さよならの理由

あさままさA

さよならの理由


 ――死ぬと幽霊になるというのは本当だった。


 高校二年生、全てが上手く行っていた最中に僕は命を落とした。テレビで聞き飽きたような病名でショックを受け、今までとは違う価値観で見つめる数か月という時間の末に意識が途絶えた。


 部活では引退する三年生からキャプテンを引き継いで使命感に燃えていた。幼馴染だった子と両想いになれて、彼氏彼女の関係へと発展した日々でぎこちなく自分達の「恋人らしさ」を気にしつつ、それでも順応していく感覚がたまらなく愛おしかった。


 なのに――僕は今、悲しみに暮れる家族が囲む遺体を同じようにして立ち尽くして見つめている。


 初めて、自分を傍から見つめた。血の気の通わない真っ白な、化粧でもしたような顔に涙を零すのは恋人となって数か月の彼女だった。別れ際に「死んでも天国から見守っているなんて」口にして、強がって、格好をつけた僕だったけれど……こんな風に死を悼む彼女を見ている僕の心は張り裂けそうだ。


 今の僕には、心しかない。


 自分の体を見渡してみるが肉体は存在せず、幽霊という存在が意思を持って行動するくせに、目視され難いのはどういう事なのか分かった気がした。心だけが体から抜け出してしまうのだ。


 とりあえず、死というものの真相は分かった。


 とはいえ――こうして意識を保ってしまった事が心苦しい。何故なら、彼女が僕の死で悲しむ姿をこの目に焼き付ける事が出来てしまうのだから。見守るなんて語った言葉からは想像もつかないほどに胸を締め付けられる光景。人が悲しみを帯びて体を震わせ、嗚咽を漏らして泣く姿はこんなにも痛烈で、見るものへと突き刺さるものだったなんて。


 嬉しいという感覚も中にはある。自分の死がもたらした涙が、死人にとっては生きてよかったと思わせるだけの力を秘めている。そんな温かさに触れて、自分の人生は悪くなかったのだと感じ、喜びがこみ上げてくる。


 でも――今の僕には彼女の悲しみを払拭する術がない。それが悲しいのだ。


 どれだけ彼女の目元へ手を伸ばし、その涙を拭おうとしても僕には肉体がない。もう、彼女の手に触れる事は出来ないし、その体温を感じる事も出来ない。別れ際、病室で交わした初めてのキスでさえ、もうこの幽霊の姿になってはどんな感覚だったか思い出せない。


 涙の味がしたなんて記憶だけが、実感も伴わずに僕の脳内に残留している。


 せめて、強く生きて欲しい――。

 そう思いつつ、彼女を見守り続ける事にした僕。


 死後、数日間はずっと部屋に引きこもっていた彼女。ショックの度合いがそれほどのものだったという事が僕の心を温めるも、一向に笑顔を取り戻さない彼女を見つめてただただ切ない気持ちを飼い殺しに存在し続ける僕。


 幼い日々から数年の時を挟んで、僕らが付き合い始めた時に改めて招かれた彼女の部屋。女の子らしいと感じさせる清潔感や、可愛らしい小物に家具。そんな空間にあって、脳内を真っ白にして体を硬直させ、彼女との時間を過ごした事が想起される。そんな空間でうずくまる彼女は電気も点けず、暗闇を敷き詰めた空間に身を投じていた。時折、携帯に収められた僕と彼女が笑顔で映る写真を見つめては、悲しみがこみ上げて泣き出す彼女に対する無力感は慢性的に僕を痛めつけた。


 しかし、そうして心を苦痛で歪めることによって彼女と悲しみを分かち合い、共有出来ていると感じる僕は、決して――彼女の部屋から出る事はなかった。


 それから数日後――。


 彼女は学校へと登校する。虚ろな目に、ふらふらとした足取り。同じクラスだった彼女を含めて、クラスメイトは皆で僕の死を悼んでくれた。彼女が一際、その悲しみに打ちひしがれている事を知っている友人達が「大丈夫?」などと声を掛けるも、家では涙に濡れていた彼女も気丈に振る舞い、「泣いていたら申し訳ないもの」と強がりを口にしていた。そんな芯の強さも彼女なりの魅力で、僕は改めて人生、最初で最後の恋人が彼女でよかったと思った。


 所属していた部活のキャプテンは、僕の友人が選抜されたようだった。普段から仲が良く、彼女と付き合う事となった時には冷かしてきたものの、仲を陰ながら応援してくれている親友だった。


