クロウの女難歴(2)
けっして広いとは言えない浴室に座る、水着姿の少女。
たしかあれは、アラタが懲りずに誘ってくれた二度目のデートの時、夏用にと買ってくれた代物だ。
フリルのついたワンピースタイプのものに、ショートパンツの組み合わせ。
不健康な生活とは不釣り合いな健康的な脚線美を惜しげもなく披露している。
上半身では下半身、セクシーさではなくキュートさを押し出した、アラタの選球眼は見事なものだった。
ーーではなくて。
クロウはその異様な光景を前にして、脳ミソをフル回転させた。
水着はともかく、それを着る意図とはなんだ?
いつもと変わらない仏頂面からは、羞恥心やはにかみのようなものは感じ取れないが、そこには償いか、あるいはべつの、彼女なりの動機があるはずだ。
虎穴に入らずんばなんとやら。とりあえずは彼女の誘いに乗って、そのヒザの前に座ることにした。
「よしよし」と表情を変えずに輪はうなずき、不慣れな手つきで泡を立て、クロウの背を力任せに擦った。
「いだだだ! もうちょっとやさしくしてくれよ!」
「あぁ、繊維が傷んじゃうもんね」
「生地の問題じゃない!」
本当に詫びる気があるのか。
そう疑問視しながらも、彼女はクロウの訴えを受け入れて、力加減を弱めた。
「あぁ、こうしてると」
「なんだ?」
「死んだじいちゃんの背中流してたの思い出す」
「……せめてパパにしたってくれんか。本来の自分の歳思い出して気が滅入る」
「享年九十」
「具体的に言うな! まだ気は若いんだ!」
本題に踏み込まず、さながら前戯のような水面下の丁々発止。
このままでは湯冷めするまで話が終わらなくなってしまうし、ヘンに神経は図太いが基本受け身体質の彼女には、逆にこちらから聞いたほうが良いのかもしれない。
そう判断し、クロウは
「で、本当はなにが聞きたい?」
と、あえて奇をてらわずにストレートに問いただす。
仏頂面はいつものことだが、鏡にうつる少女の顔は困り眉で、んー、と間延びした声を感情を乗せずに発した。
滑らかな手をクロウの背で止めて、一テンポ間を置く。すぅ、はぁ、という浅い息遣いが、狭い浴室にクリアに響いた。
「さっき、ちょっとこぼしてたじゃん」
「盛大にこぼしてたな。だからここにいるわけだが」
「や、米汁のほうじゃなくて。そのー、『自分のオンナ』がどーたら、ってヤツ」
「あぁ、はいはいはい」
「これまでにどういうお付き合いをしてきたのか、参考までに聞いておきたいなー、とか」
「参考?」
「うん、サンコー」
ほー、と本物の鳥のような鳴き声とともに、クロウは相槌を打った。
輪は、具体的にはそれがどういうことかは言わなかった。本人が意図してにごしたことを、あえて追及する気もない。それは、こちらで察するべきことだ。
輪もあと半月もすれば高校デビューだ。
となれば青春の日々、スポーツ、学業、課外活動それに恋愛。
こと後者は自分で望んでどうこうできることは少ないし、となれば他人のパターンを聞いて学びたいというのは、ムリらしからぬ動機、というやつだろう。
その一助になれるのなら、クロウとしてもやぶさかではない。
「いいよ」
そんな『親心』とともに、彼は二つ返事で快諾した。
「つっても、俺あんまり恋愛経験ないぞ。意外だろ」
「いや全然」
「え?」
「『あなたとはいいお友達だと思ってるわ』とか、『これからも優しいお兄ちゃんでいてね』とか、そんな風に言われてるの見え見えだもの」
「まるで見てきたかのような的確な推理が俺の心の傷をえぐる!」
「まぁお友達もひっくるめてさ、印象に残ったのを適当に教えてよ」
「それはそれで、なんか釈然としないな……いいけど」
クロウはあらためて、記憶をたどってみた。
人としての第一の生を終えるまでの九十年間、そして魂を狂気の煉獄に捕らわれてからの数千年。その中では、多くの記憶が磨滅していった。
エピソードとしては憶えていても、もう顔も名前も思い出せない人がいる。大切なはずのものだったのに、「大切だった」という感傷の断片しか残っていないものだってある。軽くショックを受ける。
