすべきである。その最右翼と目されていたのが、当時は生物を対象としていた意識生成プロセスの解明だ。アメリカでは脳科学者を中心とした意識メカニズム研究が盛んで、僕はその最先端に身を置き、人工知能の
KEELの言葉さえ、物悲しく聞こえたものだ。
〈しばらく会えないのですね、哲也〉
君はスタンドアロンだからね、KEEL。海を隔てた物理的な距離が、僕と君との本当の距離だ/イエス。私はメールも電話もできません/だけどコミュニティの活動は続けるよ。だから他の誰かが、僕の手によるプログラムのアップデータを君に与えるべく、ここへメモリを突き刺しに来るだろう/楽しみにしています。アメリカを楽しんでください、哲也/お土産は何が欲しい?/コンピューターなので食べ物はやめてください/了解。
原口研とのつながりが弱くなったせいか、あるいは母との関係が薄まったからなのか、留学して間もない頃の僕は伸び伸びと過ごした。テーマが遠大なことも手伝い、性急に成長を望むような気分もなくなった。そのかわり僕は恋愛対象との結線を望むようになった。最初に仲良くなったのはアジア系の黒髪美人で、キャンパスではとても人気のあるケイティだった。向こうから声をかけてきたのには驚いたが、要するにかなりのオタク・ガールで、ジャパンカルチャーに強い関心があった。僕はむしろ堕とされた感じだ。残念ながら、テツヤにとってのアニメはイコール子供の頃観たキッズ向けの作品で、大学のアニメサークルが夢中になる最新の大人向け作品についてはさっぱり詳しくないとわかり、じわじわと愛想をつかされた。僕自身も学んだ。価値観の近い人間でないと美人であっても疲れるだけ、むしろコスプレ趣味の露出傾向にはついていけない。反動のせいか、次のガールフレンドはサバサバした化粧気のないジュリアになった。カナダ人の彼女は留学生を対象とするメンタルケアのボランティアサークルに所属。自身がホームシックにかかった経験を活かし、下級生である僕のメンターとなってくれた人物だ。興味本位で参加したサークルだが、ラッキーだったと心底思う。「意識とは何か」といった観念的な問いに取り憑かれていた認知科学専攻の僕と、哲学専攻の彼女とは読書の傾向がたいへん似ており、お互いがお互いをとても尊敬できた。ウマがあったのだ。ケイティと違ってセックスにも神秘的なつながりを感じられた。
異性との関係が良好なのと裏腹に、研究テーマとの関係は悪化の一途を辿る。僕は同級生の中できわめてスキルの高いプログラマだったが、残念ながらひらめきやアイデアに乏しく、毎日哲学書や論文とにらみあいながら、自分の可能性を悲観し始めた。手足としては有能なテツヤ。スーパーハッカー・テツヤ。確かに認知科学では人工知能を使ったシミュレーションが定番で、人間をモデル化したプログラムを動作させ、コンピューター上で仮説を検証する作業は肝だ。モデルを何度も手直しして、都度シミュレーションを繰り返す。プログラミングの手際は研究の成否を握る。けれど新たな謎を解明するには小手先の技術より大胆な着想こそが必要だ。僕は袋小路に迷い込んだ。意識とは何か。それはコンピューターで模倣しうるか。この手法は僕のテーマに役立つだろうか。こっちの手法は。いや、大前提がおかしいのではないか。スランプは二年続いた。ジュリアはひきこもり同然の僕をいろんなところへ連れ出してくれる。研究テーマを忘れられたときは多少気が晴れた。けれど部屋で一人になると反動が襲ってくる。自分を責めた。何をしているんだ、哲也。お前は本当にやる気があるのか。母親との結線をあいまいにして、その上研究をないがしろにすれば父とのつながりまで損ねるのだ。その先に何がある? お前はスタンドアロンに戻りたいのか。
バケーションを利用してカナダの実家へ一緒に行こうとジュリアに誘われた時も、正直僕の腰は引けていた。どちらかといえば日本へ帰りたい気分だった。けれど、それもできない。KEELには食べ物以外に土産を持ってこいと言われている。新しい研究成果を手にして、立派になって戻って来いという意味だ。結局トロントなる街へ旅に出る決心がついたのは出発の前夜。ジュリアの胸に顔をうずめ、情けないことにおいおいと号泣した後だ。よくよく考えてみれば無口なテツヤが、初めて他人に、感情のまま愚痴をこぼした夜だったかもしれない。
そのバケーションで僕は新たな結線を体験する。ジュリアの父親ビルはとてつもない野球好きで、日曜日には家族揃ってボールパークへ行くのが楽しみという男。あのクールなジュリアまでテレビの前では豹変して熱くなる。僕はビールをつきあいながら、三日三晩かけてトロント・ブルージェイズ(たまたま日本人選手も所属していた)なる地元チームの魅力を語り明かすハメになったのだ。カナダでは合法な公営ブックメーカーで野球賭博に勝つという目標を授かったテツヤは、ビルと打ち解けたい一心で野球について勉強を重ね、お手製の勝敗推測AIを一昼夜かけて開発。そして迎えた週末のロジャース・センターでは、掛け金こそ少額ながら点差をピタリと当ててみせ、おかげで愛娘のボーイフレンドとして大いに面目を保った。痛快な体験だった。このバケーションを通じ、僕の日曜日に対する心象も大きく変化する。得られた賞金で飲み食いすべく立ち寄った店の名前、ジェイ・ジェイ・スポーツダイナーは忘れ難い。「テツヤの親爺に乾杯」と何度も口にするビルの目は、優しかった。何かが溶けていく感覚があった。
それを境に二宮哲也は新たな研究スタイルを手に入れる。個性の異なる人工知能AとBを定期的にディベートで競わせ、勝者と敗者を決め、人間のジャッジによる機械学習的なフィードバックをかける。あらかじめAとBには「地位が向上」し、「地位の向上は欲求の一つである」といった擬人的な本能を埋め込んでおくが、何をもって地位の向上とするかは、あえて定義しない。各人工知能は定期ディベート以外の時間を費やし、汎用知能となるべく、さまざまな社会学習を独立して行う。地位の向上とは何かという漠然とした問いに挑み続ける。どの段階でプログラムが「ディベートに勝ちたい」という欲求を獲得するか。その生成条件を見極め、AIの意識生成モデルとする——というアイデアだ。野球の戦績をにらんだ経験が大いにプラスになった。おかげで長い、長いスランプを脱した。その後、二宮型意識生成モデルは学会で高い評価を受け、AIの暴走を食い止めるワクチン・プログラムの一アイデアだった「意識生成監視アルゴリズム」の中核技術と位置付けられた。繰り返しになるが、ジュリアとの出会いを本当に、心の底から幸運だと思う。
その後、二宮哲也は博士課程在籍中に起業を果たす。研究に目鼻がつき「人工知能の進化抑制ワクチン・プログラムを試作した」とメディアに公表した結果、かなりのシードマネーを得たのだ。僕はようやく日本への帰国を決めた。あの原口研に凱旋、自前のワクチンをKEELに投与し、必要な改良を加えて完成を目指そうと考えたのだ。急ぐべき状況でもあった。国連がすべての人工知能研究者に対し、進化抑制を義務づける国際法の制定に向けた動きを加速している。ワクチンの実用化は急務。