 しかし放課後、そんな彼と彼女が会話している光景が目に映る。


 僕の世話を焼きたがった彼女はこの部活のマネージャーをしていて、どうもその事について話し合っているようだった。会話に耳を傾けていると、どうやら僕がいなくなった部活でその面影を感じるのが辛いからマネージャーを辞めたいという話のようだった。人材としていなくなるのは困ると判断した親友は必死に引き止めるも、断固として意思を曲げようとしない彼女。マネージャーをやってくれそうな人間を他に探して、紹介するからという代替案を口にし始めた彼女に対して、勢い。


 そう――それは勢いだったのだろう。


 親友はあろう事か、唐突に「彼女の事が好きだから、いてほしい」と言い出したのだ。そんな言葉に驚愕した彼女だったが、次の瞬間には憤慨。こんな時に何を言っているのかと、親友の頬を引っ叩いてその場を去る彼女。


 親友の胸中を知り、今までに彼女との関係を維持するための相談を行ってきた自分の行動がどんな意味を持つのか……それを思い、心がちくりと痛む僕だったが、彼女の胸中に乱れが生まれた事が優先して気になるため、僕は飛び出した後を追った。


 帰宅し、自室で携帯の待ち受けとなっている僕と映った写真を見つめて涙目で机にもたれかかっている彼女。心理的に支えを必要としてる状態で、あんな告白をぶつけられれば訳が分からなくなるのは必然だろう。人間が好意を打ち明けるというのはあらゆる意味で非常に大きな衝撃が生まれる。


 親友ながら、もう少し考えて言葉を口にして欲しいと思う一方――嫌な予感がした。


 考えなかったのだ。彼女が、永遠に僕の「彼女」であり続ける事などない。

 なら、彼女は誰かの「彼女」になるという事。


 確かに彼女には未来がある。誰かと結婚して、子供が出来て、幸せな家庭を築く。そんな未来を願うべき僕の立場からしてみれば、彼女が誰かの物になるという事は進んで望まなければならない、愛しい者にとっての幸福。


 でも――でも――でも。


 どうしたって僕は、彼女が永遠に自分を思い続けて欲しいと願わずにはいられない。永久に続く愛の名の下に、僕を死ぬまで思い続けて死んで欲しい。そして、見守り続けた僕との再会を、あの時の、あの気持ちのままで果たして欲しいだなんて……思わずにはいられない。


 ある意味で――彼女が灰色の人生を歩む事を、必死に願っていた。

 誰とも関わらず、僕のために死んでくれなんて願う気持ち。


 あぁ、もしかしたらそんな強い感情が写真に写り込んで世間を騒がしているのかもな、などと思う。


 しかし、僕は彼女の不幸を願わずにはいられなくなってきた。


 いっそ――誰に対しても気持ちが動かないまま、死んでしまえばいい。

 そう、僕のいる所に――来てくれれば。


 激しい自己嫌悪と欲求の狭間にあって、僕は彼女の死を願うようになった。後追い自殺をして欲しいと、強く願わずにはいられなくなった。


 でも――彼女は次第に僕の死を乗り越えつつあるようだった。


 十日ほどの時を経て、親友は彼女にもう一度告白した。僕の死に沈む彼女を見たくない。支えたい、守りたい、と――そんな言葉を添えて。


 ――支え。

 ――守る。


 そんなものを求めていたと言える彼女に、その申し出は効果的だった。涙ながらに僕の死に対する悲しみを打ち明け始める彼女。心配を掛けまいと家族や友人には伏せていた感情を、爆発させるかのように言葉にし、連ねて、泣きに泣いて……その身と、壊れそうな心の全てを親友の胸に預けた。


 そして、その日――僕の彼女は、親友の「彼女」になった。


 僕との思い出を語る彼女の表情は日に日に、浮かない表情から笑顔へと変わっていった。過去を懐かしむ感覚を取り戻し、それと比例して僕の心は冷えていく。自分が失われていくような、軽視されるような感覚。


 僕は、十七歳で、そんな、若さで、死んだんだぞ?


 心で訴えても、答える者などいない。


 ただ、彼女が取り戻していく幸福……そんな表情が歪め、消えろ、崩れろ、失せろ、潰れろと願う日々。奇しくも見守っていた僕がいるのはきっと、天国ではなく地獄だった。


 親友のように嫉妬心を抑えつけて好意を寄せる女の子の幸福を祈るなんて僕には出来ない。


 確かに、そんな彼ならば彼女を預けても不安はない。

 けれど――現在でおおよそ、一か月。


 僕の死を悼む心は、こんなにも早く消え失せるのか?


