14 終着
「あなた、お話があります」
どのタイミングで夫の悟志に尾瀬とのことを切り出そうかと、わたしはずいぶん悩み続ける。理由はいくつもあったが、その最大のものは尾瀬が実は癌でもまた寿命があと半年でもないとわかったことだ。その事実をわたしに告げた尾瀬本人も拍子抜けしてしまったが、告げられた方のわたしも、それまで必死に背負っていた目に見えない重みが突然なくなり、この先どんな表情をして生きていけば良いのか、さっぱりわからなくなってしまう。
「結局、わたしたちは佳代子さんにまんまと一杯喰わされたわけね」
「ああ、そのようだな」
「でもだとしたら、わたしたちはこれから先、いったいどうしたらいいの」
「ぼくの心は決まっているが、あなたには選択権がある」
「ずるいわね。でも確かに愛人のままでいた方が波乱は起きないでしょう」
「それもひとつの選択だ」
わたしと尾瀬はそのときそう会話したが、わたしは夫には真実を告げようと決めたのだ。長年に渡り、自分を愛してもいない女と連れ添った夫には、それを知る権利があると考えたからだ。
だがそれさえ、わたしの身勝手だったと後に知る。
「そうか、遂に来るべきときが来たんだな」
わたしの予想に反し、夫の悟志がわたしの言葉に穏やかに応じる。
「きみの想い人のことを知らなかったと考えているなら、瑠衣子、きみはまったく善人過ぎる」
それに対してわたしが応える。
「そうでしたか。わかりました。ときどき、あなたはすべてを知っているのかもしれないと思ったことがありました。でも結局、こんなことになってしまい、あなたには申し訳ありません」
「きみの三十年は、わたしにとっても三十年だったんだよ。三十年前、きみに一目惚れし、慣れない強引さできみに迫り、きみから結婚の同意をもらったとき、無論わたしはきみの想い人の存在を知らない。もっともはじめて盗み読んだきみの日記は、まるで小説のような内容だったから、すぐさまそれを信じることができなかったがね」
「そうですか、日記からですか。確かに厳重に隠しておかなかったわたしが悪かったのかもしれません。でも結局は、いずれわかってしまうことだったのです」
けれども夫はわたしのその質問には答えない。
「この三十年間、毎日びくびくしながら暮らしてきたんだ。もちろん、きみがいつこの家を去って行くだろうかと気に病んだからだ。きみにとって、このわたしはまったく執着の対象ではないだろう。だが、わたしはきみには想像できないくらいきみに執着していたんだよ。だから瑠衣子、きみには何も知られずに過ごそうと決めた。夫婦の間にわずかの波風でも立てば、きみがあっという間にいなくいなってしまうだろうと考えたからだ。だが、それも……」
夫の言葉それ自体は淡々としていたが、それだけにわたしに対する想いの深さが、まるで熱帯雨林の島々で暴れまわる強風のようにわたしの心に迫り、わたしがその強烈な想いに思わず、えずきそうになる。
それならばそうと、はっきりわたしに言えば良かったじゃありませんか。結果がどう転んだかはわかりませんが、そうすればわたしが自分の夫に対してほとんど無意識のうちに行っていた許せぬ仕打ちを、わずかであろうと自覚することができたじゃありませんか。そうするのがパートナーの役割なのじゃありませんか。妻を想うということなのじゃありませんか。
だが、わたしはそのとき心に浮かんだそんな言葉を夫に言いはしない。夫に対し、わたしにそんなことを言える資格はない。
そう思ったときのことだ。わたしの胸に痛みが走る。
最初、わたしは何が起きているのかわからない。だが夫が叫ぶ言葉を耳にし、わたしは自分の身に降りかかった事態を知る。
「きみをあいつのところなんかにやりはしない」
そう冷静に叫ぶ夫の手が血の色で真っ赤に染まる。
「きみをここからどこへも行かせやしない」
夫の手は、わたしの左胸から溢れ出た真っ赤な血の色で染まっている。
「瑠衣子、きみはわたしだけのものだ」
霞んでゆく、薄れてゆく、毀れてゆく、消えてゆく意識の中で、わたしは夫のそんな勝利宣言を聞いたような気がする。ついで、その宣言を取り巻くように、美緒の、ジャッピーの、柏木壮太の、わたしたち夫婦及び家族全員の、暢気で幸せそうな笑い声がわたしの身のまわりをゆれるように漂いはじめる。(了)
ゆれる り(PN) @ritsune_hayasuki
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