第3話 無限と夢幻
ライトたちが宿泊している部屋にも、その黒い物体は現れた。ベッドとベッドの間にある小さい棚に設けられたデジタル時計、『00:00』のちょうど真ん中から、トコロテンのようにぬるりと押し出され、床に落下した。床にはカーペットが敷かれているため、音はほとんどしなかった。
黒い物体はみるみるうちに人型を成した。その後しばらくは、頭から掛け布団を被った二人の姿を、虚ろに光る目でじーっと眺めていた。そしてある時ふと、両腕を重げに上げた。その先端を細く伸ばし、怪しげに、ゆっくりと二人へ迫る。
刹那、二人の掛け布団が勢いよく捲れ上がり、黒い物体を挟み込んだ。黒い物体は掛け布団程度の重さにさえ耐えられず、そのまま床に潰れた。
ライトとウェイミーは素早く、外側からベッドを降りた。慌てず靴を履くと、廊下側のウェイミーは部屋の照明のスイッチに触れ、ベランダ側のライトは椅子から上着を取った。
「駄目、点かない!」
「そっちに行く!」ライトはベッドで跳躍してウェイミーに駆け付ける。
いまだ黒い物体に動きはなかった。ただヒッソリと、そこに布団が落ちている。
ライトは上着からコンパクトミラーを、さらに鏡面から大剣を取り出し、慎重に布団に近づく。一時の沈黙ののち、剣で素早く、布団を捲り上げた。
黒い物体の姿はなかった。消えていなくなったのか、それともベッドや棚の下に隠れているのか、わからない。二人に沸々と不安が募る。
ドン! という音が聞こえた。ドアの方からだ。それは一度ならず、二度三度と次々に繰り返される。
ライトはウェイミーの手を引き、窓へと駆けて、それを破壊した。ほぼ同時に背後から嫌な音がした。振り返れば、ドアが押し倒され、黒い物体が流れ込んできていた。
ライトは窓枠に足をかけた。が、ここはビルの十階。その高さに血の気が引いた。だが、背後からは黒い物体たちが迫り、今、一本の手がウェイミーに伸びた。ライトは意を決し、ウェイミーと共に飛び降りる。
「なっ!?」「えっ!?」
二人は目を疑った。ビルの下の道路に黒い物体がひしめき合っていた。このまま下に落ちたら、間もなく奴らに囲まれ、万事休すだ。また、ライトたちを追って落下してくる黒い物体たちもいるからに、更なる追い打ちがかかる。
それでも考えている余裕はもうない。
「ウェイミー!」
「はい!」
ウェイミーの全身が眩い光に包まれると、瞬く間に形を変えて人形の姿になり、ライトの手の中にすっぽりと納まった。それと同時に
ライトの目の色が変わった。
ライトはタイミングを見定め、窓のすぐ上の壁に剣を突き刺そうとした。失敗。剣先は甲高い音を立て弾かれた。
再度、より集中力を高め、突き指す。成功。その反動に更なる勢いを加え、窓を突き破って室内へと飛び込んだ。
ライトは着地に失敗し、背中と後頭部を床に強打した。窓の外では黒い物体が次々に落下している様子が逆さまに見えた。思わずニヤリと笑う。
「ライト、落ち着いてる場合じゃないよ!」ウェイミーは声を張った。「早くここから逃げないと、すぐに取り囲まれちゃうよ」
「わかってるってば」
ライトは飛び上がるようにして体を起こすと、剣を回収する。眼下にはいまだ黒い物体が蠢いており、虫唾が走った。急いでドアへと駆け、部屋から出ようとした。が、それは叶わなかった。
部屋の外には何もなかった。何もだ。ドアの縁を境に、無の空間が渺々と広がっているのだ。ライトがそのまま足を踏み出していたならば、今頃奈落の底へ真っ逆さまに落ちていたことだろう。ライトは咄嗟に反応し、その場に尻餅をついて踏みとどまった。
「な……何だよ、これ?!」
「いくらイディア界でも無茶苦茶過ぎるよ!」
「こうなったらまた窓から――」
ライトは振り返り、絶句した。
部屋の屋根や壁がなくなっていた。床に敷かれたカーペットと、ライトが割った窓があるばかりである。そして窓からは、モゾモゾと這いずりながら黒い物体が押し寄せて来た。津波を目の前にしたのような威圧感に、ライトの体は緊張した。
「やるしかないか……! ウェイミー、省エネな配分でお願い!」
「わかった!」
ライトはただひたすらに黒い物体を切り倒した。敵は霞を払うような手応えも残さず、次々と消滅してく。それでもライトは決して油断しない。
数の暴力。ピーラーで薄く皮を剥くが如く、少しずつ少しずつ体力を削られ、ほんの小さなことからペースを乱し、そしてそこから一気に形勢を逆転され、そのままお陀仏となってしまう……。
戦う以外の選択肢も考慮に入れ、冷静に、それでいて情熱を絶やさずに、ライトは攻撃を続けた。ドアへと続く細く短い廊下と部屋との境の位置を陣取って、そこから一歩も前には出ない。無理をすれば取り囲まれかねないからだ。
息が切れ始めた。鳥の羽根の軽かったはずの剣が巨石のように重く思い始めた。斬るスピードが途端に落ち始めた。声を上げて誤魔化し始めた。だがいまだ黒い物体は尽きることを知らない。――限界は近いと、ライトは悟った。
たすけて
ライトは我が耳を疑った。疲労からくる幻聴かと思った。
たすけて たすけて たすけて
たすけて たすけて たすけて
たすけて たすけて たすけて
間違いなく聞こえる。声の主は恐らくは、迫りくるこの黒い物体たちだろうと、ライトは推測した。襲い掛かってくるいくつもの手が、救いを求めるそれに思えてきた。
どういうことだ? どうして助けてほしいんだ? 何から助けてほしいんだ?
「ライト!」
ウェイミーの声で、ライトはハッとした。「何?!」
「もう
「了解! それなら最後に一気に使い切って!」
「えっ? う、うん!」
ライトは気合いの一振りで黒い物体を払い除けると、回れ右をして走り出す。
「えっ、ら、ライト!?」
「一気に跳ぶよ!!」
「えっ、えっ!?」
ウェイミーの叫びが闇に広がり、消えていった。
ライトはドアの枠ギリギリで勢いよく踏み込み、無の空間へと跳び込む。闇に引き寄せられるかの如く、ライトの体は落下していく。恐怖心から目を閉じたくたるのを必死に堪え、いつ来るともわからない変化に備えた。
「この穴、いつまで続くの!?」
「僕にもわからないよ! でもあのまま戦い続けてたらきっと――」
ライトは言葉を止めた。その眼下に、突如として、桁外れに巨大な黒い物体が出現したからだ。地獄への入り口が開いたかの如く、それは口を開けて待っていた。
逃げ場はない。
間もなく二人は、阿鼻叫喚と共に、黒い物体の口の中に閉じ込められた。
跳ね上がるようにライトは起き上がった。咄嗟に状況を確認する。
左を見ればウェイミーが、同じような姿勢で、同じようにキョトンとした表情をしていた。二人ともホテルのベッドの上にいる。反対側、右を見れば、割れていない窓があり、カーテンの隙間からは漆黒の夜が垣間見えた。
二人は同時に、ベッドの間にある時計を覗き込む。文字盤は『00:01』を示していた。
顔を見合わせ、二人は間もなくに呟いた。「「夢?」」
イディアに光を ~創造的想像世界冒険譚~ 紙男 @paperman
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