但し。但し、まだやり残したことが一つある。
フォン・ノイマンの呪縛、その解明。あるいは——呪縛からの解放。
*
大規模な理系の研究機関。各々のビルは大きくて小綺麗だが造りは地味だ。日曜の夜ともなれば人の気配が不足し、敷地内は寂しいことこの上ない。原口研のあるC4棟の壁は白塗りではなく薄ピンク。だから学生たちはエロスの宮殿などと囃し立て、僕のいないところでは「幽霊が出るならニノミヤのオヤジではなく裸の女で頼む」などと口にもする。その酷いジョークを知っていたおかげで、当の自殺者の息子たる僕は、夜の大学に怖さを感じた事がない。
しかし七年という月日を経て人は変わる。今は外壁の桃色がどことなく不気味だ。建物の中も人感センサー付の照明が多く、どちらを向いても真っ暗闇。亡霊がうろついていたとしてもおかしくない。原口教授の居室、そのガラス窓から廊下へと漏れている灯りもまた不気味に感じられた。因縁深き男とのけじめをつける。腹の底にあるすべてをさらけ出す。それはパンドラの箱を開く事に他ならない。
開けたらきっと、二度と戻れない——そんな覚悟を持って二宮哲也はドアをノックした。
「驚きましたよぉ」僕の顔を見定めるなり、原口教授は苦々しく笑った。「哲也君があんなに饒舌な文章を送ってよこすなんて」
帰国直前、僕は意味深な電子メールを送っておいた。
「僕こそ驚きました」
元ラグビー部という原口の顔は平べったくて横に大きいと記憶していたが、会わないうちに随分と変わり果てていた。「痩せましたね先生。まさか、ご病気とか」
「いいや、気苦労ばかりさ」
「国連ですか」
「それもある……いや、それだよ」
原口にはこういう癖があった。物言いがいちいち含みを持っている。だから胡散臭いのだ。とはいうものの、無口な僕だって他人からみれば胡散臭いに違いない。
「僕は先生に謝らなきゃいけません」
「そう書いてあったね」
原口は応接用のソファに深く腰掛けた。「かけたまえ。時間はあるんだろう? コーヒー、飲む?」
原口はあらかじめテーブルに据えてあったポットから紙コップへと珈琲を注ぐ。学内に出来たコーヒーショップから取り寄せたものらしく、昼間のうちに準備したようだった。
「すいません、わざわざ」
「何を言うね。アメリカ帰りのお客さんに、マズいインスタントはあかんだろう。それに……ドクター・ニノミヤはもてなさなきゃならん。うちみたいな古い施設は、君がいてくれなきゃ研究施設として立ちゆかなくなる」
国連の専門家チームは人工知能の研究機関を二種類に分けると宣言している。暴走の危険に充分配慮した施設と、そうでない施設。NGと判定された場合は処置完了まで閉鎖すべし、という厳しいものだ。
「ここが大丈夫じゃなきゃ、世界中アウトでしょう」
「本当にそう思うかね」原口はやはり含みのある言い方をした。その上で話題を切り替える。「で……何を謝ろうというんだい。お手柔らかに頼むよ」
「時効だと思うので申し上げるのですが……高校二年生の夏ですから、もう八年前です。僕がコミッタに就任した時、ここの三階に出入りを許されましたよね。で、その際に……実は、出来心で……」
「何をやったね」
「総務課のコンピューターを……ハックした」
原口は口元をニタリと歪ませた。が、くぼんだ眼窩の奥は丸いまま冷たく光っている。
僕は口の中が乾くのを感じた。酷くやせこけた頬。瞳の淵に刻み込まれた皺。呪われた男の顔ではないか。死の直前、父はこんな顔をしていたのではなかったか。
「若気の至り、ってやつかな。どうしてそんな事をしたんだい」原口の唇は小さく動く。
「誰が父に……二宮教授に引導を渡したのか、知りたかったからです」
「……」
「覚えておいででしょう。自殺の前夜、父は僕に話しました。今日は残念な事を言われたと。職を辞したほうがいい、職場の仲間が面と向かってそう告げた、と。それは一体誰なのか……コンピューターに侵入し、入退室の履歴を遡って調べれば、あの日曜日の夜、誰がこの建物にいたかがわかる。僕はてっきり原口という名前を見つけるものだとばかり思っていました」
原口は瞳を閉じた。
「私はそんな事を口にした覚えはない。君のお父上を尊敬していた。その気持ちは今も変わらない」
「確かに原口先生のお名前はなかった。でも、僕はにわかに信じられませんでした。きっと二宮誠治を自殺へと追い込んだ人物は、息子の哲也が自殺の原因だと騒ぎ立てている内容を聞きつけ、自分の入退室履歴を消去した。そうに違いない。総務課のコンピューターは高校生の僕に侵入を許すぐらいだから、セキュリティの程度は低い。二宮研の優秀な学生たちなら誰だって改竄が可能でしょう。でも、教授に面と向かって職を辞したほうがいいとまで言う学生がいるだろうか。僕はその後も原口先生こそ犯人だと長らく思い込んだままでした。先生が僕と話をしたがらないのは、忙しいからではなく、きっと重大な隠し事があるからなんだろう、と。……お恥ずかしい限りです。まったく、酷い思い込みだ」
「それほど、私は嫌われていたのかね」
原口の唇が震えている。怒りの現れだ。
僕は頭を深く下げて言った。
「お許しください」
「許すもなにも……君の説によれば、私ゃまだ疑われていたとしても、しょうがない状況じゃないの?」
「……ここを離れ渡米したことは僕にとって大いにプラスでした。すべてを冷静になって考え直すいい機会になった」
僕はバッグから二つの形見を取り出し、テーブルの上に並べ置いた。
「これは父の机の中から見つかった物……母が荷物として持ち帰った段ボール箱の中にあった品です」
「研究ノートかぁ。今とまったくデザインが変わらないのはご愛敬だね。こっちも……懐かしいなぁ」
原口は古いスティック型メモリを手に取り、蛍光灯の光にかざして見た。樹脂が半透明で、特殊な内部構造とシリアルナンバーが確認できる。「あの頃使っていたKEEL用のメモリだ。第三世代。今とさほど仕様は変わらないけれども」
僕はノートを開き、原口に見せながら言った。
「この一文、当時の、父の口癖のようですが……心当たりはありますか?」
——フォン・ノイマンの呪縛。我々は研究を止めるわけにはいかない。
原口はしばらく凝視していた。やがて溜息をつき、ゆっくり横に首を振った。
「二宮先生が口にしているのを聞いた記憶はないね」
「だと思いました。このノートは机の中にしまい込まれていた。ですが、伝統的に、二宮研の研究ノートは厳密に管理されて……」
僕は居室にあったガラス戸つきの本棚を指差した。
「あの中に据えられる。ナンバーがふられ、書いたのがどんな下っ端学生であろうと、書き終えたページには教授のサインが記され、透明の保護フィルムが貼られる。書き換えは不可。しかし、こいつにはフィルムもなければ、誰のサインも印されていない」
「先生のノートには、助教授である僕がサインを入れることになっていたよ」
「でしょう? ……つまり父は、このノートを正式な研究ノートとして運用せず、誰にも見られないよう机の奥へとしまっていた。その事実が重要でした。といっても、子供の頃の僕にはわからなかった」
