水茎のあと

 秋の日は短い。余裕をもって邸宅を出たはずが、目的地に着く頃には、かこんと暮れてしまった。夜闇を恐れる†原罪シン†右衛門ではないが、遅すぎる訪問は失礼になりはすまいかと案じていた。

 都の外れの山中にひっそりと建つ、あまりにもささやかな庵である。とてもやんごとなき御方のすまいとは思えぬ。

 門前でしばらく逡巡していたが、意を決して踏み込んだ。ふみには、急ぎお会いしたい、とあったからだ。改めるのもまた悪かろう。

「──物まうす、これなるは蜷川原罪右衛門に御座る。お招きあずかり参上仕った」

 玄関前で呼ばわると、しばらくあって応えがあった。

「どうぞ、お入りください」

「は」

 果たして庵の中には女が待っていた。囲炉裏を隔てて座り、質素な衣を身に纏ってはいるが、一目でいやしくない者だとわかる。傍にもう一人の女が控えており、こちらはおそらく侍女だろう。

「……遅うございましたね」

 責める風もなく女が言うのに、原罪右衛門は頭を下げた。

「面目ない。閑人かんじんなれどすべきことも御座いましてな」

「お忙しいところ申し訳ありません」

「いやいや、お気になさらず。貴女が藤氏の女御にてあらせられるか?」

「ええ……ひとまずお上がりなさいませ」

「は」

 原罪右衛門は対面に腰を下ろすと、先んじて水を向けた。

「して、今日は何用に御座るかな?」

千菊門丸せんぎくもんまるのことです」

 女の応答は淀みない。

「貴方様は近ごろ、あの子によくお会いになるそうですね?」

「ええ、大変お優しく、また聡明な御方にて。まだ小坊主ながら多くの方が……」

「興味はございません。寺に捨てた子ですから」

 原罪右衛門の言葉を断ち切るように、女は言った。その瞳は冷厳である。障子紙を透かして部屋に流れ込む夕陽を湛え、刃のような光を宿している。脇に控えた女だけが、哀しげに目を伏せた。

「む……」

「わたくしが気になるのは、どうして貴方様が千菊門丸に関わろうとしたかです」

「ふむ」

「……北山殿の御命令ですね?」

 ほとんど睨み付けるかのような視線に対し、原罪右衛門は微笑んだ。意気込んでくる者の出鼻をくじくが如き笑みである。

「いかにも!」

 女は息を吐いた。

「……どうか今すぐ御止めなさいませ。北山殿のことですから、あれを政の道具にするおつもりでしょうが、迷惑千万」

「む……」

「あの方や貴方様があれに関われば、叛意を持つ多くの者を刺激することになります。禁中を離れ、ようやく平穏な暮らしを得られました。乱されたくはないのです」

 原罪右衛門は笑みを崩さぬ。

「関わらぬと言うのは、無理でしょうなあ」

「なっ……何故!」

「貴女様は思い違いをしておられる。将軍様が千菊門丸様に関わられたるは、打算ゆえでは御座らぬのよ」

「打算ではない……」

 そう呟いたのは、女の傍に控えたもう一人の女だった。

「いかにも、全ては千菊門丸様を可愛く想うがゆえに御座る。打算ならば諫めようもあろうが、人の情とは止まらぬもの……」

 原罪右衛門は二人をじっくりと見た。

「貴女がたが拙者を呼んだのも、その想いゆえに御座ろう? このままでは千菊門丸様に累が及ぶと思うたから……」

「なにを申される! わたくしはあれのことなどは、一切……!」

 激昂を見せる女をやんわりと押しとどめるように、原罪右衛門は右手を開いて見せた。

「芝居は必要御座らん。この庵を見張っておった者どもは、残らず倒してきた。十人ほど居たゆえ、少々時間が掛かったが……」

 女二人が絶句した。

 十人を返り血もなく倒したという、原罪右衛門の腕前も恐るべきことだが、それ以上の懸念もある。

「なんと……なんという、ことを……!」

 そう声を上げたのは、控えていた女だった。

「そのようなことをなされば、必ずや報復がございましょう! 身内を殺されて黙っておる方々ではありませぬ!」

 原罪右衛門は泰然として言う。

「殺してはおりませぬよ」

「は……?」

「殺さねばならぬというのは、それだけ余力がないということ。それは戦場いくさばの流儀に御座る。十人程度なら殺さずに済ませるは容易い」

 草庵に沈黙が下りた。

 原罪右衛門が、控えの女へと首を向けた。

「……貴女様が、藤氏の女御で御座いますな?」

「い、いえ、わたくしが……!」

 囲炉裏の前に座る女が膝を浮かせるのに、控えの女が首を振って言った。 

「玉江、もうよいのです。この期に及んで芝居は無用……」

 それから、深くこうべを垂れた。

「いかにもわたくしが、千菊門丸の母にございます」

「頭をお上げくだされ。貴女様が応答なさらなかったのは、御子息への想いを隠し果せぬと思うたからですな?」

「……然様にございます」

 原罪右衛門は嬉しげに微笑み、幾度か頷いた。

「よう御座った。それはなにより、よう御座った……」

 夕陽はもはや暮れかけている。

「お任せあれ。あの御方は拙者が御守り致す」

「……何故です? 原罪殿。貴方様が相手取ろうとしておるのは、この国が南北に別たれていた時代の亡霊。並大抵の相手ではありませぬ」

「さて、何故で御座るかなあ……」

 原罪右衛門は右手を懐に差し入れた。なにやら得体の知れぬものを取り出すと、囲炉裏の火で炙り始める。

「……人の食い合う餓鬼の巷に生きて、一度くらいは確かなものの上に立ちとう御座った。己が確かに正しいと信ぜられるもののために、剣を振るいたいと思った……そんなところで御座るかな」

 宵闇が迫りつつある。囲炉裏の火が夕陽にかわって、確かに灯っている。ぱち、ぱちぱちと、火の粉を散らしている。

「──やけくそで御座るよ」

 夢漏町の夕暮れはわびしい。

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†原罪《SIN》†──輝ける闇──イックーさん外伝 華早漏曇 @taube

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