鯉――冬

狐夏

第1話 冬

鯉――冬




 日の暮れた通りに街路樹が橙々と浮かび上がっている。赤色の道を一つ入るとネオンの緑やピンクのホテル街になる。

 指定された名前を見つけたそのホテルの前、煙草を取り出す。時計は五時を過ぎたばかりだった。煙と下りたばかりの夜を吸い込んで吐いた白い息。甘い臭いが顔の前で煙っては消えていくばかり。

 仕事帰りか通りはコートを着込んだ若いスーツが腕を組んでいるのが目立つ。遠くで信号機の変わる音がする。凍冽な空気と煙をまた一口吸い込んだ。


「――さん、ですか」

 羽毛のような柔らかな声がかけられる。指先までかじかんだつま先に目を落としていたぼくは顔をあげた。

「小鳥さん、ですか」少し不安げにもう一度その女性は尋ねる。背のぼくより頭ひとつ分くらい低い彼女は、メールの中のイメージより幼く見えた。通りを行くどの女性よりも落ち着いた様子がトーンの低い服装からもにじみ出ていた。

「はい、自分です」出会い系サイトで使っているハンドルネームは本名からもじったものだ。

 軽く頭を下げたものの自分から誘って入る気になれずぼくはただその場で彼女を観察するばかりだった。

 小柄ながらにすらりとした手足。防寒着の上からでもその体型がわかるような二本の脚がコートから生えている。短いスカートが聞いていた年齢より若く思わせる。学生、仮に高校生と言われても疑わないかもしれない。それでもぼくより一つ年下と聞いただけの落ち着きが彼女からは感じとれるから不思議であった。

「早く入りましょ。寒いですし」そう言うと、ぼくの腕を取ることはせず先を歩き出す彼女。黒髪のショートが揺れるのを見ていると今まで感じたことのなかった後ろめたさに気付く。その感情をどこへやったものかと彼女の顔の見えないのに少しばかり安心しつつ後へついていった。


「ん……、んっ」鼻から漏れる息に背徳を感じるも、慣れた手と口で的確に快感を刺激する彼女を眺めていると背徳感が気持ちを高める興奮剤のように働いて、その小さく白い躰を、恥らうべき行為に慣れた表情をどうにかしたい気持ちになり、ぼくはまたいつものように女性を求めることに無心になっていった。

 彼女との関係はこれが初めてだった。それまでにも私情から女性と出会いを繰り返してはいた。偶然、誰でもよかったのだがポイント制のサイトを通して連絡を取っていた一人と約束まで至ったのが彼女だった。ぼくは女性を、彼女は現金を、互いに求めるものは明確で駆け引きや情愛といったまどろこしい手順は一切ない。中にはそれだけを求める面倒な女もいたが金で買えない女に用はなかった。

 夢中な行為は後ろめたさのない自然な状態へぼくを変えていった。


「ねえ。こんなことで何のために稼いでるの?」

 うすら汗ばんだ肌を寄せ耳元でたずねる。彼女の温もりはまだここにある。

「本の印刷代が必要だから――」

 それが体を売る理由なのだろうか。自費出版というらしく、印刷から製本、書店で扱ってもらうまで――、趣味とはいえ二十代の社会人が簡単に出せる額でないことは話で知れた。

 殊、本について彼女はよく話した。残りの時間、支払いをしてからのぼくらはまったくの他人だった。お互いのこともよく知らない、体は別だが――、顔見知り未満の関係。ぼくには、体を売って本を売る彼女の気持ちが知れなかったし特別知りたいとも思わなかったので始終相槌を打っているだけだった。

 もう一度だけ抱擁を頼み、口づけは交わすことなくぼくらは別れた。

「よければまた会いましょう」

 別れ際、彼女は言ったがそれすら本心か建前か知れなかった。

 一期一会なんて言葉もあるけれど、それは表立った人間関係に使われるもので、金で買う一時の出会いにはそぐわない言葉なのかもしれなかった。その一時でも自分へ向けられる感情が嬉しかった。それを得られるなら、また会うことも悪くはないのかもしれない。