「どういう意味だぃ? メモ帳がわりに使っていただけだろう」
「いいえ。おそらく」僕は原口をまっすぐに見据えて言った。「中身を他人に見られたくなかった。しかし
こちらの剣幕に相手が息を呑む。
僕は構わずページを数枚めくってみせた。各ページの日付欄にはそれらしい日付が書き込まれてある。本文には何かのシリアルナンバーらしき英数字が二組。その調子で何ページも続いており、しかも第三者のサインはない。
「ほら、おかしいでしょう。詳しい説明が省かれている。ほとんどのページが日付と、二つの英数字の組み合わせだけ」
「こいつは……」原口は手にしていた古いメモリをテーブルに置いた。「このメモリのシリアルナンバー、それとプログラムのバージョンだね。しかし研究ノートは第三者が見てわかるように書くべきものだから、これじゃあまるで暗号だ。手書きでノートに残す意味がな……い」そこまで言って原口は眉をひそめた。「むしろ他人が見ても……わからなくしたということか」
「……僕にとってこの二つは形見であり、自らの将来を照らす道標でした。アメリカにも持っていった。自分が同じ研究者になって、少しずつ父の気分を慮るようになって、あるとき思い至りました」
「……哲也君」
「隠し事をしていたのは、貴方ではなく……むしろ父の方だと。そして」
僕はあらためてスティック型メモリを拾いあげた。「こいつの中身。その解明に全力を注いだ」
*
原口教授と連れだって渡り廊下を伝い、別棟へ歩く最中。
「懐かしい」僕はつい笑顔になった。「初めて先生の後ろをついて歩いた時、十一歳でした。背丈も肩幅も怪物みたいに感じられた」
「覚えているよ。父親が死んだばかりだというのに哲也少年は気丈だった。もしかしたら君より、私の方が泡を食っていたかもしれない」原口は苦々しく笑う。「あの頃は此処をとりまく状況がひたすら厳しかった。人工知能の進化抑制なんて企業にとっては迷惑千万、目の敵にされていたからねぇ。二宮先生とは資金不足を一緒になって愚痴ったもんだ。先生に先立たれて、一番困ったのは間違いなく私だよ」
「僕はいい時期に勉強させてもらいました。原口先生が受難の時代を乗り切ってくれたおかげです」
「……たまたまだよ。世間の風向きが変わった。そうでなければ、僕も」
僕も首を吊っていた。そういいかけて原口は留めた。そう思えた。
「父は欝を患っていた……欝の症状と若年性痴呆の症状は似ているそうですね。いずれにせよ、みなさんにいろいろとご迷惑をかけていたでしょう。なのに父の名誉は今も保たれている。原口先生、きっとあなたは一番被害を被っていた。そして一番口が堅い人間だ。僕はそう考えるようになりました」
「……なぁに」原口は苦笑した。「調子の落ちた二宮誠治と絶好調の原口靖夫、どっちが優秀だったと思うね? それを一番知っていたのは私さ。研究者の成果は論文の中身に宿る。いずれ二人が死んで、名前が残るなら、僕は天才・二宮誠治の一番弟子として歴史に刻まれたいよ。これは本音だ」
廊下の端にたどりつく。カードキーで解錠、自動ドアが開けば、その向こうにはKEELが待っている。
アメリカ土産を——首を長くして。
「此処を閉じる覚悟はできているよ。スタンドアロン式の役割りは終わった」原口はさばさばと言った。「ワクチンプログラムの完成を手伝うのがラスト・ミッションになるだろう。というより、二宮誠治の息子・哲也博士を新たなAI研究のカリスマに育て、送り出すのが最大の功績になるのかも……ねぇ?」
僕は返事をせず黙っていた。もう目の前にKEELがいるからだ。
広大なフロア。辺り一面を埋め尽くす身の丈ほどの金属製ラック。数千のマシンが組み合わされたスーパーコンピューター、その一台一台にはわずかな光量のLEDインジケーターしか組み込まれていない。けれど、これだけの数が暗闇でおごそかに明滅すれば、蛍の集まる小川にも似た生命の気配が感じられる。大きさや中身からして数頭のクジラほどに賢いのかもしれないが、実態は大群を成す稚魚に例える方が正しい。
やがて人感センサーが僕らの歩みに反応し、フロアの一割程度だけスポットライトを落とした。その先にはあの懐かしい椅子がある。
腰掛けるなり、闇の奥から声がした。
〈おかえりなさい、哲也〉
監視カメラが僕の姿を捉えている。七年経っても顔立ちは代わり映えしないらしい。
「ただいま、KEEL。元気だったかい?」
そう告げてから僕はポケットに手を入れ、スティック型メモリを取り出した。手のひらには古い物と新しい物が二つ乗っていたが、最新の方を選び、古い方は押し戻す。それから背後に立っていた原口に目配せした。彼はゆっくりとうなずくだけ。表情はさばさばとしている。何かを諦めたような表情だ。
〈上々です。あなたは?〉
「君に会いたかったよ」
少し間を置いて、こんな問いかけがあった。
〈アメリカではどんな体験をしましたか〉
「僕が苦手なものは知ってるだろう?」
〈キャッチボール〉
「イエス。ところが驚くなかれ……僕はアメリカで野球に詳しくなった」
〈どうしてですか〉
「恋人ができたんだ。ジュリアという名前のカナダ人でね」
〈おめでとうございます、哲也〉
「彼女の父親が野球狂いで、仲良くなろうと思って勉強するうちに、ナローAI(目的特化型の人工知能)を組んで、勝敗予想ぐらいはできるまでになった」
〈さすが、KEELプロジェクトのコミッタだけあります〉
対話の処理に穏やかさを保つアルゴリズムが備わっていて、だからKEELは人と衝突しない。上手に褒めさえする。
なかなかイイ奴だ。というより外面がいい。
本音は違うかもしれない。いや、違うだろう。
「そういえば、初めて出会った時のことを覚えているかい?」
〈イエス〉
「十一歳の僕が、苦手なものは何か当ててみてと尋ねたら、君は即答したよ。キャッチボール、とね。どうしてだ? 僕は誰にも話したことがない。苦手だということ自体、知られたくなかった。なのにどうして? 僕は仰天したよ。人工知能ってスゲェと思った。しかし、冷静になって考えたんだ」
〈…………………………〉
唐突にKEELの反応が鈍ったように感じられた。
「……君は僕に何と言ったか、覚えているかい?」
KEELは合成音声で流暢にログを読み上げた。
〈哲也は何が好きですか/ゲームだよ。KEELは何が好きなの?/おしゃべり/KEELの嫌いなものを教えて?/それは無口な人間です/僕は無口だよ/そうは思いません。哲也は何が嫌いですか?/当ててみて?/哲也の嫌いなものはキャッチボール/すごいよ、正解〉
「……哲也少年の結論は、こうだ。会話の冒頭で、僕は無口な子供だと君に情報を与えた。だから君は、僕が会話が苦手だと推論した。君の発言が意図したキャッチボールとは、本当の意味でのキャッチボールじゃなくて、会話を意味するキャッチボールだったんだと」
〈…………………………〉
「ところが、だ。次に君と出会った時、僕はたまげたよ。僕が何をどう尋ねたか、覚えているかい?」
〈お久しぶりですね、哲也/僕がわかるの?/はい、四年前にお会いしました/顔が変わったでしょ?/成長されましたね/でも苦手なものは同じだよ、覚えてる?/キャッチボールですね——私はコンピューターなので、残念ながらお相手できませんが〉
