目とは光という問題の解
- ★★ Very Good!!
アンリ・ベルクソンは、目とは光という問題の解であると語っている。
それは、いくつかの種類の生命体が、異なる器官を進化させていった結果「目」という同じ器官にたどりついた事実があるからだという。
目という解を見出すというのは、生命の進化にとってとても重要なことであった。
生命は地球に発生した以降、5億年のときをとてもゆるやかに過ごしている。
発生してから5億年の間、目立った進化は生命に現れない。
その後、いわゆるカンブリア爆発というものがあり、たかだか1000万年程度の間に、ほとんどの生命の種が出揃うことになった。
これは、「目」を生命が手に入れたことが大きいといわれる。
聖書には、最初に「光あれ」という言葉があったと書かれているらしい。
生命の進化は、「目」を手に入れることからはじまったといえる。
そして「目」を手に入れるというのは、光を手に入れることに等しい。
だが、光というものを手に入れるとは、どうしたことだろう。
アインシュタインは、光は波であると同時に粒子でもあると語った。
波であるときには、量子状態であり空間に偏在する。
粒子になった瞬間に、波動関数が収縮し局所実在が実現する。
わたしたちが光を手に入れ、「見る」という行為を行うのはほぼ、波動関数を収縮させていることに等しい。
目とはようするに、波動関数の収縮装置である。
これは、どう考えればいいだろうか。
もしかすると目のない時代、闇の時代にはシュレディンガーの猫が生死の混交した状態におかれていたように、世界は二元論的な分割もない混沌とした状態だったのかもしれない。
例えば、クラゲの一種には死という機能を持たない生命もいる。
生と死、存在と無、善と悪、そうした二項対立がそもそも波動関数の収縮による局所実在の結果だとしたらどうだろう。
光を手に入れることこそが、善と悪の対立を生み出す。
そう言ってもさしつかえないように、思うのだ。