13 誘惑

「親戚や知り合いには、今日はこの後病院に戻ると言ってあるが、その前にぼくの家で会えないかな」

 わたしがトイレに立つと、それを見計らったように尾瀬も法宴の座を外し、長い廊下の先にいたわたしに追い付き、そう誘う。

「親戚はこの後予約しているホテルに向かうし、会社の連中は別行動すると言っている。あなたに迷惑をかけることはないと思うが……」

「でも看護婦さん付きなんでしょう。そんなあなたの家で、わたしをいったいどうされたいの」

「看護婦には先に病院に帰ってもらうことにするよ。嫌がるだろうが、お願いするさ。わずかな時間でいい。あなたと二人っきりになりたいんだ」

「こんなおばあさんをどうされたいんです。昔みたいに、わたしの身体が欲しいのですか」

「正直にいえばそうだ。あなたを抱きたい」

「しばらく考えさせてください。決心がついたら、お宅に伺います」

 わたしはとりあえず尾瀬にそう告げると時計で時間を確かめてから、

「そうですね。午後の四時半までにお宅に現れなかったら諦めて病院に戻ってください」

 と続ける。尾瀬がわたしのその言葉に黙って首肯く。

 それから十数分後、尾瀬が本日の火葬の席に集まってくれた客たちに簡潔に礼を述べ、法宴が終わる。わたしはその場に屯する集団から一歩先んじるように店を後にすると、まだ降り止まない晩冬の冷たい雨の中、店員に教えられた最寄駅の方角に向かい、早足に歩きはじめる。

 わたしの気持ちがゆれている。ゆらゆらゆらとゆれている。くらくらくらとゆれている。

 ほんの一月前のわたしだったら、そんな自分の心の揺れを自分自身で嘲笑っただろう。だが今のわたしには一秒毎に募ってゆく尾瀬に対する自分の恋心を笑うことができない。否定することができない。無に帰すことができないのだ。気恥ずかしくは感じたものの、恥じ入ることではないと強く思う。堂々と胸を張るには問題が多過ぎるが、胸を張れば良いのだと強く思う。それがわたしの気持ちだからだ。それがわたしの、この恋に対する答えだからだ。

 約二時間後、わたしと尾瀬が同衾する。

 生理は疾うに上がっていたし、また夫ともセックスレスの生活が長く続いていたので、わたしは自分が上手く機能するのか不安に思う。もっともそれは尾瀬も同じだったようで、病気治療薬の関係で男性自身が勃起し辛くなっていると始める前にわたしに告げる。だから悪戦苦闘の後、やっとのことで尾瀬がわたしの中で果てたとき、わたしは彼が良く頑張ったと不覚にも涙してしまう。自分の意思に反して何度も何度も硬さを失い、柔らかいゴムの棒に戻ろうとする己自身をどうにか奮い立たせ続けた尾瀬の意思の強さに感動を覚えたからだ。

 それからの十数分間、わたしたちは互いに老いさらばえた若さの片鱗がどこにも見出せない痩せた裸の身体のままで、自分たち二人から失われた三十年の歳月をわずかでも取り戻せないものだろうかと慈しみ合うように抱き合い続ける。

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