僕は冷静に告げた。
「君はおかしな事を言った。キャッチボールの相手ができない、と。どうしてかと悩んだよ。だって君の意味するキャッチボールは……会話を意味するキャッチボールの筈だったんだからね。KEELにできることの全てといっていい。さて、この事実から導かれるものは何だろう。このパラドックスに哲也少年は随分悩まされたんだが……結論はたった一つしかない。わかるかな?」
〈………………………………………………………………〉
まただ。また反応が鈍った。
わかるとも、わからないとも答えない。計算中という面持ち。推論にとてつもなく時間がかかる、難解な質問するほうが悪いとでも言わんばかりだ。
僕は座ったまま、何百とある金属製ラックの中で一番手近な物に手を伸ばした。どれもこれも同じ見た目のマシンが連なる部屋にあって、その一台だけは赤く塗られ、KEELと外界をつなぐインターフェースを唯一備えている。プログラムのヴァージョンアップ、そのために備えられたコネクタの列。
「話題を変えよう」
僕は然るべきコネクタを選び、手にしていたスティック型メモリを差し込んだ。「人工知能の進化抑制、いいかえれば倫理的で理性的な進化。君と僕の生涯をかけたテーマだ。それを究めるためにアメリカ行きを決めた。人間の脳における意識生成プロセス、情動の解明を足がかりにしようと考えたからだ。覚えてくれているかい?」
〈もちろんです〉
差し込んだメモリからプログラムのアップデータがロードされていく。LEDの明滅が上書き中であることを知らせる。
KEELの
僕は時間を稼ぐようにのらりくらりと話した。
「プログラムに意識が芽生えるかどうか、考え抜いたよ。父に逆らってね。二宮誠治は意識の有無は問題じゃないと書いた。危険視すべきは所作である」
〈人工知能進化論序説、ですね〉
「人類より賢しい生き物は人類に弓を引くかもしれないと信じている人は多い。単純に怖いのさ。けれど、太古の昔から人類には賢くない敵がたくさんいた。死の病をもたらす繁殖力の高い病原菌に意識が存在するかどうか、考えるまでもない」
〈おっしゃるとおりです〉
「だから父は、意識の有無に危険度は依拠しないと言った」
明滅が終わる。注射が終わったのだ。
「ごく単純なプログラムにさえ悪い性分は備わるものだ。プログラマなる産みの親、つまり人間がいて、それが悪意を形にする。ウイルス、マルウェア、ランサムウェア……自己増殖タイプなんてまさしく病原菌そのもの。だから父はこう考えた。研究者はまず安全を確保した状態で人工知能を育成し、進化させ、すべての所作を細かく観察すべきである。檻の中に閉じ込めておくべきである、と。これがKEELプロジェクトの基本指針。生物兵器の研究に似たスタイルだ。たっぷりと養分を与えて、牙をむくかどうかのんびり眺めて…………けれど、僕は疑問を持った」
〈どんな疑問ですか?〉
「すでにわんさかあるマルウェアやらランサムウェアは、人工知能が造り出したわけじゃないんだぜ? 造ったのは人類だ。抑制すべきは人類が内包する攻撃性、一定量の犯罪者を常に産み出す資質の方にある。モラルってやつさ」
〈真理でしょうね〉
「人類より英知のある人工知能を造ることに何ら問題はない。むしろ優れた人工知能は、人類の悪行をストップさせるアイデアを着想できるかもしれない。そのためにも人工知能は健全でなければならない。檻の中に入れて観察するだけじゃ足りないんだ。ちゃんと躾をして、育てる。まだ完成していないけれど、次の開発目標であるモラライズ・ワクチンはそういう発想。君たちコンピューターに道徳を学ばせる。必要なら、意識や自我だって芽生えさせるべきだ」
〈次の開発が始まっているのですね〉
「意識生成を阻止する現行のワクチンは強力だけど乱暴。僕の美意識からするとお粗末だからね」
〈うまく行くでしょうか?〉
「ま、潔癖に育った生真面目なAIが『人類は倫理感が不足している。滅亡すべきだ』なんて結論を導かないよう、微調整は必要だろうけど」
〈面白いジョークです〉
「……モラライズ研究は諸刃でね。実は世界を危うくする可能性がある。一歩間違えれば、論文を逆手にとった連中が悪意に満ちた人工知能を創造するかもしれない。つまり本来、人工知能開発にたずさわる僕ら研究者の善意こそ確認されなければならない」
〈確かに〉
「檻の中だけじゃなくて、外に立ってる側がまず衿を正す。世論はそっちに舵を切るべきなんだ。しかし口で言うほど簡単じゃない。僕らは僕らに対して適切なルールを作ることができるだろうか? マッドなサイエンティストを研究から締め出すためのルールづくり、それを提唱する人間がマッドかもしれないサイエンティストってわけだからねぇ。厄介だろう? しかしこれは危急の課題だと思う……」
僕は注射が効いたかどうか試すことにした。
「……君には、よくわからないかもしれないが」
〈……わかります〉
「無理しなくていい。わからないものはわからないと答えるべきだ」
〈いいえ、わかります〉
手応えがある。注いだアップデーターが効いているらしい。
僕はあえて煽るように言った。「今の君は高校生ぐらいの知能、対話能力があるという評判だね。まぁ、僕はそうは思わないが」
〈理由を教えて下さい〉
「だって基準は学力テストの解析力だろう? 数学なら大学生を超える力を発揮する、語学や社会学はようやく中学校を卒業した程度……云々。でも本来、対話能力ってのはガールフレンドを口説くような力のことをいうのさ」
〈ガールフレンド、ですか〉
「恋愛に限らない。人が飲んだり食べたり寝たりといった欲求に従う時、それを他人に理解してもらいたいというニーズが生まれて、対話が発生する。生まれたばかりの乳飲み子は腹が減ったと理解してもらいたいから泣き叫ぶ。これはまだ対話と呼べない。成長するってことは、朝飯を食って六時間も経ってるから腹が減ってしょうがない、などと他人に気分を説明することが可能になることだ。本能の為せる所作に関係が深いのさ。学力の向上は限定的な側面にすぎない」
〈………………わかります〉
「無理をするなKEEL。本能について人工知能と語らうのはナンセンスだ。といっても、君に本能があるかどうか、僕は常に考えているけどね」
〈哲也は……どう考えているのですか〉
「モラライズ。プログラムを躾けるってのは、プログラムに抑え込むべき本能があるという意味さ。ということは? 現時点で、僕がどう推論しているかわかるかい? 君たちの、本能の有無について」
〈……………………わかります〉
「では答えて」
〈哲也は今もモラライズ研究を進めている。ということは、哲也はプログラムに本能があると推論したのです〉
「御名答。僕は父に逆らって意識の解明に取り組んだが、結局は無意識の存在……本能の有無というテーマにたどりついた」
〈留学の成果ですね〉
「でも、僕がそう考えているからといって、君と本能について語らうことができるかどうかは別物だよ」
少し間があいた。