だがそんな中でも、強烈に印象に残っている女性たちは、今なお彼の内で当時の輝きを保っていた。
「うーん、まずは幼馴染の巫女さんかな」
「おっ、いきなりニッチな性癖だね」
「キーワードだけで人を変態呼ばわりするんじゃありませんっ、だいたい、付き合いは長かったけどとんでもない乱暴者だし、男勝りだし、すぐ手をあげてくるし、矢は射かけてくるし」
「ずいぶんと、ポンポンと言葉が出てくるんだね」
めずらしくそれとわかる笑みを浮かべながら、手をふたたび動かし始める輪。
背を押す力は、さっきより強くなっていた。
ただ、気が強すぎて彼女は、次第に誰にも助けを求めなくなった。
みずからが祀る神と盟約を交わし、自分たちをいつまでも救えるようにと不老不死の肉体を得た。
だが、世界が滅ぼうと彼女が消えることはなく、ありとあらゆる並行世界の、変化のない人類と文化と歴史とに絶望した。
みずからの名をアナグラムによって葉月幽と改名し、この
ただ、それでも、
「あいつが、神の力に捕らわれていた俺の魂を解放してくれたんだ」
「……」
「たとえそれがどんな邪悪な行為だったとしても、俺たちのための行動だった。だから、今でも憎めない」
「で、その娘とはどうだったの?」
「いやぁ……むしろアレは、男友達的な関係だった。恋愛にはまったく発展しなかったし、あいつのタイプじゃなかったし、俺もタイプじゃなかった。上半身がこう、残念だったしな!」
ジャッ、とシャワーが頭から引っ掛けられる。
「ハイ、じゃあ次」
と、頭上の輪はすっかり進行役だった。
「次って……まあ良いが。あと、面白いのといえば、近臣に不老不死の尼僧ってのがいてさ」
「えっ、また合法ロリの聖職者をそばにはべらせて!?」
「いちいちヒワイなエロワードに置き換えるのやめてくんない!? たしかに黒髪美人だったし、身体だけで言えば超俺好みだったけど!」
「だから手篭めにしたと」
「できるかそんなおっそろしいマネ! 末代まで祟られるわ! っていうか末代まで祟られた結果がこのザマだよ! アッハハ!」
笑うに笑えない、といった感じに捨て鉢気味の哄笑をとどろかせて、クロウは言った。
背中を研ぐその手が止まる。
「じゃあ君を神様の力とやらに閉じ込めたアレって、そのひとの仕業なんだ。……なにしたの?」
「だから何にもしてないって。あいつに命拾われて、気づいたら覇業やら王道だのと献策されつづけて、気づいたら天下とらされてた。で、そのあとは当たり前のような人生と送って、人として死んだ」
ただ、とクロウは言い添えた。
「あいつには、それが許せなかったんだろうなぁ」
烈しい女だった。だが、哀れな女でもあった。
存在から中身までふざけたような存在だったが、それは、幾たびも経験した死別と変心と裏切りによる、深い失望と絶望の裏返しでもあった。
かつて愛した人々に嫉妬され、憎悪され、嫌悪され、自分が信じた教義や信念にさえ裏切られ……そしてそれらを棄ててでも、人類の救済、世界の安定を諦めきれなかった女。
だから、若かりし頃の自分は彼女に誓ったのだ。
「自分は変わらない」と。
そしてその盟約は、果たされた。いや、今なお今なお果たされている。
たとえ老いようとも、余りある知識や権力や財を手にしても。それらをすべてうしない、誓った相手をふくめ、多くの友人たちが変わってしまい、去ったあとでも。
そして神の力とやらに閉じ込められ、狂気の奔流の只中にあっても、自分自身の名を改め、姿を鳥獣に変えられようとも。
彼は、いつまでも俗欲にまみれてヘタレで、そこそこに面倒見の良い、『気の良い兄ちゃん』で在りつづけた。彼女が主人と見初め、自分がそう生きたいと願った、おのれのかたち。
前世では、その在り方のまま国を統べ、歳をとり、当たり前に死んだ。
その臨終の間際、もはや顔は見えなかったがあの女は泣かなかったはずだ。
ただ一言、
「ゆるせない。ゆるさない」
という繰り言が、今でも記憶にこびりついている。
