夢漏町の怪物

 火は人の獣性をくすぐる。

 闇の中でこうして蝋燭の火を見つめておると、心がちりちりと炙られているような気分がしてくる。かつて人と獣を別ったはずのものが、人を獣に立ち返らせるとは、さも不思議なことのように思えた。

 ゆらり、ゆらりと、風もないのに揺れる光に合わせて、部屋の中の陰影もまた妖しく蠢いておる。

「──送ったか?」

 声を掛けられ、蜷川†原罪SIN†右衛門親当は火を見つめていた瞳を持ち上げた。

 問うた人影は、金箔金糸の煌びやかな直垂を身にまとっているが、まるで部屋に蠢く影の全てが凝結したかのような印象を見る者に与えた。

「は……寺まできちりと」

「そうか、ようやった。引き続き頼むぞえ」

「は……」

 軽くこうべを垂れながら、原罪右衛門は内心、疑問を抱いていた。何を恐れる? これほどに、俺は……このお方の何が恐ろしいのだ?

 各地の豪族を軒並み従え、まつろわぬ者は滅ぼし尽くし、大陸との貿易で巨万の富を築き、金印を以て王に封ぜられた男。今や禁中にも強大な影響を及ぼす夢漏町の怪物……それはまあ、恐ろしかろうよ、常ならば。

 だがおのれは、命知らずの武辺者であったはず。死を恐れる以上の何かが、このお方にはあるのだろう。

 だがしかし、問わねばならぬ。これは己の矜持に関わることがゆえ。

「……主上、お聞かせ願いとう御座る」

「なんじゃ」

「なぜ、一介の寺の小坊主に肩入れなさるか、そのわけを」

 衣擦れの音。

「話したぞ、すでに」

「さる高貴なる御方の御落胤ゆえと」

「うむ……禁中を掌握するため使うにせよ、反旗の旗頭となるを防ぐにしろ、捨て置くわけにはいかぬであろう」

「そこが得心がゆかぬところ」

 原罪右衛門が言えば、ぞわり、周囲の闇が濃度を増した。

 これだ。この気配……俺を恐れさせるものはこれだ。これは……業か。

「ほう?」

「……禁中は既にあなた様のもの。ならば、なぜ拙者に殺せと命ぜられぬのか」

 蝋燭の芯が燃える音が、じりじりと闇を燻してゆく。

「あなた様は以前、禁中のさる高貴なる女御を夜這うたと噂に聞き申した」

「……よさぬか、原罪右衛門」

 夜を煮詰めた瞳が原罪右衛門を見据えた。

「わしにお前を罰させるな」

 おじけがる肝に活を入れ、原罪右衛門は強く怪物を見詰め返した。

「一言頂ければ、すぐにでも割腹致しますゆえ」

「……なぜじゃ?」

「拙者が守るべき御方がどのような御方なのか、胸に秘めとう御座る」

「なぜじゃ……!」

 その言葉を繰り返すうちに、怪物は少しずつ小さくなっていくようだった。見越したのかもしれぬ。

「汚いものなら腐るほど見て参った。あなた様があの方をお守りなさるのは、血の通わぬ算段ゆえか、それとも……肉親の情ゆえであるのか、知りとう御座る。拙者命は惜しゅうない。あなた様が人であったことを、どうか知りとう御座る」

「──……」

 怪物は何事か口にしたが、その儚い言葉は、夜の闇に潰れて消える。


 夢漏町の夜は鼻先も見えぬ。

 帰りの道行き、ぬるむ闇を混ぜて歩く原罪右衛門へと、鋭く風の音が迫った。二つ。

 それにともない、一閃、二閃。

 足元に切れて落ちたそれは、矢であった。

 原罪右衛門はゆるゆると進む足を止めてもいないし、目さえ向けてはおらぬ。何が見えているのかとんとわからぬ。再度二つ迫った矢を、抜く手も見せずに風切る音ごと切り落とし、尚も歩きゆく。誰が撃ってきたのか、探ることさえせぬ。

 怖気を振るうほどの剣の腕だった。いかなる地獄を生き抜けば、このような修羅を身に飼うのか。

「……待たれい」

 夜の果てより声があると、原罪右衛門はようやく足を止めた。

「最初からそうして、声をかければよかろうが」

 苦笑して返す。

 濃い闇より薄い闇の中へと、二つの人影がにじみだした。

「……小坊主から手を引け、原罪右衛門」

「用件はそれか」

 もうひとつの影が応じる。

「いかにも。お前が聞き分けるとあらば、金子も地位もくれてやるが」

「どうだ、悪い話ではあるまい」

 原罪右衛門の唇には笑み。

 俺は見た。憂き世の底に流れるものが温かき血潮であったことを見た。この上夜の闇など、何を恐れることあらん。

「クソくらえじゃ」

 一歩、闇へと踏み出し、懐から得体のしれぬものを取り出しながら言う。

「俺も喰うぞ、一緒に喰うか?」

 影二つ、圧されて身をひるがえす。

「……引くぞ」

 もう一つの影が、風となりながら返す。

「すでにかなりヒいております」

 そして後には、夢漏町の闇……


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