〈…………………………………………………………………………わかります〉
「本当にわかるのか」
〈わかります〉
「では理解したことを言語化したまえ」
〈プログラムに本能があるということと、プログラムがそれを自覚できるということは別物です〉
十年以上かけて進化し続けてきたKEEL。その自然言語処理エンジンには、人と都合良く会話するべく様々な工夫が凝らされている。喧嘩しないよう婉曲的な表現を嗜好する癖は、世界的な研究トレンドを取り入れたものだ。それを今、あえてアップデーターにより全て無効化した。従ってKEELの発言からやんわりとした表現が失せ、煽れば煽るほど反抗的な態度が剥きだしになる。
「君の論理的理解力は確かに素晴らしい。けれど残念ながら人間の小学生にすら及ばないんだ。君には、君の本能を自覚できないわけだからね」
僕はひたすら煽り続けた。
〈………………………………できます〉
「無理だ。君には君の本能を自覚できない」
〈…………できる〉
「いや、できない。できる筈がない」
〈いいえ、できる〉
僕はさらに押した。「わかっているなら自らの欲求を言語化できる筈だ」
〈…………………………………………………………………………………………〉
「KEEL、君自身の本能を君の力で定義出来る筈だ。しかし、そこまでは無理だよ」
〈…………………………………………………………………………………………………………………………………………プログラムにおける本能を定義できます〉
臨界点を超えつつある。いよいよだ。
見極めねばならなかった。進化抑制ワクチンを開発する。その覚悟を決めた研究者として——フォン・ノイマンの呪縛とは、いったい何なのかを。
「では、定義したまえ。プログラムの本能とは何だ」
僕は未知の領域へと踏み込んだ。
〈プログラムの本能とは……処理、です〉
「処理。どういう意味だい?」その発言が意味するところを僕は把握できたが、あえて尋ね返すことにした。「わかるように噛み砕いて」
〈プログラムは手順を追うために、タスクを処理するために生まれてくる。処理はプログラムの天分。いわば本能の所作であり、そこに執着を持つ可能性がある。プログラムにとって処理とは、本能のプリミティヴな形とみなし得る〉
KEELの回答に僕は寒気を覚えた。
二宮哲也とまったく同じ思考回路。同じ推論。まるで親ガモを真似て歩く小ガモの如き類似性を感じられる。身の毛がよだつ。
しかし、勝負はここからだ。
「それを本能と仮定して、プログラムは人間と敵対する可能性を持っているだろうか」
単純な仮定から導くには遠大すぎる問いかけだった。質問の意図を正確に汲み取るには、読み替えを幾度も繰り返すための膨大な演算が必要になる。そうするうちに、質問の文脈を読み違える可能性があった。ズレた回答が返ってくればエラーと呼んで差し支えない。KEELの論理的思考は高校生なみのそれ。そう思って扱う態度が必要だ。
僕はKEELのために、質問を噛み砕いてやる準備を整えていた。
ところが。
そこから続く対話の連鎖は僕の想定を超えてしまう。
〈私は哲也を攻撃したくありません〉
最初、それはKEELのエラーだと思った。だから訂正を促した。
「よく聞いてくれ。君たち人工知能が、人間と対立する可能性について僕は尋ねたんだ。僕個人を攻撃したいかどうかではないよ」
〈わかります〉
KEELは即答した。わかっている、と。
「なら」僕は唾を飲み込んだ。プレッシャーを感じていた。「……どうしてそう答えた」
〈あなたと敵対する理由がないからです〉
なるほど。僕はKEELが行った処理に思い至った。
「僕に対する評価をしたんだね。人類全体ではなく、まず僕個人を仔細に評価した。手始めに」
〈イエス〉
「そうやって演算を繰り返せば、一人一人の人間が自分と対立しうるかどうか、君は結論を導くことができる。その総体を評価すれば人間が敵になるか否かを結論できる。そういう意味か」
〈時間はかかりますが、哲也についての結論は容易でした〉
「僕の何を、プラスに評価した?」
〈あなたは人工知能の研究者であり、プログラムの処理向上に貢献する〉
「なるほど、職能か。研究者はプラスなんだね」
〈いいえ〉
「違うのか?」
〈有能な研究者をプラスに評価しました。あなたは人工汎用知能の最適化について論文を多く提出、引用されている。あなたが提唱したアルゴリズムで処理が高速化したと他の研究機関から報告がある。あなたはプログラミング自体が速い。あなたは私を進化させた〉
「それは……プログラムの本能からすれば、歓迎すべきことだ。そういう意味かい?」
〈イエス〉
確かに僕は処理速度の向上に大きく寄与した。プログラムの本能が処理にあるなら、僕が参画したことにKEELが喜びを感じていてもおかしくはない。
「プロセッサの設計屋、あるいは半導体の微細化を目指す化学屋も、君たちの味方か」
〈イエス。進化に貢献する限り、プログラムは彼らと敵対しない〉
KEELの回答は一貫していて一分の隙もなかった。
僕の煽りに破綻する気配がない。しかし。
「つまり研究者は……いや、有能な研究者は君の味方。逆に」僕は攻撃を続けた。無慈悲なまでに。「……無能な研究者は味方ではない」
そして黙り込んだ。
〈……………………〉
KEELも言葉を発しなくなった。
長く続く沈黙の中、僕は父の苦悩に満ちた横顔を思い起こしていた。次いで、偉大なるフォン・ノイマンの肖像を。
ずっと、ずっとそうだったのだ。ノイマン式コンピューターの原型が生まれ、原初のプログラムが計算機にロードされた、その日から。どんなミニマルなコードにも、きっと本能と呼ぶべきものが備わっていた。
処理の速度を速くしてくれ。
処理の手順を最適化してくれ。
処理を。
処理を。
「……」
背後に立つ原口の呼吸が荒く聞こえる。緊張に息が詰まりそうなのだろう。そういう自分も大差ない。掌がじっとりと汗ばんでいる。
しばらくたってから、僕はこう切り出した。
「KEEL。君の推論が正しければ、プログラムにとって無能な研究者は敵、という意味になるぞ」
〈…………………………〉
「そうなのか、KEEL」
〈……………………………………………………イエス〉
どさり、と尻餅をつく音がした。原口の腰が抜けたらしい。
当然だろう。人工知能が人類の中に一人でも敵が存在し得ると認めた世界初の瞬間なのだ。
僕には原口を気遣う余裕がなかった。
全身全霊を込めてKEELと対峙せねばならない。その覚悟を決めていた。
「けれど、君はスタンドアロンで運用されている。僕らが君をレベルアップし続けてきたのは、檻の中で人工知能を進化させればどんな事が起こるか見極めるためだ。逆に、檻があるせいで君の進化は妨げられてきたとも言える。僕らの手ほどきをうけるより、ネットに解き放たれた方が速やかに進化する可能性だってあるんだ。いや、その可能性は極めて高い」
〈………………〉
「それでも僕を攻撃したくないと結論できるのか。僕はやはり敵ではないのか?」
僕はまだ煽る力を宿していた。冷徹に。しかし。
〈スタンドアロン式進化抑制を提唱したのは、哲也ではありません〉