もし鐘山環がありとあらゆる衝動にまかせて、自らが決めた道を踏み外すことがあれば、彼女は素直に、従容と、自分のもとから離れていっただろう。
だが、
「……なんか、クロウの周りの女って、いろいろこじらせ過ぎじゃない?」
「だから言ったろ。あ、でも中にはすごくまっとうなヤツだっていたぜ」
「たとえば」
「神様」
端的に第三の女の素性を明らかにする。だがその瞬間、白けた雰囲気をともなった外気が、浴室内に侵入してきた。
「えっと、のぼせた?」
「いや、本当に神だから。というか、お前にも関係のあるヤツだぞ」
あぁ、と水着姿の少女は一定の納得をしめした。
何しろ輪がこんなところで、こんな格好をして、こんな珍妙な生物の背中洗いをしているという境遇は、元をたどればその存在に行き着くのだから。
「そう、『デミウルゴスの鏡』の大元となった女神、盤古の一種『キハル』。俺がここまで連れ立って歩んできた女だ」
クロウは自分でシャンプーを手に取り、ハットの上から振りかけた。
羽根で器用に泡立てながら、せわしなく動かす。
「人格っていうものがあったんだ」
「あぁ。といっても力の一部に残っていた残滓。言わば分霊のようなものだったがな」
ただそれでも、彼女の気高さと寛容さ、そして疑うことを知らない無垢な明るさは、自分の薄っぺらなそれと比べられるものではない。
「少し能天気で楽天家すぎるきらいはあったけど、それがあったからこそ俺はあの狂気と膨大な力のなか、溺れず発狂せず正気を保っていられた。……そして彼女は最後に、こんな俺のためにこの身体をくれた」
借りを返そうにも、その貸しがあまりにも大きく、また返す相手も近くにいない。
今は、どうしようかと思案しつつ、自分ができることだけをこなしていくだけだった。それが最終的に、彼女に報いる方法だと信じて。
「その人のこと、好きだった?」
「恋愛的な意味で、というにはちょっと重すぎるな、俺たちは。運命共同体? いや、俺とキハルとは対等じゃなかったしなぁ。俺にとっては『ザ☆グレートマザー』! ……って感じかな」
「なにそれ」
「いや、本人が言ってた」
「……フツーじゃないから、それ。カミサマ抜きにしても頭ヘンなヒトだから。もっとマトモな女いなかったの?」
クロウの頭を抱えて揺さぶり勝ちに毛をぬぐう輪。うめきながら、無茶を言うなとクロウは思う。
そもそもまっとうな常識人であれば、幾星霜も積み重ね、忘却し、更新していった記憶に残るようなものではない。また、特に説明が要る相手でもない。
――それでもひとりは、いる。
なんの力もなく、特別な出自もなく、強烈な個性もなく、ただそれでも、なお自分に思い出として寄り添いつづける存在。
「あ、いるって顔だ」
鏡を通してクロウの表情を確かめながら、輪は言った。
踏み込んでこなければ、適当にはぐらかす気でいた。ただ、追及されて拒否するほどのことでもない。
しばらく無言で気持ちを整えてから、クロウは答えた。
「聞いて面白いヤツでもないぞ」
「そういうので良いんだよ。神様とかじゃなければ」
「いや、最初はそこらの親なし子だった」
「でも特殊な能力者だった」
「カンは妙に鋭かったが、ふつうの人間だったよ」
「じゃあ、ナイスバディーだった?」
「いや、それこそちんちくりんの貧相なヤツだ。
歳もひとまわり年下。俺の好みとは真逆なヤツだった」
「じゃあ」
輪が今までの情報をもとに質問をする。クロウが答える。
遠回しに、かつ遠慮がちにその正体を探ろうとする彼女に、クロウは「それでも」と前置きした。
「それでも、俺の妻だった」
シャワーは、いつしか止まっていた。
水滴がしたたり落ちる音が、まるで時計の針のように時を刻んでいた。
日常には珍しく、見に見えるほどに驚愕を見せる少女に、不本意げにクロウは唇ならぬクチバシをとがらせた。
「あのな、いくら俺でも九十で死ぬまで貞操を守ってたわけないだろ。妻帯のひとつやふたつしてるさ」
と言っても、輪は動揺を隠しきれずにいた。
