12 通夜

 尾瀬佳代子の死顔が安らかだったとは言いがたい。遺体の顔にわずかな損傷があったからだ。けれども、それを除けば概ねわたしの想像通りの曖昧な――少なくともわたしには何を考えているのか皆目見当がつかない――見慣れた表情を浮かべて眠る。

 尾瀬は医者の許可を得――ただし看護婦の監視つきで――自宅で通夜の客たちを出迎える。その顔色は精神的というより肉体的にやつれており、わたしの心に無残という言葉を思い描かせる。もっとも実際に通夜の席を取り仕切っていたのは尾瀬ではなく、尾瀬が役員を勤める商社の若い社員たちだ。それら社員たちの直属の上司は酒で顔を赤く染めながら、代わる代わる尾瀬に悔やみの言葉を述べる弔問客の相手をする。

 尾瀬家を訪れる弔問客の数が多過ぎ、わたしはたちまち居場所を失う。だから長居は無用とすぐに立ち去ろうと決める。最後に門の手前で本宅を眺め返し、

「なるほど、二人で住むにはこの家は広かっただろうな」

 と思いを馳せる。

 そのまま帰ろうとしたが、いつ来たのか、尾瀬が広い庭の方から歩いてくる。ちょうど客足が絶えたその場に現れ、家屋から離れる方向にわたしを誘う。

「奥様のところにいてあげなくていいんですか」

 とわたしが問うと、

「苦手な連中が現れてね。過去のぼくの浮気相手たちだ。ホステスもいれば人妻もいる。年寄りの未亡人がいれば若い未亡人もいる。その関係を全部知っているのは佳代子だけだ。あまり気持ちの良いものじゃないよ」

 と答える。

「でも、それも結局は尾瀬さんご自身が原因の気持ち悪さなのでしょう。おそらく後妻の座を狙って現れたんですよ。いい気味です」

「あなたにそう言われては立つ瀬がないな」

 だがそう言った後、尾瀬はわたしを抱き寄せ、口付けをする。わたしはそれを拒めない。いや、拒まなかったのだ。

「今日は帰ります」

 ついで、きっぱりとした口調で尾瀬に告げる。

「お葬式には行かないかもしれません。告別式にも行かないかもしれません。わたしがそこで目立っては、あなたに迷惑なだけでしょうから。佳代子さんとの最後のお別れですけど、だからどちらにも行かないかもしれません」

「わかった。それはあなたが決めることだ。無理強いはしないよ」

 と尾瀬は言い、そしてもう一度わたしの身体を引き寄せた後で、

「では、ぼくも喪主に戻るとしよう」

 と言葉を紡ぎ、わたしたちが二手に分かれる。

 そのとき途絶えていた弔問客の次の集団が纏まって現れ、尾瀬の後姿を見つけると、その中の数名が走り寄る。


 尾瀬に告げた通り、わたしは尾瀬佳代子の葬儀に欠席する。けれども彼女が自らわたしに話したように、その場に昔の知り合いがほとんど現れなかったことを後から尾瀬に聞き、告別式には出席を決める。数少ない彼女の昔の知り合いを装うつもりだ。

 その日、あいにくの雨の斎場に現れたのは尾瀬の親戚一同、尾瀬夫妻と特に懇意にしていた友人数組、手伝い役を含めた会社関係の人間たち、看護婦とわたし、及び尾瀬佳代子の本当の昔の知り合いだ。

 尾瀬佳代子との告別は、わたしの心に何の感慨も呼び覚まさない。わたしの感情はすでに擦り切れてしまい、何も感じられなくなっていたようだ。それともわたしはこの世からわたしを悩ます厄介者が消え去って心がスッキリとしたことを本当は喜びたいのに社会通念の厚い壁に阻まれそれができず、まるで過電流の通過にショートしてしまったアナログ基盤のように心が制御不能状態に陥ったのだろうか。

 やがて尾瀬佳代子が荼毘に付され、数十分後、骨に変わり、火葬炉から現れる。わたしを含めて斎場に居合わせた全員が、これまでの人生で何度か経験したであろう骨に関する説明を火夫から聞く。

「これが下あごの骨、これが上あごの骨、こちらがお耳の部分ですね。耳の穴が空いているのがおわかりでしょう。そしてこちらが頭のお皿の部分です。こちらが喉仏です。仏様が合掌しているお姿に似ていることから、のどぼとけ、と呼ばれておりますが、実際には、わたしたちが普段『喉仏』と呼んでいる骨は軟骨です。ですから火葬すると残りません。よって、この喉仏はわたしたちの頭を支える首の上から二番目の骨、難しい言葉では第二頸椎と申しますが、それを喉仏と呼んでいるのでございます。ちなみにその上の第一頸椎のことを喉仏に合わせまして袈裟と呼ぶこともございます」

 尾瀬佳代子の骨の一部には鮮やかなデンファレの色が付いている。それがわたしの目を強く惹きつける。

 どこまで信じて良いのか不明だが、火葬後の骨には種々の理由で色がつくと言われる。曰く、病巣部分に色がつく。曰く、投与されていた薬の成分由来の色がつく。曰く、臓器によって色がつく。曰く、血液によって色がつく。曰く、供花した花によって色がつく。曰く、副葬品によって色がつく、等等だ。

 確かに尾瀬佳代子の棺には最近の流行なのかカトレヤやデンファレが供花されていたが、色自体は薄いとはいえ、それらの花でこんなにも鮮やかに骨を染め上げられるものだろうか。

 やがて恙無く骨上げが進行し、収骨が済み、後は斎場近くに予約された法宴(忌中払い)会場に、すでに到着している小型バスで向かえば良いだけの手筈になる。

 その前の骨上げの際、わたしは憑かれたようにデンファレ色の骨をわたしと組になった同世代と思われる女性とともに掴んでいる。幸いそれは死者にもっとも近しい人が骨上げを行う決まりの喉仏ではなく、またわたしと組になった女性もどうやらその色に興味を抱いたようだったから。

 法宴で、わたしとその女性が隣席になる。佐々木幸江と名乗った女性は尾瀬佳代子の高校時代の友人で、彼女からの連絡が途絶えがちになった十数年前から現在に至るまで何かと連絡を取り続けていた、とわたしに語る。それで、わたしは尾瀬佳代子が昔の知り合いについてわたしに話した内容には若干の誇張があったことを知る。

「ええ、最後に佳代子さんと会ったのは一昨年のことですけど、まさかこんなことになろうとはね。あのときはご主人と一緒にお幸せそうに振舞っていたけれど、実際はどうだったのでしょう。昔の佳代子の性格をよく知っているだけに気になってしまい。人の性格なんて、そうそう変わらないものですから。三つ子の魂百までという諺もありますし」

 そんなふうに尾瀬佳代子を語る佐々木幸江にわたしは、

「ええ、まったくそうですよね。ご不幸に見舞われるまで、お幸せに過ごされていたと信じています」

 と通り一遍の言葉を返すばかりだ。

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