 外へ出ると体はすぐに温もりを失った。冬の星座が霞むほど街はネオンがうるさく、人々は無言で歩いていた。

 寒さに終わりの見えぬ二月のことであった。


 二つ先の信号が赤になる。通りは変わらず人がまばらに歩いていて、今から帰宅らしきサラリーマンのコートは大層重そうだった。ぼくもまたグレーのコートに両手を突っ込み歩く一人になる。このまま夜に融けて消えてしまいたいほどに、別れた後の空洞がより一層と本の女とは全く似ていない彼女のことを感じさせる。

 誰にでもある些細な言い合いからの失恋だった。後悔は日常の隅に潜んでいていつもぼくを見ていた。

 最初は仕事に没頭して自分を励ましてみた。するとそれは部屋でぼくの帰りを待っていて家に居ることを辛くさせた。小物や家具からもそれを感じ取るようになり、いつからか彼女とは髪も背丈も全く似ていない女性と連絡を取るようになっていた。本の女は高々その内の一人でしかなかったのだ。

 目の前の信号機が青に変わる。それを渡らずに煙草の箱を叩く。動き出すサラリーマンを横切り、信号待ちで目についたコンビニの喫煙所へ歩く。開けたばかりのロングピースは乾いた香りをさせていて、そのバニラが憂鬱な気持ちをわずかばかり軽くする。きっとこれは知らない女の匂いだ。

 粘度の高い灰のしばらく落ちずに垂れていくのを持ち慣れない右手で落とす。人知れず溜め息を吐くためだけにはじめた喫煙ももう三か月になっていたが、汚れた肺がもとのきれいな状態に戻るのには年単位の時間を要するらしい。一度汚れたものがそう容易く戻らないのは人の心も同じなのかもしれない。

 あの信号が何度か青に変わるのを見て、どこへ行くというあてもなくコートの襟を手で押さえると、ちょうどスクランブルになった交差点の中へチラつきながらぼくは消えていった。


 曇天の朝。何かが充電しきったような、その日の目覚めはやけにすっきりとしていた。部屋は暖房の乾いた空気を満たして窓は真白に結露に濡れ室内の明かりに輝いている。

 誰しもあるだろうあの感覚。憑き物が落ちたようなカンとした感覚だった。

 昨日何があったという訳でもなく、いつもと変わらぬ休日だった。――女性を求め、溜め息を吐き、街をぶらつき帰って寝て。自分のことながら、解らないこともあるものかと年甲斐もなく――否、年を食ったからこそ複雑な作用でもあるのだろう。思わぬ気付きに驚く。

 月曜の気だるさの少ないままにその日は仕事を終える。三時過ぎから降り出した雪は愚痴のように一息に大降りしたかと思えば二時間程度で止んでしまい、今は西陽が雲間から漏れ出ていた。

 雪の残る木々は燃えているようだ。透明な白に光を吸込み吐出した蒸気とともに燃える並木に、降雪の後の澄んだ空に、ぼくは晩秋の夕暮れを映し見てしまっていた。


「紅葉が綺麗ね」彼女は長い髪を揺らす。前日の言い争いが嘘のように彼女は静かだった。

 数歩前を歩く後ろ姿は夕陽を受け栗色の髪を赤く輝かせていた。雲も木々も小焼ける中、「本当に別れるのか?」と言いたかった。空気まで染まったその光景はぼくの言葉と息を詰まらせる。真っ赤な世界は別れるという事実すら嘘なのではないかと思わせるほどに彼女を赤く煌めかせている。

「ねえ、見て。鯉が泳いでいるわ」

 そう指差した先に大きな鯉が泳いでいる。額に瘤のついた鯉。水面近くをゆったりとまるで外の様子を観ているように時折り尾ひれを動かしている。と、池の向こう側に群れていたのだろう鳥が一斉に飛び立った。音に驚いた鯉は水底へと消えていってしまった。