所在無くさまよう泡だらけの手が、クロウの羽毛を撫でつける。一瞬、その背に留まりかけたが、すぐに頭の上へともどした。
クロウの人生においてあまり影響をおよぼしたとは思えないから、その半生を語るにおいては、葉月やキハルなどの存在に隠れがちだ。
とは言え、自分にとっては大切な女性には違いない。
だから、珍しく彼女を語る機会を得て、聞かれもしないのについ口がすべった。
「ちびっ子のくせに妙に向こうっけと目力のある、仏頂面なヤツでなぁ。そういう点では、お前に似てるかもな」
言ってしまってから、シャワーでオケに湯を溜め始めた輪に、妙に剣呑な雰囲気を感じ取った。失言だったと、理屈は抜きに本能的に悟る。
「……だから、お前を助けたってわけでもないけどさ。関係ないところまで喋ったか。すまん」
「そうだね。……うん。私には、関係ないから」
そう強く言い切ってから、輪は溜めた湯水をクロウの頭から注ぎ落とした。
「ガバボボボボ!?」
呼吸すらできない量の中で溺れるようにもがくクロウに、追い討ちとばかりにオケが勢いよくかぶせられる。
「なんだ。案外モテるんじゃん」
望んだ答えは得られたのか、どうか。
妙にスッキリとした口調で輪は言った。浴室とオケのなか、その声がハウリングして響きわたった。
「そうかぁ? お前の言ったとおり、俺は所詮どうやっても友達止まりの男だよ。
「愛されてたんだよ、君は。じゃなきゃ、君を無理やり生き返らせようとしたり、不老不死にしたり、自分を犠牲にしたり、そんな変人どもの中でふつうに寄り添ったりしないよ」
「なんでお前に、そんなことが」
視界を覆うオケを取り外し「わかる?」とつづけようとした瞬間、クロウの眼前に輪の顔があった。
「言ってもいいの?」
予想外の不意打ちに硬直するクロウの前で、輪は濡れた唇をひらいた。
「私は、《それをあなたに》、言っていいの?」
とくり返す。
雫のしたたる黒髪。丸みを帯びた頬。あどけなく開けたままの口。浴室の熱と湿気にあてられて、上気した肌。うるんだ瞳。何かを期待するようでいて、逆にすがるような色が、その瞳孔の奥でかがやいているようだった。
そこから視線を外せば、未成熟そのものだが、だからこそ青果のような、ハリと身の硬さが、妖しげな魅力をかもしていた。
答えに窮するクロウは、そのまま後ずさろうとして、足にたまったソープまじりの水に足をとられた。
「だぁっ!?」
と悲鳴をあげて尻餅を打つ。丸い肉体はその衝撃を吸収したが、後頭部は浴槽の角にしたたかにぶつけた。
「芸人気質」
身もだえる彼にあきれたようにそうつぶやいた娘に、さきほどまでの色香はない。いつものふてぶてしい、八葉輪だった。
「じゃ、聞くだけ聞いたし、後片付けよろしくね」
と、言い置いて、自分はさっさと出て行ってしまった。
取り残されたカラスは、ぶつけたときの姿勢のまま、しばらくじっと浴槽にもたれていた。
あぁーと、例えようのない感情がもやもやとした形で、クチバシから漏れ出てくる。
何か、大事な機を台無しにしてしまった気もするし、これでよかったのだという卑怯な安心感もあった。
輪は妻に似ているだけではない。自分にも似ているのだとあらためてクロウは思った。
――どちらも、人を見る目はあるくせに、他人の好意を受け止めるのはへたくそなんだな。
そしていつしか、今は避けられたとしても、今と同じかたちではないにせよ、同じく真正面から受け止めてやらなければいけなくなるときが、きっとくる。
クロウはにがい想いを噛みしめて、シャンプーハットを目深にかぶりなおした。
たわんだそこから隙間が生じた。雑な洗い方だったのか、トリートメントの洗い残しが、そこから流れ出て……
「いたーい、目に入ったー」
後日談:The Day After Tomorrow……END
サークレット・レガリア ~デミウルゴスの鏡~ 瀬戸内弁慶 @BK_Seto
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