 自分が悲しまれる事に一種の快感を覚えていたように思う僕の胸中を嘲笑うように、彼女と親友の距離は縮まっていく。僕が独占していたはずの手の平がもたらす彼女の体温は親友の手と混ざり合って、彼らの表情に幸福を描く。


 ただひたすらに心を締め付けられ、冷やされるような光景を目の当たりにするくらいならば逃げ出せばいいはずの僕だが――何故だろう?


 目が離せない。

 抱えている絶望、嫉妬、悲哀は涙を流せないから、掻き消せない。


 でも――。


 辛い現実を目の当たりにするより、知らない内に行われている自分にとっての不幸を妄想で補完するしかない「目を逸らす」という逃避の方が、怖くて仕方ないのだ。


 空想はどこまでも、飛躍するから。

 だから、ただひたすらに二人を見つめる。


 ある日を境に、彼らはキスをするようになった。悲しい味のしない、僕の知らないキスを、知らない表情で、知らない深さで。いつしか、彼らは抱き合うようになった。冷たい遺体となった体を涙ながらにしか抱かれた事のない僕が知らない、体温がそこにはあるはずだった。待ち受けが変わり、下の名前で呼び合い、クラスメイトが「夫婦」と揶揄するようになった。僕らが揶揄された未来の形は、彼らを揶揄する確かな今として来るべき未来に具現するかも知れない。


 そして――そして。


 彼女は両親の留守を見計らって、自室へと親友を招いた。緊張しながらも周囲を見渡す彼と彼女の空気感。傍から見ていて二人の心臓の音が聞こえるような見つめ合い。微笑み合い、はにかみ合い、目を背け合いながらも、見つめ合い、そんなやりとりの末、親友は慣れないながらに彼女を押し倒し――、僕はとうとう、目の当たりにしない恐怖を選んだ。


 視覚よりも、脳内で想像する方が傷は浅いと判断したのだろうか?


 でも――そこから逃げ出す発想は出てこない。

 もう、思考がぐちゃぐちゃだった。


 衣服が素肌の上を滑る音、甘い吐息が零れる。


 僕はゆっくりとそちらを見ようとして――瞬間、やめる。


 怖い。

 駄目だ。


 でも――でも?


 自分の中で壊れかけていたものに、とどめを刺すような感覚。


 漏れる甘い声が、少しの苦痛に歪んでいて――そんな微細な情報から瞬時に巡る空想が脳内を埋め尽くして、心が壊れそうになる。


 考えるなという言葉に矛盾して掻き立てられる空想が僕を苛み、悩ませ、淀ませ――そして。


 そして――そして。

 見てしまった。


 知らない男女が、そこにはいた。

 知らない顔の彼女が、知らない顔をした親友と。


 見た事のない表情で……共有した愛情を貪り合うように交わる、彼らはひたすらに相手を求め、与え、受け入れ、ぶつける。


 ――生きているのだ、と思った。

 生きているから愛し合えて、愛し合えるからこそ、温かい。


 対して僕は今、とてつもなく寒い。


 奪われた、と感じる心がぽっかりと僕の中に穴を作って、そんな空虚に吹き込む風が冷たい。何故、そこでそうなっているのが彼女で、そこでそうしているのが僕ではないのか。そんな切なさにガタガタと震える思い。


 嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ、

 嫌だ嫌だ、嫌だ、

 嫌だ。


 あぁ、涙が流せたなら――。


 それから――僕は先ほどまでとは対照的に胸中にぽっかりと空いた穴を絶望で蓋されてしまい、ほとんど意思なくその場を出た。自分を本当に想ってくれていると感じていた彼女でさえ、死という終わりで数日泣かせればあんな風に……そう、あんな風に。


 そんな脆い絆を感じると、ふらふらと自宅の方へと歩み寄る。彼女の方が気になっていて、家族の様子など身に行かなかったのだ。


 無償の愛を求めたのだろうか……。


 遮る扉を無視して通過すると、僕の仏壇がある居間にてテレビを見て両親が笑っていた。


 芸人が痛めつけられる様を見て、笑っていた。


 笑われている、気がした。

 笑われている、気がした。


 お前なんか――お前なんか。


 そんな妄想が声になって聞こえてくる。


 ――そういえば、疑問だった。僕の他に幽霊らしき存在と会わないのだ。この世に未練を残した者が沢山いるのだと思っていたが――、一向に会わない。


 何故だろうという疑問は――簡単に氷解した。




 あぁ、幽霊ながらにこんな世界はつまらない。いっそ――死んでしまいたい。




 そう願った瞬間に、僕がすべての苦しみから解放されたからだろう。

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