 飛び立った鳥も、そちらを見ると西の森へ消えていた。

「ねえ、――」


 あの日、ぼくの前から消えていった彼女と一緒に歩いた赤を思い返していた。その池のベンチに、妙な態勢で座っている女の見覚えあるのに気付く。

 半身になってどうやら池を見ているらしい。ぼくは近づきすぎない程度に池の見える位置まで歩み寄る。氷の上に白くなった池もまた真っ赤に染まっていて。と、そこに一匹の大きな鯉の姿を見た。氷面に浮かび上がった見事な鯉は本当に泳いでいるように見誤るほどで誰かがいたずらで描いていったのだろうか。鯉は池に積もった雪を退かして描かれ夕陽を薄氷に煌めかせてきっと彼女もそれを見ているに違いなかった。本の女のあまりにじっと池を眺めている姿はまるでミレーの絵画を見ているようだった。夕明かりと点いたばかりの青い外灯、二つの光は彼女の表情をそれぞれに映し出す。映し出された表情の次第にはっきりとしたものに変わっていく。森の端が橙に輝くと辺りは夜に包まれていた。

 時間の暮れる間に赤は黒へと、鯉も池ごと夜に沈んでいく。残ったのはベンチに座る彼女の、外灯に浮かぶ白い姿だけとなった。

 外灯の下ではまだ鯉は泳いでいるのだろうか。足は自然と円光の縁に立っていた。

「あら、お久しぶりです」

 ぼくに気付いた本の女は、こんばんはと声掛ける。

「こんばんは。鯉、見えますか?」

「春まで待たないと。今時期は皆底でじっとしていますよ」

「あ、いや」

 まるで描かれていた方を見ていなかったように彼女は話し始める。

「それよりですね。あと少しなんですよ」

 花火が咲いたように急に立ち上がる。相変わらず本についてはよく話した。出版に必要な額まであと一人、男と媾えばいいこと、それがぼくであってくれればと、ここで偶然に身を委ね待っていたこと。その理由は至極単純でぼくだけが彼女の書く本について問うた男だからだとか。

「――だから。ねえ、抱いてくださらない?」容姿に不釣合いな言葉を向けてくる。首を横に振って見せる。女は困った顔で何か言おうと口を一度開きかけてやめた。

「今日は気持ちが落ち着いているんだ。だから、女を求めはしていない。獣も空腹でなければ狩りはしないそうじゃないか」

「そうね、ごめんなさい。男は獣っていうものね。私はてっきり同じ深海魚かと思っていたみたい」

 そう残すと彼女は背を向け立ち去ろうとする。

「深海魚、って――」と思った。途端、日常が脳裏を過ぎり都営線のホームへ流れ込んでくるような生活音が全身の皮膚すぐ下まで響く。

 横を、犬を連れたジャージ姿が通り過ぎた。

「あの――」彼女を呼び止める。ジャージまで不思議そうに振り返る。すぐまた走りなおす。彼女がゆっくりとこちらへ振り返った。

「よかったら、食事に付き合ってもらえませんか?」

 デート代。少し健全な言葉だが、まあ援助に違いない。思った以上の文句も言われず、むしろ快く彼女は提案を受け入れてくれた。

 外灯を背に二人の影は前に伸びる。街はとうに冷えていてネオンと信号機だけが瞬いている。まるでイカかクラゲのようだった。

「ねえ――」

 途中、交差点の斜向かい側でパトランプと人の群れるのを目にした。世の中、いつもどこかで見知らぬ誰かに不幸は起こっているらしく、その見知らぬ誰かを乗せた赤い目玉の救急車は不気味に夜の奥へと消えていった。街はそれきり赤を失って深海か水底のようにそれぞれの賑わいを取り戻している。

「私ね、お腹に赤ちゃんがいるの」

 その言葉は、別れた彼女の言葉と同じ色を帯びていて、

「それはぼくを、試しているのかい?」

 曇天の下、ぼくの目に嘘はよく見ることができた。

「あなたのじゃないわ」

 穏やかな嘘が二人の間を流れていく。彼女はやはり本の話ばかりで、――。

 ぼくはやはり彼女と違うところを探してばかりだった。




 冬、――了

    

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鯉――冬 狐夏 @konats_showsets

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