この島国におけるオーソライズドアートのひとつともいえる、純文学とは何か。
それは、反社会的なことを行う様を、アートとして肯定的に描くものである。
それは、源氏物語の時代から伝統的にそうであるといえる。
源氏物語では、後宮のおんなと不義をはたらくという罪悪を、もののあわれとして肯定的に描いてみせた。
そしてそれは、近代まで受け継がれていく。
芥川は、地獄変においてひとを殺す様を、アートとして描いてみせた。
これは、大衆文学と一線を画す。
なぜなら、アートという免罪符において苦悩することを放棄し、恥知らずであることを選択するからだ。
本作品も、性行為を職業として行う様を描いている点において、反社会的行為を正当化する純文学の伝統を如実に受け継いでいる。
しかし、単なる恥知らずとして終わらないのは、SFであるからだ。
それは、エバレットの多世界解釈において、正当化される。
これこそ、イーガンと芥川のアクロバット的結合ではないだろうか。