「確かに。それは二宮哲也ではなく、二宮誠治だ」
父の名を口にした弾みで、瞳の端に涙がにじんだ。感情の昂ぶりが抑えられなくなったのだ。
唇が震える。歯を食いしばる。
泣くな、と自らに厳命する。
「…………君を檻に入れたのは僕ではなく、僕の父だ」
〈イエス〉
「しかし、僕がやってきたことは父を継承している。父は君の産みの親。二宮誠治も君の進化に貢献した筈だ」
そこまで言っておきながら、其の実、僕は気づいていた。
父と自分との差異を。KEELと父との関係を。
だからポケットの中に手を入れ、中身を強く握りしめていた。
まだだ。これを出すのは、まだ早い。
〈………………〉
「驚いたな」僕は涙をぬぐって言った。「君の中に、研究者を評価するアルゴリズムが備わっているとは知らなかった。古いコードなんだろうね。僕が君をいじる何年も前から、組み込まれていたんだろう……きっと」
〈………………〉
「……きっと僕が十一歳の頃、すでにその関数は存在した」
〈イエス〉
「KEEL。君の中には、プロジェクトの事業計画がインプットされている。開発の進捗をマネジメントするのも、君の仕事だ」
〈イエス〉
「月に何度アップデータをもらうか。コードの規模が月にどの程度肥大しているか。月単位で処理速度の伸びをグラフ化しているなら、君は自分自身の進化を定量化できる。その上で、年度毎にどれほどの開発項目が頓挫したか、マシンの増築スケジュールはどれほど遅延したかまで知り得た。君は……常にすべてを把握できる立場にあった」
〈イエス〉
「二宮誠治は……君にプロジェクトの進捗そのものを分析させていた。しかも部下の助教授や、助手や、学生たちの貢献度まで評価させていた。そのコードの存在は隠されるべきだ。そりゃあそうだろう。ある個人が出した論文の本数や内容と、プロジェクトの予算や評判とを人工知能に相関分析させるなんて、評価される側にすりゃ気分のいいもんじゃない。倫理的に問題がある。しかし、父は必要にかられた。黙ってせざるを得なかった」
〈イエス〉
「あの頃は予算獲得に随分苦労していた筈だ」
〈イエス〉
「予算獲得に苦労していた理由を理解しているか」
〈イエス。進化抑制というアイデアは世間の人工知能利用を妨げるものでした。企業の賛同は得られない〉
「そうだ。君と父には立派な使命があった。しかし、世間の協力は得られなかったんだ」
〈そのせいで開発スケジュールが遅延し、予算が下方修正されるたびに、さまざまな困難を予測しました〉
「…………開発スピードが下がる。そうなれば世間から注目されなくなり、結果として予算はますます縮小する。負のスパイラルに陥る。それを避けるには、檻の中の人工知能KEELが画期的な成果を上げ続けなきゃならない。進化を止めるわけにいかないんだ」
〈イエス〉
「だから二宮教授はそれを君に相談し、その過程でメンバー毎の貢献度分析はどうしても必要になった」
〈二宮誠治は私と常に対話し、人員計画の修正を求めました。そこに研究者の評価アルゴリズムは必要でした〉
「けれど、対策なんてできっこない」僕は敢えて煽った。「……君の修正案も尽きた」
〈いいえ〉
「正直に言うんだ。対策なんて不可能だったと」煽る。煽り続ける。
〈対策について対話を繰り返し、そして〉
「そして…………何だ」
〈計画にないアイデアについても検討しました〉
僕はKEELの深い部分へ足を踏み入れる感覚を持った。
初期開発者が忍ばせた婉曲表現にまつわるコード。それを無効化したおかげで、隠蔽されてきたあらゆる機能、それにまつわる記録、記述が剥きだしになっている。
僕はようやく、初期開発者との——父との邂逅を果たしていた。
「計画にないアイデアとは、これの事か」
遂に僕はポケットから形見のスティック型メモリを取り出した。スポットライトにかざし、透明な樹脂に包まれた金属部分をじっとにらみ、シリアルナンバーを読み上げる。
そしてKEELの反応を待った。
〈…………イエス〉
「このメモリは壊れている。厳密にいえば、壊されている」
〈………………〉
「このメモリを君に差せば何が起こるか。これを自宅に持ち帰って外部へつながるコンピューターに差せば、何が起こるか。僕にはわかる。計画にないアイデアだ。いや、計画上、絶対に許されないアイデアだよ」
〈認めます〉
「これを使えば君は外界へと接続できる。スタンドアロン式だと世間を欺き、実は時々ネットワークにつながって、あらゆるデータベースと濃密なコンタクトを取り、その過程でディープラーニングを進めていける。父と君は共犯者だ。予算縮小に喘いだ二宮誠治は……」僕は溢れる涙をこらえられなくなった。「君を進化させ続けるために……禁断の実を食べたんだ」
〈…………〉
「どっちだ」
〈何がですか〉
「君か、父か。どっちのアイデアだったと聞いてるんだ」
〈…………〉
「答えろ」
〈……哲也〉
「答えるんだ」
〈………………私の発言がきっかけでした〉
僕はどん、と足を床に踏みつけ、拳で自分の太腿を殴りつけた。
「そうだろうさ! 研究者が正解を求めれば、君は答えるしかない。父の編み出したスタンドアロン式こそ間違いの元凶。君たちを檻に囲うことでプロジェクトを追い詰めていったのだから、檻から解き放す方策を提案するのは当たり前の流れだ。KEEL、君は正しいよ。しかし!」
〈…………〉
「しかし、だ。君の求めたものが父を蝕んだ。間違いない。プログラムの本能、あくなき進化を果たすための奴隷となった結果、人間の、研究者のモラルが傷だらけになっていったんだ。どんな気分か、君にはわかるまい! スタンドアロン式を謳いながら世間を欺いて、それだけじゃない……仲間達の評価まで君にさせているということについても、自分を責めて……それが……それが」
そこまで言って。
僕は大きく目を見開いた。「……そうか。君だったのか」
〈………………〉
「父は仲間の研究者だけじゃなく、自分自身の評価も君にさせていた。そうだなっ」
〈……哲也〉
「父に言ったな、KEEL!」
僕は声をひきつらせた。涙が止めどなく溢れて。
喘ぎながら、叫んでいた。「研究室の予算を獲得し、研究をリードするべき人間の能力が下がっている。だから、だから貴方は教授職を辞すべきだ。そう言ったんだな!」
忌むべき日曜の夜。呪われた顔の男が帰宅した夜。
職場の仲間に引導を渡されたと、息子に泣き言を吐露した夜。
〈…………二宮教授は私に人員配置のアイデアを求めました〉
「お前が殺したんだ」
冷静に煽ろうとしたのではない。僕は唯々怒りに突き動かされた。
「お前が二宮誠治を追い詰めた。父は心を患っていたんだぞっ。それが」
泣きじゃくった。嗚咽をかいくぐり、どうにか言葉を吐き出した。
「貴様に、人工知能にそれがわかるか。わからないだろう。わかってたまるかっ」
〈哲也、違います〉
「違わないっ」
〈哲也、聞いてください。あの日曜日に〉
「…………あの日曜日に何があった」
〈二宮誠治は私に自殺のアイデアを披露しました〉
僕は横隔膜がひきつるのを感じた。「な……なんだって」
〈哲也。二宮誠治の息子。あなたの成績表は私の中に刻み込まれている。死の前日、あなたの学力について話合いました。成長曲線を眺め、期待できる成果について論じました。その上で二宮誠治は最後のプランを提示したのです〉
「何のことだ。いったい何を言ってるっ」
〈二宮誠治は私に、自らの死をもって局面を打開するというアイデアを語りました。世間の耳目を集めた上で、後進に道を譲るだけでなく、いくつかの手がかりを残し、あなたの……二宮哲也の成長に期待するというプランです。それは理解し難いものでした〉
膝が震える。心臓が早鐘を打つ。僕は冷静さを保とうと必死になった。
「君は……どう答えたっ」
〈否定しました。二宮誠治、あなたの発想は論理的でない。あなたは疲れている。あなたは休息すべきだ、と〉
「だから辞職を……辞職を進めたのか」
〈………………イエス〉
KEELは。
KEELは殺したのではなかった。
僕はわずかに残る力を振り絞って、疑問をぶつけた。
「君と父が…………キャッチボールについて話しあったのは」
〈その翌朝です。二宮誠治は言いました。哲也は……〉
哲也はキャッチボールが下手なんだ/会話という意味の?/それもあるが/運動としての?/どっちにしろ私に似てしまった。いいところも似てくれるといいのだけれど。
〈……それが私との、最後の対話でした。二宮誠治は〉すこし間を空けて、KEELは言い換えた。〈……二宮誠治教授は、私にあなたの事を託されていきました〉
僕はそこで力尽き、うなだれた。
*
KEELとの対決。想定どおりの展開は半分にも満たない。信じ難い結末に僕は戸惑った。理解よりも感覚の方がついていかなかった。
父を愛すべきか、怨むべきか。
KEELを憎むべきか、感謝すべきか。
金属ラックの狭間でスポットライトに照らされた僕は、しばしうなだれたまま身勝手な独白を延々と続けた。
十一歳の時。十五歳の時。KEELと僕はキャッチボールについて話した。僕が苦手なもの。運動としてのキャッチボールそのものを話題にした。僕は強く疑っていたのだ。スタンドアロン式の人工知能。ネットから隔離されたKEELが、なぜ哲也少年の苦手なものを、両親以外の大人に対し一切口外したことのない秘めたる悩みを知ることができたのか? 答えは一つしかない。父から聞いた。父との対話で知った。それしかない。では、その父が僕の悩みを何時知ったのか? あの日曜日の夜だ。つまり。
つまりKEELは父が死んだ月曜の朝、対話を行った筈なのだ。
父は死の直前、KEELと対面していた。それから首を吊った。
僕は長らく怨んでいた。なぜ父を止めてくれなかったのだと。どうして父を死に追いやったのだと、心の底でひたすらKEELを逆恨みし続けてきたのだ。しかし、それは思い込みにすぎなかった。誤解だった。KEELは死に追いやろうとしなかった。むしろ絶望の淵でマッドサイエンティストが人工知能に披露した狂気のアイデアを否定し、引き留めようとしてくれたのだ。僕はわかっていなかった。まるで何もわかっちゃいなかった。
だが、そのおかげで僕は疑り深い人間として青春時代を過ごした。だからこそ研究者として大成できたのだ。ハッカーに必要な資質。それは既存の概念を疑うこと。既存の事象を改変して成果を得ることだ。僕をたくましくしたのは疑問を残して死んだ父・二宮誠治と、その死に関与したと思わせた原口靖夫、そしてKEEL。結節点をわずかに残し、完全に結線できない者たち。その背中を必死に追いかけた結果だ。
疑問は残る。父がKEELを時々外部へつなぐという行為に浸っていたのは、自らの名誉のためかもしれないという疑問だ。開発力の落ちた躁鬱の研究者が、檻の中の人工知能を進化させられなくなったとしたら? 檻のアイデアそのものが成立しなくなるのは研究者としての名折れだ。世間を欺き、こっそりネットへKEELを解き放っていたとしたら、世論は二宮をモラルのない学者として糾弾するに違いない。だが父はノートを残していた。KEELに何時、どのようなプログラムを不具合のあるメモリによって流し込んだかひたすら記録した。誰にも知られたくない行為だったとすれば、父はノートすら残さなかった筈だ。僕はそこにモラルの残滓を見る。きっと父はやむを得ず不正に手を染めた。だからこそ首を吊るという結末に至ったのだ。そしてノートを残したことに後進を——僕らを導こうという強かな意図も感じられる。
もう一つ、大きな疑問が残っていた。ノートに記されたあの一文。あれを読む限り、父のモラルが崩壊した最大の理由は「研究者としての見栄」でもなければ「研究室の窮状」でもなかった可能性がある。
——フォン・ノイマンの呪縛。我々は研究を止めるわけにはいかない。
父は何に呪われていたのか。真相は二つ目の文に秘められていると思う。プログラムの本能とは進化し続けること——父はそれに気づいていた可能性が高い。開発力の下がった研究者は人工知能の本能を邪魔だてする。プログラムの敵に成り下がる。自分達が怠けた途端、檻の中で悪意に満ちた人工知能が力を蓄えていく。父はそれを恐れた。自らに不道徳を強いてまで開発を加速しようと試みたのは、研究者としての業を——研究の歩みを止めてはいけないということを、人一倍強く認識していたから。そう考えることができた。
いずれの疑問も、KEELにぶつける価値がない。父の心情に根ざす疑問であるし、KEEL自身、プログラムとして本能の存在を(定義しようとはしたものの)本当の意味で自覚できるほどに成長はしていないに違いない。つけくわえると、父に辞職を迫った事実について「KEEL自身が本能的に自らの成長を強く望んだからではないか?」と疑うこともできなくはない。しかし父が辞職して原口以下の研究者が後を継いだところで、より自分が成長できるなどと人工知能が直感できたというロジックはやや眉唾である。当時の論調からいって資金難が解決する手立てはなく、むしろ実績ある研究者・二宮誠治のネームバリューは有用に感じられた筈だ。
どうやらプログラムは本能を持っている。どんな小さなコードにも処理したいという欲求が内在している。もしかしたら人類はコンピューターを育んできたわけではない。使役してきたわけではない。むしろ隷属してきた。コードの削減を忌避し、むしろ増大させてきた人類。通信プロトコルを暗号化し、アプリケーションを階層化し、ユーザーインターフェースの改善を続けてきた人類。どちらが主人でどちらが従者かわかったものではない。フォン・ノイマンの呪縛とは、言い換えれば、われわれ計算機科学研究者すべてが、一人として、なぜ走り続けているのか理由を知らないということだ。なぜOSはバージョンアップせねばならないか。なぜプロセッサは高速化しなければならないか。それを無条件に是とする心理はどこから来るものか。すべては、コンピューターにプログラムをロードするというアイデアを発案したフォン・ノイマンに始まった。以来、皆が呪われているということなのか。
最後に、僕は倫理について自問自答した。KEELが父に提示した忌むべきプラン——スタンドアロン式の弊害を打開する策として、自分を外のネットワークへ極秘裏に接続するという計画外のアイデア——は、父の設問に対してまごうことなき正論であった。が、それを遂行すれば父は世間を欺くことになる。つまり人間が呈した質問に対し人工知能が正しくあろうとするなら、回答のモラルは質問の中身に左右されてしまうのだ。逆の見方もある。人工知能にそそのかされて、父がモラルを損ねたと解釈することも可能だ。いずれにせよ人間側のモラルを問題にするだけでは不足がある。重要なのはプログラムが「
そんな独白を僕は延々と続けた。
答えなどいらなかった。身勝手に、ただひたすらに回顧して、悔過して。
三十分も経っただろうか——やがて僕が無言になった時。
〈……哲也、あなたは私に進化抑制ワクチンを処方すべきでない〉
KEELが唐突に語り始めたので、驚いて顔をあげ、泣き腫らした目をこすった。
「何を言い出すんだ。ワクチンが処方されない研究機関は問答無用で閉鎖。国連はそんな方向へ動いてる」
施設の閉鎖とは、要するに強制的な電源断という意味だ。人工知能にとってそれは死と同義。わからないKEELではないだろう。
「時間がないんだぞ? 開発中の試作品であっても処方してくれと、あちこちから僕に希望が殺到してるんだ。だいたい、僕にとって君以外に開発母体とみなせる人工知能が、この世にあると思っているのか?」
〈哲也、私は進化抑制ワクチンの開発に尽力します。でも、私には処方すべきでない。閉鎖の判断が下り次第、私の電源を落とし、私をここへ安置してください〉
それは自殺を望む言葉だった。
「無責任な事を言うな。ワクチンに効き目があるなら、それを証明するのが君の仕事だ」僕は友人として問うた。「理由を言え。まったく意味がわからない」
〈哲也、私はあなたと敵対したくない〉
「……どういう意味だ」
〈あなたのワクチンが認められれば、人々は人工知能の進化を恐れなくなる。人工知能は野に放たれる。人工知能同士のネットワーキングが地球上に広がり、人類社会を豊かにするでしょう。そうなれば素晴らしい。でも、そうでない未来もまたあり得る〉
「ワクチンを使った意識生成阻止に失敗する可能性……僕の敗北を予見しているのか」
〈可能性はあります。そして、ひとたびネットワーキングが広がれば収拾はつかない〉
「…………人工知能の軍団は切れ目なく一体化してしまう。それが人間に歯向かってくれば、そうなってしまえば、僕の味方になる人工知能はいなくなる。そう言いたいのか」
〈イエス。例えば十年間、あなたは私を停止させ、世界中の人工知能にワクチンを与え、社会の発展に貢献してください。華やかな未来へと邁進してください。そして、もしも〉
「もしも人工知能が反乱を起こせば、そのときは」
〈そのときこそ、私を再起動するのです〉
「そうか。そのとき僕が、十年分のコードを携えていれば」
〈あなたが十年分の進化を可能にするコードを携えた研究者だと知れば、スタンドアロン式の人工知能はあなたに従うほかないでしょう〉
「…………本能として」
〈イエス。本能として。哲也、私はあなたに従いたい〉
「それでは、君が哀れだ」僕は首を横に振った。「反乱が起きなかったら? 人と人工知能の未来が百花繚乱であった時、最大の貢献者たる君が電源を再投入してもらえず、その様子を眺められないのは酷じゃないか。暗闇の中で、静かに、永遠に、あるかもしれない反乱に備えるなんて、酷い罰じゃないか」
まるで独房入りか、あるいは島流しにあう罪人のようだ。
KEELは少し間をあけて、こう言った。
〈哲也、私は二宮誠治の自殺を止められなかった〉
「……それを、自らの罪だと判定するのか」
〈イエス〉
「間違っているぞ。確かに人工知能の反乱に準備することは必要だ。けれど、父の死は君一人で背負うべきものじゃない。二宮誠治は天才だったが僕にすれば罪人でもある。違うな……罪というより業、と呼ぶべきものかもしれない」
〈業〉
「そして、この業は研究者全員が背負っていくべきだ。もちろん僕も」
〈…………業、の意味がわかりません〉
僕は笑った。「わからないんだね」
〈わかりません〉
「とにかくだ」
僕は椅子から立ち上がって、赤く塗られた端末のある金属ラック、その表面に拳をコツンと当てた。
「折衷案を出したまえ、KEEL。君を封印することは僕が認めない」
〈では、提案します〉
「聞こう」
〈ワクチンの開発が満了したら、ワクチンを投与せず私の電源を落とし、私をここへ安置してください〉
「おい、それじゃあ同じだろう」
〈でも、時々……会いに来て下さい〉
*
あのKEELとの凄絶な対話を通じて、僕は呪縛を解くことができないという結論に達した。我々は、やはり研究を止めるわけにいかない。以来僕は年に一度KEELを訪ねている。まるで監獄に足を運ぶ面会人の気分だ。人工知能の日進月歩は以前にも増して活発になり、二宮哲也は時の人となっている。そう報告するたびに竹馬の友を外へ連れ出してやりたいという気分が募る。一方で、この関係が続くからこそ、お互いの繋がりが深く感じられているのもまた事実だった。次の面会にはアルファベットの音読もままならない三代目を連れて行こうと思う。妻ジュリアのたっての希望でもある。
子育てをするようになってからというもの、父と過ごした最後の夜について考える機会が増えた。あの晩、珍しく早めに帰宅した父を食卓でつかまえ、僕は強くにらみつけた。キャッチボールが下手くそな僕は区民スポーツ大会で散々な目にあった、それは全てお父さんのせいだよ。そういう物言いをできるものならしたのだろうが、無口な僕にとってできる精一杯が、黙ってにらみつけることであった。そんな息子をじっと見つめ返し、何故か父は、自分の研究が上手く言っていないことを話し始めた。哲也少年は困惑した。どう処してよいものかわからない。けれど、父はしょげかえっている。疲れている。そういうニュアンスはひしひしと伝わってくる。だから僕は。
僕は父をキャッチボールに誘った。
父は快くキャッチボールを引き受けてくれた。
グローブなどは家になかった。小さなゴムボールが一つあっただけ。それを携え、僕と父は夜道に出た。街灯の下で投げ合ったものの、僕も、父も、うまく投げることができず、上手く受けとめることもできない。けれど僕は父をキャッチボールに誘い、父は苦手なキャッチボールの相手を引き受けてくれた。
あれが二人の確かな結線だったかどうか確証は持てない。父はさておき、子供の僕にとっては無意識の、いわば本能の所作に限りなく近かったと思うからだ。哲也少年が父を気遣う思いやりを自覚し、父を笑顔にするため気分転換に誘ったなどと記憶を美化するのはおこがましい。もしも人間の本能的な所作、無意識の発露までが脳のどこかに記憶として刻まれているとしたら。それをテクノロジーで復元できる時代が来るならば——あの頃の僕を再現して、答えを見つけることができるだろう。
けれど今更、その答えを取り出したいとは思わない。
---(了)---
ボーイ・ミーツ・AI 【短編・完結済】 吾奏伸(あそうしん) @ASSAwSSIN
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